シャワーを浴びて、着替えて、一日を終わらせるための支度を全て終えて、ロッシュは寝台の上に横たわっていた。横にはストックが、ロッシュと同じく石鹸の香りを漂わせながら、ロッシュに沿うように横になっている。眠たげな瞼を支えながら、ぼんやりとロッシュを見ていた彼の腕が、前触れもなくふと伸ばされた。視線の先、ロッシュの顔――いや頭を、ストックの両手が掴む。唐突な行為に顔を顰めるロッシュを無視して、そのまま指を髪に絡め、緩やかにかき回した。
「こら、ストック」
 入睡の邪魔をされたロッシュが、制止の意味を込めてストックを睨みつける。ストックの側でその意図が分かっていない筈も無いだろうが、髪を弄る手が止まることは無い。
「今日はちゃんと拭いてあるだろ」
「そうだな」
 以前に、適当に拭いた塗れ髪のまま寝ようとしたところを責められたのを思いだし、そんなことを主張してもみる。時間をかけて乾かしたわけではないが、念入りに拭った髪に水分は少なく、問題を引き起こすほどのものではないと思われた。
 だがロッシュの訴えに対して、返ってくるのは気のない同意ばかりだ。多少の湿り気が残る髪に指を通し、手櫛で撫でつけたかと思うと、その手で整えたばかりの髪を乱す。遊んでいるような、いや実際遊んでいるのだろうが、そんな動きだった。仰向けに寝ころんでいた姿勢を変え、ロッシュがストックの方を向くと、ぼんやりとした表情が視界に入る。何を考えているのか、あるいは何も考えていないのか。正面になった頭部に対して、これ幸いとばかりに弄る手を強められ、ロッシュは呆れ混じりの苦笑を零した。
「お前、俺の髪触るの好きだよな」
「そうか?」
「ああ、何かっちゃあぐしゃぐしゃにされてる気がするんだが、何が楽しいんだよ」
 お前のならともかく、とロッシュも手を伸ばし、ストックの髪を梳く。見た目通りに堅いロッシュの髪に対して、ストックのそれは柔らかく、指通りも良い。ロッシュには縁の無いものだが、高級な毛皮というのはこんな手触りではないかと、漠然と思う。頭の形に沿って指を動かすと、ストックは心地よさげに目を細めた。
「別段、何がというわけでもないが」
 触れている間はストックの手も止まっていたが、撫でるのを止めると、直ぐにまたかき回す動きが再開される。執拗とも言えるその行為を、無意味なものだと断言され、ロッシュは呆れて眉を持ち上げた。
「理由も無くやってるってのか?」
「そうだな。強いて言うなら、お前の髪が長いからか」
「何だそりゃあ」
「触ったら面白そうに見える」
「……うちのガキと同じ程度か、お前は」
 生後に比べれば随分成長したが、未だに赤子の域を抜けていないロッシュの子供は、歩けもしない頃からロッシュの髪が好きだった。目の前で金色の髪が揺れているのが面白いのか、抱き上げると必ず、ご機嫌で髪を掴んでくる。少しばかり脚が動き始めた今でも状況はあまり変わらず、何かと言えば髪を掴まれる、頭皮にはあまり優しくない日々が続いていた。勿論ストックの触れ方は、加減を知らない乳幼児に比べれば優しいもので、痛みを伴うことなど無いのだが。
 それにしても、自分の息子ならばともかく、親友にまで玩具扱いされる謂われは無い。仏頂面で睨み付けるロッシュに、ストックは機嫌良く笑い返しながら、大きく髪を撫で回した。
「嫌なら、髪を短くしたらどうだ。長いから掴まれる、短ければ手も届かないだろう」
「何かお前、前も切れとか言ってなかったか?」
「そうだったか? まあ、それだけお前の髪が鬱陶しいんだ」
 人のことなど言えない筈の髪型をしたストックに、容赦のない言葉を浴びせられ、ロッシュは嫌そうに顔を顰めた。お前が言うな、と訴えても、当然のように相手は素知らぬ顔である。抗議の意を込めて髪の一房を軽く引っ張ると、さすがにそれは不快だったようで、頭から外れた片手に叩かれてしまった。
「伸ばす理由でもあるのか?」
「いや、特には。戦争も終わったし、短くしたって良いんだが、何となく落ち着かん気がしてなあ」
 ロッシュが髪を長くしているのは、戦時中、それこそストックと出会うよりも早くだ。何度かばっさり切ったこともあるが、この二、三年はそれも無く、もう長い間肩に落ちる髪と付き合っている。それを切ってしまえばどういう心地になるものか、拘るつもりもないが、理由もなく思い切ることが出来ないのも事実だった。
 複雑な表情を浮かべるロッシュをストックが笑い、髪を指に巻き付ける。
「皆もこれで慣れているだろうしな。唐突に切ったら、誰だか分からなくなるんじゃないか」
「まさか、さすがにそれは無いだろ。ガントレットもあるし」
 ロッシュがそう言うと、ストックは一瞬言葉を切って、ぐしゃりと髪をかき乱した。
「そんなもの無くとも、分かる」
「そうか。そりゃ、ありがとよ」
「腕がなくなっても、脚がなくなっても、首が無くなっても。お前のことは分かる」
「いや……何でそんなに前提が物騒なんだよ」
 頭を捉えていた掌が後頭部に回り、向かい合っていた距離が縮まって、ストックがロッシュにしがみつく。額に額を押し当てられ、片手で頬に触れられた。間近に迫った緑の虹彩を、ロッシュも拒むことなく受け入れ、覗き込む。そこにはロッシュ自身が写っているのだろうが、近すぎて姿を判別することはできない。
「ロッシュ」
 唇が少しだけ触れて、触れるだけで離れた。体幹は熱いのに指先は冷たい、それはあまり良い兆候ではないから、ロッシュは黙ってストックの背を撫でる。大丈夫だと、そう言おうとして開いた口は、再び押しつけられた唇で塞がれた。今度はもう少し長く触れ合い、その間もストックは、ロッシュの頭部に触れ続けている。
「お前がどうなっても、俺はお前を見付ける」
 唇が離れて、生じた隙間からストックが声を零す。吐き出した息が、直ぐ前で留まっているロッシュの唇に当たり、背筋がざわつくような感触を生じさせた。ストックの指が、ロッシュの髪を掻き上げ、一房をつまみ上げて指に絡める。
 笑った、気配がした。二人の距離は近すぎて、ロッシュにはその形をはっきりと認識することが出来ない。だが恐らく、それは少なからぬ痛みを孕んだものなのだろう。
「例え」
 ロッシュの右手が、ストックの熱い身体を撫でる。服越しに辿る背から、金色の髪が覆う頭部へ。ストックがそうするのと同じに、髪を指で梳いて。
「お前の髪が全て無くなって、丸坊主になったとしても。俺はお前を見付けてみせる」
 ――その手はそのまま、ストックの頭を叩くことに使われた。ばご、と鈍い音が響き、背後から押された勢いでストックの頭が傾く。接近したままだった双方の額が、当然のようにごつりとぶつかり、同時に呻き声が上がった。
「……何をする」
「何を、ってなあ」
 態とらしく額を押さえながら睨み付けられ、ロッシュは大きく溜息を吐いた。
「殴られるようなことをした覚えは無いが」
「涼しい顔で何言ってんだ。妙なこと言い出しやがって」
「本当のことだ。髪など一本も無くても、俺はお前だと見抜けるぞ」
 妙に自慢げに言われても、ロッシュの呆れ顔は戻らない。半眼で睨み返してやると、ストックは眉を顰めた。
「信じていないのか」
「馬鹿かお前。そうじゃねえって」
「嘘かどうか、試してみればわかる。どうだ、剃ってみるか」
「真っ平ゴメンだ。大体お前だって、俺の毛が無くなったら困るだろ」
 散々乱されて酷い状態になっている髪を、右手一本で撫で付ける。それを見たストックが、懲りずに腕を伸ばし、手櫛で梳いてきた。先程と違ってかき回す動きを伴わないのは、一応はロッシュの反応を伺っているのか。
「無いなら無いで、そのまま頭を撫でれば良いだけだ。問題は無い」
 真顔でそんなことを言い放つ様子から見ると、そこまでの配慮を持っているとも思えないのだが。もう何年もの付き合いであるロッシュですらも、ストックの反応は、時折全く分からなくなる。はあ、と息を吐き出すと、ストックが不思議そうに首を傾げてきた。
「どうした」
 髪を撫で、頭の形を辿る手つきからは、何の他意も感じられない。そこに揶揄の意志があったのなら、ロッシュとても拳のひとつはお見舞いしていたのだろうが。
「何でもねえよ」
 くしゃり、とストックの頭を撫でる。この親友は、時に何を考えているか分からず、かと思えば妙に素直な反応を返してきたりする。今も、ロッシュの反応に許容の気配を感じたのか、再びぴたりと身体を接触させてきた。
「冗談だ、本当に剃らせようなんて思っていない」
「それを聞いて安心したぜ」
「大体そんなことをしたら、ソニアに何と言われるか分からない」
「ソニアか。あいつはどうだろうな、意外と面白がるかもしれん」
「……そうか?」
「あいつの感覚は、俺には理解できんからなあ」
 ガントレットを調整する際の、満面の喜色を思い浮かべ、ロッシュは複雑な顔になる。あれと同じ顔で頭を剃りあげられてしまったら、一体どんな顔をしたらいいか分からない。
「まあ、やらねえんだから関係ないが」
「そうだな。このままで良い」
 ふっと笑みを浮かべて、ストックがロッシュの髪を一房、持ち上げた。それをぼんやりと眺めながら、ロッシュがひとつ、大きな欠伸をする。
「ところで、俺は眠いんだが」
「そうか。……疲れたか」
「まあな、お前だって疲れてるだろ。もう寝るぞ」
 最後にひとつ、ストックの頭を叩くと、ロッシュは仰向けの姿勢に戻った。ストックもそれを止めることはせず、一旦身体を離すと、ロッシュの姿勢が落ち着くのを待って再び隣に潜り込む。
「……寝るぞ?」
「ああ」
 短い返答に、不満の気配が無いのを確認して、ロッシュは瞼を閉じた。髪に触れられる感触は相変わらず伝わってくるが、さほど強いものでもないので、そのまま放っておく。
「お前もさっさと寝ろよ」
 投げた言葉に対する返答は無いが、追求することまではしない。
 やがて、離れようとしない隣の体温はそのままに、ロッシュは緩やかな眠りに落ちていった。






セキゲツ作
2013.07.27 初出

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