夢の話だ。
 ロッシュと話していた。
 いつかのように隣で、肩を並べて。
 何度も繰り返した光景。
 懐かしい、遠い記憶。
 ふと隣を仰ぎ、違和感に気付く。
 ロッシュの首から上。
 あいつの頭が、どこにも無いのだ。
 どこにも。



――――――



 あの時俺は、最悪の選択をした。

 グラン平原の中央、迫るグランオルグ軍を前に、決断を迫られた時。
 ニ択だった。親友の無事を取るか、国の勝利を取るか。
 アリステルは、負けてはいけないと思った。
 同時に、ロッシュを見捨てることなど有り得なかった。
 どちらかを選択することなど、出来なかった。
 だから俺は、両方を守ろうと思ったのに。
 それが、きっと、最悪の選択だったのだろう。

 ビオラ隊からの連絡を受けて直ぐに、北へ向かった。
 北は戦場だった。救援要請は誇張ではなかった、駆けつけなかったら危なかったかもしれない。
 そこで少しの間、剣を振るった。
 勝利を確定するまで戦い続けることはない。ビオラは名将だ、少しでも戦局を動かせれば、そこから盛り返せる。
 そう信じて、敵軍の勢いを殺いだら、直ぐに南へ戻った。
 ロッシュを助けるために。
 生き残ってくれている筈だと、信じた。
 ロッシュは強い。アリステル最強とすら謳われる男だ。
 だから、例え隊が壊滅しようと、あいつだけは生き残っていると信じた。
 忘れていたのだろう。
 いや、敢えて意識から外していたのかもしれない。
 あいつが、部下を犠牲にして生き残る男じゃないと。
 駆けつけた俺達の前に現れたのは、死体。
 ロッシュの、死体だった。
 そしてその死体には、首が無かった。


 最初から、ロッシュの命だけが目的だったのだろう。
 俺が着いた時、ロッシュ隊を襲った部隊は、既に踵を返しかけていた。
 離脱しかけている者達を捉えるのは難しい。幾人かは倒せたが、指揮官を含めた大部分は、そのまま北へと逃げていってしまった。
 追うことはしなかった。
 出来なかった。


 書を使い、時を遡ろうかとも思った。
 だが、例えやり直しても、この歴史でロッシュが死んだ事実は消えない。
 俺がロッシュを見捨てた――その事実は、消えない。
 それに、まだ全ては終わっていない。
 ロッシュ隊は壊滅した。
 隊長であるロッシュを含めて。
 だが、生存者が皆無だったわけじゃない。
 キールは生きていた。
 ロッシュが殺された横で、重傷を負いながら、命を繋いでいた。
 ロッシュが守ったのだろう。あいつはそういう男だ。
 自分の命など、ちっとも省みない男だ。
 そういう男、だった。
 だから俺も、その気持ちに応えないといけない。
 ロッシュが、最期まで守ろうとしていたキールを、無事に生かさないと。
 罪に対する、せめてもの購いに。
 ――俺は、開きかけた書を閉じた。


 それから、レイニーとマルコと共に、キールを連れて砂の砦に戻った。
 ビオラ隊は勝利していた。俺が予想した通り、ビオラは名将だったということだ。
 砦は安全だ。だがキールの怪我は重く、砂の砦の医療設備では到底治療できない程だった。
 俺達はキールを連れ、アリステルに向かうことにした。
 あいつが命を懸けて守った部下だ、死なせるわけにはいかない。
 そう言った俺に、ビオラは一枚の紙切れを渡してきた。
 戦場で、敵軍の一人が落としたのだという。
 そいつは南から現れ、北に抜けていったのだと。逃げるばかりで戦おうとはしなかったから、離脱するのは止められなかったと。
 ビオラもそれを読んだのだろう。険しい顔をしている。
 きっと俺も、彼女と同じ顔になっているだろう。
 そこには、ロッシュ隊壊滅の真実が書かれていた。
 内通者の存在。読まれていたロッシュ隊の動き。
 怒りよりももっと冷たい感情が、心臓を凍らせていく。
 こんな紙切れ一枚で、ロッシュはあんな姿に。
 すまない。そう思いながら、親友の姿を思い浮かべる。

 そして気付いた。首が無い。
 俺の記憶の中にある、ロッシュの姿。

 見慣れたそれから、首が消えていた。


 アリステルに戻った俺は、キールを医療部に任せると、直ぐにヒューゴの執務室に向かった。
 アリステルには、内通者がいる。そしてそれが誰かは、今までの経緯から明らかだ。
 許すわけにはいかない。無惨に殺された、ロッシュのためにも。
 ビオラが入手した書類には、内通者の名前までは記されていなかった。告発の材料には不十分だ。
 もっと別の証拠を入手する必要がある。見付けられるとしたら、執務室が最も可能性が高い。
 そう思って侵入したのだが、それは半分だけ正解だったようだ。
 執務室には、ハイスが居た。
「これが欲しいか?」
 やはり、内通を証明する文書は存在していた。
 ハイスは、ヒューゴと協力関係にあったのだろう。そう考えると、頷ける部分もある。
 どうやらハイスは、どうしても俺を手元に戻したいらしい。
 だが俺は、それを拒絶した。
 今、俺のするべきことは、一つだけ。ロッシュの仇を取り、無念を晴らしてやることだけだ。
 剣を抜き切りかかった俺の前で、ハイスは笑っていた。
 奴が何を考えていたのか、俺には分からない。
 言葉を交わしても、剣を交えても、何も伝わらないことはある。
 唯一得られたのは、ハイスの技だけだ。気配を完全に消すその技で、俺は奴から文書を奪取し、そのまま逃げ出した。
 今、奴にこだわる必要は無い。もっと重要な、成すべきことがある。

 俺達は、キールの手術が終わったら、直ぐに国を出ることにした。
 ロッシュの死により、ヒューゴの目的は果たされた。だがまだ、キールが生きている。
 副官であるキールは、奴の直接の標的ではないだろう。だが、口封じに殺される可能性は高い。
 そしてそれは、ロッシュ隊だった俺達も同じことだ。生き延びるためには、アリステルを出なければならない。
 あるいは、入手した文書でヒューゴを告発できれば良かったのだが。
 だが、ハイスから奪い取ったそれは、残念ながら暗号で記されていた。
 これでは、他人に対して示す証拠にはならない。
 勿論、このまま諦めるつもりはない。だが当座のところ、安全と行動の自由を確保するため、アリステルから出る必
要があった。
 ソニアを連れていくつもりは無かった。
 彼女は政治と関係ない、命を狙われることは無いだろう。
 むしろ、付いてくるなと諭した。結局、彼女自身の意志によって、それは拒絶されたのだが。
「ロッシュの居ないアリステルに、残る気はありません」
 そう言ったソニアの目は、明らかに赤く腫れていた。
 俺の前では涙を流そうとしなかったのは、彼女なりの矜持なのか。
 あるいはあの時既に、俺のしようとすることを察していたのかもしれない。
 それを止めようと思ってたのか、ただ見届けたかったのか、それは分からないが。
「辛い旅になるぞ」
 ただ、俺がそう言った時の表情だけは、覚えている。
 暗い、笑顔だった。
「今より辛いことなんて、ありませんから」


 逃げる先は、セレスティアに決めた。
 砂の砦に行けば、ビオラが匿ってくれたかもしれない。
 だが、彼女も軍人だ。上から命令された時、最後まで庇い続けてくれるという保証は無い。
 そして、皆に言えることでは無かったが、俺はビオラのことすら許せずに居た。
 あの時、彼女の部隊が救援を求めなければ、ロッシュの命は助かったかもしれない。
 逆恨みだ。分かっている。
 だが、どうしてもその想いは消えてくれなかった。
 幸い、そんなことを説明せずとも、セレスティアに向かう案は受け入れられた。
 キールの容態が安定せず、長期間の旅に耐えられなかったのもある。
 キールには死んで欲しくない。
 ロッシュが、命を懸けて守った部下だ。
 命を懸けて。
 あいつの命の代わりに、キールの命が。
「キール君、思ったより悪化はしてないって。この分ならセレスティアまで保ちそうだよ」
 ソニアと共にキールを看てくれているマルコが、そう報告してくれる。
 俺は黙って、頷いた。

 セレスティアに着いた後は、状況を確認するため、皆を残して一人でアリステルに戻った。
 国内の報では、ロッシュが無謀な突入で隊を壊滅させたことになっていた。
 ふざけた話だ。軍の者達は、誰ひとりとしてそんな報を信じていない。
 だが一般の市民には、何が真実かなど、分かりはしない。
 中には、違和感に気づく者も居るかもしれない。それまでのロッシュの評価とはかけ離れた行動なのだ。
 同時に報じられているヒューゴの部隊が勝利した報も含めて、あまりに出来すぎた報道だと感じる者が、居ないとは限らない。
 だが、声を上げることは出来ないだろう。既にアリステルの国内は、ヒューゴに対する盲信が広まっている。
 ロッシュの汚名が濯がれることは、黙っていては永遠に有り得ない。
 俺が、やらなければ。


 瞼の裏の、頭のない親友に、語りかける。
 罪には罰を。
 全ての者に、相応しい報いを。
 それで良いのか。
 ロッシュは何も応えない。
 表情すらも分からない。
 ロッシュの顔が、俺には見えない。


 セレスティアに戻った俺を出迎えてくれたのは、ソニアだった。
「キール君の意識が戻りました」
 何をしてきたかは聞かれなかった。ただ、端的に、事実だけを告げられる。
 キールは死ななかった。
 傷も治りきらない状態での旅は、相当な負担だっただろうに。
 ロッシュが守ったのかもしれない。
 あいつはそういう男だ。自分が死ぬよりも、部下の命を救おうとする。
 分かっている。ロッシュはもう死んでいる。
 いくら望んでも、キールを守ることは出来ない。
 だが、そう考えたかった。
 ロッシュがキールを守っているのだと、そう考えたかった。
 それが、ロッシュの望みなのだと。
 そうでなければ、俺は。
「会いにいきますか?」
 ソニアの問いに頷く。
 会ってどうするというつもりは無い。
 そもそも奴に対して、何かが出来るわけでもない。
 キールも、きっと苦しんでいるだろうと思う。
 あれだけ敬愛していたロッシュが、目の前で殺されたのだ。
 苦しまないわけがない。
 苦しまなくては、許せない。
 俺は、キールの苦痛を和らげることは出来ない。
 自分すら救えないのに、誰かを救うことなんて、出来るわけがない。
 出来るのは、ただ。
「ペールゼン隊だそうだ」
 俺の言葉を、キールは理解できないようだった。
 お前達を急襲した部隊の名前だ。そこまで説明して、初めて理解の色を示して頷く。
 キールは、酷くやつれていた。あれだけの怪我を負って、長い間意識を失っていたのだから、当然ではあるが。
 動くこともままならないキールに、俺は言葉を続ける。
「俺はグランオルグへ行くつもりだ」
 罪には罰を。ロッシュを殺した奴らを、のさばらせておくわけにはいかない。
 ペールゼンの名は、アリステルで聞いた。
 ビオラが捕捉出来なかったという、逃げていった一団も、恐らくペールゼン隊だろう。
 そして奴の上には、ヒューゴと通じ、ロッシュの抹殺を指示した黒幕が居る。
 恐らくは、グランオルグを陰から牛耳る、セルバン。
 奴らに報いを受けさせなければいけないと、思った。
 ロッシュの死に対する、これは、復讐なのだろうか。
 そうかもしれない。だがもっと違う根のことなのかもしれない。
 分からない。ただひとつ分かるのは、このままではずっと、ロッシュの顔が見られないということだけだ。
 俺は、取り戻したかった。
 もう一度。もう一度だけで良いから、ロッシュの顔が見たかった。
 いつ、出発するんですか。そうキールが囁く。
「五日後だ。……来るか」
 キールを連れていくつもりが、最初からあったわけじゃない。
 何しろこいつは病み上がりだ。グランオルグへの旅に耐えられるかどうかも分からない。
 連れていったとしても、足手まといになるのは目に見えている。
 それでも俺は、キールに、来るかと尋ねた。
 そしてキールは、俺の言葉に頷いた。
 何を望んでのことだったのか。


 出発までの五日は、直ぐに過ぎていった。
 キールの傷の治りも、悪くない速度のようだ。
 セレスティアに満ちるマナが、回復を早めているのだという。この分なら、予定の日には出発できるだろう。
 キールの怪我が治るのは、良いことだ。きっと、ロッシュも喜んでいる。
 少しばかり揉めたが、グランオルグには俺とキールだけで向かうことにした。
 何と取り繕おうと、これは俺の個人的な復讐だ。
 レイニーもマルコも、勿論ロッシュのことを慕ってはいただろう。
 だが、死を前にして絶望に浸る程の執着は持っていない。
 だから、今回の道行きに、彼らは相応しくない。
 二人とも随分渋ったが、けして無理はしないと約束して、ようやく出発を許してもらえた。
 行けるところまでしか行かないこと。偵察だけすぐ戻ること。
 勿論、守るつもりなど毛頭無かったが。
「忘れないでよ、ストック。ロッシュさんのこと、悲しいのも怒ってるのも、みんな同じなんだから」
 だから一人で突っ走るな、と。
 レイニーの言葉は有り難かった。だが、内心ではそれを否定してしまっていた。
 同じではない。俺とお前達は、けっして、同じではない。
「ストック、気をつけてください」
 ソニアも、俺達を見送りに出てくれた。
 顔色は悪い。それでも、俺達を案じてくれている。
 強い女性だ。
 俺は、ソニアのようにはなれない。
「キール君も。二人で、また、戻ってきてください」
 頷きつつ、俺は真逆のことを考えていた。
 もう二度と、彼女には会えない。そんな気がしたのだ。


 グランオルグへの道行は、順調に過ぎていった。
 キールの身体が悪化すること無く、俺の手におえない魔物に襲われることもない。
 怪我人の調子に併せて進んでいるから速度はけして早いものではなかったが、それでも順調に進んでいた。
 グランオルグが設けた検問ですら、障害では無かった。
 キールを茂みに伏せさせ、ほんの少し剣を振るい、詰めている兵を切り倒す。
 それだけで、前を遮るものは何もなくなった。
 簡単なものだと思う。
 人を殺すことなど、簡単なものだ。


 その夜のことだ。
「剣を教えてくれませんか」
 キールが俺に、そう、頼んできた。
 何故今頃、そう考えなかったとしたら嘘になる。
 確かにこいつの剣は無力だ。
 戦うべきときに戦えず、歯がゆい想いをしたことも多いだろう。
 強くなりたいと思うのは、悪いことではない。
 だが、既に遅い。
 本当にその力が必要なときは、とうに過ぎてしまっているのだ。
 何故今頃、力を望むのか。
 何故、ロッシュが死んだ今になって。
「僕も、あなたのお手伝いをしたいんです。勿論あなたにまで追いつけるとは思いません。ですが、少しでも…せめて、自分の身は自分で守れるようになりたいんです」
 キールの言葉は、何処まで本当のことを語っていたのか。
 こいつの望みは、一体何なのか。
 俺には分からない。
「……わかった」
 それでも俺は、彼の希望を聞いてやることにした。
 本来ならそれは、ロッシュの役目だ。
 ロッシュが成すべきことなら、俺がしなくてはならない。
 ロッシュはもう、何をすることも出来ないのだから。
 希望が叶ったというのに、キールの顔は相変わらず晴れない。
 そもそもこいつが目覚めてからずっと、笑う姿を見ていない。
 仕方がないことだ。


 関所を抜けた後も、何事もなく旅は続いた。
 変わったことと言えば、進む速度を大幅に上げたこと。
 そして夜毎に、キールに剣を教えるようになったくらいだ。
 キールも、元々筋は悪くない。直ぐに、実戦で使える程度に腕になった。
 相手さえ選べば、魔物との戦いでも十分戦力になる。
 ロッシュが見込んだだけのことはある。あのま軍に居ても、本人が望む通り、活躍できただろう。
 少しだけ、安心していた。戦うことができれば、俺が共に居なくても、死ぬことはない。
 グランオルグまでは同行できる。ペールゼンの暗殺も、共闘するだろう。
 だが、問題はその後だ。アリステルとグランオルグの城深くまで潜入するのは、キールを連れてでは難しい。
 俺が一人で行き、一人で奴らを殺さなくてはならない。
 ロッシュを利用し、殺した奴らを。
 そうしなければきっと、ロッシュの顔は戻ってこない。
 だがその間、あるいはその後も、キールは一人になる。
 放り出して、そのまま死んでしまったら、ロッシュに申し訳が立たない。
 だから、キールが強くなるのは、悪いことではなかった。
 こいつには、生きていてもらわなければならない。


 そうして辿り着いたグランオルグの門扉は、幸いなことに、閉ざされてはいなかった。
 関所の騒動は、まだ気づかれていないのかもしれない。あそこに居た兵士は一人残らず殺しているから、有り得ない話ではなかった。
 とはいえ、用心するにこしたことはない。ここで捕まっては、目的を何ひとつとして果たせぬままだ。
 ハイスから盗んだ技を使えば、兵士の目をすり抜けることなど容易だろう。
 問題はキールだ。キールまで姿を消して歩く、それが出来るかどうか。
 しばらく考えたが、結局キール一人で行かせる道を選んだ。あの時キールは茂みに隠れていた、例えあの時点での生き残りがいても、キールの特徴は記憶していない筈だ。
 果たしてそれは予想通りだったようだ。キールは門を抜け、町中に消えていく。
 俺も気配を消し、それに続いた。
 兵士の前を通る時、少しだけひやりとしたが、全く何の反応も返らない。
 まるで、俺の姿が見えていないかのようだった。勿論、そういった風に、術を使っているのだが。
 ともかく俺も、無事にグランオルグに入り込むことが出来た。
 入ってしまえば、後は姿を見せても問題ない。
 雑踏に紛れて歩くうち、ふと、地面に捨てられたビラが目に留まった。
『ペールゼン隊、アリステル最強の兵士を討つ!』
 そんな見出しが、派手に踊っている。
 俺はそれを拾い上げた。
 こめかみが痛む。
 吐き気がする。
 見れば、戦勝を讃える祝賀パレードが開催されるようだった。
 時期は一週間後。
 好都合だ。
 俺はビラを仕舞込むと、キールを探して歩き出した。


 作戦は単純なものにした。手頃な兵士から装備を奪い、パレードが行われる日を狙って、軍属の兵士に化けて忍び込む。
 戦争中の軍だ、人の入れ替わりは常に激しい。見知らぬ顔が二人紛れ込んだところで、気づかれることはない。
 場所は、城内の会議室にした。パレードの終了直後ならば、使われている可能性は少ないだろう。
「どうして、城の中のことが分かるんですか」
 キールが問いかける。俺は何も応えない。
 別段、突き放しているわけではない。ただ、自分でも分からなかったのだ。
 黙ったままでいると、キールは勝手に何某かを納得したようだった。
 聞かないのならば、さらに応える必要は無い。俺もまた何も言わず、準備に戻った。
 それから一週間は、あっという間に過ぎていった。
 パレードの当日、街は随分と浮かれた様子に飾りたてられていた。
 ロッシュとキールが参加させられたという、アリステルでの式典も、こんな雰囲気だったのだろうか。
 そう考えて、また身体が冷たくなる。ロッシュ。顔の無い身体が、脳裏を過る。
 予定通り、俺は会議室に潜み、キールはペールゼンを呼びに行った。
 待っている間、様々なことを考えていた。怒り、悲しみ、後悔。
 だがそれらは曖昧で、実際に心を動かすことはない。既知の情報として、脳の一部に書き込まれているだけだ。
 やがてキールが、ペールゼンを連れて戻ってきた。
 見覚えのない兵士に呼び出されても、警戒ひとつするでもない。
 与えられた栄誉に酔っているのだろうか。単純な男だ。
 キールが扉を閉めるのを確認してから、俺は隠していた気配を現し、奴の前に歩み出た。
 喉元に剣を突きつける。それでもペールゼンは、何が起きたか分かっていないようだった。
「覚えているか」
 言い放ち、顔を隠していた兜を取り去る。
 放り投げた兜は、毛足の長い絨毯に落ち、鈍い音を立てた。
 顔を見て、さすがの奴も思い出したらしかった。
「お、おまえは」
 剣を突き出す。ペールゼンの喉に、切っ先が浅く刺さる。
 間違いない。覚えている、この男。
 ロッシュ。お前は、この男に。
「ま、待て! 何が望みだ……!」
 醜い顔だった。造作ではない、恐怖と混乱に浅ましく歪んだ、その表情が醜い。
 俺の正体が分かって、それでも尚存命できると思う、無意味な楽天こそが醜い。
 ロッシュはきっと、そうではなかった。
 立派な男だった。だが、こいつに殺された。
 この、醜い男に。
「ここはグランオルグだ!俺を殺したところで、」
 聞きたかったのは、どんな言葉だったのだろうか。
 謝罪か。それとも、恐怖の叫びか。
 あるいは言葉など、欲していなかったのかもしれない。
 一息に殺してしまわなかったのも、ただの気まぐれで。
 どちらにしろもう、言いかけた言葉の先など、聞く気も失せた。
 剣を突き出し、喉を貫く。
 赤い血が、吹き出した。
 ロッシュと同じ、赤い血が。
 それを俺は、ただ見詰めていた。
 キールと二人で、ただ、見詰めていた。


 死体が見付かる前に、俺達はグランオルグ城を抜け出した。
 兵装を始末してしまえば、雑踏に紛れるのはたやすい。
 拠点としていた宿に戻り、身体を休める。
 しばらくは、俺もキールも、何も言わなかった。
 疲れた空気が、部屋に満ちていた。
 達成感など何処にも無い。
 まして救いなど。
「これからどうする」
 寝台に腰掛けるキールに問う。
 それは純粋な疑問だった。
 こいつは、これから一体どうするのか。
 ロッシュの居ない世界で、どうやって生きるのか。
 知りたかった。俺には分からないことだったから。
 だが、返ってきたのは曖昧な視線だけだ。
「――さんは、これから、どうするんですか」
 ぽつりと、同じ問いを返される。
 問いかけた意図を察することはできない。こいつの望む言葉も知らない。だが、答えならば決まっている。
 やるべきことが、まだ残っているのだ。
「次は首謀者だ」
「……首謀者?」
 当然、と思って口に出した言葉に、キールは虚を突かれた顔になった。
 間の抜けた、子供のような顔だ。
「当たり前だろう、ペールゼンが一人で考えてやったことだと思うか」
 そんなことは有り得ない、ロッシュがあんな男に、何も無く負けるなどと。
 結ばれた密約、交わされた文書。
 報いを与えるべき罪は、未だに残されたままだ。
 だから俺は、あいつの顔が見えない。
 脳裏に描くロッシュの姿に、未だ頭は戻らない。
 罪を持つ相手は、既に分かっている。
 己の野心で、欲望で、ロッシュを陥れた奴等。
「セルバンとヒューゴだ」
「ひゅ、ヒューゴ大将が!?」
 キールが叫ぶ。
 信じられない、有り得ない、そんな感情を込めて。
 その言葉に、身体の奥が、冷たく凍り付いていく。
 そうか、こいつは、何も分かっていなかったのか。
 こいつだけは俺と同じだと、そう思っていたのに。
 結局はこいつも、何も考えず、ただロッシュを追い回していただけで。
「キール」
 俺はきっと、とても冷たい目をしていたのだろう。キールの身体が、硬直して竦んだ。
「俺は言ったな。気をつけろ、と」
 アリステルに呼び戻される時に。
 あの時既に悪意は始まっていて、そしてあの日、最悪の形で実を結んでしまった。
 予想出来たことだった。ロッシュは、自分の身を守れない男だ。
 誰よりも優しいが故に、自分のことなど、簡単に放り出してしまう。
 迫る悪意にも、気付ける訳が無い。
 だから、誰かが守ってやらなければいけなかった。
 俺や、キールや、他の奴らが。
 それをこいつは、分かっていなかった。
 一番傍に居たのに。アリステルでも、あの時も、最初から最後まで一緒に居たというのに。
 俺は目を閉じた。視界からキールが消え、代わりに親友の姿が現れる。
 あの日から、一瞬たりとも忘れたことのない光景。
 キールもきっと、見た姿。
「これからセルバンを討つ」
 悪夢を越えて、再びロッシュに会うために。 
 殺さなくてはいけない。罪を持つ者全てを。
「グランオルグを出るなら今のうちに出ておけ」
 セルバンがやられたらさすがに大騒ぎになる。
 俺の言葉に、キールは頷くでも、反論を返すでもなかった。
 俺も、それ以上は何も言わない。
 沈黙が破られるのを待たずに椅子を立ち、部屋を出る。
 キールは追ってこなかった。
 それでいい。
 ここから先は、足手まといを連れていく余裕はない。
 そして、その必要も、無い。
 宿を出て空を見上げ、ひとつだけ、問いたいことが残っていたのに気付いた。
 キールの見る夢に、ロッシュの顔は在るのだろうか。
 もし見えるのなら、教えて欲しかった。
 あいつは今、どんな顔をしている?



 ――それからのことは、あまりはっきりとは覚えていない。
 同じことの繰り返しだ。努めて記憶するべき出来事など無かったのだろう。
 キールと分かれてしばらくしてから、グランオルグの王宮に忍び込み、セルバンを殺した。
 ペールゼンの時とは違い、完全に陰からの一撃で終わらせた。
 奴は俺の顔を知らない。
 正面切って斬りつけ、罪を告発しても、奴はそれを理解しないだろう。
 それに、告発することに意味があるとも思えなかった。
 俺は、奴らを裁きたいわけじゃない。
 ヒューゴにしても同じことだ。
 奴が悔い改める姿は、それはそれで見物かもしれないが、そんなことは有り得ない。
 だから、俺はセルバンの時と同じことを繰り返した。
 アリステル城に忍び込み、隙を見て一撃で殺す。
 セルバン暗殺の報を受けてか、警戒は随分厳重になっていたが、侵入を防げられる程ではない。
 ハイスが居たら苦労しただろうが、何故か姿を見ることは無かった。
 幸運だったのだろうか。それとも、奴は奴なりの利害で動き、それは必ずしもヒューゴと一致しているわけでは無かったのか。
 どちらにしろ俺は、誰にも邪魔されることは無く、ヒューゴを暗殺出来た。
 アリステル城の隅で、血を溢れさせて倒れるヒューゴを見下ろし、ロッシュのことを考える。
 ロッシュを殺した首謀者も、実行者も、もはやこの世には居ない。
 彼らは皆死に、全ての罪は購われた。
 その筈だ。
 だが。
 見えない。
 ロッシュの顔が、見えない。
 会えると思っていたのに。仇を取って、罪を償えば、もう一度。
 だからペールゼンを殺し、セルバンを殺し、ヒューゴを殺した。
 それでも、俺の中にロッシュは戻ってきてくれない。
 記憶を探っても、探っても、あいつの姿から頭は消えたままだ。
「ロッシュ」
 身体から力が抜ける。膝が床にぶつかり、血を吸い込んだ絨毯が、水音を立てる。
 お前を殺した人間。それを指示した者達。
 全ての罪を消し去れば、戻ってきてくれると信じたのに。
 懐から書を取り出し、開こうとする。
 だが指が動かない。もし、これで過去に戻って、ロッシュの顔が見えなかったら。
 そうしたら、俺は今度こそ、本当に狂ってしまう。
 ロッシュの顔を取り戻せない限り、ここから動けない。
 ロッシュ、どうしたら良い。
 どうしたら俺はまた、お前に会える。
 どうしたら、俺を許してくれる。
 これ以上、一体どうしたら――
 ――いや、あるいは。
 まだ、足りないのだろうか。
 罪は未だに残っている。そうなのだろうか。
 全ての罪を償わせる。やはりそれが俺の成すべきことで、それはまだ終わっていないのか。
 何度問いかけても、首の無いロッシュからは、何も返らない。
 ならばやはり、まだ成すべきことは残っているのだろう。
 続けるべきだ。罪を購うために。
 残された罪に、報いを。



 何処にそいつが居るのか、知っていたわけじゃない。
 だが何故か、行くのならば、そこしか無いと思った。
 アリステルを抜け、砂の砦を通り過ぎて、グラン平原へ向かう。
 ロッシュが死んだ、その場所に。
 俺が辿り着いたとき、そいつは既にそこに居た。
 花が広がっていた。ロッシュが倒れていた、丁度その場所に。
 手向けてくれたのだろう。少しだけ、心が静かになる。
 あいつの魂も、安らいでいると良い。
 そう思って、俺は剣を抜き、近付いていく。
 立ち尽くしていたキールが、足音に気付いたのか、俺の側を向いた。
「どこに行ってたんですか」
 痩せたようだった。
 身形も、整えていないのだろう。
 常に付けていたバンダナが外れ、少しだけ伸びた髪が、記憶よりも余程細くなっている輪郭にかかっている。
「……言わずともわかるだろう」
 俺がしてきたことを、こいつは分かっている。
 それは、確信に近い思いだった。
 かつては何も知らない子供だったとしても、今が同じとは限らない。
 俺が選んだ道が何だったのか、理解して居ない筈が無い。
 そしてその先に、何があるのかも。
 互いに何も言わず、向かい合う。
 こいつを庇って、ロッシュは戦い、そして死んでいった。
 こいつが居なければ、ロッシュは死ななかった。
 それが、こいつの罪だ。
 罪には、報いを与えなければならない。
 そうしなければ、俺はロッシュに会えない。
 俺は、抜き身のままぶらさげていた剣を構えた。
 キールも剣を抜き、構える。
 奴には剣を教えた。
 生き延びるための剣だ。
 こいつは生きたいのだろうか。ロッシュの居ない、この世界で。
 俺を殺してでも命長らえ、この先死ぬまでを生き続けたいのか。
 ロッシュはもう、居ないのに。
 キールは笑っていた。
 何故だろうか。
 分からない。分からないまま、俺は一歩を踏み出す。
 キールもまた、歩を進める。
 直ぐに、互いに駆け寄るような動きに変わった。

 近寄る。
 近付く。
 俺は剣を握りしめる。

 キールの姿が目前に迫る。
 奴の瞳に浮かんだ喜色が、俺は最後まで理解できなかった。










 ――仰向けに横たわったキールを見ながら、俺は荒い息を整えた。
 俺の剣が貫いた傷から、血が流れ出し、草むらを染めていく。
 ロッシュが死んだあの時と、同じに。
 キールは笑っていた。
 苦痛に歪んだ顔の中、それでも明らかに、笑みを浮かべていた。
 先程まで、切れ切れに紡がれていた言葉も、今は既に絶えている。
 何かを果たしたかのように、はっきりとした笑顔を浮かべたまま。もはや二度と動くことは無いだろう。
 俺はまだ、笑えない。ロッシュに会えない俺は、笑うことができない。
 だがそれも、これで終わった。
 成すべきことを全て成した今なら、きっとあいつに会える。
 目を閉じ、ロッシュの姿を追った。
 闇の中、瞼の裏、浮かび上がる身体。
 身体――


「――どうして」


 探しても、探しても、そこにあるのは身体だけだ。
 見えない。
 ロッシュの顔が、見えない。
 どうして。全ては終わった、お前を死に導いた奴等は、誰もいなくなったというのに。
 罪を消し去り、報いを与えて、それでも足りないというのか。
 許されないと、いうのか。
 ロッシュ。
 どうして俺は、お前に会えない。
 もう一度会いたい。
 お前の顔が見たい。
 ただ、それだけなのに。
 横たわるキールを見る。息絶える間際の言葉が、耳に蘇る。
 こいつは、ロッシュに会えたのだろうか。死の壁を越えて、向こう側で。
 きっと会えたのだろう。だから、笑顔でいられる。
 死によって罪を償ったこいつは、ロッシュに会えた。
 俺は。
 俺は――
「ああ、そうか」
 目の前が晴れる。そういうことだ、罪はまだ残っていた。
 ロッシュを殺した罪人。
 あいつを救えなかった、俺自身。
 あいつはきっと、最後まで待っていた。なのに俺は、あいつを助けてやれなかった。
 俺があいつを殺した。
 それが、最後に残された罪だ。
 それを認めず、足掻いて。挙げ句、あいつが護った部下まで恨んで。
 会えなくて当然だった。罪人は、俺だったのだから。
「すまない」
 罪は、償わなくてはいけない。
 キールに突き刺した剣を抜く。
 加えた力で僅かに動いたキールは、やはり、幸せそうに微笑んでいた。
 ロッシュの姿を思い浮かべた。やはり頭は無い。
 羨望は無い。耐えるのは後ほんの少しだけだ。
 最後の罪を償って、俺ももう直ぐ、ロッシュに会える。
 意識せず、口元に笑みが浮かんでいた。気付いて、さらにそれを深くする。
 ロッシュ。お前に会いたい。
 剣を振りあげる。
 もうすぐだ。
 もうすぐ会える。
 刃が反射した光が、視界を眩ませた。
 そして





































































セキゲツ作
2013.07.07 初出

RHTOP / RH-URATOP / TOP