息苦しい、とロッシュは思った。思っただけで口に出さなかったのは、単純に言えば口が塞がれていたからだ。そしてそれが、息苦しさを感じる原因でもある。ストックも同じくらいに口を塞がれている筈だが、苦しそうな様子の一筋も見せないのは、その鉄面皮故だろうか。あるいは単に、夢中になっていてそれどころでは無いのかもしれないが。
「……はっ」
ロッシュの唇に多い被さっていたストックのそれが、ふっと離れる。流れ込んできた空気を、ロッシュはここぞとばかりに吸い込んだ。ストックの乱れた息が唇に当たり、角度を変えたそれが再び押しつけられる。開いた隙間から舌が押し入れられ、ロッシュの舌を絡め取った。
寝台の上で抱き合い、深く口付けてはいるが、互いに服は纏ったままだ。まだ行為が始まったばかりだから、というわけではない。普段は性急に布の隔たりを越えようとするストックだが、今夜は服を脱がそうとはせず、ひたすら抱き締めて舌を絡めることに集中している。この週末には大きな遠征があり、ロッシュの体力を保っておくため、今夜は身体を重ねることはしないと宣言してのことだ。時に強引な程の勢いでロッシュを求めてくるストックだが、親友を気遣って自らの欲望を堪えるだけの配慮は出来るらしかった。
そもそもこうして行き合ったのも、偶然に過ぎない。二人で過ごす時間が出来たことを喜びつつ、互いの多忙を労って眠るのが、いつもの展開だった。だが多忙故に中々顔を合わせられなかった日々は、ストックの精神に不満を蓄積させていたらしい。触れたいという衝動があり、だが体調を考えると繋がるまで触れ合うことは出来ない。折り合った先が、気が済むまで口付けるという今の状況だった。
それ自体に、ロッシュも不満は無い。ロッシュの都合を第一に考えてくれた結果であるし、もっと多くを望む心を抑えてくれているのだから、感謝の心もある。ロッシュとてストックのことを大切に思っている、唇を触れ合わせる程度で親友が心を落ち着けてくれるなら、喜んで付き合うつもりだ。実際こうして、息苦しくなるまで深く口付けられても、不満げな顔ひとつ見せずにストックを抱き締め返している。服越しに胸をぴたりと合わせ、互いの心音を混じらせる姿勢も、けして嫌なものではない。問題があるとしたら、ただひとつ。それらの感触が、ロッシュの性感を煽ってしまうことだった。
「ロッシュ」
僅かに掠れた声で名を呼ばれ、ロッシュの背に微弱な震えが走る。応えるよりも先に、唇が押しつけられた。舌先でぐるりと表面をなぞられ、浅く差し入れたそれで歯列に触れられる。別段ロッシュが拒んでいるわけではない、むしろ彼の顎は誘うように少しだけ開いている。舌の分だけ開けられた歯の先が、柔らかな力で押される感触があった。かと思えば唐突に勢いづき、口腔中をかき回される。戸惑う舌を無視して上顎から舌根を辿られると、さすがに身体の方が拒否反応を示して、弱いえづきに似た感覚が走った。
「ふぅっ」
ストックの舌を軽く噛み、肩を叩いて苦しさを訴える。ストックも察して一度接触を解き、ついでのようにロッシュの頬に口付けた。
「すまん」
真面目な顔で謝るストックの頭を、ロッシュがぐしゃぐしゃにかき乱す。顔に落ちる髪に、ストックは僅かに苦笑を浮かべたが、直ぐに指でそれを払った。そしてお返しのようにロッシュの目元に、頬に、こめかみに、唇を落とす。
「こら。やめろって」
くすぐったさの混じる柔らかな感触は、ロッシュの身体に記憶された、その先の快感を呼び起こす。体温が上がり、兆しを示して中心に熱が集まるのを、ロッシュは意識を逸らすことで避けようとした。だがそんな努力も、唇を塞がれ、呼吸を乱されれば直ぐに無効になる。五感の殆どをストックで占められれば、それを放って他のことを考えるのは難しい。飽きもせず唇を押しつけ、舌を吸うストックの動きに、ロッシュは半ば呆れて身を任せた。
悔しいのは、ストックの側では同様の反応を見せていないことだ。意思の強いこの男は、その強さを身体にまで影響させることが可能であるらしい。今日はしないと決めたのだから、それを守るために身体の反応も抑えているのだろう。あるいはしないと決めた時点でそんな気分から遠ざかっているのか。どのみち、普段の勢いを考えると信じられないような無反応で、口付けだけに集中しているのは事実だった。
重なった身体に自分の反応が伝わらないようにと、ロッシュは少しだけ身体を動かした。誤魔化すように背を撫でてやると、ストックが心地よさげに鼻を鳴らす。その仕草からは、肌の接触や挿入といった行為が無くとも、十分に満たされているように感じられた。
「ロッシュ?」
意識が逸れたのに気づいてか、ストックがロッシュの目をのぞき込んだ。気遣う色をそこに認めて、ロッシュは笑って彼の頭を撫でる。それでも納得していないようだったので、唇の端に唇を押しつけた。
「もう良いのか?」
「……いや」
ストックはそれに応じて、軽く口付けを返してくる。幾度か接触しては深くを探り、また軽い接触に戻る。遊んでいるかのような動きは、常の行為ではまず見られないものだ。先に進むつもりが無いからこその余裕なのだろうが、繰り返しの刺激に身を煽られているロッシュとしては、それがいささか恨めしい。
「飽きねえなあ」
接触の合間にぼやくと、ストックがむっとした様子で睨み付けてきた。
「口付けるだけなら、好きにして良いと言ったな」
「言った言った、別に止めろとは言ってねえって」
適当に応えながら、落ち着かない身体から意識を逸らそうと試みる。幸い唇だけの刺激は、熱を高める材料とはなるが、本格的な反応を始める引き金とまではならない。はっきりとした変化が出ていない今ならば、まだそのまま収められると、ロッシュは考えていた。
「ロッシュ」
だがそんなロッシュを、すとっくがふと見詰めた。口付けの近さから少しだけ外れ、焦点の合う距離で視線を注いでくる。物言いたげな表情で、だが言葉を続けることはなく、触れ合う行為も中断して。ロッシュの頬に、ストックの指が触れた。ごつごつと固いそこは、上気の残るロッシュの顔よりも少しだけ温度が低い。
「どうした」
ストックは、答えずに唇を押しつける。少しだけ触れて、直ぐに離れた。そしてまたロッシュを見詰める。少しだけ口が開き、声は発さずにそのまま閉じた。触れた指に、少しだけ力が籠もる。
恐らくはストックも、ロッシュの変化に気づいているのだろう。問いかけるような視線は、ロッシュの意思を探っているのだ。ロッシュが肯定の意を示したら、頑固に保ってきた忍耐を捨てて、雄の本性を示すのだろうか。親友の瞳を、ロッシュはじっと見詰めた。背に回した右腕に、力が籠もる。
――だが、それが引き寄せるまでの強さになる前に、ロッシュは腕を解いた。そしてその手でストックの頭を小突く。
「お前、眠いんだろ。寝ろよ」
誘惑が、無かったわけではない。ストックと抱き合うのは嫌いではない、中途半端な熱を吐き出してしまいたい気持ちもある。それをしなかったのは、彼の矜持の故だ。求めて来られているわけでもないのに、一方的な欲求を満たすために相手を誘うなど、出来る筈も無い。
そんなロッシュの心理を分かっているのかどうか、ストックはしばらく無言で親友を見詰めると、やがてロッシュの首もとに顔を寄せた。首筋に額を押しつけ、背に腕を回して抱きついてくる。そのまま動かなくなったストックの背を、ロッシュは躊躇いがちに撫でた。接触の形を変えても、やはりストックの体温は平静のままだ。穏やかな触れ合いを続けるこの姿を見ると、普段の繋がりを求める様子が、まるで嘘だったかのように感じられる。
ふと、今の状態こそがストックの本心なのではないかという思いが、ロッシュの心に沸き上がった。性欲を収めるための行為でないことは、以前から感じている。それだけが目的ならば、危険も手間も大きいロッシュを相手に選ぶ必要は無い。もっと他のものを求められているように思えて、だがロッシュには、それが何だか今でも分からずにいる。もしストックが求める物を理解して、それを与えてやれたならば、彼はもうロッシュを抱き締めることは無い。そんな気がした。
「……寝るぞ?」
「いや。もう少し起きている」
だが今はまだ、ストックの心は、飢えたままらしい。ロッシュの言葉に、いささか不満げな返答を返し、抱き締めた強さはそのままに再び口付けを挑んでくる。押しつけられる柔らかな体温を、ロッシュは諦めの吐息で受け入れた。ストックが何を望んでいるのかは分からないが、ともかくそれが満たされるまで、今は耐えるしか無いらしい。あるいは、ストックの側でも性欲が堪えきれなくなるまで、かもしれないが。
飽きずに、そして懲りずに、口付けは繰り返される。柔らかな刺激に、ロッシュの身体は燻ったままだ。強く抱き締められて、ロッシュは唐突に、ひとつの懸念に行き当たる。ストックの気が済んで唇が離れたとして、この腕が解かれないままだったらどうなるのか。手洗いに行くふりで身体を収めてこようと思ったが、拘束したままストックが寝入ってしまったら、それも敵わないかもしれない。
ロッシュの危惧など知った様子も無く、ストックはひたすら熱心に、体温を交わす接触に熱中している。幸せそうなその気配を浴びてしまえば、如何に身体がもどかしくとも、無碍に振り払うことは出来ない。ストックの頭を叩こうとして、しかし考え直して、掌を頭部に沿わせる。結局ロッシュも、親友には甘いのだ。
仕方がない、なるようになる。諦め混じりに笑みを浮かべながら、ロッシュは内心で、ひっそりとため息を吐き出した。
セキゲツ作
2014.03.29 初出
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