酷い夢を見た。
 夢なんてしょっちゅう見ているし、悪い夢を見ることだってたまにはある。一度、戦場で敵兵に嬲り殺しにされた夢を見て、その後はしばらく落ち込んだままだった。でもいくら嫌な内容でも、それは夢だ。現実に影響することなんて有り得ないと分かっているし、胸のむかつきだって直ぐに忘れる。ちょっとくらい食事が不味くても、城に行って仕事をしたらあっという間に吹っ飛ぶ、そんな程度のものだ。
 今日見た夢は、そんなものとは全然違う、吐き気がするほど生々しいものだった。起きた後も起きたことが分からず、夢の中の絶望が去っていかない。何度も身体を動かして、まだ生きているってことを実感できた時には、情けないことに涙が出たくらいだ。いや、自分が生きているってだけじゃ足りなくて、ひょっとして一番嫌なことだけが本当だったんじゃないかって考えが湧いてきてしまって、外に出るまで随分勇気が要った。結局はそのままでいる方が怖くて、半分目を瞑って城まで走ってきたんだけど、それで正解だったらしい。ロッシュ将軍はちゃんと生きていて、遅刻ギリギリの僕を怒って、でも直ぐに最悪の顔色を心配してくれた。寝坊して朝食を抜いたと説明したら、また怒られた。
「食堂が開いたら、何か食べるもん貰ってこい」
 言い方は厳しいしたまに手も出るが、ロッシュ将軍は優しい。畑違いの秘書業に移って失敗ばかりの僕を、業務の効率だって落ちるだろうに、こうして務めさせてくれている。昔僕たちの隊長だったときも、そして将軍になってからも、ずっと変らずに強くて優しい上司で居てくれる。
 それなのに、そんな人が、あんなことに。あんな、ひどい
「おい、キール?」
「はいぃっ!」
 うっかり夢の世界に引き摺られそうになった僕の心を、将軍の声が引き戻した。慌ててすいませんと頭を下げて、自分の机に座る。あれは夢だ。ロッシュ将軍も自分も生きているし、ストックさんだってあんな――あんな、ことには――
 いけない、また入り込みそうになってしまった。頭をぶるりと振って頭の中の霧を追い払うと、ロッシュ将軍が心配げな顔でこちらを見てくる。すいません、ともう一度謝っても、将軍の表情は晴れない。僕の体調を気にしてくれているんだろう、優しい人だ。僕みたいな新米にも、誠実に真剣に接してくれる。夢の絶望に覆われていた気持ちがふいに顔を出して、僕の心臓を傷めた。
「調子悪いのか? 少し休んでも」
「いえ、大丈夫です! ご心配おかけしてすいません!」
「そんなに謝ることはねえが」
 ロッシュ将軍は、無骨な見た目と態度に反して、穏やかで繊細な人だ。こんなに大きくて強いのに、何故だか僕が支えないと、という気持ちになってしまう。
 ――それが、理由なんだろうか。僕がロッシュ将軍に抱いている感情は、尊敬とかそういったものが、何かの間違いで変ってしまったものなんだろうか。触れたいだとか抱き締めたいだとか、いつからそんな風に将軍を見ていたのか、もう分からない。気付いたらそんな衝動が自分の中にあって、いつからだったのか、何故なのか、全部僕自身でも分からなくなっていた。
 仕事に意識を戻すふりで、下を向いて将軍から目を逸らした。視界の中心から将軍の姿が消えて、少しだけ寂しくなる。将軍のことが大好きで、無かったことにしようとしても気持ちの中から消えてはくれなくて、一緒に居るのが苦しくなったことも何度となくある。だってこの思いは、どんなに強くなっても絶対に成就しない。将軍は既に他の人のものだし、それ以前に部下に手を出すような人じゃないし、一番根本的な話を言えば僕は男だ。あらゆる理由で、この気持ちは報われない。最悪、知られた時点で将軍に疎まれて、遠ざけられる可能性もある。絶対に言えるわけがない、だからずっと隠し続けてきた。声をかけられるたびに跳ねる心臓を、わずかに触れることすら痛む胸を、隠して傍らに居るのは時に酷く辛かった。
 でも、そういえば今朝は、その辛さを感じた覚えがない。夢の影響だろうか、今よりもずっとずっと辛い光景を見てしまったから、痛みを感じる方法を忘れてしまったのだろうか。そうかもしれない。ロッシュ将軍が死んで、もう二度と会えなくなってしまうことに比べたら、どんな状態だって傍に居られたほうがいい。
 書類にペンを走らせる音が聞こえる。合間に、ちらちらとこちらを見る視線も感じた。やっぱり優しい人だ、大丈夫だと言っても、様子を気にしてくれている。その優しさが、夢の中の悲劇と繋がって、僕はぶるりと身体を震わせた。優しくなくてもいい、もっと自分のことを大切にしてほしい。僕のことなんてどうでもいいから、とにかく生きて、生きていて欲しい。それだけが望みで、それ以上に欲しいことは何も無いんだと、心底から思う。
「キール、お前本当に大丈夫か? ちょっと医療部行ってきた方がいいんじゃないか」
「大丈夫です、将軍の方こそ大丈夫ですか? 顔色が良くないですが」
「へ?」
 僕の返しが、将軍には完全に予想外だったらしい。目を丸くして驚いている、その隙に僕は席を立って将軍の前に行き、目の前の額に掌を当ててみた。
「ちょっと熱っぽいような気もするんですが、だるかったりとかはありませんか?」
「いやそれは無いが……ってか、俺は別に大丈夫だって、お前のことだろ」
 会話しながら、触れた肌で感じる体温を意識する。少しだけ胸が痛い、けどそれ以上に、身体に触れられることへの安心感があった。将軍が生きていることが嬉しい、それが一番大きな感情だ。
 何だか、凄く大切なことに気付いた気がした。僕と将軍の関係が何かなんて、拘るようなことじゃない。一緒に仕事をして、声を掛け合うことも出来て、それで十分じゃないか。
「自分は大丈夫です、でも念のため、お昼は早めに頂きますね。心配をおかけして申し訳ありません、だからお仕事に戻ってください」
 ちょっと早口にまくし立てたら、嫌な顔をして睨まれてしまった。本気ではなくとも、そんな表情はかなり怖いものなので、慌てて視線を逸らせて頭を下げる――そこに、割って入るような間合いで、扉を叩く音が響いた。
「ロッシュ、居るか? 入るぞ」
 聞きなれた声がして、入ってきた人の顔を、僕は見詰めた。僕がずっと憧れていた将軍の親友は、
いきなり視線に出迎えられて、さすがに驚いたらしい。殆ど表情は変らなかったけど、よく見たら瞬きが増え、口元が緊張しているのが分かる。
 ずっとこの人のようになりたかった。将軍の隣で、将軍に信頼されて、当たり前のように将軍に触れて。でも、僕とこの人は、何も変らないのかもしれない。ちょっとばかり距離は違うけれど、そんなことは大きな問題じゃないと、今なら素直にそう思える。夢の中のこの人が、目の前の顔に重なった。
「……どうした?」
 自然と笑顔が浮かんで、それを隠すために大きく頭を下げる。
「おはよう御座います、ストック内政官!」
「あ、ああ……おはよう」
「すいません将軍、自分は総務に予定の確認に行ってきます。直ぐに戻りますので!」
「おう、分かった。適当に休んできていいからな」
「大丈夫です、それでは失礼します!」
 とにかく勢いよく挨拶して、これ以上心配をかけないうちに部屋を飛び出す。部屋の中では、将軍がストックさんに、僕の様子が変だの何だのと話しているだろう。帰ったらまた追求されるかもしれないから、それまでには普段の顔に戻って、ついでに言い訳を考えておかないといけない。にやける顔を抑えて、ついでに走り出したい気持ちも抑えて、出来るだけ普通に見えるように歩き出す。城の中で変なことをして、妙な評判が立ったら、将軍に迷惑をかけてしまう。
 それでもどうしても、口元が緩むのだけは止められていなかったかもしれない。だって、部屋に戻れば、そこに将軍が居るのだ。
 自分は幸せだ。心の底からそう思って、僕はどうしても耐え切れず、思い切り笑顔を浮かべた。今も、これからも、あなたの傍にいられる。


 ずっと、ずっと、あなたのそばに。






セキゲツ作
2013.12.28 初出

RHTOP / RH-URATOP / TOP