普段は長居することもない執務室の片隅、来客用に揃えられたソファに、オットーは腰を下ろす。机の上には書類の束と、用意が良いことに、湯気の立つ紅茶まで置かれていた。几帳面に揃えられたそれらは、まだ若い秘書が、彼らのためにと用意しておいてくれたものだ。紅茶を注いだ当人は、一応は休憩時間中ということもあり、既に部屋から退出している。部屋にいるのはオットーとロッシュの二人、表には不在の札を出してあるから、他の者が現れることも無い。
 しばらく前から、期を見て開催されている二人の勉強会は、建前上私的なものとして位置づけられている。だが実際のところ、これは殆ど業務の一部だ。彼らの立場を考えればそれも当然だろう、和平条約が締結されたとはいえ、戦争が行われていたのはほんのしばらく前のことである。二国それぞれの上層に位置する者達が、軍務について話し合う席を、無作為にもうけられるわけもない。
「んじゃ、早速ですが始めましょうか」
 同様に書類を手に取り、眺める程度にめくっていたロッシュが、一度それを閉じて顔を上げる。笑顔で促され、オットーも書類の頁を開いた。軍で保管されている古い書類を使い、二人で戦術理論や軍務の勉強を行う。元々はオットーの、というよりもグランオルグの都合で出された提案だが、アリステル側にも利点はあったのだろう。多忙なロッシュの時間を割くことを許し、移動の手間を省くために、執務室の使用まで許可してくれている。元々賛成していたロッシュの上司を含む、周囲の者達の協力の上で、成り立っている席だった。
「ええ、さっさとすませちまいましょう。あんまり抜けっぱなしってわけにもいきませんからね」
 そしてそれは、オットーの側も同じだ。彼も私用でアリステルに来ている訳ではない、本来の目的は、公務で訪れた女王の警備だ。護衛隊長として、一瞬たりとも休みの無い任務に就かなければならないところを、特別に許可を貰って抜けてきているのである。女王の信頼篤く、実績もあるオットーでなければ許されない、特例的な措置だった。しかしそれが、オットー本人にとって嬉しいことかどうかは、また別の話である。
「ウィルの奴もよくやってくれますがね、やっぱり自分で見てないと、不安ですから」
 オットーの気質からすれば、読んでも読んでも理解できない書類を睨み付けるよりは、剣を振り回して戦っていた方が良い。敬愛するエルーカの傍らで、その身を護っていることこそが、彼にとって最も望ましい状況なのだ。だが護衛の力が重要である時期は過ぎつつあり、女王の役に立つためには新たな知識を学ぶことが必要なのだと言われれば、女王の右腕である彼に拒否権は無い。
 あるいはもっと余裕のある、仕事を抜けずとも時間が取れる時に実行できれば良かっただろう。だが両国の首都はそれなりに距離があり、仕事でも無ければ訪れる機会の無い場所だ。そしてエルーカがグランオルグから出ている限りオットーの任務は終わらず、かといってアリステル側がグランオルグに居る間に行おうと思っても、今度はロッシュが忙しい。頼んでいる立場として相手の都合を優先しないわけにはいかず、仕方なく最も優先順位の低いものとして、オットー個人の心情が無視されることとなっていた。
「相変わらず、仕事熱心ですねえ」
 オットーの憂鬱な内心を、目の前の男は気づいていないのだろう。獅子と詠われるアリステルの将軍は、厳つい顔に不思議と人好きのする笑顔を浮かべて、手にした書類を弄んでいる。
「まあ、仕事が押してるのはこっちも同じですからね。早めに終わるように、お互い頑張りますか」
 彼の側では、仕事をしたいというよりも、しなければ家に帰れないというのが問題なのだろうが。ともかく意見を一致させた二人は、早々にこの面倒事を片づけてしまおうと、真剣な面持ちで手にした紙へ向き合った。
「んじゃまずは、推移の見方から――」
 ロッシュの言葉に従い、書類を捲る。紙の擦れる鋭い音が室内に響き――と、それを掻き消す大きな物音が、突如として発生した。木材の軋む音に続いた鈍い衝突音、それが扉の開く音だと考えるよりも先に、視線が物音の発生源を探る。
「ストック」
 先に言葉を発したのは、ロッシュだ。扉の方を向いたまま目を見開いている、その反応を見るに、部屋の主が承知しての訪問という訳ではなさそうだ。唖然としたロッシュに対して、ストックは遠慮するでもなく、足早に近づいていく。一切の迷いを感じさせない動作に、オットーもかける声を失い、ただその姿を目で追うことしか出来ない。
「ストック、どうした」
 ロッシュは真剣な、そして困惑の混じった、さらに言えば何故か警戒を感じさせる様子で、接近する親友を見据えている。ストックは無言のまま、身振りでの反応も示さず、ロッシュの背後に回り込んだ。オットーが座っているのはロッシュの正面だから、必然的にストックとも向かい合う形になる。いくらロッシュの上背が高いといっても、座った状態で後ろに立つストックを覆い隠す程ではない。ロッシュの頭の上にストックの顔が見える、かつて見慣れた緑の虹彩を、オットーは口を開けて見上げた。
 ロッシュが何かを言おうと、唇を動かしかける。だがそれが開ききるよりも前に、ストックは無造作にロッシュの背に寄りかかり、その頭部に自らの顎を乗せた。
「――ストック!」
 鋭い語調でロッシュが親友の名を叫ぶ、抗議と怒りと呆れと、その他諸々の感情が詰まっている声音だ。しかし、残念なことにそれらのうちどれ一つとして、ストックには届いていないようだった。ロッシュの呼びかけに応えを返すこともせず、腕を前に回して首を抱きかかえ、妙に安らいだ顔で長い髪に顎を押し付けている。半ばまで閉じられたその目には、珍しくはっきりと幸福そうな色が浮かんでいた。
 ぐぅ、とオットーが呻く。展開される光景があまりにも予想外過ぎて、明確な言葉が出てこない。言うべき事は山とあるのだ、その行動は何だとか、そんなに寄りかかってロッシュが重くないのかとか。しかしそれら、為されて当然の指摘は、衝撃のあまり頭の中でバラバラになってしまっている。
「重い。降りろ」
 完全に混乱に陥ってしまったオットーに対して、ロッシュの側はまだしも冷静さを保っていた。ひとつ大きなため息を吐くと、伸し掛かる親友に対して、端的な言葉で動作を要求する。それは実に的を得た指示だったが、残念ながら返ってきたのは、不満げな沈黙のみだ。幸せそうに緩んでいた眉根に皺を寄せ、無言のまま抱き締める手を強くすることで、回答に変えている。
 随分苦しそうな体勢だ、とオットーは思った。勿論この場合、苦しいのはストックではなくロッシュの側だ。首から胸にかけてを腕で固められ、それなりの力で締め上げられる――もとい抱き締められるのは、いくら鍛えていても辛い筈だ。案の定、ロッシュは眉間に深い皺を寄せ、嫌そうにストックの腕を叩いた。
「馬鹿、苦しいって。取り敢えずちょっと緩めろ」
 しがみついて動かないストックも、さすがに親友の首を絞めるのが目的では無かったようで、要請に従って込めていた力を緩める。だが身体を離すことまではしない、相変わらずその頭はロッシュの頭に乗ったままだ。一体何が楽しいものか、機嫌良く瞼を閉じて、つむじに鼻先を埋めている。ロッシュは、力が緩んで皺の消えた軍服を撫でつけながら、溜息を吐いて目を眇めた。あるいは親友を睨み付けたかったのかもしれないが、頭の上に居る相手の顔は、どう頑張っても視界に入らない。
「あのな、今は来客中なんだよ」
 そして発せられた言葉に、ようやくストックの目が薄く開き、オットーの姿を視界に入れる。妙な位置から見下ろされ、オットーは何と反応したものか分からず、引き攣った笑いを浮かべるばかりだ。
「……よ、よう」
 何とか絞り出した言葉にも、ストックは反応を示さず、じっと無表情な視線を注いでいる。
「ええと……元気そうだな」
「そう見えるか」
 そんなことを言われても、唐突に飛び込んできて友人の頭に顔を乗せている人間の調子など、察しろという方が無茶なのだが。しかも相手はストック、余程親しくならなければ、何を考えているかすら周囲に悟らせない男だ。オットーも知らぬ仲というわけではないが、それにしてもこの状況で内心を理解できる程の時間を、共に過ごした訳ではない。時間の問題なのかどうかも分からないが。
「ストック、後にしろ。人前でやるもんじゃないだろ」
 ということは、人前でなければ構わないということか。それはそれで問題になりそうなことを、さらりと言ってのけるロッシュも、大概おかしくなっている気がする。自分なら頭の上に乗られる時点で御免だと、言葉に出さずにオットーは呟いた。だが、普通の範囲を大きく逸脱して寛容なロッシュの提案も、傍若無人に伸し掛かっているストックには不満だったらしい。彼はしがみついたままの姿勢で不明瞭なうめき声を上げると、口を大きく開いて、ロッシュの頭に噛みついた。
 ――噛みついたのだ。どう見ても。
「……えええええ」
 今度こそ言葉が見付からず、オットーは頭を抱えた。別段噛みつかれぬよう防御したわけではなく、発作的に視界を閉ざしたくなったためだ。どうやら人間、唐突に常識を越えた光景に出くわすと、驚く前に現実を放棄してしまうことがあるらしい。平和に閉ざされた世界の中、新たに発見した己の習性をしみじみと噛み締めるが、それも所詮は一時の安らぎだ。そのまま頭を抱え続けるわけにもいかず、出来るだけゆっくりと腕を解き、目線を上げた。
 やはり噛みついている。反射的に再び頭を抱えて、数回深呼吸をする。そしてもう一度、今度はしっかりと覚悟を決めて、ようやく顔を前に向ける。
 不満そうである。頭に噛みつかれているロッシュは、実に不満そうな顔をして、視界に捕らえられない親友を睨んでいる。そしてストックも、何故か不満げな表情で、ロッシュの頭に噛みついたままだ。
「痛いんだが」
 ロッシュが、言わずもがなの事実を主張するが、ストックは離れない。それこそが当然の権利、とでも言いたげに、ロッシュの頭部に齧りついて離れないでいる。
「ストック、いい加減にしろ」
「いやだ」
 後頭部に噛みついた状態でよくも喋れるものだと思うが、器用で知られる男は、こんなところでも無駄に器用だ。些か不明瞭ではあるが、問題なく聞き取れる発音に、オットーは引き攣った笑いを浮かべた。
「見りゃ分かるだろ、仕事中なんだよ、忙しいんだよ! 頼むから後にしてくれ」
「断る。俺だって忙しい」
「頭を齧るのに?」
 堪えきれず茶々を入れたオットーを、ストックが睨み付ける。高い位置から投げ下ろされるせいで、普段よりも迫力があるのは、意識してのことかどうか。
「今は休憩中だ。もう直ぐ会議がある、その後は会食だ」
「まあ、女王が来てるんだからな。忙しいのは諦めろ――いてっ」
 ロッシュが顔を顰めたのは、ストックが噛みつく力を強めたからのようだ。顎に込められた力の程は傍から見ても分からないが、前に回された腕の力が増しているのは、乱れた服の皺を見れば分かる。苦しくなったのか、ロッシュがまたストックの腕を叩いた。
「あのなあ、ガキみたいな我が儘言うなよ。仕事なんだから忙しいのは仕方ないだろ」
「仕事はする。だが、休憩時間くらいは自由にさせろ」
「休憩中なのはお前だけだ、俺はまだ仕事してるんだよ」
「……仕事ではなく、個人的な勉強会だと聞いたが」
 半眼で頭の上から睥睨され、オットーは思わず視線を逸らした。確かに建前は、オットーとロッシュの個人的な集まりということになっている。だが本当にそれが問題なのか、仕事中でさえなければ親友の頭を齧っても構わないのか。口に出して聞いたらあっさり肯定されそうで、オットーは喉元まで出かかった問いを、そのまま飲み下した。
「屁理屈言うな。これが終わったら付き合ってやるから」
「終わったら俺は会議だ。オットー、お前の休憩も会議までの間だろう」
 名前を呼ばれた、ということはオットーの存在を忘れていたわけでは無かったということらしい。いや勿論、先程から何度も睨み付けられていたので、姿が見えていたことは分かっている。しかしそれにしても人目を気にしなさすぎる行動に、見えてはいたが認識されていないのではという危惧があったのだが、それは杞憂であったらしい。残念ながら、と付け加えた方が良いかもしれないが。
「そうなんですか。相変わらず、お忙しいですね」
 暢気にそんなことを言うロッシュの顔が、また少し歪んだ。ストックが噛みついたらしい。
「俺だって忙しい、お前もだ。今日だって、この勉強会があるから休憩があるが、そうじゃなければずっと働きづめだろう」
「まあ、そりゃな」
「だから良いんだ」
「……頭を齧っても?」
 どうにも納得できないオットーが指摘しても、ストックは素知らぬ顔だ。噛みつくばかりが能ではないとばかりに開いていた口を閉じて、鼻先を髪に埋めている。一体何がしたいのだろう、ひたすら渦巻く疑問は、恐らくストックには届いていない。
「仕方ねえなあ」
 ロッシュが溜息を吐く、呟く口調に怒りは無く、どちらかというと苦笑混じりの呆れた気配があった。その声音に嫌な予感を覚えて、オットーがロッシュを見ると、案の定と言うべきかそこにあるのは妙に優しげな笑みだ。
「すいませんオットーさん、こいつ、こうなったら何言っても聞きゃしないんですよ。時間も無いことですし、このまま続けちまいましょう」
「……えええ」
 人好きのする笑顔であっさりと告げられて、オットーは今度こそ二の句が告げられずに絶句する。本気か、いやむしろ正気かと問いたいが、一応は公人の立場でそれを実行することは出来ない。言葉も無く口を開け、縦に並んだ顔を顔を交互に見遣るオットーに、ロッシュは困ったように目を瞬かせた。
「邪魔はさせないようにしますから。こいつを退かそうとしたら、その間に会議が始まっちまいますよ」
 頑固な奴で、と続けられる台詞に、オットーは反射的に頷いた。彼が頑固なのは知っている、ストックではなく別の名で呼ばれていた頃に、何度と無くその頑固さに触れる機会があった。ただし、それは国と世界の未来を憂い、己の敵と戦うために発揮されていた性質だ。友人の頭に齧りついて離れないためのものでは無い。断じて、無い。そんなエルンストは、一度たりとて見たことが無い。
 だがその頃の彼の姿を、逆にロッシュは知らないのだ。
「大丈夫です、放っておけば大人しくしてますから」
「大人しく、っていやそういう問題じゃなくて」
 殆ど動物を同等の扱いに、オットーは軽く目眩を覚えた。彼らの国の王族であり、国と世界を救うために、人々を率いて戦っていた孤高の友、エルンスト。懐かしい光景は、どれも今は遠い。脳裏に、彼と過ごした頃の記憶が、流れるように次々と過っていく。これが死ぬ前に見えるというアレか、と思ったが、さすがにこんな馬鹿な理由で死ぬわけにもいかない。ぶん、と頭を振ってしつこい映像を追い払うと、固まった顔にどうにか笑みを浮かべた。
「……重くないんですかね?」
 気合いを入れ直し、何とかして絞り出した問いは、余りにもしょうもないものだったのだが。ロッシュと、ついでにストックも、気にした様子は全く無かった。
「大丈夫です、これくらい。一日中へばりついてるってわけじゃなし」
「ああ、そうっすか……」
「気にするな、邪魔はしない」
「いやお前が言うなよ」
 悪びれずに言うストックを睨み付けてから、オットーはそっと溜息を噛み殺した。無駄、という言葉が頭に浮かぶ。確かにこの頑固さは、昔よく体感したものとよく似ている、拘る方向はともかくとして。
「こいつも別に、普段からこうってわけじゃないんですがね。人目があるところじゃ乗っかってこないし」
「そうなんですか?でも今」
「珍しいですよ、他の奴が居るのにこんなになってるのは。オットーさんのことを信頼してるんでしょうね」
 言われて思わずストックを見る、何を言うでもなく、目線から何かを読み取れるでもないが、それは彼の感情表現が乏しいが故のことなのだろうか。心の内側では、己を晒け出しても構わないという無言の信頼が、オットーに向けて注がれているのかもしれない。
「いや、それは無いな……」
 どう考えても、そんな綺麗な話では無いだろう、とオットーは自嘲する。いや例えそれが真実だとしても、こんな信頼は全く嬉しくない。かつてエルンストのために命を懸けて戦った、その働きに対する報いがこんな形で発露しているとしたら、悲しさすら覚えてしまう。
「まあ、ともかく始めましょうや。休憩時間が無くなっちまいます」
 そんな葛藤など露知らず、ロッシュはいそいそと資料に目を落としている。オットーもそれ以上追求する気力は無く、手にしたままだった資料を広げた。仕方がないことである、彼はもはやグランオルグの王子ではない。ずっと縛られていた、人々を率いる義務、そして儀式の運命からすらも解放された身だ。誰の目も気にせず、生きたいように生きる権利が、エルンストならぬストックにはある。
 それはエルーカが、そして自分も、望んでいたものだ。そう考えれば、親友の頭から離れようとしない姿も、微笑ましく思えてくる――
「いや、やっぱり無理だろ」
 自分に言い聞かせる行為をあっさりと諦め、オットーは息を吐き出した。不思議そうに見てくるロッシュと、その上のストックから目をそらすため、資料に視線を固定する。取り敢えず幸福なのは、現実を意識から外すための材料が、目の前に提示されていることだ。勉強に集中していれば、目の前で行われている奇妙な光景を見ずに済む。
「何でもありません。そんじゃ、よろしくお願いします」
 ストックは、追い払われないことを確信したのか、顎を乗せて完全に寛ぐ体勢になっている。その事実を認識すまいと、オットーは必死で資料に意識を向けた。


 結局、その日の勉強会はいつに無く捗り、彼らの上司を喜ばせたという。







セキゲツ作
2013.06.01 初出

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