天幕の中に身を収め、入り口の布を下ろした瞬間、ストックがロッシュに抱きつく――いや、しがみつく。膝を付いていたロッシュは、勢いに押されて、布切れを敷いただけの地面に腰を落とした。狭い天幕の中は、男二人が入ればほぼ一杯で、身動きをするにも大きくはできない。そんな条件を分かっていてか否か、ストックはロッシュに身体全体で伸し掛かり、そして。
「――――」
 がぶり、と音がしそうな強さで、首筋に噛みついた。
「いてえっ!」
 普段であればそこは分厚い鎧に隠され、噛みつくどころか触れることも出来ないのだが、今ロッシュが着ているのは鎧下一枚だ。アトが張ってくれた結界の中に作られた野営地は、魔法の効果が切れる夜明けまで、外敵が入ってくることは無い。安全な場所に居られる間に少しでも体力を回復するため、夜は最低限の装備で休むことにしたのだが、それを良いことにこの仕打ちである。視界を塞ぐ金色の頭を、ロッシュが全力で睨みつけたが、後頭部に目を持たない相手が気付くことはない。あるいは気付いて無視しているのか、ともかくストックはロッシュの皮膚に歯を食い込ませて、そして。
「おい、ストック」
 密着した姿勢を物ともせず、無駄に器用なストックの手が、ぐいとロッシュの鎧下を捲り上げた。病み上がりにも関わらず鍛え上げられた逞しい筋肉が、無遠慮極まり無い唐突さで外気に晒され、ロッシュの手足に鳥肌が生じる。抗議の意を込めて名を呼ぶと、噛みついていた首から口を離したストックが、ちらりとロッシュを見上げてきた。
 だがそれも一瞬だけのことだ、直ぐに視線を腹へと移すと、自らの手で露わにした皮膚に齧りつく。硬く平らな腹は、円筒形の首筋に比べて噛みづらいようで、込められる力は先程よりも強い。さすがに喰い千切られるまではいかないが、間違いなく歯形は残っているだろう。傷に慣れたロッシュだから、犬歯が鋭い圧力で痛みを生じさせても、それが気になるということはない。だが肌の上に残った痕は、この場を堪えれば良いというものでもなく、後々まで残って他の者に見られる可能性もでてくる。旅の最中なのだから少しは加減して欲しいものだと、溜息混じりに考える。
 ストックがこうしてロッシュの身体を齧るのは、今に始まったことではない。彼らが共に軍で戦っていた頃から、ストックはロッシュに歯を立て、その身体にくっきりとした歯形を残していた。何故そんなことをするのか、ロッシュは何度か訪ねてみたことがあったが、答えが返ってきたことはない。ただ黙ってロッシュに伸し掛かり、堅い筋肉をものともせずに齧りつくストックに、今ではロッシュも慣れてしまっていた。いや、実際は単なる諦めなのかもしれないが、とにかく拒む気力が湧いてこないのは確かである。
 溜息を吐くロッシュの眼下で、ストックは少しずつ場所を移動しながら、腹のあちこちにがじがじと噛みついている。動いた後にはくっきりとした歯形がのこされており、それらが重なりあって腹を覆う様子は、中々に気持ちが悪い眺めだった。時折鈍い痛みが走るのは、強すぎた圧力で皮膚が喰い破られているためだ。そういった細かい傷は、間を置かずにストックが魔法で塞いでくれていた。一日移動を続けた後での魔法は負担が大きい筈で、そこまでして齧る必要がどこにあるのかと思うが、どうせ聞いたところで答えはしないのだろう。
「適当にしとけよ、汚ねえし」
 近くの川で身体を拭いてはいるが、きちんと水を浴びたわけではないから、風呂を使ったように綺麗にはなっていない。そんな皮膚を口に入れる、衛生面から考えて、あまり誉められた行為では無いのは確実だ。噛まれた部分が唾液でべたべたになるのも、完全に身を清められない今の状況では、やはり良いことでは無いだろうとロッシュは思う。
 だがストックの側では、そんな真っ当な抗議など、右から左に流してしまっているようだった。ちらりとロッシュを見はするが、動きを止めるのは一瞬のみで、すぐにまた齧ることに専念する。一通り腹を痕で覆ったところで、今度は上に移動して、胸元に歯を当ててきた。
「聞いてんのか、ストック。おーい」
 重ねて呼びかけると、ようやく胸から口を離して、ロッシュを見上げる。その視線には、行為を中断された抗議がありありと浮かんでいるが、何故か口は開かず黙ったままだ。それで主張が通ると思いこんでいる親友に、ロッシュの胸中を、いくつもの文句が通り過ぎる。許可も取らずに勝手に齧るなとか、夜に身体を拭くのは大変なんだとか、さっき首につけられた歯形は服を着ても見えそうだとか。だがそれらの優先順位を考え、何を真っ先に伝えてやろうかと考えている隙に、再びストックが皮膚に歯を押しつけてきた。
「ストック! お前なあ」
 怒鳴りつけようにも、他の天幕に聞こえることを考えれば、あまり大きな声は出せない。別段やましいことをしているわけではないが、人が見たら呆れられるのは間違いないだろう。部屋と違って鍵がかかるわけではなく、入り口の布をひょいとめくられればそれまでなのだ。ストックはそのことに、気付いているのかいないのか、躊躇う気配も無く無心で身体に歯を押しつけるばかりなのだが。
 考えてみればそれも珍しいことだと、ロッシュはふと思い至る。ストックが身体を齧ることは以前からよくあったが、それはロッシュの部屋なり何なり、他人が来ないと確信できる場所に限られていた。こんな風に、いつ他の者が訪れるかも分からない状態で齧られるのは、思い返せば今が初めてかもしれない。そう思いながら改めてストックを眺めると、眼下の後頭部には、何処か必死さが漂っているようにも思える。柔らかくもない胸板に顔を寄せ、肉に歯を食い込ませて、一体彼は何を求めているのだろうか。少しずつ顔を動かし、歯形を増やしていくストックの頭を、ロッシュは右手で軽く撫でた。
 身体に密着しているから表情は分からない、だがストックが持つ雰囲気は、ロッシュに一つの記憶を思い起こさせた。今より少し前、セレスティアに身を寄せている間のことだ。全てを失ったロッシュが、立ち上がることもできず座り込んでいた時に、ストックがロッシュの前で立ち続けたことがあった。何も言わずに、ロッシュを見詰めながら、ただ立ち尽くしていたストック。そんな親友に、ロッシュもまた何も言えず、ただ視線を受けることしかできなかった。あの時ストックが漂わせていた空気は、今のそれととてもよく似ている気がする。
 ストックは、齧りたかったのかもしれない。こんな風にロッシュに縋り、肉に歯を立て、痕を残して。だがロッシュはそれを受け止められなかった、傷ついた身体と心ではストックの望みに応えられなかった。
「なあ、ストック」
 だからストックは、今こんなにも必死でロッシュを齧っているのだろうか。一人で戦い続けた分を取り戻すように、何度も何度も身体を齧って、無数の歯形を残しているのか。頼んだぞ、と茶化すように言われた言葉を思い出した。ロッシュの知るストックはいつでも不器用だ、素直に自分の弱さをさらけ出すこともできない。
「お前、ひょっとして甘えたいのか?」
 その発言に、ストックの動きが止まる。胸を齧る口はそのままに、目だけが上を向いて、ロッシュと視線を合わせた。綺麗な緑色の目はただ宝石のように煌めいているだけで、彼が何を考えているのか、そこから読みとることは難しい。淡々と自分を見るストックの頭を、ロッシュはもう一度、今度は少し強く撫でた。子供のようだな、そんな考えが脳裏を過る。誰より強く、ただ一人背を任せられると思った親友を相手に、抱く感情としては間違っているのかもしれないが。
「甘えたいんだったら、もっとこうやって」
 言いながら、右腕一本でストックを引き剥がす。存外素直に離れたストックから、じっと見られているのを感じながら、そのままの勢いで彼の身体を正面から抱き締めた。背を撫でてやると、布越しに接した胸の内側で、心臓が穏やかに脈打つのが感じられる。
「普通にやったらどうだ。齧ったりしないで」
 ストックの頭は、ロッシュの肩口に収められているから、やはり表情は分からないままだ。だがロッシュに抱き締められ、背を撫でられながら、彼は何やら考え込んでいるように思われた。
 しばらく無言の接触が続いたが、ふとストックが顔を上げ、ロッシュを正面から覗き込んでくる。物問いたげなそれに込められた意図が分からず、首を傾げつつ見返すと、そのままの表情でストックが顔を近づけてきた。
「……むぐ!?」
 そして何の躊躇いも無く、唇に唇が押しつけられる。完全に予想から外れた反応に、ロッシュは抵抗することも思い付けず、目を白黒させて硬直するばかりだ。それを受諾と認識したのかどうか、ストックが与える圧力が高まり、それだけでなく唇の隙間に舌まで入り込んでくる。咄嗟に噛み合わせた歯の表面を舐められ、ロッシュもさすがに本能が働いたのか、頭より先に動いた体がストックを引き剥がした。離れる時にそれなりに抵抗する力はあったが、ロッシュの全力に抵抗できる程では無い。ばり、と音がしそうな勢いで剥がされたストックは、恨めしそうな目でロッシュを睨み付ける。
「いや、あのなあ。文句言いたいのはこっちだぞ」
 抱きつくように促しはしたが、どうしてそれが濃厚な口付けまで許されると思うのか、いやそれ以前に何故そんなことをしようと思うのか。口の中を舌で舐め回すのは、甘える範疇に入るのだろうかと、ロッシュは真剣に頭を抱える。
「普通にできねえのか、お前は。するなっつってるわけじゃなくて、程度問題なんだよ」
 その言葉にストックは、またしばし考え込む。ロッシュの顔を見て、その表情が険しいのを確認すると、微かに眉を顰めてロッシュに抱きつき。
「いでっ!」
 思い切り、その腕に噛み付いた。
「お前なあ……いい加減にしろよ」
 抗議の意を込めてロッシュが睨み付けてやっても、帰ってくるのは不満げな目付きのみだ。先程までのように、噛みつきながら移動する様子は無いから、何某かの意思表示なのだろうが。
「普通に抱きつくんじゃ駄目なのか?」
 問いかけに応じるように、喰いついた歯の圧力が強まる。どうやら、口付けか齧られるかの、二つに一つらしい。
「どうしても口を使いたいのか……」
 深く溜息を吐くと、見上げるストックの目がゆらりと揺れた。そこに浮かんだ戸惑いの色を見て、生じた頭痛を堪えながら、ロッシュは右腕を振ってストックを退かせる。
「分かった、分かった。ほれ」
 そして迎えるようにして右腕を広げてやれば、微かな笑みを浮かべてストックがそこに飛び込んできた。ぎゅうと抱き締められ、当然のように唇を押し当てられて、ロッシュの脳に頭痛とも目眩とも付かぬものが回る。
 仕方がない、風呂も無い中で全身を噛まれては、後の始末が大変だ。それに全身に付けられた歯形を他の者に見られたら、それはそれで面倒なことになる。口付けならば少なくとも痕は残らないし、衛生上もさほどの問題にはならないだろう。少しばかり息苦しいのは、我慢すればそれで済む。何度目になるかも分からない溜息は、塞がれた唇の代わりに鼻から吐き出されて、重なり合ったストックの顔にかかる。それに抗議するように舌を軽く噛まれ、調子に乗るなと叩いてやれば、焦点も合わぬ程の至近距離からストックが睨み付けてくるのを感じた。
 ひたすら唇を貪るストックが、いつになったら満足してくれるのかは、もはや誰にも分からない。こみ上げる欠伸を堪えながら、もうこのまま眠ってやろうかと、投げやりな思考のままロッシュは目を閉じた。






セキゲツ作
2012.10.26 初出

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