そこは、白い部屋だった。
 壁は白い。天井も床も、全てが白い。家具は無く、壁には窓も戸も無い。何も無い、白いばかりの空間だ。
 彼は一人で、その部屋に転がっていた。何もせず、ただごろりと、白い天井を眺めている。
 そこには何も無い。何も。
 何も。

 彼の傍らに、誰かが居た。
赤い服。金色の髪。白い肌。
「ロッシュ」
 名を呼ばれた。それは自分の名だったのだろうかと、彼は考える。
思い出せない。
 そして、この男は誰だっただろう。それも、思い出すことが出来ない。
「お前は、誰だ」
 問われた男は微笑んだ。
言葉よりも前に、伸ばされた手が、彼の髪を撫でる。優しい手つきだった。心地よさに、彼は目を細める。この男は誰だっただろうか。知っているような気もする、ずっと昔から共に居たような。この声、手、体温、微笑み。
「ストック」
 男が名乗る。何処かで聞いたかもしれない、だが思い出せない。
この男は誰なのだろう、そして自分は誰なのだろう。男は笑っている。笑いながら、ただ、彼に触れている。彼は目を閉じられない。白い天井が、壁が、彼を覆っている。
「俺は、お前の、親友だ」
 男が言う。それが真実なのか否か、彼には分からない。 
白い部屋。何もない、窓も戸も家具もない部屋。
 彼の心には、何も無い。この部屋と同じだ。
 思い出せない。何も。


――――――


 砦から射られた矢が、敵軍へと降り注ぐ。
いや、その形容は些か誇大だ。新兵ばかりで作られた隊を、さらに二分して戦っている今、降り注ぐばかりの矢など射ることはできない。その気になれば数えられる程度にまばらで、勢いにしても、石つぶてよりはまだ早いという程度である。当然、敵に与える被害も軽微なものだ。いや、零であったかもしれない。
矢が一段落したと見て、敵は掲げていた盾を正面へと戻し、彼らに向かって突進してくる。彼はそれを受け止めんと、部下達の前に立ちはだかった。
 どうしてこんなことになったのかは、回想する間でもなく分かっている。彼らに任されたのは砂の砦の守備。何があろうとそれを全うするべきだったのに、ビオラ隊が押されているとの報を聞き、軽率にも増援を出すことを決めてしまった。弱小の部隊が、さらに隊を二つに割ったのだ。残された兵力は、砦を護ることも覚束ない程度のものとなってしまった。
それでも、何事も無ければ、隊長である彼が叱責される程度で済んだだろう。だが不運か、あるいは全て計算されていたのか、敵は期を逃さず砦を襲撃してきた。彼と部下は、その攻撃に、残された兵力だけで立ち向かわなくてはならなくなってしまったのである。
 敵が突撃してくる。小細工をするだけの余力も無い。正面からぶつかりあった。敵の分厚い鎧を、彼のランスが貫く。自分に向けられる刃は、直撃を避けて鎧で弾いた。動く勢いでまた一人。視界の端で血が流れ、金属が地面にぶつかる鈍い音がした。彼は強い。左の鉄腕の力も有り、雑兵程度は苦もなく撃退できる。
「隊長っ、左翼が圧されています!」
 彼は強い、だが彼の部下はそうではない。鉄の腕など持たないただの兵、いやそれ以前の、ろくに訓練も受けていない素人あがりの志願兵だ。職業軍人と相対すれば、圧倒されるのは当然のことである。まともに戦えるのは彼だけだ、彼は劣勢となった箇所へと駆け、敵を蹴散らしていく。
 彼はよく戦った。戦場を見回し、手薄になった場所に走っては敵を退け、部下を鼓舞して立ち上がらせた。立ち上がることのできない部下に痛む心を堪え、戦うことに集中し、部下を戦いに集中させた。彼が居なければ、襲撃された直後、この戦線は崩壊していただろう。
逆境の中、彼は本当によく戦った。何人もの敵兵を屠り、その数も分からなくなる程に必死に戦った。そんな彼の姿に、ともすれば折れがちな味方の士気も、辛うじて維持されている。逆に敵兵の勢いは徐々に衰え、このままいけば、相手を退けることすら可能だったかもしれない。実際には、そううまく行くことは無かったわけだが
 突然、爆発音が響いた。背後。つまり、砂の砦からだ。振り返る。堅牢な砦が崩れた様子は無かったが、中からは悲鳴と怒号が響いてくる。砦の中に爆弾が、と、切れ切れに報告する声が聞こえた。騒ぎに紛れて砦に侵入しようとする敵兵を、左腕で殴り殺す。一瞬、迷った。だが決断が為されるよりも先に、砦の中から部下が飛び出してくる。
「ほ、報告をっ……南の口より、敵が侵入! 砦内部には爆発物が仕掛けられており、通路が寸断され」
 放たれた矢が、部下の首に刺さった。報告のため開いた口から、声の代わりに血が溢れる。ぐるりと白目を剥き、受身も取らず倒れたその姿に、残った兵達が悲鳴を上げた。
恐怖は伝播する、それも速やかに。劣勢の戦、半ば奪われた拠点、仲間の死体。彼がいくら声を張り上げても、もはや戦線を立て直すことは難しかった。怯えて硬直する部下達を叱咤しながら、それでも彼は戦うことを止めなかった。逃げ惑う部下を助ける為、また何人も敵を殺した。
 しかしいくら彼が強くとも、左の鉄腕が強力であっても、一人で出来ることは限られている。やがて彼と部下達は完全に包囲され、武器を振るうことも出来なくなってしまった。刃を喉元まで突きつけられ、ようやく動きを止めた彼の元に、敵の将がやってくる。
「お前が、この隊の頭だな」
 随分と少なくなってしまった部下達も、敵に拘束され、武器を奪われ無力化されていた。それを横目で確認し、求められるままに武器を捨てる。自分達が負けたのだということを理解し、彼は部下の助命を願った。戦場における礼儀は、この男達に通じるだろうかと思いながら。
「鬼神の如き戦いぶりだったそうだな。私の部下も、随分数を減らされてしまった」
 言い返さない。敗者はこちらで、裁く権利は向こうに在る。もう一度、部下の助命を願った。敵将が、ちらりと部下達を彼の部下達を見遣る。部下達が体を強張らせる。強く彼の背が突かれた。半ば意図的に、彼は体勢を崩し、膝を突く。敵将は、嫌な笑みを浮かべて、彼を見下ろしていた。
「新兵ばかりの部隊だと聞いていたが、中々どうして、大した戦力だ。このままにしておくのはいささか危険だな」
 助命を願う。この話の行き着く先がどうなるか、彼は気付いている。部下達を見た。酷い顔色だ。守ってやれなかったことを、申し訳なく思う。あるいは彼らは生き残れるかもしれない、だがそれは敵の慈悲と気まぐれに縋ってのことだ。彼に出来ることは、もう殆ど残されていない。それを、すまなく思う。
「まあ、我らとしても、無駄な血を流すのは好まない。助けてやってもいい」
 部下達の表情が明るくなった。しかし、続けられた言葉を聞くと、直ぐに強張ったものとなる。ただし。
「条件がある。お前の首だ」
 将の剣が掲げられる。考えていた通りだ。部下達が悲鳴を上げた。気にするな、と言ってやりたいのを耐える。相手を刺激したくは無い。黙って、陽光を照り返す鈍い銀を見上げる。
「――の首を採ったとなれば、さぞかし評価されるだろう。残る奴らなど有象無象だ、お望み通り助けてやるさ」
 それでいい。どうせ一度は死んだ身だ、部下を庇って死ぬのならそれでも構わない。強く頭が押さえられ、地面に擦りつけられた。首を落とすつもりなのだろう。彼は目を閉じる。覚悟の上で、己に降る最期を待つ。
 刃が空を斬る音。
血が飛んだ。次いで、濁った悲鳴。
 だがそのどちらも、彼のものではなかった。彼は目を開く。頭部を押さえる圧力が失せたので、顔を上げた。敵将の首から、血が吹き出している。それは彼が見ている前で、ふらふらと揺れ、そのまま倒れ込んだ。死んだのだろう、と冷静に判断する。
 そして死んだのは将だけではなかった。周囲を取り囲んでいた敵兵達が、瞬く間に倒され、屍へと変わってゆく。突きつけられた凶器が無くなり、彼の部下が逃げ出した。追う者は居ない。兵達の意識を奪っているのは、新たに現れた男のみだ。
 男。将の首を斬り、他の兵を斬り捨てている男。それは金色の髪をして、赤い服を着ていた。男が振り返り、彼を見る。優しい目をしていた。戦場には不釣り合いな、静かな笑顔。
「ロッシュ」
 発せられた声は、彼に向けたものなのだろうか。穏やかな声だった。幸福そうですらあった。襲いかかる兵を、片腕で切り捨てた。逆の手を、彼に差し伸べる。笑っている。戦場には似つかわしくない、静かな瞳。
「死なせない」
 この男は、一体誰だろう。彼は男を見上げる。彼を知っているようだった。助けようとしているようだった。だが、彼は男のことがわからない。顔も、声も、動きも。知っていたような気もする、だが確かな記憶は蘇ろうとしない。男は手を伸ばし、彼の頬に触れた。両手で彼の頬を包み、正面から瞳を覗き込む。温度は無かった。においも。もう敵は居ないのだろうかと、彼辺りを見回す、だが。
 白い。
 敵は誰も居なかった。そして彼の部下も、そのほかの誰かも。視界はただ白い。壁と天井が世界を覆っている、小さな、何もない白い部屋だ。
彼は首を傾げた。戦いは。敵は。部下は。いや、最初からそんなものは存在していなかったのか。この部屋に窓は無い、戸も。敵も、味方も、入れる筈が無い。
 傍らに在る男が、彼を抱き締める。何故か、暖かさを感じた。何処かで、触れたことがあるもののような気がした。この男は誰だっただろう、彼はひっそりと首を傾げる。
「ロッシュ」
 思い出せない。知っている気がするのに。
 だが彼の思考は、ゆっくりと鈍麻して、白の中へと沈んでゆく。
 男はただ、幸せそうに微笑み、彼を抱きしめている。 


――――――


 滴り落ちる滴。
 ぽたり、ぽたりと零れ落ちている。静かな涙だ。部屋には冷たい空気が満ちていた。赤子の泣き声が響いている。
「どうして」
 言葉が零れ落ちる。泣いているのがソニアだと気付いた。ぼやけた視界の中央で、ソニアが涙を流している。どうして泣いているのだろうと、不思議に思った。赤子が泣いているのが気にかかる。母親を求めているのか。抱き上げてやらないのか。どうして二人は、泣いてばかりいるのだろう。誰かが泣き止ませてやらないのだろう。
 ふいに、視界が変わった。赤子の姿が目に入る。誰かが赤子を抱き上げた。赤子は泣き続けている。揺すっても、あやしても、泣き続けている。赤子を抱いた誰かが、言葉を発した。何と言ったのかは聞き取れない。赤子は泣き続けている。
「それは、分かっています。けれど」
 ソニアが答えた。涙を孕んだ、だがはっきりとした声だ。視界が巡る。ソニアがこちらを見ている。赤子は暖かかった。泣くことができて、暖かければ、それは生きているということだ。誰かが、赤子に頬を寄せる。暖かさが近くなる。
「そんな風に割り切ることなんて。だって――ああ、分かっています、でも」
 赤子はの泣き声が小さくなる。赤子を抱えた誰かは、小さな身体を揺らしながら、部屋の中を巡っていく。空っぽの部屋だ。いや、実際は家具があり、小物があり、窓には暖かなカーテンが掛かっている。しかし空っぽだ。在るべきものが、そこには無い。一体何が無くなっているのだろう? 彼には分からない。無くなっていることは理解できるのに。
 ソニアは泣き続けている。赤子も。涙が、空っぽの部屋を満たしていく。
「あなたは、どうしてそんなに平然としているんですか」
 責めるような声。誰かが何かを言った。聞き取れない。赤子の泣き声のせいだろうか? ぐすぐすと泣く声が、他の音を掻き消す。泣き止ませてやらなければ。だがどうやって?
「いえ、すいません、言い過ぎました。あなただって苦しいんですよね」
 赤子がゆらゆらと揺れる。揺らしているのは誰だろう。誰か分からない相手にしがみつく赤子を、抱き締めてやりたかった。泣き続けているソニアも。
「――――ですから。ごめんなさい、八つ当たりをして」
 二人が泣いているのは悲しい。何故なら二人は。――そういえば、何故彼女らが泣いていると、こんなに悲しいのだろうか。
「ごめんなさい、でも、あなたがあまりにも冷静だから、私は。でも、あなたはいつもそうでしたね、冷静そうに見えてちっともそうじゃない」
 ソニアの声が歪む。せめて声を聞きたかった。けれどそれも遠くなってゆく。赤子の泣き声が大きくなる。
「――、あなたは――――? 一体これから、どうする――」
 遠い。二人が、遠い。何処までも、遠く、隔たってゆく――


――――――


 作戦は失敗したのだと、やがて分かった。
 封鎖した廃坑の通路を開き、敵部隊へと切り込む。混乱した隙に本隊が攻め込み、自分達は転進し、別動隊の助けを受けて砦へ撤退する。危険の多い作戦だ、だが成功すれば敵に大きな打撃を与えることが出来る。上層部が描いた未来図は、あまりに楽観的に過ぎると、彼は感じていた。しかし反論せず従ったのは、分の無い賭とも思わなかったからだ。戦場で生きる以上、賭けるしかない場面には、用意に遭遇する。そうして感覚が麻痺して、必要でもない賭けに挑み、破れ、死んでいく。
 だが今回の戦は、そんな見慣れた失敗とは異なるように思われた。グランオルグ平原に切り込んでしばらく後、敵軍と衝突した。そこまでは計算していた通りだ。だが、想定していたよりも遙かに、敵の戦力は大きかった。まともにぶつかり合えば潰される。数分のうちにそれを覚った彼は、予定よりも早く、撤退の指示を出した。作戦は崩れるかもしれない、だが全滅するよりは良い。うまくすれば攻め上がる本隊と合流できる。しかし、それは敵わなかった。撤退すべき道筋を塞ぐように、敵の部隊が展開していたからだ。
何が起きたか、即座には理解出来なかった。普通に進軍していたのでは、とても有り得ない速度なのである。理解できないまま、必死に逃げた。作戦が読まれていたのではないかと思い至ったのは、逃げているまさにその最中だ。そのときには既に、考察など何の意味も無いものとなり果てていたのだが。
 一人、また一人と、部下が姿を消していく。敵兵の数は多かった。彼の部隊を押し包むようにして、じわじわと締めあげてくる。突破するのは不可能だ、包囲の薄い方へと逃げる他は無い。追い込まれていると分かっていたとしても、その場に留まるという選択肢は選べない。そして彼らはついに、袋小路へと追い詰められてしまった。
 平原にそんな場所があることも、敵は計算していたのだろう。街道から少し外れたそこは、一見何処かに通じているように見えて、実際は崖に突き当たってしまう。完全に逃げ場を失い、彼の背に冷たい汗が流れた。敵から部下を庇って立つ。部下の数も、逃げる間に、随分少なくなってしまった。直ぐ後ろに立つキールが震えている。生きて帰してやれるだろうかと自問した。答えを考える前に、一歩を踏み出した。出来るのかどうかではない、やらねば。

 彼は強かった。冠せられた二つ名に恥じぬ程、強かった。だがその強さは、数十という敵兵を、部下を守りながら倒せる程のものでは無かった。敵の死体は多く転がったが、その数に比例して、彼の体の傷は増えていく。そして相手と違い、彼の身体はひとつのみだ。意志に関わらず、動きは鈍り、力は尽きてしまう。
「隊長……隊長、大丈夫です」
 部下も、もう殆どが倒れてしまっていた。倒れたまま、動かない。死んではいない、と無根拠に考えた。考えなければ、立っていられなかった。大切な部下達だ。戦場に死は付き物だとしても、こんな風にいきなり、無惨に、無意味に殺されていい筈が無い。
「大丈夫です。――が、来てくれます」
 唯一まだ立つことができている部下、キールが言う。その声から希望は消えていない。
「――の隊が、こちらに向かっています。――と合流できれば、きっと突破できる筈です。だからそれまで耐えましょう」
 その希望の源は何なのだろう。信頼なのだろうか。作戦の上では、隊の一部が別動し、彼らの撤退を補佐する予定だった。その別動隊が、キールの希望を支えているのだろう。彼らが来れば、この絶望的な局面ですら乗り越えられると。
 一体何故確信をもって言い切れるのか。彼には分からなかった。もう仲間は殆ど残っていない。隊長である彼も、力つきる寸前だ。そんな中に数人の別動隊が加わったところで、一体何が変わるというのか。隊を率いていたのは、それ程までに信頼のおける人間だったか。いや、そもそも誰が、別働隊を率いていたのだろう。考えても、思い出すことが出来ない。
「――なら、きっと」
 キールの声は、希望に満ちている。彼と同じように、敵達もキールの確信が理解出来なかったようだ。敵の部隊から、大きな笑いが起きる。敵は既に攻撃の手を止めており、ただ彼らを逃がさぬ揚、包囲するだけの態勢となっていた。攻撃の手を一時止めても、優位は変わらないと判断したのだろう。余裕があるのだ、こちらと違って。
「そうか、増援を待っていたか。残念だったな」
 敵の一人が喋り出す。装備と、周囲の動きから、それが敵側の隊長だと察することが出来た。笑っている。敵を嬲るのが好みなのかもしれない。嫌なやつだ、と彼は独白する。余裕は無いが、身体が止まれば、思考は勝手に回り出す。
「戦女神が率いる部隊は、今、ディアス将軍の率いられる隊と交戦中だ」
 ディアス。随分な大物が出てきたものだ、これも、情報とは食い違っていることだ。出撃前に伝えられた情報は、もっと容易に制圧できる戦力しか配備されていないと、彼らに伝えていた。勿論、偵察で得られた情報が確実であるとは限らない。だが彼らの隊に対する周到な迎撃を併せると、特定の結論が浮かび上がってくる。作戦は知られていた。それも、かなりの精度で。
「ああ、他にもお前らを援護する小隊が居たのだったな? そいつらも、北の戦場へと向かったそうだぞ」
 笑いながら、敵の隊長が告げた。その言葉に、キールが硬直する。素直な反応に、敵が残酷な笑いを零した。
やはり嫌な奴だ、と彼は印象を確かにする。殺されるにしても、こいつだけは御免だ、と思うような相手だ。しかし残念ながら、えり好みをする余地は無いだろう。それとも訴えてみるか? 手を下すのは他の人間にしてくれと――あまりにも、馬鹿馬鹿しい話だ。
「分かるか? 増援は来ない」
 勝ち誇った声。何を自慢げに言っているのだろうと、彼は不思議に思う。別動隊の動きは納得できるものだ。本隊、ビオラ准将が率いる隊が破れてしまえば、アリステルは敗北したも同然の状態となる。彼らの隊とどちらを援護するかと言えば、本隊の方を選択するのが当然だ。大体、今増援が到着したところで、隊の大部分は倒れてしまっているのだ。意味が無い。
 キールを見る。動かない。表情も、動きも、固まったままだ。大丈夫だ、と言ってやりたくなった。何一つ、本当に何ひとつ根拠の無い発言だったので、実際に声にすることは無かったが。
「分かるか? お前等が待っている増援は来ない! 残念だったな、お前等はここで死ぬ!」
 周囲を見回す。包囲の薄いところは無いか。突破できる隙は無いか。キールだけでも逃がしてやりたかった、だが隙間など何処にも見付からない。
「捕虜として生き長らえると思うなよ? 首を切って確実に殺せ。あの方からはそう命令されているからな」
 敵が、じわりと包囲網を狭めてくる。遊びの時間は終わりということだ。今から彼らは殺される。速やかに。あるいは、じわじわと嬲られながら。
 キールが震えていた。どうにかして彼を助けられないかと、彼は頭を巡らせる。だが駄目だ、何も見付からない。思い付かない。
「た、隊長」
 震えた声。別動隊が到着していれば、何か変わったのだろうか? 誰か――思い出せない誰かが率いている別動隊。もし、それがもっと早く到着していれば。
「――、お前の首は、さぞかし良い手土産になるだろう。喜べよ」
 嫌な笑い声。やはりこの男に殺されるのは嫌だな、と思う。だが今更止められもしない。槍を握った。しかし動きを察知して、他の兵が臨戦態勢に入る。数を数えた。七を越えたところで止めた。傷ついた身体で対応できる限界は、明らかに越えている。
 敵の隊長、気に食わない男が、笑いながら剣を構える。キールに声をかけた。反射的に剣を構える。戦わせるのが正しいのかどうか、彼には分からなかった。だが、逃げても死ぬ。間違いなく。ならば、限界まで戦う他無い。
 笑い声。勘に障る。声とともに刃が降り注ぐ。槍を構えた。いつ死ぬだろうか、と思っていた。それでも抵抗しようと、槍を突き出す。空を切るかと思っていたそれは、しかし過たず敵の身体へと吸い込まれた。当たる攻撃では無かったと、当の彼が最も承知している。ならば何故。敵は血を流していた、彼のものとは別の一撃によって、だ。
 男が立っていた。先程までは居なかった男だ。金色の髪をしていた。赤い衣を纏っていた。誰だろう。知っている気がするが、思い出せない。
「ロッシュ」
 微笑んでいた。微笑んだまま、敵を倒していく。最初の一撃で頭を屠った今、他の兵は統率を失い、本来の力の全てを発揮しきれずにいた。彼とキールの動きを止めていた兵も、やがて居なくなる。新たな敵に向かい、そして倒されたのだ。キールに、逃げろと叫ぶ。投げ出した武器を取ろうと手を伸ばす。空を切った。そこに槍は無かった。何もない空間だけが広がっていた。
視線を上げ、見渡す。何もない。キールも、敵も、誰も居ない。何もかもが消えてしまい、残ったのはただ白い、白い壁だけだ。
「ロッシュ」
 部屋の中には、彼自身。そして、男が一人。
「お前は、俺が守る」
 それが誰だったか、彼には思い出せない。だが、確かに知っている気がした。その男は佇み、ロッシュを見て微笑んでいる。幸せそうにも、泣き出しそうにも見える笑顔。
 この男は誰なのだろう。彼は首をかしげ、男を見た。男はじっと見詰めている。幸せそうに。泣き出しそうに。


――――――


 微弱な電流のように、ぴりぴりと皮膚に訴える緊張感が、その部屋には漂っていた。原因は、視界の中心にある。ラウルだ。首相であるラウルは、普段の穏やかさを放り投げた厳しい顔で、深く溜息を吐いている。大陸が滅亡寸前なので、と説明されたら、信じてしまいそうな程の表情だ。
「まさか、こんなことになるなんて」
 唸る低さで呟く。机の上に両肘を突き、組んだ指の背を額に押し当てた。再び、地を這うような溜息。一国の首相が見せて良い顔ではない。少なくとも、人目に触れる場所では。
「本当に、まさかこんなことになるなんて」
 繰り返される嘆息。誰かが、何かを言った。この部屋に居るのは、ラウル一人では無いらしい。大丈夫だろうか、と暢気に思う。国家元首がこんなに厳しい顔をしているのを見られたら、要らぬ誤解をさせるのではないだろうか。それこそ、国の存亡に関わるような大事件が起きたのではないかと。
「……そうだね。確かに君の言う通りだ、彼一人居なくなったところで、アリステルが滅亡するってわけじゃない。だけど」
 ラウルの口元が、皮肉に持ち上がった。笑みというには、負の感情を孕みすぎている顔だ。これも、彼が浮かべるには、相応しくない顔だった。
「正直意外だな、君がそんなことを言うなんて。君は――の――だったんだろう」
 誰かの声。苛立ったような調子が感じられる。言葉の意味は、まるで分からないのに。
「ああ、そうだね、悪かった。すまない、こちらも気が立っているんだ。――は大切な部下だったし、アリステルにとっても重要な人物だった」
 声。ラウルの顔が、また歪んだ。一体何を話しているのだろう。
「手厳しいことを言うね。そうだな、一体どちらが重要なのか、自分でも分からないよ。――を失って悲しいのが僕個人なのか、アリステル首相なのか」
 言葉はところどころざらついた雑音となり、うまく聞き取ることが出来ない。張り詰めた雰囲気だけが、遮るものなく伝わってくる。
「だが、アリステル首相として言うなら、これを受け取るわけにはいかない。――に続いて君まで失ってしまったら、残された者の負担が大きくなりすぎる」
 ラウルが何かを摘み、ひらりと振った。紙だ。書類だろう。何が書いてあるのかは分からない。
「考え直してもらうわけにはいかないかな? ――が居なくなったからといって、他の全てを捨ててしまうのかい」
 声。静かな声音だ。きっと表情も、穏やかなものなのだろう。顔を見ることは出来なかったが。
 ラウルが、溜息を吐いた。吐くたび、その存在は深くなっていく気がする。
「そうだね、――、君の行動を阻止することは出来ない。縛って閉じこめておくわけにはいかないんだ。だから、こうして頼んでいるのだけど」
 声。拒否の意を含んでいたのだろうと、聞こえないのに分かった。ラウルの表情が、悲しげなものとなったからだ。
「止めることは出来ないようだね。残念だよ」
 誰かは頷いたようだった。視界が巡り、部屋の中が見渡される。見慣れた、という程馴染みがあるわけではないが、それでも見知った部屋だ。彼はそれを懐かしく眺めた。
「――。これから、どうするつもりだい」
 再び、ラウルの元へと視線が戻る。ラウルの顔はもはや歪んではおらず、静かな、何かを諦めたようなものとなっていた。歳を取ったようだと、彼は思う。彼が知っていた時と、大きく隔たってはいない筈なのに。過去に思いを馳せるのは、彼には難しいことだったから、実際にどうだったかは分からないが。
「そうか、無事を祈るよ。気が向いたらで良い、また、アリステルにも顔を出してくれ。皆、君を待っている」
 短い声。視界が回る。誰かは踵を返し、もはやラウルは視界の中に居ない。誰か、彼には見えない誰かが、重い扉を開けて、部屋を出ていく。何処に行くのだろう。彼には分からない。世界がどうなっているのかも分からないのに。
 もはや視界には何も映らない。意識が回り、落ちてゆく――


――――――


 どうしてこうなったのか。自問に対する答えははっきりとしている。何もしなかったからだ。
 アリステル軍の腐敗には気付いていた。上層部には黒い噂が付きまとい、しかし表立ってそれを口にすることは出来ない。誰もが口を噤み、聞こえの良い言葉だけを発しているうちに、やがてそれが真実のように広まっていく。ラウルやビオラのように、志を失わない者も居た。だがそれは極一部で、国を変えていくには力が足りなかった。
 もっと多くの者が、彼らの元に集っていれば、流れは変わったのかもしれない。そう考えれば国を腐敗させたのは上層部ではなく、考えること、戦うことを放棄した兵士や民衆達だとも言える。勿論、彼を含めてのことだ。彼が、従う者達を連れてラウルに協力していれば、もっと別の未来があったのかもしれない。そうしなかったのは何故だろう。研究所に所属する想い人のことが頭にあったのかもしれない。彼が体制に反することで、彼女を危険に晒してはならないと――だがそれは単なる言い訳で、単に臆病だったからだと言われた方が、彼としては納得がゆく。自分はガントレットに縛られた軍の備品、作戦を遂行することしか能の無い存在だと、自ら規定して行動を縛っていた。その結果がこれだ。結局、全ては自分が招いたことなのだと、彼は考えていた。
 だから、自分が死ぬのは仕方がない。だがその為に巻き込まれて死ぬ者達のことを考えると、心が痛んだ。
 焚き火の明かりが見える。薪の爆ぜる音が、彼が隠れている位置からでも、微かに聞こえた。彼は今、茂みの陰に身を潜め、標的の様子を伺っている。グランオルグ王女エルーカ。情報部の暗殺対象だ。彼女を暗殺する為差し向けられた情報部員は、何故か彼女の逃亡を助け、今も行動を共にしている。王女と共に焚き火を囲んでいるのも、その一人だ。城で見かけた覚えのある、小柄な青年。
 実際のところ彼は、グランオルグ王女のことを殺すべきだとは思っていなかった。伝わる噂では、彼女は現政権に敵対し、レジスタンスまで組織して戦っているのだという。ならば彼女と連携し、現政権をうち倒した上で友好的な関係を築く方が、戦争の終結に近付くのではないだろうか。彼女を助けた情報部員達の選択は、正しかったのではないか。しかしそれは、あくまで彼の個人的な考えだ。それを、例えばラウルにでも訴えられていたら、やはり未来は変わっていたのかもしれないが。
 焚き火の傍ら、標的二人の会話は、あまり弾んではいないようだった。重い空気の中、交わすという程の頻度でもなく、言葉が発せられている。今から彼は、二人を殺さなくてはならない。増援が出てくるならば、それも。暗殺など、ロッシュが得意とするような仕事ではない、だがやらなければならない。彼の大切な女性の命がかかっているのだ、どれほど危険であっても。どれほど心が痛もうとも。
 こつり、と彼の鎧に礫が当たった。どこかで隠れている、情報部の者だ。彼に、早く任務を遂行しろと訴えているのだろう。彼がここで逃げ出せば、そのままアリステルの上層部に連絡が行き、ソニアの身に危険が及ぶ。彼が選べるのは、戦うという道だけだ。
 あるいは、誰かが止めてくれるかもしれないとも考えていた。彼を打ち倒せる程強い誰かが、彼が王女を殺すよりも前に、彼のことを殺してくれると。そう、王女を守っているのが――だったなら、きっと。――なら、きっと、彼を殺してでも止めてくれた筈なのに。
 また、礫。焦れているのだろうか。あるいは逃亡を疑っているのか。そんなことはしない、と彼は内心呟き、ようやく身体を動かした。茂みを揺らして立ち上がると、標的達が驚いて飛び退る。驚いたのは、王女もまた戦う姿勢を見せていたことだ。構えているのは武器だろう。だが、負ける気はしなかった、残念ながら。彼の力ならば、ほんの一撃でも王女に当てれば、それで殺すことが出来る。
 謝罪を呟こうとして、止めた。無意味なことだ。彼は武器を握り、一歩を踏み出した。王女と青年が武器を構える。王女の手元に魔法の光が集まった。魔法は得意ではない。相打ちになるかもしれない、と薄ら考えた。それも良い、と思った。
 足に力を入れる。いつでも飛び出せるように。増援に備え、油断無く周囲を窺ってもいる。青年が何かを言う。彼は聞いていなかった。聞いたら、戦うことを躊躇ってしまうかもしれない。王女が魔法を放った。予測していた通りだったから、避ける。白い光が、彼の傍らを飛び去った。その勢いと紛れるようにして飛び込む。そして腕を引き絞り、標的の腹を食い破るべく、槍を突きだし
「ロッシュ!」
 飛び込んできた影があった。赤い。素早い動きに幻惑された視界の中で、色彩だけが目に焼き付く。赤い服。金色の髪。男だ。誰だろう? だが、酷く懐かしい気持ちがある。
「駄目だ、ロッシュ」
 突き出した筈の槍は見事に捌かれ、動きを止めていた。標的の二人も、攻撃の手を止めている。この男が止めたのだ、と理解した。彼らの仲間だろうか。自分がこの男を待っていたように、彼は感じた。誰かも分からないというのに。
手を押さえられる。大人しく従った。殺さないのだろうか、と考える。考えて、この男に殺されると思っていたことを、彼は自覚した。
「殺さない。殺させもしない。俺がお前と戦うわけがない」
 彼の心を読んだように、男が言う。男の顔を見る。微笑んでいた。悲しげに。あるいは幸せそうに。どちらとも取れる、不思議な笑みだ。誰なのだろう。彼のその問いは、あるいは口に出ていたのかもしれない。
「――だろう」
 そしてそれは、彼の疑問に対する答えだったのかも。だが彼にはその言葉が理解できない。黙って、男を見詰めている。男もそれ以上何も言わなかった。そっと、彼の頬に触れる。暖かかった。
 二人は黙ったまま見詰め合っている。周囲の景色が、ふわりと溶けた。白い部屋だ。何も無い、誰も居ない、窓も戸も無い。ただ赤い衣の男だけが、彼の傍らに立って微笑んでいる。知らない男だ。その筈だ。
 男が彼を抱き締める。彼は抵抗しない。だが返すこともできない。
 ただぼんやりと、何も無い、窓も戸も無い壁を眺めているだけだ。


――――――


 彼女の瞳は、喜びと悲しみの混じった、とても複雑な色合いをしていた。この地域では珍しい純粋な黒髪が、豊かに波打っている。
「驚いたよ。まさかグランオルグで――に会えるなんて」
 レイニーだ。微笑んでいる。その形の何割が本心を表したものか、彼には推測できなかった。女性の心を理解するのは難しい。彼の最も苦手とする分野だ。
「ずっとここに居たの? その、アリステルを出てから」
 誰と話しているのだろう。それが分かれば、その複雑な視線の意味も理解できるのかもしれない。だが、彼女が話している相手の姿は、彼の目には映らない。
「そっか、うん、ラウル首相から聞いてる。でも、何となく、グランオルグに居るとは思わなかったからさ」
 茶器の触れ合う音。紅茶の良い香りがした。道をゆく人々の話し声が、聞くともなしに耳に入ってくる。道の端にある店にでも入っているのだろう、と彼は推測した。そう考えると、空気に混じる埃の気配が感じられてくる。
「あたしは軍の仕事だよ。――が居なくなってから、あたしなんかでも、結構重要な任務を任されるようになっててさ。人が居ないんだから仕方ないんだけど」
 苦笑。紅茶がかき混ぜられる。飲みもせず、ぐるぐると中身をかき回してばかりなのは、当然だが正式なマナーではない。彼女の話し相手に、それを咎めるつもりは無いようだった。穏やかな声が聞こえる。何を話しているのか、聞き取ることは出来ない。
「……有り難う。うん、皆頑張ってるよ、マルも、ビオラ将軍も、ラウル首相も」
 優しい笑顔だった。彼女が優しい女性であったことを、彼は思い出す。知り合って長いわけでは無かったが、レイニーの心根の優しさを、彼は知っていた。
「ソニアさんも、元気だよ。元気って言っていいのか分からないけど」
 躊躇いながら語られる故郷の現状を、彼はぼんやりと聞く。レイニーの言葉は彼の為に語られているのではない、だが彼にとっても聞いておきたい情報だ。懐かしい顔を思い出す。笑顔と泣き顔。
「辛そうなのは確かかな。でも、赤ちゃんも居るし、泣いてばかりも居られないって感じで。あたしも同じかな、――のことは本当に悲しいけど、生きてる人間は生きていかなきゃいけないんだって。これはラウル首相が言ってたんだけどさ」
 誰かが言葉を発する。何と言ったのか、レイニーは少しだけ首を傾げ、困ったように微笑んだ。
「――を責めるつもりは無いよ。だって――とあんなに――だったから、辛くって当たり前だし。むしろ、もっと落ち込んでると思っていたから、元気そうで安心したかな」
 レイニーの真っ直ぐな視線が、じっと見据えてくる。会話している誰かは、居心地の悪さを感じたのかもしれない。落ち着かなげに身体を振るわせ、視線が逸れる。
「ねえ、――。アリステルに戻る気は無い?」
 沈黙。不自然に生じた沈黙を、レイニーの側では予想していたらしい。表情を変えず、じっと視線を固定している。話す相手は、それを正面から受け止めることをせず、茶器の中の紅茶を見据えているようだった。ゆらゆらと、黄金に近い茶色の液体が揺れる。沈黙を破ったのは、レイニーの側だった。
「――、――が居なくなって寂しいのは分かるよ。けど、それは、何処に居たって、何をしてたって変わらないんじゃないかな」
 言い聞かせるような口調だった。こんな風に言葉を使う女性だっただろうかと、彼は思う。人は変わっていくものだ。大きな変化があれば、特に。そのことを、ふと、自覚した。
「勿論、無理して欲しいわけじゃないよ。でも、アリステルに居た方が、悲しいのも寂しいのも紛れるんじゃないかな。一人で居たら、辛いばっかりだよ」
 レイニーの言葉に、声が返される。それまでの躊躇いが嘘のように、迷いの無い声だった。何故か彼には、その意味が分かった気がした。一人じゃないと、誰かはそう言ったのだ。
「――。誰かと一緒に、旅をしているの?」
 レイニーは、不思議そうに首を傾げていた。声は答えない。ふと、暖かい感触を覚えた。レイニーと話す誰かが、胸の中心に、そっと掌を押し当てている。声が何かを語った。レイニーはそれを、じっと聞いている。
「そうだね。ゴメン、無理言って」
 首が横に振られた。レイニーは笑顔を浮かべている。だが瞳は、泣き出しそうな悲しみに満ちていた。泣き出すのかと、彼は少しだけ心配する。そこまで弱くは無かったようで、涙がこぼれることは無かったが。
「けど、覚えておいて。あたし達はいつでも、――のことを待ってるから」
 声は応えない。何か言ってやればいいのにと、彼は思う。だが実際、何を言ってやるべきなのかも、分かっていないのだが。
「有り難う、――。話せて嬉しかったよ」
 頷いて、立ち上がる。見下ろす視界の中で、レイニーが微笑んでいるのが見えた。一瞬、動きが止まる。逡巡を感じさせる動きで、その場で立ち止まり。しかしやはり、それ以上何も言わず、踵を返した。
 景色が流れてゆく。何処へ行くのだろう、と彼は人事のように考えた。これから、何処へ。


――――――


 静か過ぎて落ち着かない場所だな、と彼は思った。石畳を叩く音だけが、高い天井に反響する。人は居ない。通常ならば、人が立ち入らないような場所なのだ。今この中に居るのは、彼らだけだろう。
魔物の姿は、今のところ見当たらなかった。一行の殿を務めつつ、周囲を見渡す。誰も居ない。魔物を除けば、動いているのは彼らのみだ。
自分が何故ここに居るのか、彼は本当に理解しているわけではなかった。仲間が、大陸の命運を左右する戦いに関わっていたと、少し前に知った。これから赴くのは、何やら重要な場所らしい。その程度の認識しか出来ていない。だがそれで十分だとも想っていた。アリステルの戦いは終結し、軍人としての彼の役割は、取り敢えずのところ戦い以外のことに傾いている。国のために力を温存しなくても良いのなら、仲間の為に戦いたい。特に、大切な相手が求めてくれたのならば――と、その思考に違和感を覚えて、彼は首を傾げた。彼をこの場に連れてきたのは、誰だっただろうか。誰か、とても親しく大切な相手だったのは覚えているのだが。
「大丈夫ですか」
 前を歩いていたマルコが振り返る。気が逸れていただろうかと、彼は慌てて意識を引き締めた。頷き、問題が無いことを教える。道行を共にするこの青年は、年の割に落ち着いており、観察力も鋭い。彼の、内心の躊躇いを察して気にかけてくれたのだろうと、彼は申し訳なく感じる。知り合ったのはつい先程、ここを訪れる直前だったが、彼はマルコのことを中々に頼りにしていた。
「それならよかったです。ここは魔物も多いから、気をつけてください」
 素直に忠告を受け入れると、マルコが朗らかに微笑んだ。しかしふと、その表情が曇る。周囲、特に前を歩く他の仲間達の様子を気にする素振りだ。何かあったのか、と彼は声を掛ける。マルコは数瞬逡巡し、足を止めた。自然、彼も足を止める。
「少しだけ、良いですか」
 周囲の様子を窺う。魔物の気配は感じられない。前を歩く他の仲間にも、異常は起きていないようだった。少しくらいの別行動は大丈夫だろうと、マルコに頷きかける。他の仲間に声をかけようとしたが、マルコに目線で止められた。何か話があるのだろうと察し、マルコの発言を待つ。
「確認しておきたいことがあって。――は、――の――なんですよね」
 マルコの言葉は、何故か所々聞き取ることが出来なかった。それでも、頷くべきだろうと感じ、首を縦に振る。
「――だから、こんなところまで来てくれた。何かあったら、あなたはきっと――を守って戦うんでしょう」
 マルコの言いたいことは、彼には分からない。雑音が混じっているようで、言葉に込められた意図が、彼に伝わってきてくれない。彼は確かに、仲間を守って戦うつもりだった。だが、それは誰の為だっただろう? マルコもレイニーも、そしてエルーカ王女も、彼にとっては少し前に知り合った者だ。命を賭けて守ることに躊躇いは無いが、何故そこまで強い決意を持つことになったのか。
「だから、仕方ないんです。あなたに恨みは無いけど、御免なさい。僕は」
 突然、ぐるり、と思考が回った。上手く考えを纏めることが出来なくなる。おかしいな、と彼は思った。おかしい。世界を正しく認識することが出来ない。思考だけではない、身体の自由も利かないことに、彼は気付いた。立っている筈なのに、脚の感覚が無い。手も同じだ、動かそうと思っても動かない。力が抜け、床に膝を突いた。鎧と石がぶつかり、大きな音が響く。
「僕は、どうしても、――を」
 何が起きているのか、彼はまだ理解できていなかった。マルコの表情は硬く強張っている。だが動きに躊躇いは無い。銀色の光が目を射る。マルコの握った剣だ。払われた鞘が揺れているのを、分離した意識の一部で認識する。避けなければ、と思った。銀色の光が、彼の身体に向けられているのに気付いたからだ。だが身体は動かない。動かなければ、避けられない。何故、と彼は思う。何故、マルコはこんなことを。問いただそうにも、口すらまともに動いてくれない。
 剣が光る。鋭い切っ先が彼に迫り、そして。
「そうはさせない」
 死を運ぶかと思った刃は、何故か彼の身に届かなかった。中途で他の剣に阻まれ、行き先を失って空を切っている。殆ど同時に、鼻腔に薬の匂いが広がった。毒消しだと気付いたのは、痺れていた身体が楽になったからだ。ぎこちない動きで視線を上げる。男が居た。赤い衣に金色の髪をした、見知らぬ男だ。そう、彼は男のことを知らない。しかし何故か強く、自分で驚く程に強く、懐かしく慕わしい感情が湧き上がってきた。
 マルコが何かを言っている。だがその言葉は、彼の耳には入ってこなかった。意識は全て、突如表れた男に向いている。男が彼を見た。彼の手を握り、その場から走り出す。痺れから抜け始めていた身体が、強引に動かされて悲鳴を上げる。それでも、必死に走った。そうすべきだと、理由も分からず感じていた。
 ほんの一瞬だった気がした。だがずっと長い間走っていたのかもしれない。気付けば周囲の景色が無くなっていた。白い部屋。マルコも、他の仲間達も、誰も居ない。当然だ、白い壁には、窓も戸も無い。入ることも出ることも出来ない、白いだけの部屋。そこに、彼と男だけが存在している。
 彼は男を見た。懐かしい顔をした見知らぬ男は、静かに笑いながら、彼のことを見ている。
「お前は、誰だ」
 男の笑みが深くなった。彼は困惑する。何処で見たのだろう。知っている筈なのに、どうしても思い出せない。
「――――」
 雑音が酷い。男の言葉が聞き取れない。男の手が伸び、彼の頬に触れる。皮膚を辿り、首筋を指が撫でる。その感触にも、覚えがあった。思い出せないというのに。
「お前の、――だ」
 聞こえない。首を横に振る。男が微笑んだ。寂しげにも見える。安堵しているようにも。そのまま、二人は見詰め合っていた。白い、何も無い部屋の中で、二人だけで。


――――――


 目の前に、マルコが居た。
 随分久しく顔を見ていなかった。いや、あるいは、ほんの少し前に会ったばかりなのか。そんなことを考えながら、彼はマルコの丸い目を見詰めている。
「久しぶりだね、――」
 マルコは、誰かと話しているようだった。彼が会う相手は、皆誰かと話している。そして彼は、それが誰かを知ることは出来ない。一つの厳密な規律のように繰り返される出来事を、彼は素直に受け入れ、現れる知人の顔を眺めている。マルコの表情は硬い。任務中なのだろうかと、漠然と感じた。
「レイニーから、グランオルグで会ったって聞いたから、次はシグナスだと思った。会えて良かったよ」
 空気には、乾いた砂の匂いが濃い。ここはシグナスなのだと、彼は自覚する。何故マルコがシグナスに居るのか、彼が感じた疑問を、話している誰かも抱いたらしい。問い掛けの気配がし、マルコが目を瞬かせる。
「半分正解かな、この街に来たのは軍の仕事だよ。でも――のことも探していて、行きそうな場所の任務を回してもらってたんだ」
 幼げにも見える顔立ちに、似合わない皮肉げな笑みが浮かぶ。何があったのだろうか、と彼は少しばかり心配になった。
「一度、話をしておきたくて。何も言わないでアリステルを出ていったでしょう? レイニーも、随分ショックを受けたんだよ。会えて良かった」
 マルコもレイニーも、良い部下だった。長い付き合いではないが、何度も助けられてきた。悲しんでいる姿は、彼にとっても悲しい。何故悲しんでいるのか、それは分からないが。
「何が、ってわけじゃないんだけど、――がアリステルを出ていった理由が分からなくて。――が――だから、っていうのは聞いたけど、アリステルを出る必要があったのかなって」
 丸い瞳が、一点を見詰める。話し相手の顔を見詰めているのだろう、と何となく察する。その顔から何かを読み取ることは、今の彼にはできない。マルコが話している相手は、どうなのだろう。マルコを見て、何を思っているのだろう。
「それに、会って思った。怒られるかもしれないけど、あんまり悲しそうにも見えない。悲しみのあまり放浪してる、って顔じゃない気がするんだよね」
 少しの間、沈黙が落ちた。マルコの目が瞬く。誰かを、彼には見えない誰かを、じっと見詰めている。
「僕らが分かってないってだけかもしれないんだけどさ。――はいつも冷静だったからね、」
 短い応え。それが肯定だったかどうかは分からない。
「でも、ねえ、――。君はただ放浪しているわけじゃなくて、何か、目的があるんじゃないか?」
 応え。マルコの口元が、少しだけ持ち上がる。
「そっか、じゃあ、目的があるわけじゃない。でも、悲しくて、行き場が無くて彷徨ってるってわけでもない」
 沈黙。今度の沈黙は、前のものよりも長かった。破ったのは、マルコではなく、他の誰かの声だ。彼には聞きとれない声が、何かを語っている。マルコはじっと、それを聞いている。
「そうだね。嘘を吐いて無いって信じるよ」
 声が途切れた一拍後、マルコがこくりと頷いた。黒い目。笑っているわけではない、だが先程よりも少しは、緊張が和らいでいる気がする。
「僕やラウル首相が一番心配だったのは、君が大陸自体に敵対する存在になることだった。少なくとも、そのつもりは無さそうだ。安心したよ」
 大陸に敵対するとは、随分と壮大な話だ。ラウルとマルコが言うのであれば、それも故無きことでは無いのだろうが、と彼は密やかに首を傾げた。安心したと言いつつも晴れたわけではない、マルコの瞳の色も気にかかる。何か力になれればと思い、何もできないことを思い出す。
「――には――の考えがあるんでしょう。それは、僕が止めることじゃない。レイニーには申し訳ないけど」
 ――が――さえいなければ。――が――ことは無かった。
「ねえ、――。今、君は」
 マルコは何かを言いかけ、しかし口を閉じ、首を横に振った。なんでもない、と小さく続けられる。
「実はね、君を探してたのは、僕だけじゃないんだ」
 その言葉に、一体どんな反応があったのか。マルコは少し目を開き、驚きを露にする。
「誰のことだと思ったか分からないけど、多分考えている人じゃないよ。そんな顔をする必要は無いんじゃないかな」
 声がする。緊張した声音であるような気がした。実際に聞こえているわけではないのに。雑音が酷くなる。マルコの声すら聞こえない。顔も、よく見ることが出来ない。今もそこに居るのだろうか? 確かめることは、彼には出来ない。
「一度、――と話したいんだって。彼女には何も言わないまま出て行っただろう? アリステルには来ていなかったから、当然なんだけど」
 雑音の向こうで、微かにマルコの声が聞こえた。彼は耳を澄ます。それだけが唯一、世界と繋がる縁だからだ。
「そういえば彼女、不思議なことを言っていたな。――が何をしているか、分かってるって」
 だが、いくら縋っても、遠くなるばかりだ。遠く、遠ざかって、消えて
「――、彼女に何か話していたの? だってあの事件依頼、会ってもいないのに。ねえ、――」
 そして、何もかもが、失われる。
 何も無くなる。
 世界から、何もかもが。


――――――


 目前には敵の大軍。そしてその後ろには、グランオルグ首都を護る城門が聳え立っている。戦いの末、ついにここまで攻め込んだのだ。さぞかし深い感慨が湧いてくるかと思ったが、彼の心は冷たいままだった。戦いはただの仕事だ。もうすぐ仕事が終わる、ただそれだけの話である。
 だが周囲はそうではない。高揚と緊張の入り混じった話し声が、其処彼処で上がっていた。戦いの前なのだから集中しろ、と彼が声を掛ける。途端に静まり返った。彼は、軍の中では恐れられている。笑みのひとつも見せず、言葉少なに敵を殺し続けていれば、恐れられもする。
 以前は少し違った。恐れられているのは同じだが、そこには敬愛の感情が少なからず混じっていた。ある時を境に彼は変わり、それと共に周囲の目も変わっていった。そう昔の話ではない。彼が、とある女性への想いを諦めた日から、この変化は始まっている。
 捨て鉢になったわけではない、と彼自身は思っている。ただ、少しばかり身の置き所が無かっただけなのだ。これまでは、彼の想い人とその相手、三人で――と、彼の思考が鈍った。彼は考える。自分は、想い人、ソニアの相手を知っていただろうか? ソニアへの想いを断ち切った、その事実は覚えている。だがその時、彼女の相手が誰なのか、意識していただろうか。そう、最初から彼女への想いを遂げるつもりなど無かった。だから彼女が誰かと恋仲になっても諦められるつもりでいた。それなのにこれほど衝撃を受けたのは、相手が――
 思い出せない。頭にじわりと広がる痛みに、彼は額を押さえた。記憶の一部に雑音が混じり、思い出すのを阻害されている。彼は思考を止め、頭を振った。何であろうと、今成すことははっきりしている。グランオルグ軍を破り、首都を制圧し、この戦争を終らせるのだ。そうすれば、彼は自らの役割を全うできる。再びソニアと――と並ぶ為、気持ちの整理を付けることが出来る。
 ああ、また。思考に走った雑音に、彼は唇を噛んだ。だが、考えている暇は無い。斥候が敵軍に動きを察知し、集合が呼び掛けられたからだ。部下を促し、戦陣を組む。距離を置いて睨み合った敵は、灰黒い塊に見えた。決死の覚悟であろう敵の大軍と相対しても、やはり彼の胸には何の感情も湧いてこない。何も、恐怖すら。それが良くない兆候であることを、彼は理解していた。恐怖を知らない兵は弱い。例え一時期戦果を挙げられても、いつか必ず反動が来て、死ぬ。ならば自分は死ぬのだろうかと考え、それに大した衝撃を受けていないことに気付いた。命を捨てるつもりはない、だが後生大事に守り抜くつもりも無い。何故だろう、昔はそうではなかった気がする。必ずアリステルに帰ろうと、そう思って戦っていた覚えが。
 進軍開始の声が響いた。彼は遊ばせていた思考を止め、戦いに集中する。ここを突破すれば、戦争は終る。そうすれば――そうすれば、どうなるのだろう? 分からなかった。だが今成すべきことは分かっていて、それだけで十分だと思っていた。

 彼はやはり強かった。総力を投入した敵の猛攻を真っ向から受け止め、一歩も退くことは無かった。何人の敵が彼の槍の元に斃れていったか、数えることは難しい。彼自身が軍の槍として、敵軍の中央に大きく食い込み、鉄壁の守りに風穴を開けようとしていた。
 当然、敵も手をこまねいてはいない。敵軍大将の懐刀、死神と呼ばれる兵が、彼を止めようと立ち塞がる。だがそれが、敵の持つ最後の手であることを、彼は分かっていた。この男を倒せば、残るは雑兵ばかりだ。重厚な鎧を着た二人が向かい合う。様子を見る間は無かった。巨体を活かした猛攻が、彼に浴びせられる。重量のある装備の割に素早い攻撃が、いくつか彼の鎧を貫き、肉を裂いた。だがそれで怯むことは無い、彼も同じだけの攻撃を敵に食らわせている。削り合いだ。どちらが先に斃れるか、痛みを堪えて彼は槍を構え直した。
 強い相手だ。ここで死んでもおかしくないな、と考える。だが、犬死を強いられる程の相手ではない。悪くとも相打ちには持ち込める。それならば構わない、と彼は笑った。
 再度の猛攻に備え、身を緊張させる。相手も同様、溜められた力がいつ爆発してもおかしくない。互いに呼吸を測り、飛び掛るべき時を探った。周囲の戦いが、遠く聞こえる。
 ――だが、異常は突然起こった。向かい合っていた相手、グランオルグ軍の死神が、何の前触れも無く苦しみ始めたのだ。彼の与えた傷によるものではない。もっとずっと激しい、身悶える程の苦痛を、相手は感じているようだった。驚き、身構える彼の前で、死神は苦しみ――そして、身体が黒い光に包まれたと思った瞬間、砂になって崩れ落ちた。一体、何が起きたのか。彼は呆然と、中身の無くなった鎧を眺める。
「ロッシュ」
 声がした。向けた視線の先には、男が一人、立っている。兵士ではない。赤い衣に、金色の髪をした男。その男を見た瞬間、彼の中に、強い慕わしさと悲しみが込み上げてきた。この男を、自分は知っている。とても大切で、そしてとても悲しい想いを抱いた相手だったと。見覚えは無い、会ったことも無い筈なのに、何故かそう感じたのだ。
「お前は、誰だ」
 彼が問うと、男は微笑んだ。手にした本が、ゆらりと揺れる。
「ストック」
 告げられた名を、口の中で繰り返す。確かに自分は、この名を知っている。とても大切な意味を込めて、この名前を呼んでいた気がする。思い出すことは出来ない、だが胸の中に、確かにそれは存在していた。
 男が彼の手を握る。景色が溶け、戦場の喧騒が遠くなる。もはや周囲には何も、誰も残っていなかった。ただ白い壁が、床が、彼の周りを覆っているだけだ。ただ一人残った男の顔を、彼はじっと見詰めた。そこに答えがあると、信じているかのように。
「ソニアは、どうなった」
 彼が発したその問いは、男に向けたものだったのか、彼自身にも分かっていなかった。男の表情が、悲しげに歪む。泣き出しそうなその顔は、それでも不思議と、微笑んでいるように見えた。
「元気で、やっているよ」
 それだけ言うと、男は彼を抱き締めた。繋がれた腕で封じられて、彼は動くことができない。何も無い白い部屋の中、じっと佇むことしか。


――――――


「――、やっと見つけたの」
 少女だった。幼い、と形容しても、辛うじて不自然では無い程度の年齢。長い角と毛に覆われた脚で、サテュロス族であることは容易に分かる。彼も、顔程度は知っていた。アトという名を思い出す。親しくしていたわけではないが、――にとても懐いていて、アリステルにもよく顔を出していて。
 ふと、思考が止まる。彼女が懐いていたとは、誰のことだ? 知らない。だが知っている。よくあることだ、記憶と思考は、容易に混乱して抜け落ちる。――――から、ずっとそうだ。
「みんなから聞いたの。――が――で、――がアリステルから出ていったって。それで、ずっと探していたの」
 手が、アトの頭を撫でた。誰の手だろう?アトは、心地良さそうにしている。だが直ぐにその顔は、悲しげなものに変わる。
「アトはね、――と話したいことがあったの。ねえ、――は、いけないことをしているんじゃないの?」
 手が、頭を撫でている。アトの表情は変わらない。泣き出しそうだ。彼女の年を考えれば、本当に泣いてしまってもおかしくは無い。まだ、涙を恥じるような年齢では無いのだから。それが、彼には少し、羨ましい。
「あのね、アトはね、ストックが出ていってから直ぐ、アリステルに着いたの。それでね、話を聞いて、――の――に会ったの。だけど」
 涙を流せたら。人目も憚らず泣いて、泣いて、泣きつくすことができれば、何かが変わっていただろうか。彼も、――も。
「魂が、無かったの。――の魂が」
 誰かが、そこに居る筈だ。だが何も言わない。
「アトはシャーマンなの、死んだ人の魂を導くのが仕事なの。でも、――の魂は、何処にも無かったの。自分で出ていったんじゃない、アトには分かるの」
 何も言わない。語るべきことが無いということなのだろうか。アトが手を伸ばし、誰かの服を掴んだ。赤い衣の端を、小さな手がぎゅっと掴む。
「アトの前にシャーマンだった人がね、アイラちゃんて言うんだけどね。アイラちゃんは、大切な友達が死んじゃって、その人の魂を連れてセレスティアを出ていっちゃったの。それは、シャーマンとしてやっちゃいけないことで、だからアトが次のシャーマンになったんだけど」
 アトの頭から手が離れた。アトは手を離さない。誰かが、話を捨てて、そのまま去っていくのではないかとでも言うように。繋ぎ止めるようにして、じっと服の裾を握っている。
「それは、やっちゃいけないことなの。――は、分かってるんでしょう? だって、アイラちゃんを止めたのは、――なんだから」
 誰かが、ぽつりと何かを言った。だがそれは、アトの望んだ言葉では無かったのだろう。アトの顔を見ればわかる、寂しげで、少しの怒りを含んだ少女の表情。
「アトは覚えてるの。……ううん、ほんとに全部覚えてるわけじゃないけど、でも覚えてるの。アイラちゃんを止めたのは――なの、なのに。なのに、どうして」
 アトが口を噤んだ。言うべきことがあり、それを伝えられないのを苦しんでいるのだろう。いくら言葉を重ねても、伝わらないことはある。分かり合えない時がある。少女と誰かとの間には、厚い壁が立ちふさがっているのだろうと、彼は哀れに思った。
 誰かの手が、アトの手に添えられる。そして、そっと振りほどいた。それは明確な意思表示だ。アトの瞳が潤み、涙の雫が目の端に盛り上がる。
「いけないことなの。それに、なんにもならないことなの。そんなことしたって――は戻ってこないし、それに」
 頭を撫でる手。アトの瞳から、涙がぽろりと零れ落ちた。
「アイラちゃんの友達、ね。魂になってアイラちゃんが連れて行った友達は、ね。ずっと、何も言わなかったんだって」
 手が、少しだけ震える。腕の陰から、アトが見上げていた。
「理を外れたシャーマンに、魂は何も応えてくれないの。――もそうでしょう? きっとそうなの、それが決まりなの。だから」
 誰かの手が、アトの頭から離れた。胸に押し当てられる。強く。
「だから、――が――を連れていっても、なんにも意味が無いの。――は、きっと、――を許さないから」
 呼吸の音が、聞こえた気がした。溜息に似た、密やかな吐息。そして、押し当てられた掌の熱さ。
 声がする。誰のものかもわからない、聞き取ることもできない声。けれど確かに聞こえた気がした。ずっと遠くで、ほんの微かに。懐かしい、かつて聞きなれた、大切な声が。
『それでも』
 アトが見詰めている。涙を流しながら。泣ければよかった。人目など気にせず、矜持などかなぐり捨てて、心の全てを涙にして流してしまえば。
そうすれば、何かが変わっただろうか。
『それでも俺は、あいつと共に』
 今と違う場所に、たどり着けたのだろうか。


――――――


 その日は珍しく、ロッシュの周囲に誰も居なかった。
 何しろ、彼は将軍だ。常であれば秘書が、そうでなくても誰かしらが傍らに付き、予定の管理やら業務の補佐やらを行っている。例え本人が望んでいなくとも、それが彼らの責務なのだと説得されてしまえば、軍人であるロッシュに拒む術は無い。そんなわけで、常に誰かを連れて歩いているのが彼の日常だ。だがその日は秘書が出かけており、尚且つ他の部下達も手が離せない仕事に掛かっていた。ロッシュの傍に付く人間が居らず、その為非常に珍しいことに、ロッシュは一人で業務をこなすこととなっていたのである。
 とはいえ、ロッシュにとっては悪い状況ではない。戦後の今でこそ将軍などという地位に奉り上げられているが、ロッシュは本来、現場に生きる一軍人である。必要とも思えないお付きを従えて動き回るなど、彼の性質には合わないことこの上無かったのだ。意図したものではないが、久々に手に入れた一人の自由を、彼は存分に満喫していた。だから、その兵が声をかけてきた時は、少しばかり残念な心持であった。
「将軍、言伝に参りました。ラウル首相より、緊急に話したいことがあるから、会議室に来て欲しいとのことです」
「会議室? 執務室じゃなくてか」
「はい、そう伺っております。ご案内いたします」
「良いよ、場所なら分かる」
「いえ、そういうわけにはいきません」
 本音を言えば、珍しく『将軍らしくない』状況で働けているのだから、邪魔をして欲しくないといったところだ。しかし、まさかそれを口にするわけにもいかない。やんわりと断ろうとするが、相手も中々に強情で、大人しく下がろうとはしない。首相に、直接連れてくるよう厳命されているのだろうかと、ロッシュは溜息を吐く。相手も一兵士だ、上から仰せつかっているのなら、それを勝手に反故にするわけにもいかないだろう。仕方なく頷き、椅子から立ち上がる。
「んじゃ、頼む。すまんな態々、自分の仕事だってあるだろうによ」
「いえ……お気にかけていただき、有難う御座います」
「そういえば、お前、どこの隊だ?」
 問いを投げたのは、相手の顔に見覚えが無かったからだ。ロッシュは、隊長であった頃からの習慣で、軍に居る人間の顔は出来るだけ記憶するようにしている。上の人間が声をかけるというのは、それだけで士気の維持にも繋がる、大切なことだ。目の前の男は、何処の部署でも見た覚えが無いと、ロッシュは首を傾げる。
「それは……まだ、正式配属前でして」
「ふうん? 入隊したばかりなのか。珍しいな、しばらく新兵は採ってなかったと思ったが」
「はい、伝手を辿って従軍させて頂きました。どうしても軍に入らなくてはならない事情がございまして」
「事情?」
 ロッシュが聞いても、相手は答えようとしない。話しづらいこともあるであろうと、ロッシュもそれ以上は追求しようとしなかった。すれ違った部下に軽く声をかけ、それからは無言で廊下を歩く。やがて、指定されていた部屋に辿りつき、促されて中に入った。
 異常には、直ぐに気付いた。自分を呼んだ筈のラウルが居ない。代わりに居たのは、見慣れぬ何人かの男だ。そして敵意。そこまで感じて、ロッシュは反射的に身体を捻った。身体の一部を浅く斬って、刃が通り過ぎていく。演習が無いからと鎧を着用していなかったのが悔やまれた。武器も、普段では考えられない程簡単なものしか見につけていない。ロッシュは、腰に刷いていた剣を抜き放った。使い慣れない武器だ、だが戦えないわけではない。勢いのまま、一人の首を切り飛ばす。血が噴出すのを確認もせず、廊下に飛び出した。ロッシュを案内してきた兵が、武器を構えて切りかかってきた。当然だが賊の仲間だったらしい。悪い腕では無かったが、ガントレットで弾いて、剣で喉を突いた。血の匂いが濃くなる。そこまで来てようやく思考が追いついた。暗殺されかかっているのだ。
「誰かっ……誰か、いねえか!」
 襲い掛かる賊を捌きながら、大声で兵を呼ぶ。隙を突かれ、脇に一撃を受けた。軍服が血に染まる。だが深い傷ではない、痛みは無視できる。残りの人数を確認した、五人。床に転がった死体を飛び越え、相手と距離を取った。鎧も無く、慣れない武器を使って相手をするには、いささか厳しい人数だ。
「しょ、将軍! 貴様ら!」
 廊下の向こうから声が響く。ちらりと視線をやれば、軍服を着た男が駆け寄ってくるところだった。見覚えのある顔だ、ロッシュの声を聞きつけてくれたのだろう。合流しようと、攻撃を受け流しつつ後退する。
「賊だ。撃退するぞ」
 短く状況を伝え、敵へと向き直った。警備は通常、二人一組だ。もう一人は事態を伝えに走っている筈、ともかく目の前の相手を倒すか、最低でも時間を稼げば状況は好転する。
 剣を握り締めた。死体を乗り越え、敵が斬りかかってくる。退けるべく、剣を振り。
 その身体が、急に硬直した。
「――あ?」
 熱い。腹が、熱い。
 金属音を立てて、ロッシュの剣が敵の一撃を弾き飛ばす。視線を下に向けた。何も無い。ならば背だな、とロッシュは考えた。この熱は、背から剣を突き立てられたからだろう。身体を回転させ、味方の筈の相手を見る。手には何も持っておらず、軍服には僅かに血が飛んでいる。極めつけは顔だった。敵意。いや、殺意。そこまでを僅かの間に確認し、ロッシュは剣を振るった。相手の肩から腹にかけて、大きな傷が生じる。致命傷かは分からない、しかし逃げることは出来なくなるだろう。ここに到っても、彼は戦闘の後のことを考えていた。自分を暗殺しようとした黒幕を突き止め、排除しなければ。次は誰を狙うか、分かったものではない――しかしそこまで、生きていられるだろうか? 背と体内に負った傷の具合は、ロッシュ本人には分からない。だが酷く暑く、動く度に身体の中をかき回される気がした。実際、そうなっているのかもしれない。込み上げてきた何かをそのまま吐き出すと、それは血だった。どす黒い血が、口から溢れて胸元に広がる。死ぬのだろうな、と冷静に考えた。考えながら剣を振るい、二人までを斬り伏せた。
 だが、それが限界だった。一人の陰となっていたもう一人が、ロッシュの身体に斬りつける。首までは届かなかった。だが肩口を大きく裂かれ、右腕から力が抜けた。その相手はガントレットで潰したが、負った傷は戻らない。血が大きく流れ出し、身体から力を奪おうとする。あと二人。二回、剣が身体に突き立った。狙いを付ける余裕も無く、ロッシュはガントレットを振り回す。一人はそれで倒したかもしれない。だが一人は残っている、続けられる攻撃でそれが分かる。ロッシュにはもはや、防ぐ力が残っていなかった。何度も、剣が身体を裂いていく。命を奪いきるまで、何度も。
「――ロッシュ!」
 声を聞いた、気がした。
 聞き慣れた声。大切な友人の声だ。
 敵の気配が消え、ロッシュの身体が崩れ落ちる。血溜まりに打ち付けられる前に、誰かがそれを支えた。
「ロッシュ、ロッシュ! 何があった、いや落ち着け、直ぐ傷を……ああ、くそっ」
 ストックだ。止まりかけている心臓の中心で、ロッシュはそれを察する。もはや視界は殆ど残っていない。だが、親友の顔が蒼白なのは、何故か察せられた。
「死ぬな、ロッシュ! 今、医療部に運ぶから」
 無理だ、と言おうと思った。もっと他の事も。だが声の代わりに出てきたのは、血の塊だった。吐き出した血は、ストックの手を汚したかもしれない。だがストックは、そんなことには気付いていないだろう。意識の全てが、ロッシュに注がれているからだ。
「ロッシュ、死ぬな、ロッシュ」
 見えない筈の視界の中で、ストックの顔だけがはっきり見える。泣き出しそうな顔をしていた。親友のこんな顔を見るのは、あるいは初めてだったのかもしれない。そんな顔をするな、と言ってやりたかった。だがもう、身体が動かない。死ぬのだ、とはっきり自覚した。あるいはもう、死んでいるのかもしれない。心臓が止まっている気がした。呼吸も。
「頼む、行かないでくれ。ロッシュ、嫌だ、ロッシュ」
 感じているのは、親友の存在だけだ。それももうすぐ、分からなくなる。死んで、何処か、ずっと遠いところへいくのだ。
 すまない、と心の中で呟く。親友としていつまでも共に在りたかったが、ここまでのようだ。
「嫌だ、行くな、ロッシュ……」
 魂が、身体から離れた。
 浮き上がる。肉の身を離れて、何処かへ行くために。
 それを、ストックが見ていた。現れた魂を、じっと、見詰めていた。
「行くな……行くな。行かせない」
 手が、伸ばされる。
 硬い、暖かな感触が、ロッシュを包んだ。




































「行かせない。何処にも、行かせない」






































――――――



 彼は、白い部屋に居た。
 家具も無い。何も、窓も戸すらも無い。
 在るのはただ彼と、そしてもう一人。
「ストック」
 ロッシュは、男を見た。親友の顔を、正面から見詰めた。
 ストックは、微笑んでいた。幸せそうに。あるいは、悲しそうに。
「俺は、死んだんだな」
 ストックが頷く。ロッシュの手に、ストックの指が触れた。暖かい手だった。生きている人間の手。
「俺は、死んでいるんだな」
 暖かい、血の通う――ロッシュが触れてはいけない、手。
 死した魂は、人の世に留まってはいけない。自ら、あるいは導き手によって、大きなところに還らなくてはならない。
「お前と共に、在りたかった」
 ストックが言う。頷きたい。だが頷けない。ロッシュは笑った。泣き出しそうに見えていたかもしれない。
「お前を、手放したくなかった」
 言葉の通り、ストックはロッシュの手を握り続けている。だからロッシュは何処にも行けない。親友の傍らに、留まり続けなくてはならない。ロッシュは目を閉じた。ストックの姿が見える。両手の中にロッシュの魂を収め、祈るように瞼を閉じている。白い部屋。窓も戸も無く、何処にも行けない、誰も入れない部屋。ここは、両手の中に創られた、小さな檻だ。
 目を開ける。ストックが、笑っている。泣き出しそうに見えた。泣くことが出来れば良かったのかもしれない。
「俺は、ここに居ちゃいけない」
「駄目だ」
「行かなくちゃいけない」
「駄目だ」
 頑なな子供のように、ストックが首を横に振る。ロッシュを引き寄せ、手を回す。抱き締める。その腕は、錠だ。大切な魂を何処にも逃がさないために下ろされた、固い固い錠。
「許されないんだ」
「知っている」
「俺は――お前を、許しちゃいけないんだ」
 死した魂が人に寄り添うことは許されない、それは大きな、誰も変えられない大きな理だ。ロッシュが、死を自覚している限り。ロッシュ自身である限り。
「知っている。それでも」
 身体を寄せているから、ロッシュにストックの表情は分からない。だがきっと、笑っているのだろうと思った。泣き出しそうな、けれど幸せそうな顔で。
「それでも、構わないんだ」
 きっと自分も、同じ顔をしているのだろう。ロッシュの腕が、ぴくりと動いた。持ち上げられ、行き場を探して彷徨って――
 そして、そのまま、だらりと下ろされた。


――――――


そこは、白い部屋だった。
壁は白い。天井も床も、全てが白い。家具は無く、壁には窓も戸も無い。何も無い、白いばかりの空間だ。
 彼は一人で、その部屋に転がっていた。何もせず、ただごろりと、白い天井を眺めている。
 そこには何も無い。何も。
 何も。

 彼の傍らに、誰かが居た。
赤い服。金色の髪。白い肌。
「ロッシュ」
 名を呼ばれた。それは自分の名だったのだろうかと、彼は考える。そして、この男は誰だっただろうか。
「お前は、誰だ」
 問われた男は微笑んだ。伸ばされた手が、彼の髪を撫でる。優しい手つきだった。心地よさに、彼は目を細める。この男は誰だっただろうか。知っているような気もする、ずっと昔から共に居たような。この声、手、体温、微笑み。
「ストック」
 彼はその名を思い出せない。自分の名も、分からない。彼は何者でもない、ただの男でしかない。
「お前の、親友だ」
 思い出せない、何も。
 そんな彼を見て、男はまた、笑った。
 泣き出しそうな、けれど幸せそうな、笑顔だった。









セキゲツ作
2016.02.07 「アナザーコントロール2」にて発行
2017.01.09 web再録

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