中に入って扉を閉めると、強い刺激臭が鼻を突いた。今僕が住んでいるアリステルの中心部では、下水処理の水道が通っているから、こんな風な汲み上げ式の便所を見ることは無い。志願兵としてアリステルに住み始めて以来遠ざかっていたものだが、残念ながらここはアリステルではなく、最前線の砂の砦だ。当然下水道などある訳も無く、井戸を組み、汚物は定期的に処理しなければならない生活である。一気に原始的な仕組みに戻ったわけだけれど、そういった処理に戸惑う者は、実はそんなに多くは無い。僕も含めて志願兵の多くが農村出身者で、砦で発生するこの類の作業は、故郷で行っていたのと大差ないものだからだ。むしろ、離れた郷里を懐かしむ心の方が問題だと、誰かが笑っていた覚えがある。
 それならここは居心地の良い場所なのかというと、勿論そんな筈も無い。個室の換気を少しでも良くするため、通気口が設けられてはいるが、それは当たり前だが極小さいものだ。ほぼ密閉された石造りの小部屋に容赦なく臭いは篭もり、気温の上がった日の夕方などは特に、近付くことも躊躇われるような暗所になる。今は夜も更け、臭気もある程度収まってはいるが、それでも長居したい訳がない。手早く目的を済ませてしまおう、そう思いつつ持ってきたものを窓枠に置き、ベルトの固定を緩める。生じた隙間から手を差し入れると、自分のモノを引っ張りだして、軽く擦った。
 相変わらず、公共の場所で自分を慰めることには、妙な罪悪感が付きまとう。これも排泄といえば排泄なのだから、便所でするのが間違いというわけでもない。それにこうしているのは僕一人じゃない、軍人はその殆どが男だから、表にこそ出さないものの皆普通に性欲は溜まっていると思う。そもそも配属した当初に、先任であるビオラ隊の人たちから、処理するならこの便所でやれと伝えられているのだ。確かにその決め事は合理的だ、砂の砦には個室が無いから、落ち着いてコトを済ませられる場所といったら便所以外には考えられない。そして本来の目的よりも時間がかかる行動だから、使用する場所は決めてしまった方が、他の使用者たちに迷惑をかけずに済む。納得した僕達は、臭い個室に文句を言う者も出ずに、せっせとこの一画で自分のモノを擦っているのだ。
 本当はもうひとつ、自慰の場所を規定される重要な理由があるのだが、それは敢えて考えないようにした。最中に思い出してしまったら、勃つものも勃たなくなってしまう――申し訳なさで。
 そんなことをつらつらと考えているからか、普段に比べてどうにも身体の反応が鈍い。やる気無く勃ちあがったモノを少し強めに刺激しつつ、思い出したように窓枠に置いたものをつまみ上げる。それは、端の方がやや古びた、広げると掌程になる紙片だ。折り目の付いた内側には、大きく裸の女性の絵が描かれている。
この絵は元々、僕の物ではない。他の隊員が、砦に配属される時、私物に紛れさせて持ち込んだものだ。長期とはいえ遠征に持ち込める私物なんてほんの限られた量なのだが、頭の回る者たちは、これらの必要性を最初から見抜いていたのだろう。実際男にとってある意味でこれらは生活必需品だ、持って来なかった者達もどうにか借り受け、もしくは貰えないかと苦慮することになる。そしていくら気に入りの品でも、何度か使ううちにどうしても飽きはきてしまうものだから、これらの絵は様々な経路で隊員達の間を巡り、殺伐とした戦場における貴重な潤いとなっていた。
 それをぐっと見詰めながら自分を擦ると、少しは勢いが増してきた。けれど期待した程の効果が無いのは、もう何度も同じものを使っているからだろうか。刺激も繰り返せば単調になる、豊満な女性の身体は絵であっても魅力的だけれど、表情も変わらず常に同じ格好となれば興奮できる量にも限度があった。今僕の前にあるこれ以外にも、こっそりと持ち込まれた同様の絵が、砦の中には多数流通している。この絵も賭の商品として、他の団員から譲り受けたものだ。清楚な印象のある表情が気に入っていたのだけれど、そろそろ他のものと交換する必要があるかもしれない。
 昂りきらない快感を追いながら、ぼんやりとそんなことを考える。そういった団員間での賭や交渉の類に関して、ロッシュ隊は比較的規則が緩い。軍規に真っ向から反していたり、騒動を起こしたりしなければ、ロッシュ隊長は言及せずに目を瞑ってくれている。自分も一兵卒から出世した人だ、男所帯の下卑た事情にも詳しいんだろう。勿論積極的に加わることは無いが、問題さえ起こさなければ構わないという態度で、寛容に許してくれている。一度など、まさに取引の現場を目撃されてしまったのだが、何も言わずにその場を去ってくれたことがあった。あの時は本当に有り難かった、けれどそれで気まずい気持ちが消える訳もなく、次に合う時にどんな顔をして良いか分からなかったものだ。隊長の側からは何も言わずにいてくれたが、見られた瞬間の表情がちらついて、どうにも申し訳ない気分になってしまう。今でもはっきり覚えている、困ったような柔らかな苦笑。訓練時に見せる鬼の形相と同じ顔とは思えない、何とも優しげな瞳の色は、隊長の心根をそのまま写し取ったようなものだ。見た時の状況を忘れさえすれば、思い起こすたびに、憧れで心臓が高鳴る。
 と、そこまで考えてふと正気に戻った。隊長の顔を思い出しながら自分のものを擦るこの状況は、まるで隊長をネタに抜いているみたいじゃないか。しかも悪いことに、ようやく調子の乗ってきた下半身は、先ほどまでの不調が嘘のようにしっかりと勃ちあがってしまっている。刺激する手も妙に熱が篭もっているのに今頃気付いて、慌ててその動きを緩めた。確かに隊長のことは尊敬しているが、さすがにこんな時にまで考える程心酔しているわけではない、というかそれはもはや心酔という段階ですら無い。いくらなんでも、隊長のような逞しい男で抜くなんて有り得ない。いや、別に逞しいかどうかは関係なく、男相手に勃起できるような趣味は持っていない。
 けれど、そんな表層の思考とは全く裏腹に、下半身の方は元気に硬くなったままだ。困惑の末、むしろ萎えさせることを目的に、隊長のことをあれこれと思い出してみる。僕達が騒ぐのを苦笑して見守っている姿、大盛りの食事を頬張る横顔、訓練でへばる僕を怒鳴りつける形相。武具の手入れをする真剣な姿、戦いの最中にだけ見せる炎のような目、一日を終えた後に鎧の下から現れる、汗まみれの逞しい筋肉――
 ぞく、と電流に似た何かが、背筋から下半身を貫く。嘘だろう、と呟いて手を動かすと、鋭い快感が身体に広がった。いや手を止めてもその痺れは取れない、鈍くうずく痛みに似た感覚が、勃起したモノを中心に渦を巻いていた。隊長の笑顔が目の前を過って、それは直接の刺激では無い筈なのに、また下半身の熱が上がる。
 有り得ない、そう思っても現実は無情で、想像の中の隊長に対して僕のものは完全に反応してしまっていた。一度手を離し、目を閉じて大きく深呼吸する。頭の中を空っぽにして目の前の女性を凝視するが、それは先程までと比べて、明らかに精彩を欠いて感じられた。あんなに興奮した胸や腰の曲線も、もはや単なる線の重なりとしか認識できない。キール、僕の名を呼ぶ隊長の声が耳に響いて、びくりと身体を震わせた。意識していない筈なのに、隊長の顔が脳裏に浮かぶ。恐るおそる指に力を込めると、びっくりする程強烈な気持ちよさが身体に走った。そうなったらもう止まることなんて出来ずに、理性の制止を完全に置き去りにして、手は熱くなったモノを刺激し続ける。記憶の中から隊長の姿はいくらでも取り出すことが出来て、それらは断じて性的なものでは無い筈なのに、何故か僕の身体は異常なくらい興奮したまま降りることができなかった。視覚と、聴覚と、様々な感覚で受け止めた隊長の存在が、驚くほどの鮮やかさで蘇ってくる。肩に触れた感触に、その大きな手を想像した、その瞬間。
「……――っ」
 漏れそうになる声を抑え、きつく目を閉じて。瞼の裏に映る隊長の姿を追いながら、思い切りよく精液を吐き出してしまった。慣れた倦怠感と入れ替わりに興奮が去り、同時に押し退けられていた理性が声を取り戻して、一気に顔から血の気が引く。
 やってしまった。
 隊長で、抜いてしまった。
 正直言って、この現実を認めたくない。僕は断じて同性愛者では無い筈だし、隊長のことをそんな目で見た覚えなど今までに一度もない――多分。だが過去のことはともかくとして、今隊長のことを考えて興奮し、あまつさえ射精までしてしまったのは、否定できない事実だ。後悔と罪悪感と絶望が、三つ巴になって頭の中を踊り回っている。どうして、どうしたら、浮かんでくるのはそんな無意味で細切れの疑問符だけだ。
 隊長のことは、誰よりも尊敬している。男として、戦士として、あの人に釣り合うだけの人間になりたいと思っている。それは断じて恋だの愛だのじゃない、そもそも男同士だし、あの人はあんなにも逞しくて男らしくて――と、兆した想像で再び身体が反応しそうになるのを察して、慌ててその感覚を抑えつけた。
 酷い裏切りだ。隊長の信頼を裏切って、僕自身の心も裏切った。お前、なんてことをしてくれたんだ。今は弛緩して垂れ下がっているものに、恨み言を呟く。当然だがそれは、僕と離れて独立した意志を持つわけでもなく、素知らぬ顔でみっともなくぶら下がるばかりなのだけど。
「おい、いつまで入ってるんだ!」
 と、唐突に響いた怒声に、僕は冗談でなくその場に飛び上がった。考えるよりも先に、露出していたものを服に仕舞い、摘んだままの絵を隠しの中に突っ込む。
「すいません、今出ます!」
 言うのと同時に扉を開けて、待っていた兵士から顔を背けつつ、殆ど走るような勢いでその場を立ち去った。周囲が奇妙に思うかもしれないと、そんなことを考える余裕も無い。とにかく今は誰にも会いたくなかった、特に隊長と副隊長には、会ったが最後まともな様子では居られないだろう。不審を抱かれないよう、いつもの調子で話せるまでは、もう少し時間が必要だ。自分のしてしまったことを受け止めて、この心の中にある気持ちを自認できるまで、もう少しだけ時間が掛かる。
 ふと思い出して、仕舞ったままの絵を取り出す。ぐしゃぐしゃに歪んで体液の付いた絵は、恐らくもう交換の種にすることもできない。考える間もなく、八つ当たりのようにそれを握りつぶす。丸まった端から垣間見える足の曲線に、虚しさしか感じないのは、皺が寄ってまともな格好をしていないからだと思いたい。
 何だか穴の中に落ちていくような気分だ。落ちてしまえば上がれない、だけど自分の意思では止められない。落ちきった底には、一体何があるんだろう。
 纏まらない思考をかき回しても、一向に答えは出てこない。僕は溜息を吐くと、とにかく一人になれる場所を探して、とぼとぼと歩きだした。






セキゲツ作
2013.03.24 初出

RHTOP / RH-URATOP / TOP