ロッシュの肩が微かに震えた。
意識が戻りつつあることを示すように、呼吸の波が徐々に安定していく。キールが見守っていると、次第にそれは完全に平常なものとなり。

「…………」

そして、項垂れていた頭がゆっくりと持ち上げられる。表情は未だぼんやりとしているようにも見えた、だがそれも当然だ、薬によって与えられた眠りから、ようやく目覚めたところなのだから。しかしその顔にふと不審が浮ぶ、はっきりとはしていないであろう意識で、それでも彼は自分の状態を察したのだろう。
椅子に座らされ、自由を奪われた身体。腕を、胴を、脚を……頑丈な鎖で縛り付けられ、動かせるのは首から上のみという状態に気付いたロッシュは、朦朧とした中に驚愕の色を浮かべる。無意識に立ち上がろうとした彼を、何重にもかけられた鎖が阻んだ。じゃり、という金属音が部屋に響く。

「な……」

その音が意識を引き戻したのか、ロッシュの瞳がはっきりした光を宿す。そして直ぐに焦点が、目の前に立つキールに合わせられた。

「目が覚めましたか?」

笑顔で呼びかけるキールを認識したロッシュの表情は、しかし未だ警戒に染まったままだ。拘束された自分の前に佇むキールを、味方と判断できずに迷っているのだろう。混乱してしかるべき状況下にあっても変わらない冷静さに、さすが将軍、とキールの胸に誇らしい思いが湧き上がる。
だから、そんな彼に現状を教えるために。

「それ、自分がやりました」

にこやかに笑う顔は、一切崩さぬまま。はっきりとした声で、そう告げてやった。
キールの発言を聞いたロッシュは、一瞬呆然とした様子を見せ。しかし直ぐにその内容を理解したようだった、彼のキールを見据える視線が、鋭いものへと変化する。

「……どういうつもりだ、キール」

だが、まだ甘い。今彼が纏っている気配は、本気で敵と見なした相手に対するものではなく、味方の過ちを咎めるそれに過ぎないことがキールには感じられている。
ロッシュにとってキールは身内で、そして彼は身内に優しい。ロッシュの視線は炎の憤怒を宿していたが、それが敵に相対する時には鋼鉄の冷たさを持つことを、キールは知っていた。懐の内に入れた相手に牙を突き立てられたというのに、彼はまだ本気の怒りに達さずにいる。優しい将軍、キールはこみ上げる愛情を押さえきれず、彼の頬に触れた。

「どういうつもりだと、思いますか?」

キールが訪ねても、ロッシュは口を開かない。ただ火傷しそうに熱い目付きで、キールを睨み付けるだけだ。その様子がまた愛おしく、キールは浮かべた笑みを深くした。

「ねえロッシュ将軍。分かりませんか?」
「…………」
「ね、黙らないでくださいよ」

寂しいじゃないですか、おどけた風でキールが言っても、彼の表情は変わらない。身の自由を奪われ、その命を完全に掌握された状態であっても、ロッシュの闘争心は消えることがないようだった。それはキールが憧れ続けた姿そのままで、だから口を閉ざし続ける彼にも、笑顔を絶やすことなく相対することができる。
とはいえ、黙ったままでは話が進まない。キールはロッシュの言葉を引き出すため、少しの譲歩をしてやることにした。

「だって。こうしないと将軍、自分の話なんて聞いてくれないでしょう?」
「…………?」

キールの言葉が理解できなかったのか、ロッシュは当惑の表情を浮かべる。それを見てキールは少しだけ寂しさを覚えた、やはりこの人は何も分かってくれていないのだと。だがそんなことは疾うの昔から知っていて、今更嘆くようなことではない。大体それを分かってもらうために彼をここに連れてきたのだし、これからは時間などいくらでもある。

「……どういう、ことだ」

探るように問いかけられる、ロッシュの意識が自分に向いていることが嬉しくて、キールはまた笑顔を浮かべた。

「将軍と、話がしたかったんです」
「……話があったら相手を鎖で縛るのか、お前は」
「ええ、だってそうしないと将軍、ちゃんと聞いてくれないですし」
「…………」
「……まあ、その。正直言っちゃえば、話以外のことをしたいからってのも、あるんですけど」

自分の言葉に照れて視線を逸らすと、肘掛けの上で握りしめられているロッシュの拳が目に入った。屈み込んで、手のひらで包みこむように触れると、キール自身のものより幾分低い体温が伝わってくる。少し部屋が寒いかと反省した、執務室に居る時の服装のまま拘束してしまったから、彼はあまり厚着をしていない。風邪を引いてはいけない、後で暖房か毛布を持ってきてやったほうが良いだろう。

「……何だ」
「はい?」
「お前の話したいことってのは、一体何なんだ」

顔を上げれば、こちらを見詰めるロッシュと目が合った。視線の力強さに一瞬見惚れる、本当に彼は、こんな絶望的な状況下でも変わらず強いままだ。もしくは未だ、自分の立場の危うさを理解していないだけか――だがその鈍さは、彼がキールを信頼していたことの証でもあるのだ。そう考えると、キールの何処かがずきんと痛んだ気がした。
けれどそんな痛みは直ぐに消え、耐え難い渇望が取って代わる。

「自分の話、聞いてくれますか?」
「聞いたら解放するか?」
「いいえ」
「…………」
「でも、聞いてください。……将軍、自分は、将軍のことが好きです」

沈黙が落ちる。ロッシュの表情は動かない、返事も発せられず、ただキールのことを睨み続けるだけだ。キールも動かず、じっとロッシュの視線を受け止め続けている。
呼吸もままならぬほど、張りつめた空気。……それを先に破ったのは、ロッシュの方だった。

「……前にも聞いたな」
「覚えててくださったんですか?」
「当たり前だ……お前は、覚えてねえみたいだな。あの時言っただろう」
「ソニア先生が居るから自分の気持ちは受けられない、でしたね。ええ、確かにそう言われました」

ロッシュが頷く、それは以前に2人の間で交わされた言葉。キールが想いを告げ、それをロッシュが退けた時の会話、キールの中で未だ鮮やかなまま残っている記憶だ。そう、勿論忘れてなどいない。

「でも、ロッシュ将軍。あれは嘘、だったんですよね」

キールの言葉に、ロッシュが不審げに眉を顰める。何か言いたげで、だがキールの様子を伺っているのか、言葉を発しようとはしない。

「だって、奥さんが居るから駄目、っていうなら、どうして」

そんな彼の顔をキールは両手で包み込むようにして固定し、真正面から視線を合わせた。ロッシュの表情に困惑が混じる、灰色がかった青い光彩に、キールの姿が写り込んでいる。

「どうして……ねえ、どうして」

さらに顔を近づけ、至近距離で瞳を覗き込んだ。触れ合う直前で止め、息を吹き込むように囁く。

「どうして。ストックさんとは良いんですか?」
「なっ」

ロッシュの瞳が、初めて揺らいだ。押さえつけられているために逸らすこともできないそれが、動揺を示してゆらりと揺れる。

「見ちゃったんです。将軍とストックさんが抱き合ってるところ」
「……お前……」
「ね、どうしてなんですか? ソニア先生が居るのに、どうしてストックさんとあんなことしてるんですか」

キールの口調は静かなままで、頬に添えた手にも動きを阻害する以上の力は込められていない。だがそのことは逆に、激昂で発散されることのない彼の衝動を表している……ロッシュもそれを分かっているのだろう、緊張を高めた様子で身を堅くしている。

「……誤解だ」
「信じると、思いますか?」
「…………」
「ね、将軍。どうして、ストックさんなら良くて、自分じゃあ駄目なんですか」
「それは……」
「自分の気持ちも……受け入れてください」

限界近くまで寄せていた顔をさらに近づけ、そっとロッシュに口付けた。薄くて柔らかな暖かさを自分の唇に感じて、心臓が高鳴る。背筋を走る衝動に身を任せ、さらに深くに触れようと舌を伸ばした……しかし。

「…………、っ!」

がり、という音にならない音が、体内で響く。舌先に熱を感じて身体を離した、途端に広がった視界の中のロッシュは、刺すような視線をキールに向けてきている。

「いっ……たあ」

じわりと、口の中に血の味が広がった。舌先がずきずきと痛む、感覚器官に生じた傷は直接脳に痛みを送り込んでくるが、しかし実際はそれほど深くもないことは直ぐに察せられた。

「痛いじゃないですか、将軍」

それが証拠に、キールはまだ喋ることが出来る、その程度の怪我でしかないのだ。あの状況ならば舌を食い千切ることも可能だったのに、ロッシュはそれをしようとしない――できない。こんなことになっても未だキールへの情を捨てられてはいないのだろう、彼は本当に、愚かなほどに優しい。だから愛しい、愛しいから触れたい、触れたい気持ちを受け入れて欲しい。

「将軍」

もう一度手を伸ばし、改めて頬に触れた。そのままロッシュの顔に唇を寄せる、また噛み付かれないように今度は皮膚の上に。額、目元、両頬、そして下に降りて肩口に顔を埋め、首筋にゆっくりと唇を押しつけた。

「将軍。どうして、自分じゃ駄目なんですか」

舌を這わせれば、触れた皮膚の下に逞しい筋肉の存在を感じる、そしてその中を這う動脈の鼓動も。自分がロッシュの生命を握っているという事実を改めて実感し、キールの心に甘い充足が広がっていく。

「ソニア先生も、ストックさんも良いのに……どうして自分だけ、受け入れてくれないんですか」
「やめろ、キール」
「どうして、どうして駄目なんですか」

否定の言葉を紡ぎ続けるロッシュは、しかしそれ以外の抵抗手段を持たない。逃れようと身体を動かしても、頑丈な鎖がその動きを完全に封じてしまっている。じゃりじゃりと響く金属音に、キールは満足げな笑みを浮かべた。

「そう、でも、そんなのどうでも良いですよね。将軍がどう思ってても、もう逃げられないんですから」
「……」
「いくら将軍だって、鎖を千切るなんて無理でしょう? だから……ここに居るしかないんです」

一度身体を離し、ロッシュを抱き締める。椅子に縛り付けてしまったから身体全体を包むことは出来なくて、頭部を胸に抱き込むような姿勢になった。だがキールにとっては十分な近さだ、ずっと触れることも許されなかった相手を抱けるのだから。

「好きです、愛してます、将軍……いえ、ロッシュさん」
「……」
「僕を受け入れてください。それだけです、僕の望みは」
「キール」
「はい」
「鎖を解け」

真っ直ぐな、声。
迷いも怯えも無いその声に、キールは一瞬言葉を奪われる。
抱き締めていた腕を解いて彼の顔を見れば、そこにあるのは声と同じくらいに真っ直ぐな視線だった。先ほどまであった怒りすら失せて、ただ静かにキールを見据えている。何だか泣き出しそうになって、キールは顔を歪めた。

「駄目です」
「キール」
「駄目です、解いたらここから逃げちゃうでしょう?」
「逃げない、ちゃんと話を聞く。だからこの鎖を解け……縛られたままで、話ができるか」
「駄目です、駄目です、駄目です!」

叩きつけるようにキールが叫んでも、ロッシュは静かな態度を崩そうとしない。……いや、その瞳に少しだけ、悲しげな色が滲んではいたが。

「駄目です、もう離さない。誰にもあなたを渡さないんだ」
「キール、話を聞け」
「ソニア先生にも、ストックさんにも、誰にも渡さない。あなたは、僕だけと一緒に居るんです」
「キール……」
「ああ、そうだ」

そこでふ、と気付いた。ロッシュの腕に取り付けられたままのガントレット、機械仕掛けの鋼鉄の義手。

「この、ガントレット。確か、ソニア先生のお兄さんが作られたんですよね」
「……?」
「ロッシュさんにとって、大切な人だったんですよね、その人」

思い返せば以前から好きになれなかった。ロッシュの腕に寄生しているように食い込む義手が、いずれ彼の存在そのものを食い尽くしてしまうようで……ロッシュが誇りに思っているのを知っていても尚、キールはこれが好きでなかった。ロッシュが一度だけ語ってくれた『恩人』の存在と共に、ずっとキールの心に刺さり続ける棘だったのだ。

「もう要りませんよね、これも」
「……何を」
「ロッシュさんはもう戦場に立たないんですし。僕とここに居るのに、こんなもの必要ありませんよ」

服の上から接合部の金属を撫で、その形を確かめる。そして、傍らの机から大型のナイフを取り出して。

「だから、取っちゃいましょう」

ざくり、と。
ロッシュの肩に、突き立てた。

「…………っ!!!!」

悲鳴は無かった、しかし衝撃からか大きく身体が跳ね、重いはずの椅子ががたりと動く。

「動かないでくださいね? 余計なところまで切っちゃいますから」

それを押さえつけるように手をかけ、キールは金属の外周に沿わせてナイフを押し進める。血液が溢れる中から、ぶつりぶつりと筋繊維が千切れる感触が伝わってきた。ロッシュの腕は硬く厚い筋肉に覆われているから、大振りのものを使っていても刃を進めるのは困難だ。さらに時折、肉に直接食い込む義手の部品が刃の動きを阻害することもあって、中々作業が進まない。金属同士が肉の中でがきりと噛み合い、キールは眉をしかめた。

「あれ……結構深くまで入ってるんですねえ、これ」

ぜい、という荒い呼吸が、ロッシュの喉から零れている。しかしキールは気にした様子もなく、肉から部品を取り去ろうと腐心していた。ナイフを一度引き、もう少しだけ大きめに肉を抉ってみる。

「っ、…………」
「うーん、上手くいかないなあ。あんまり沢山切り取りたくないんですけど」

流れ続ける血で切口がよく見えないため、刃から伝わる感触でナイフを進めていく。肉の硬さで刃が滑る、よけいな脂など一片も存在しない逞しい腕はキールもずっと憧れていたものだが、ナイフ一本で切り落とすには少々手強い。硬い感触が伝わってきて、また部品に引っかかったかと思ったが、それはどうやら骨であるらしかった。深くに辿り着いている証に、キールが安堵の息を零す。

「あ、でも何とかなりそう……かも」
「ぐっ、う……」
「取れたら、これはソニア先生に渡しておきますね。先生にとってはお兄さんの形見だし、喜んでくれると思うんです」

半ばまで取れかけた部分を力任せに引き千切ろうと試みるが、想像以上の頑なさで肉に食い込んでいる部品は、その程度で外れることは無い。むしろ耐えきれなかったのは刃によって切り刻まれていた筋繊維のほうで、ぶちぶちという感触を伝えながら神経を巻き込んでロッシュの腕から離れていく。

「がぁっ……!」
「……辛いですか? すいません、大事にしていた義手なのに」

ロッシュの口から耐え切れなかった苦鳴が漏れた、それに引き寄せられるようにキールがロッシュの顔を覗き込む。脂汗でぐっしょりと濡れた額をそっと拭うと、色を失った顔に血の赤が添えられた。

「でも、もう要らないものなんですよ。僕とずっと一緒に居るんだから、こんなもの要らないんです」
「…………」

苦しげに伏せられていたロッシュの瞼が開かれ、焦点がキールに合わせられる。……そして、ゆるりとその頭が、横に振られた。

「無理、だな」
「…………え?」
「それは、無理だ……一緒には、居られん」
「どうして」

呆然とするキールに、ロッシュは血の気を失った白い顔に、それでも辛うじて笑みらしきものを作ってみせる。荒い息の下から紡がれる言葉は常よりも力弱かったが、はっきりとキールの耳に届いていた。

「駄目ですよ。ここからは、出しません」
「……そうじゃ、ない」
「何処にも行かせないし、誰にも渡しません。だから、ずっと、僕と」
「無理だ、と、言ってるだろう……俺はもう、死ぬぞ」

ロッシュの言葉に、キールはきょとんとした顔になり。間の抜けた声で、死んじゃいますか、と呟いた。

「ああ……これだけ……血が、出たら……さすがに、な」

解体されかけた肩から流れ出している血は、確かに驚くほど大量で、椅子の背とロッシュの左半身を深紅に染めあげている。溢れ続ける血をキールが傷口を押さえたが、当然それで流血が止まるはずもない。ロッシュが苦笑して、また首を振った。

「だから、無理だ……ずっと、は、居られん」
「…………」

キールは黙って、ナイフを置いた。そして自由になった両手で、ロッシュの白い頬を包む。

「そっか……死んじゃいますか」
「ああ」
「でも、それで良いのかもしれませんね」
「…………」
「そうしたらもう、あなたを誰にも取られずに済む」
「……キール」

彼の目は、失血に耐えきれず虚ろになりかけていた。しかしそこに宿る残った光は、ただキールだけを真っ直ぐに注がれている。

「お前は、どうして……こんなことを」

その言葉に、キールはまた泣き出しそうな気持ちになるのを感じた。

「……何度も、言ったじゃないですか」

ロッシュを見詰めながら、何度繰り返したか分からない言葉を、もう一度だけ紡いでみせる。
それが、今度こそ、彼に届くことを祈りながら。

「あなたのことが、好きなんです」
「……そうか」

ロッシュの声はもう随分小さくなっていて、その瞼も、力尽きたように閉じられようとしている。
ただ呼吸だけが続いていて、しかしそれももうほんの微かなものでしかなくて、そして。

「すまん、な」

その言葉を、最後に。
瞼は完全に閉じられ、口が開かれることもなくなった。

「……何で、謝るんですか」

キールが問いかけても、声は返らない。ただ静かな表情のまま、キールに身体を預けているばかりだ。

「ロッシュさん。将軍。……隊長。隊長……」

何度呼びかけても返事は無く、だからキールは諦めて、ロッシュにそっと口付けた。恐る恐る舌を差し入れるが、今度は噛みつかれることも無くて、キールは安心して口腔に舌を這わせる。歯列を割って舌を絡めた、それに応える動きは無いが抵抗されることも無い。

「ねえ、隊長。死んじゃったんですか?」

唇を離して話しかける、答えが返らないことを承知しながら。そしてやはり変わらない沈黙に、キールは一人納得して、静かに微笑んだ。

「……ようやく受け入れてくれましたね、僕のこと」

幸せそうに笑いながら、ロッシュの身体を抱き締める。もう拒まれることはない、逃げられることも、誰かに奪われることも。

「これで、ずっと一緒です……ずっと、ずっと」

抱き締め、髪を撫で、口付けて。
その全てを受け入れてもらえる幸せに酔いしれながら、キールは一人呟き続ける。

「好きです、大好きです、隊長。隊長……」

動かないロッシュを抱き締めて、キールはずっと呟き続けた。

ずっと。


ずっと。










 ――――――――






キールの肩が微かに震えた。
気分が悪いのは先ほどからだが、何だか寒気までしてきた気がする。本格的に体調を崩した気配に、キールは机に突っ伏して大きく息を吐いた。

「っはああああーー…………」
「……何だ、どうした。大丈夫か?」
「あ、将軍!」

丁度良く……もしくは悪く、扉が開いてロッシュが顔を出した。普段は朝から鬱陶しいほどの元気を振りまいている秘書が、力無く机にへばりついている光景に、目を丸くしている。慌てて立ち上がろうとするキールを手で制し、大股で秘書机の傍らまで寄ってきた。

「良い、座ってろ。調子でも悪いのか?」
「あ……いえ、大したことないんですけど」
「そうか? だが、顔色が良くねえぞ」

風邪でも引いたか、と言いながらじっくりと顔を眺められ、妙に落ち着かない心持ちになる。内臓の気持ち悪さが増した気もするのだが、それを無視してキールは無理やりに笑顔を作ってみせた。

「その、本当に大したことはないんです。ただちょっと今朝、夢見が悪くて」
「夢?」
「ええ。何だか分かりませんが、ものすごーく嫌な夢を見た……気がするんですよね」

内容は全然覚えてないんですけど、とキールは溜息を吐いた。
本当に、今日の寝覚めは最悪だった……起きた瞬間に中身は忘れてしまったが、爆発しそうに暴れる心臓とでたらめに流れ落ちる脂汗から、夢の中身がとんでもなく禄でもないものであることは推測できる。

「そんなに酷え夢だったのか。そしたらまあ、覚えてなくて良かったな」
「そうですねえ……でもそれのせいか分からないんですけど、何だか調子が良くなくて」

はああ、とまた大きく息を吐いて机の上にへたばる。そんなキールの頭に、ロッシュの大きな手がぽんと乗せられた。

「そりゃ逆だろ、調子悪いからそんな夢見るんだよ」
「うう、それはそうかも」
「そろそろ試験だろ? 根詰めすぎてるんじゃねえのか」

そのままかき回すように頭を撫でられ、キールは心地よさに目を細めた。大きくて分厚い手のひらは何とも力強く、キールの脳にへばりついていた悪夢の残滓が洗い流されていくような気がする。

「今日は無理しねえで休んどけ」
「いえっ、それは駄目です! 将軍が仕事なさってるのに、自分だけ休むわけにはいきません!」
「こっちだって、調子が悪い奴に仕事させるわけにはいかねえんだよ。一日休んで、ちゃんと体調整えろ」
「でも……」

心配そうなロッシュの表情に感謝と申し訳なさがこみ上げる……そして何故か、心臓の奥が焦げるような感覚も。胸焼けまで併発したか、とキールは自分の胴を手のひらでさすった。

「医務室で薬貰って、家でゆっくり寝てろって」
「……でも、何だか眠るのも怖いんですよね。また変な夢を見そうで」
「そんなにか……」

頭を抱え込みそうに落ち込んだキールに、ロッシュが息を吐く。

「そしたらここで寝たらどうだ? お前の身長なら、ソファでも余裕だろ」
「へっ?」
「俺も今日は出歩く予定が無いからな。うなされてたら起こしてやるよ」
「で、でもそんな……申し訳ないです、そんなの」
「何がだ?」

慌てるキールをきょとんとした顔で見ているロッシュは、本当にその提案に関して疑問を抱いていないようだった。キールからしてみれば、上司でもあるロッシュが仕事している横で寝ているなど、とんでもない不敬に感じられるのだが。

「まあ、とにかくまずは医務室だな。ちゃんと見てもらってこい」
「いえっ、大丈夫です! 本当に、大したこと無いんですから!」
「自己申告は当てにならないから、却下。良いから大人しく行ってこい、倒れられたりしたら困るのは俺なんだからな」
「え……」

険しい顔で睨みつけられるが、キールの脳に引っかかったのはそこではなく。

「将軍、自分が倒れたら、困ってくれるんですか?」
「…………はぁ? お前、自分が何の仕事してると思ってるんだ。秘書に倒れられて、困らない訳がねえだろ」

心底呆れた様子で頭を叩かれる。その痛みにではなく彼の言葉に、キールは何だか涙が出そうになって、慌てて目を瞬かせた。

「将軍……そんな風に思っててくださったんですか……」
「あのなあ、兼業とはいえ今は俺の秘書として働いてるんだ。学生気分で甘ったれてんじゃねえぞ」
「そ、そんなつもりはありません!」

反射的に立ち上がって敬礼するキールを、ロッシュは再度押し止めた。

「ああもう、良いから大人しくしてろ。ってか、立ったんならついでにそのまま医務室に行ってこい!」
「は、はい……」
「体調が戻ったら、またこき使ってやるからな。だから今はちゃんと休め、調子を整えるのも仕事のうちだ、昔教えただろ」
「はい……有り難うございます!」

ロッシュに半ば引きずられるように扉の前まで連れてこられ、部屋から押し出される。

「医務室までは1人で大丈夫だな?」
「はいっ、そこまでお手数おかけするわけにはいきません。診察だけしてもらったら、直ぐに戻りますから」
「まあ、そのまま帰ってもいいがな。どこで休むかは好きにしろ」

取り敢えず休むことは前提であるらしいロッシュの発言に、キールはまた少しだけ胸が苦しくなるのを感じる。しかし今度のそれは辛いものではなかったから、そのまま押さえ込んでぺこりと一礼してみせた。

「有り難うございます、将軍」
「礼は良いって。あ、帰るなら一応誰かに言付けておけよ」
「はいっ!」
「じゃ、俺は仕事に戻るからな」

そして閉じられた扉の前で、キールはしばらく立ち尽くしていた。ロッシュの言葉ひとつひとつを、噛み締めるように思い返すと、自然とその胸に暖かいものが溢れてくる。
自分が居ないと困る、とそう言って貰えた。ほとんど押し付けるようにして就任した秘書だったが、それでも少しは役に立てている……彼の隣に居ることが許されていると、そう思えた。

「……へへ」

相好を崩して小さな笑みを浮かべる、その姿は傍から見れば随分と怪しいものだったから、その時廊下に人が居ないのをロッシュは感謝すべきだっただろう。
そしてキールは、よし、と拳を握りしめて。ロッシュの言いつけ通りに医務室へ向かうため、ようやく扉の前を離れる。


軽やかに歩く彼の背に、もう、悪夢の影は存在しなかった。



セキゲツ作
2011.05.23 初出

RHTOP / RH-URATOP / TOP