執務室は今日も静かだった。
 訓練の最中は地を揺るがす程の大声で兵達を恐れさせるロッシュだが、当然ながら四六時中怒鳴り散らしているわけではない。独り言を言う性質では無いから、書類に向かっている間など、むしろ酷く静かだ。時折呻き声を上げ、頭を掻き毟る音を立てる以外は、無言で業務に取り組んでいるのが常だった。
 だから二人きりの執務室でロッシュが話しかけてきた時、キールは少しばかり驚いて、慌てて顔を上げたのだった。
「お前、恋人は居るのか」
 唐突な発言に目を瞬かせ、発言の主を見遣ると、顔を顰めながら書類を睨み付けている。先程から、唸るばかりでちっとも進んでいないそれは、来期の予算配分についてのものだ。意識の半ば以上はそちらに割かれているのを見るに、真面目な会話というわけではなく、現実逃避の一種なのだろう。一休みしますか、とキールが持ちかけると、溜息と共に頷いて書類を放り出す。疲れ果てた様子の上司に苦笑しつつ、紅茶を入れようと、部屋に備え付けの茶器を手にした。
「ローヤルゼリーも付けますか?」
「頼む」
 これは随分と疲れているようだと判断し、気力回復効果のある蜜を多めに盛り付けてやる。将軍の健康管理も秘書である自分の仕事だとキールは考えているが、実際に出来るのは、こうして適当な休息を取るよう促すことだけだ。大きく伸びをしているロッシュの肩でも揉んでやりたいが、遠慮しているのかどうか、ロッシュの側がそれはあまり好まない。もっと色々頼って欲しいとキールは思っているのだが、あまり好意を押し付けてもいけないと思い、一応は自制している。部下である間は遠慮無く突撃していたものだが、秘書となってからの距離感は、未だに適当なものが見付けられていない。
 小皿を添えた紅茶をロッシュの脇に置くと、自分も器を手に、席へと戻った。
「――で、どうなんだ」
「何がですか?」
「居るのか? 恋人」
 まだその話題は続いていたのか、と内心少しばかり眉を顰める。何故唐突に言い出したのかは分からないが、ロッシュは存外気の入った様子で、キールの様子を窺っていた。
「いやあ……残念ながら、居ないんですよ」
「なんだ、そうなのか」
 情けない、出来るだけ残念で悲しそうな笑顔になるように気をつけてへにゃりと笑ってみせると、ロッシュは疑いも無く信じて苦笑してくれた。罪悪感は無い、何せ事実をそのまま伝えただけだ。今のキールに、恋人と呼べる相手は何処にもいない。
「お前もいい年だろ、そろそろ相手を探したほうがいいんじゃないのか?」
 だがロッシュは、それで納得して引き下がってはくれなかった。キールの困惑に気付かぬまま、話題を継続させようとしている。はあ、と気の無い返事で場を繋ぎ、どうしたものかと頭を捻った。穏当で、ロッシュの気も害させず、納得させた上で話を収束させる受け答えを考える。
「今は、仕事が一番ですから」
「そうか……まあ、随分忙しくさせちまってるからな」
「いえ、充実してるってことです!」
 予想はしていたが、見事に予想通りの受け答えに、苦笑しつつ否定する。これも嘘でもなんでもなく、充実しているのは本当のことだ。こうしてロッシュの秘書として傍らで働き、多忙な彼を支えるのが、キールにとっては一番の喜びである。だがその想いは、ロッシュには伝わらないだろう。伝わらなくていい、とキール自身が思っているのだから、当然のことだ。
「時間が無いなら、見合いでもしたらどうだ? お前なら、良い相手なんていくらでも見付かるだろ」
「うーん、どうですかね……でも、どうなさったんですか? いきなりそんなこと」
 ロッシュは非常に気さくな上司だが、互いの関係性は弁えており、部下の私事に立ち入ってくるのは珍しい。何があったのかと首を傾げるキールの前で、ロッシュは厳つい相好を崩した。
「いや、昨日は珍しく早く帰れただろう」
「はい」
「久々にうちのガキと遊んだんだが、やっぱり可愛くてなあ。お前も早く結婚して、子供でも作らんのかと思ってな」
 幸せそうに顔を緩ませるロッシュを見ても、思ったより胸は痛まなかった。寂寞に似た空虚と、満たされた幸福感を同時に覚えて、少しばかり不思議な気持ちになりはしたが。
「子供ですか、そうですねえ」
 好きだという気持ちを貫いたら、子供など出来る筈はない。そう言ってしまえば、この穏やかな空気を壊してしまうだろう。だから、本心は隠して、言い淀むふりで曖昧な言葉を捜す。
「自分にはまだ早いですよ。未熟者ですから」
「大丈夫だ、お前は十分一人前だよ。それに家族が出来たら、それでまた成長するもんだ。自分で未熟と思ってるくらいが丁度良いんだよ」
 だがふと、包み隠さず言葉にしてしまいたい衝動にも駆られる。好きな人が居るんです。もう結婚している人なんです。だから結婚はできないし、子供は産まれないんです。そう言ったらロッシュは、一体どんな顔をするのか。そんなことを、時折キールは夢想する。
「決まった相手ができたら、ちゃんと言えよ? 勿論式にも呼ばないと、承知しねえからな」
 好きな人が居るんです。その人は男なんです。その人はあなたなんです。そう、包み隠さず全てを伝えたら、一体。
「将軍」
「ん?」
「有り難う御座います、勿論お呼びしたいと思ってます。でもこの分だと、いつになるやらって感じなんですよねえ」
 笑うだろうか、怒るだろうか、軽蔑して遠ざけようとするのだろうか。どれも正しくて、どれも間違っているように思える。
 だが、受け入れるということだけは、絶対に有り得ない気がしていた。
 何故なら、きっと言葉にして伝えたところで、本当に気持ちが伝わることは無いのだ。言葉の意味を理解するのと、込められた気持ちを理解することは、似ているようで完全に異なっている。ロッシュは優しく、愛情深い男だが、そういったことが決定的に苦手だ。キールの内側の、粘りつくような渇望を理解することは、きっと一生できないだろう。だからこそ、残酷なまでに優しくなれる。
「気弱だな、そんなことじゃ未来の相手も困るだろうよ」
「未来の相手、ですか」
 そんなものは存在しないだろう、と心の中だけで答える。痛みはあった。だがロッシュに悪意は無い、それが分かっているから、キールは痛みを受け入れている。これが正しいのだと、最近では思えるようになってきた。痛みと幸福は、本来とても近いところにあるのだ。どちらも、愛する相手から与えられるものなのだから。
「早く会えると良いんですけどねえ」
 キールは、優しいロッシュが好きだった。優しくて、強いのにどこか弱い、そんなロッシュを愛していた。だから、その優しさが与えるものなら、痛みであろうと幸福だ。彼の傍らに居るからこそ、この痛みを味わうことも出来るのだと、キールは満足げに微笑む。
 その笑みを何と勘違いしたものか、ロッシュも分かったような顔で頷いている。無邪気なその姿に、キールは笑顔を深くした。
「僕に子供が産まれたら、将軍、抱っこしてくださいますか?」
 キールは夢想する。自分の子供をロッシュが抱き上げ、慣れた手つきであやしている姿。それは幸福そのもので、出来ることなら実現したいと思えるものだった。
「当たり前だ。うちのガキで慣れてるからな、任せとけよ」
「有り難う御座います! 楽しみです――でもまずは、相手を探さないとなんですけどねえ」
 子供が一人で作れないのが、本当に残念だった。さすがに、自分の想いを叶えるためだけに、無関係の女性を巻き込むのは躊躇われる。一応その程度の理性は残っていることに、キールは密かに安堵した。
「そうだな、頑張れよ。楽しみにしてるからな」
「はい。はあ……何処かに良い人、居ないですかねえ」
 何処かに、自分と同じくらいにロッシュを愛していて、ロッシュに子供を抱かせたいと思っている女性が居ればいいのに。キールはそんなことを考えながら、表面上だけは暢気に溜息を吐いた。








セキゲツ作
2015.3.30 初出

RHTOP / RH-URATOP / TOP