夢を見ている。

 叫び声と金属音が絶え間無く、何重にもなって響いている。大気に充満する血の臭気と、肌に付着したそれの滑る感触。夢であるというのに少しも薄くならない五感は、繰り返すうちに慣れてきてはいたが、やはり気持ちの良いものではない。体が動けば苦笑していただろうが、支配を外れて自動的に動く身で、それを叶えることはできなかった。
 視覚だけは、少しばかり現実と異なる。認識している画像は、普通と異なり視界の端がぼやけて、中心ばかりが鮮明に輝いているように見えた。物語の挿し絵のように、盛り上がるべき場面を強調させた、妙に不自然で劇的な画だった。他の感覚と同じく、記憶の中から呼び出されたであろうこれは、かつて自分の目に光景がそう映っていたということを示しているのだろうか。思い出そうと考えてみても、思考は乱れて滲むばかりで、成果が生じる気配は無い。意識の外ではこれほど精密な再現ができるというのに、そこに意思の力が割り込んだ途端に、真実は薄く霞んでしまう。
 頭が働かないのは、これが夢だからだ。展開される出来事は全て、過去に経験した歴史を、夢の形で再現しているに過ぎない。浴びた返り血の熱さも、噛み締めた唾液の苦みも、眠りについた頭が作り出した幻でしかなかった。記憶を元にした体感は、嫌になるほど現実と酷似しているが、それでもやはりこれは夢なのだ。ただの幻影であり、現実と関連するものではない。今と繋がらない過去、何処かで通り過ぎた歴史が、夢として蘇っているだけなのだ。
 強調された視界の中心で、倒れているのはレイニーだった。槍に縋ったまま崩れ落ち、動くことも出来ずその場に崩れ落ちてしまっている。聴覚には、これもやはり雑音の中で強調された、マルコの叫びが響いていた。何度名を呼んでもレイニーは動かない、それが何故なのか、現実の俺は知っている。既に経験した出来事なのだから当然だ、そして勿論、これから先に起こることも。
 意思とは無関係に視界が動く、あの時の俺が行った動作そのままの軌跡だ。動かされた目に飛び込んでくるのは、赤と緑の二色、吹き出した血で塗れたマルコの帽子。その下の身体がどうなっているか、確認するよりも前にまた視界が動き、同時に新たな赤が噴き上がった。鈍い苦鳴と倒れる身体で、マルコを襲った敵兵を斬り裂いたことが知れる。
 その結果を捉えるより先に身体は走り出していた、制御できない己の目は、真っ直ぐに砦の入り口を捉えている。行くな、と叫んだのは、夢を見ている現実の自分だ。行く必要は無い、どうせ結末は決まっている。既に一度、いや何度となく見た光景だ。ロッシュを助けたかった、己の決断の末に敵に占領された砦の中、囚われている筈の親友を助け出したかった。だがもう遅いのだ、走ったところで間に合わない、この時既にあいつは。
 知っている、だからもう行かなくてもいい。冷たい石の床を赤く染め、倒れて動かない親友の姿など、これ以上見たくはない。この光景は夢だと分かっている、けれどただの夢ではないこともまた、俺には分かっていた。死んでいく仲間達も、殺された親友も、歴史の何処かに存在する真実だ。かつて起こった悲劇を、夢は何度も繰り返し続ける。あるいはこれは断罪なのだろうか、己が導いた絶望を忘れるなと、誰かが叫び続けているのか。書を手放して旅を終えて、それでも忘れることは許さないと、言っているのは誰なのだろうか。
 もう許してくれ、叫んでも慈悲を与えられることは無い。夢の自分は止まらず走り続け、そして。


 そして。



――――――



 ――そして、開いた目に写っているものが何か、数瞬理解できなかった。自分は何処に居るのかも判然とせず、横たわった姿勢のままで、胸郭の内側で暴れる心臓をひたすらに意識し続ける。
「ストック?」
 浅い呼吸を忙しなく繰り返すうち、やがて眠りに溶けていた理性も戻ってきた。視界にあるのは見慣れた天井と壁で、発せられた声の源を見れば、そこには妻であるレイニーが居る。そこまで認識を深めてようやく、彼女の気遣わしげな様子に気付き、身体を起こした。既に起き上がっていたレイニーと向かい合うと、その手が伸ばされ、こめかみを伝う汗を拭ってくれる。
「大丈夫?」
「……ああ」
 時計を見れば時刻は既に深夜だ、レイニーも深く眠っていただろう。起こしてしまってすまない、と呟くと、彼女の顔に怒りと悲しみの混じった色が浮かぶ。
「もう、謝らないでよ、こっちのことよりストックじゃない。大丈夫なの、ほんとに随分うなされてたよ」
「大したことはない。夢を、見ていただけだ」
 そうだ、あれはただの夢、起きれば消える幻に過ぎない。例えそれが、かつてあった歴史の再現だったとしても、夢が夢だという真実が変わることはない。眠い目を瞬かせているレイニーは、死の影など寄せ付けることもなく、暖かな体温をもって傍らに居てくれている。何処かの歴史で悲劇があったとしても、それらは全て改められ、時間の流れに繋がるのは幸福な今のみだ。
「また、昔の?」
 そうして自分自身に言い聞かせるが、そもそも本当に納得できているわけでは無かった。起きた直後より随分はっきりとはしてきたが、意識の端には未だ霧がかかり、あの夢と繋がっているような錯覚を覚える。消しきれない恐怖は、挙動に滲み出るまま、傍らで見ている妻にも伝わってしまっているのだろう。レイニーは自分の方が辛そうな顔をして、起き上がった俺の背をやさしく撫でてくれていた。そこには夜中に起こされた不満など無く、ただひたむきな気遣いが感じられるばかりだ。子供にするように肩を叩かれ、妙な気恥ずかしさと共に、穏やかなリズムに誘発された安らぎが胸に満ちていく。
 生きていてくれて、良かった。愛しさがつのるままに名を呼んで抱き締めると、大丈夫と囁かれ、同じリズムで背を叩かれる。本当に子供として扱われているような気分で、ふっと苦笑が零れた。
「戦場だった。お前とマルコが、死んでいた」
「うん」
「敵に捕らわれたロッシュを、助けにいきたかったんだ。ロッシュはその時、もう死んでいたのに」
「……うん」
 気付けば口を開き、レイニーに語りかける自分が居た。夢の場面、いやそれが表すかつての歴史を、抱き締めたままのレイニーに零してゆく。それは、話しても仕方のない繰り言だった。誰かに伝えたところで俺の罪が消えるわけではない、ヒストリアと白示録に刻まれた傷は、歴史を変えた証として、永遠に消えずに残ってしまう。
「お前達だけじゃない。俺達の部下や他の兵士も、皆、死んでしまった」
 だがそれでも、話さずにはいられない。許されたいなどとは思っていないが、一人で抱え込むにはその咎は重すぎた。縋るようにレイニーを抱き締め、その体温を腕の中に閉じこめる。
「ストック」
「俺のせいだ。俺が決断を間違えたから、皆が」
 背に回された手が動き、後頭部にそっと添えられた。優しい強さで頭を撫でられ、柔らかな力で抱き返される。
「ストックのせいじゃないよ。ストックのせいじゃない」
「だが」
「ストックは一生懸命戦ってくれてた。あたしは知ってる」
「……だが」
 安らぎに包まれて、それでも夢の名残は消えない。冷たい鉄に貫かれ、赤い血と共に生命を散らした姿が、腕の中のレイニーに重なる。悔恨の痛みに潜められた息を感じたのか、レイニーの手が一層の優しさを込めて身体に触れた。
「あたしは生きてるよ。夢の中のことなんて知らないけど、あたしはちゃんと生きてる。ストックのおかげだよ」
 夜着を隔てて触れ合う身体が暖かい。そうだ、彼女は今生きている。レイニーだけではない、マルコも、そしてロッシュも。大切な人達は誰も欠けることなく、傍らに居てくれている。
「レイニー」
 少しだけ身体を離して向かい合うと、レイニーは朗らかに微笑みかけてくれていた。
「有り難う、ストック」
 痛む心臓に追い立てられるまま顔を寄せ、唇を押し付ける。驚いたのか少しだけ堅かった口元は、しかし直ぐに開かれて、接触を求める舌を迎え入れてくれた。
 暖かい、いや熱い、触れ合う皮膚も絡めた唾液も全てが熱を帯びている。それは彼女の生を示す、疑いようも無い確かな証拠だ。唇の隙間から名を呼べば、潤んだ瞳を恥じらいに伏せて、それでも拒まず応えてくれる。その存在自体で今の時を、そして未来を証立ててくれる人。礼を言うべきはこちらだと、声に出さずに思う。レイニーが傍に居てくれるから、俺は過去に飲み込まれず、こうして今を生きていられるのだ。
 脳裏には未だ、夢に姿を変えた記憶が漂っている。かつて有った歴史、だがそれは今ではない、あの死は今現在に繋がっているものではない。触れる身体の熱が証す、確かな生こそが現実だ。夢の感覚が如何に鋭く作られていようとも、真実肉に訴えかける熱さには敵う筈もない。
 呼吸が乱れ、体温が上がり、朦朧とした意識が過去の幻影を食いつぶしていく。レイニーの口から吐息と共に名が零れた、応えるために唇を塞げば、より一層狭められる呼吸の量に思考が淡く霞んだ。これで良い、今は何も考えずとも良いと、重なり合った皮膚が訴えている。
 冷えた心が、発した熱で塗られていく。遠くに沈んでいく夢の残滓を、追うこともせず今はただ、上昇する体温に溺れるばかりだった。



――――――



 夢を見ている。
 
 冷たい外気が、頬を撫でて流れる。だがそれ以上に冷たいのは掌だ。ロッシュの身体、もはや動かない身体に触れた掌から、凍り付くような冷たさが伝わってくる。
 心を蝕むその温度は、同時にこれは夢だと言い切ることができる、何よりの証でもあった。死した者は常の熱を持たない、それが故に触れれば冷たく認識されるが、下がる体温の下限は大気と同じものだ。風よりも低い、凍る程の冷たさになど、なる筈がない。恐らく、友を看取った悲しみが記憶の体感を改竄し、有り得ない冷気を感じさせているのだろう。だからこれは現実ではない、ただの夢に過ぎない。
 いや、正しくは夢の形をして蘇った過去の記憶だ。この場所には覚えがある、今とは繋がらない何処かで、陰謀に陥れられたロッシュの死体をこうして見下ろしたことがあった。くだらない権力者の欲望と功名心の犠牲にされるロッシュを助けられず、殺されてしまった親友。覚えている、血の混じった冷たい風と、動かないロッシュの姿を。
 無惨な死体に向けて、虚しい呼びかけを繰り返し、戻るはずもない体温を与えようと身体を探る。この動作も全て、かつて有った歴史の中身だ。記憶の底に刻みつけられた悲しみの刻印が、夜の闇に紛れて夢の形で噴出し、幾度となく俺の前に立ちはだかるのだ。ロッシュ、と繰り返し名を呼び、皮膚を擦った。夢の中の自分は、冷たく固まった身体を溶かせないものかと、停止した思考で愚かな試みを続けている。そんなことは当たり前に不可能だ、考える間でもない当然の結論に、どうしてかこの時は気付くことができない。呼吸すら阻害される濃密な血の臭いの中、ひたすらロッシュの身体を擦り続けている。
 何度こんなことを繰り返したのだろうか、悲しみに満ちた心の中に浮かぶ想いを、遠い何処かで感じる。世界にただ一人の大切な親友は、時を操る長い旅路の中で、幾度と無く命を落としてきた。書に刻まれた死は数限りないが、その中にロッシュの名は、誰よりも多く存在している。どうしてロッシュばかりが死ななければならなかったのか、その理由は分からない。分からないまま時を遡り、歴史を変えてその死を防いで。そんなことを何度繰り返したか、もう思い出すこともできなかった。
 だがそれでも、死の運命は回避できたのだ。戦争は終わり、権力抗争も形を潜めて、ロッシュが戦いの中死ぬ可能性は以前よりずっと減った。俺もロッシュも平和な生活を取り戻し、日常を穏やかに暮らしている。それなのに、繰り返される夢の中で、未だにロッシュは死を迎え続けている。記憶にあるままの無惨な姿を、繰り返し繰り返し、晒しているのだ。
 夢は夢だと、いつものように言い聞かせる。以前から続く、そしてこれからも見続けるであろう他の夢と同じように、これもまた現実とは関わらない過去の亡霊だ。目を開けば死体は消え、昼の光の下で、いつもと変わらぬ親友に会うことができる。本当のロッシュは、俺の夢など関わりもしないところで、愛する家族と幸福に暮らしているのだ。夢さえ覚めれば、現実にさえ戻れば、こんな絶望はあっと言う間に失せる。
 そう、だから早く、夢から覚めてくれ。

 早く。

 早く。



――――――



「ストック。……ストック」
 また、酷くうなされていたのだろう。過去の夢を見た時はいつもそうだ、幻だと知っても感じる恐怖と絶望が、現実の身体に影響して不快な声を上げてしまう。自分でそれを聞くことはないが、隣に眠るレイニーが起き出してしまうのだから、随分と煩いものなのだろう。抑えようとしても抑え切れぬ眠気を浮かべるレイニーに、すまない、と声をかけた。
「いいよ、大丈夫?」
「ああ。……すまない、起こしたか」
「ううん、あたしは大丈夫。こっちこそごめんね、起こしちゃって」
「いや」
 肩に触れていたレイニーの手が離れ、寝汗で張り付いた髪をそっと払ってくれた。胸の内に満ちた霧が、それで少しだけ薄くなるのを感じる。
「ストック、なんだか凄くうなされてたから。いつもより酷くて、心配で」
 だがそれでも、全てを晴らすことは出来ない。心配げな妻の声、いたわりを込めて触れられる指、常ならば安らぎを生みだしてくれるそれらも心の陰りを晴らし切るには足りないようだった。手を伸ばしてレイニーの髪に触れ、艶やかな黒髪を指で辿る。長いそれの一房を持ち上げ、端に口付けると、石鹸の匂いが微かに漂った。
「また、夢?」
「ああ」
 五感の全てを使って、これこそが現実だと確かめる。胸を覆う暗い影など、実体のない無意味な不安でしかなく、夢の中にしか現れられない哀れな幻想に過ぎないのだ。そう言い聞かせて、だが言い聞かせるという気持ちでいるうちは、その根を取り払えるはずも無い。
「どんな夢だったの?」
 躊躇いがちに投げられた問いに、直ぐに応えることは出来なかった。表情の変化を見てか、レイニーが慌てて無理はするなと付け加えるが、しかし首を振って口を開く。
「ロッシュが、死んでいた」
 言葉にした途端、夢の光景が瞳の上に映り、知らず眉が顰められた。視覚だけではなく、指には血の冷たさが、鼻には死臭が、現実を押し退けて蘇ってくる。夢だ、と口に出して呟いた。レイニーが手を握ってくれる、その感触に必死で意識を集中させる。
「ただの夢だ。……あんなものは」
 あれは過去の亡霊、過ぎ去った歴史に刻まれた悲劇の影に過ぎない。勿論ロッシュは生きている、レイニーやマルコや、他の仲間と同じように――だが。
「そうだよ、夢だよ。ロッシュさん、あんなに元気じゃない」
 レイニーが、明るく笑って覗き込んでくる。だが気楽を装ったその笑顔は、こちらの顔に浮かぶ曖昧な笑みを見ると、陰りを帯びたものに変わってしまった。妻に心配をかけぬようにと、何とか平静を保とうとしていたが、残念ながら成果は出ていなかったようだ。悲しげなその顔が嫌で、同時に傍らの体温が恋しくて、そっと身体を抱き寄せる。
「あ……ストック」
「夢だ。ああ、分かっている」
 あれが過去のもので、現在とは何の繋がりもないということを、頭では理解している。だが、何度理性が同じことを繰り返しても、不安は消えてくれなかった。歴史の繋がりを否定し、今の幸福を確かめて、それでも残るのは未来への恐怖だ。過去は蘇らない、だが新たな悲劇が未来に待っていないとは、誰にも言い切れないのだ。
 夢を見た原因が何かは、はっきりと特定できる。ロッシュは今、将軍として部隊を率いて遠征に出ていた。戦争が終わってからも軍に残り、ビオラを支えて将軍となったロッシュは、今でも頻繁に戦場に立っている。ビオラが病で戦えない現状、実戦的な指揮は殆どロッシュが行っているのだから、出陣はかなりの頻度となっていた。勿論戦時中よりは少ないが、それでも他の者に比べて、戦いに関わる機会は段違いに多い。平和になった筈の世の中で得るには多すぎる傷が、ロッシュの身体には常に刻まれている。
「夢だ、あれは……」
 夢は夢であり、過去は過去でしかない。だがそれとは別の新たな死が、戦場でのロッシュには常に寄り添っていた。だから不安は消えない、レイニーを抱き締め現実の幸福を噛み締めたところで、未来を確かにできるわけではない。こうしてぬくもりに触れている間でも、ロッシュは戦場で、致命的な一撃を受けているのかもしれないのだ。
 それらが全て、根拠の無い漠然とした恐怖であることも、理性では納得している。軍として行動している以上、そう簡単に将軍が討たれるようなことはない、一時とはいえ軍人であった経験からそれは断言できた。それなのにどうして、身体の震えが止まってくれないのか、それが自分でもわかない。凍えたように感覚のない背に、レイニーの手がそっと触れた。
「ストック。お茶でも淹れようか」
 止まらない身の震えには言及せず、そう言って優しく微笑んでくれている。情けない姿を晒しているというのに、負の色など全く見せずに、ただ暖かい心で受け止めてくれて。
 良い妻だ、と心の底から思った。そして同時に、そんなレイニーの愛情ですら埋まらない穴を、心底疎ましく思う。
「暖かいのを飲んだら、落ち着いて眠れるよ。ね?」
「ああ……そうだな。すまないが、頼む」
「ん、じゃあ淹れてくるね」
 気遣いを笑顔にして支えてくれるレイニーに、心配など要らないと笑い返してやれれば、どんなに良かっただろうか。だが実際に浮かぶのはぎこちない作り笑いのみで、それは彼女の心配を助長するばかりなのだ。
 ちょっと待っててね、と言い置いて出ていくレイニーの背を、ぼんやりとした頭で見送る。今の自分は本当に幸せだ、それだけで満足出来れば良かったのに。そんな願いなど知ったことではないとばかりに、思考の一部はここに居ない親友の安否を考え、暗い陰りを生み出し続けている。もし俺が軍に残り、かつてのように副官として戦場に立っていれば、この不安は無かったのだろうか。共に戦いに挑み、危険があればその背を守る、そんな立場を手に入れていたのなら。だがその未来は選べない、軍に戻ると言えばレイニーが悲しむことは、実行などせずとも容易に想像が出来る。かつての歴史で俺はレイニーに、全てが終わったら剣を捨て、戦いのない世界で生きようと誓った。彼女は覚えていないだろう、だがあれは未来を共にすることを決意させてくれた、大切な約束なのだ。たとえ記憶に残しているのが俺だけだとしても、一方的に破ることだけはしたくない。
 考えても考えても抜け道は見つからず、結局同じ場所へと着地してしまう思考に、溜息を吐いて目を閉じる。早く遠征が終わり、ロッシュが帰ってくれば良い。無事な姿を見れば、無意味な焦燥も収まり、こうしてうなされることも無くなるだろう。願望が大きく入り込んでいることを知りながら、それを信じるようにと心に強いる。
 開いたままの扉の先から、レイニーが立ち働く微かな物音が聞こえる。闇の中でただ一つ幸福なそれが、暗く沈んでいく己の心を、穏やかな平静に留めてくれていた。



――――――



 また、夢を見ている。

 一体何度目になるのか分からない、見慣れる程に繰り返されたその光景は、かつてグラン平原で戦った時のものだ。隊を分けての偵察、しかしその作戦自体が罠で、隊は壊滅して多くの兵が死んで。ロッシュも、部下を守って死の間際に追いやられて。勿論覚えている、忘れる筈がない、目を閉じていても映像が浮かぶ鮮明な記憶だ。それは夢の中であっても同じで、経験した過去と寸分違わぬであろう五感が、眠る俺の身体に働きかけてくる。
 だがこの時は、何故かそこに違和感があった。
「ここはあたし達に任せて、先に行って!」
 違う。この夢は過去と、何処かが違う。
 あの時レイニーとマルコは、ロッシュとキールを連れた俺を逃がすために、囮となって敵に立ち向かった。そして俺はそれを受け入れ、ロッシュを連れて北へと走ったのだ。確かに覚えている、かつて実際に起こった出来事だ、だがこの夢では。
「大丈夫、時間を稼ぐくらいならできるよ」
 二人の部下が口々に言う、だが夢の自分は何も反応しようとしない。立ち尽くしたまま、口すら開かずレイニー達を見詰めている。隣からはロッシュの荒い息が聞こえていた、今逃げなければ彼は捕らえられ、敗者として殺されてしまうだろう。だからこそレイニーもマルコも命を賭けて足止めをしようとし、あの時の俺は彼らにこの場を任せて去っていった。
 そこまで考えても、夢の俺は動こうとしない。――逃げることなどできない、ここを去れば、レイニーを敵中に置き去りにすることになるのだ。
「ここはあたし達に任せて」
 レイニーがまた叫ぶ、それでも俺は動けない。かつて起こった歴史では、彼女らの言葉に従って逃げ、ロッシュの命を助けた。そして二人も死ぬことはなく、いずれアリステルで合流することが出来る。分かっている、実際に経験した事実として、俺はそのことを知っている。
「早く」
 動けない。あの時とは違う、今のレイニーは部下ではなく愛する女性で、たった一人の妻だ。そんな相手を敵中に置いて逃げることが出来るものか。
「ストック!」
 だが、逃げなければロッシュは。例え三人で力を合わせたとしても、敵部隊の直中でロッシュを守りきるなど不可能だ。いやそれが可能でも時間が足りない、早く安全な場所で治療を受けさせなければ、ロッシュはきっと助からない。真っ直ぐに砦へと走った時ですら、助かる確証も無く死の縁を彷徨うことになったのだ、敵を倒していて間に合うわけがない。
「ここはあたし達に」
 繰り返し、レイニーが叫ぶ。俺は動けない、恋人を見捨てて走り出すことが出来ない。隣でロッシュが崩れ落ちる、それでも足は動かない。走らなければ、自分が守らなければこいつは死んでしまうのに。それでも、どうしても。
「ストック」
 守りたいのは、大切なもの全て。だがそれが出来ないのなら、全てを守ろうとすれば何かがこぼれ落ちてしまうなら。手の中に残るは、残すために選ぶのは。そして、守りきれずに失ってしまうものは。
 分かっている、分かっていた。ロッシュもそうだった、そして俺もそうなった。
「ストック」
 何度名を呼ばれても動けない。夢の一場面は、進むことも出来ず何度も、同じ場所を繰り返している。過去は変わらない、だからこの場の選択を変えても、その先に進まず留まるだけだ。だが現実は、これから歩み続ける未来は。そこで成される選択の意味は。
「ストック」



――――――



「ストック!」
 名を呼ぶ声の荒さに、眉を顰めた。聞こえている、と平坦な声で返せば、態とらしく深い溜息を吐き出される。
「聞こえてるんなら返事くらいしろ」
 あからさまに不満を主張してはいるが、本気の怒りが無いのは容易に察せられるから、謝りはせず同意を示すに留めた。敬意も気遣いも無い態度だが、付き合いの長い親友のこと、再度の溜息を吐く程度で煩いことは言わないでくれる。お互い遠慮の無い言動には慣れている、だがそんなロッシュであっても、無言のまま凝視を続けられるのはさすがに気になるものだったらしい。戸惑った様子で首を捻り、渋い顔で見返してくる。
「何だよ。どうした?」
「いや」
 不審を浮かべたその顔が、夢の光景と重なる。今見ているのは過去と違い健康な、死の影など僅かにも感じない姿だ。座しているのも城の執務室、危険とは最も縁遠い場所である。
「いや、じゃねえだろ、部屋まで押し掛けといて。何か用じゃなかったのか?」
「用という程じゃない。無事な顔を見ておきたかった」
「昨日も一昨日も一緒に飯食っただろうが、何で今更」
 過去を映した夢の中で死に瀕していたロッシュは、現実では怪我のひとつもすることなく、無事に遠征から帰ってきてくれた。ロッシュの言う通り、帰還を祝って食卓を共にしてもいる。にも関わらず突然押し掛け、何を話すでもなく分かりきったことを確認したいと言う相手に、ロッシュも随分と戸惑っていることだろう。
「まあ、良いけどな。適当に戻れよ、部下が泣くぞ」
 しかしそれでも追い返したりしないのは、ロッシュの優しさは勿論だが、同時にこちらに対する信頼の故だ――そう、思いたい。自分達は親友同士であり、職務上の付き合いよりは遙かに近い存在だと、そう信じたかった。
「ロッシュ」
 呼びかけに応えてこちらを向くロッシュの目に、怒りや拒絶は見られない。この場に居ることを受け入れてくれている証左を受け、胸の一部がじわりと暖かくなる。
「もしもの話だが」
 だが、それでは足りない。友としての親愛だけでは、彼の命を繋ぎ止められないと、これまでの経験で知ってしまっていた。同じ部屋で向かい合い。極近くに居るように感じても、互いの道は直ぐに遠くなり得る。
「ソニアと俺と、どちらか一人の命しか助けられない、となったら。どうする」
「は?」
 放った質問に対して、言葉よりも先に反応を示した表情を、ストックは無表情のまま眺めた。愛する女性か親友か、選べるのはたった一人。どちらを選んでも救われない、絶望の選択を迫られた時、果たしてロッシュはどうするのか。
「何だそりゃ。どういう質問だよ」
 嫌そうに顔を顰めて睨みつけられても、何も言わず見続ける。ロッシュの顔が不審げになり、微かに怒りの色が混じって、そして次第に心配そうなものへと変わった。
「いきなりどうした。何かあったのか?」
 問われても応える言葉は持てない、失われた歴史のことはロッシュに伝えないと、既に心に決めていた。そして、ただ悪い夢を見たとだけ言っても、きっとこの思いは伝わらないだろう。突き放されることはないだろうが、呆れて諭されて終わりだ。
「いや。それよりどうなんだ、ロッシュ」
 欲しいのは理性的な説明でもなく、受け止める柔らかな優しさでもない。もっとずっと深くで繋がる、何があっても離れないと断言できるような、強い絆が欲しかった。死線を共にし、互いに命を預け合うのと同じだけの確かさを持つ何か、そんなものが本当に存在するのかは自分でもわからなかったが。
「馬鹿なこと聞くなよ。お前やっぱり何か変だぞ」
 詰め寄る俺の態度があまりにもおかしかったのか、言葉の内容よりは余程優しげな声音と様子で、ロッシュが俺の顔を覗きこんできた。やはりロッシュは優しい、だからこうしてこちらを気遣ってくれている。言葉が足りない俺を放り出さずにいてくれるのも、どんな無茶でも真剣に相手をしてくれるのも、昔共に戦ってきた時のままだ。ロッシュはきっと変わっていない、変わってしまったのは俺の方なのだろう。親友の友愛を信じられずに、有りもしない何かを求めて我が儘を振りかざしている。自己嫌悪に奥歯を噛み締める、その様子に何を思ったか、ロッシュは手を伸ばして額に押し当ててきた。熱があるとでも推測したのかもしれないが、生憎体調は平生だ、むしろ触れた掌の方がこちらの体温よりも高く、堅い皮膚を通して生々しい熱が伝わってきた。
「何かあるんならちゃんと言え。心配かけんなよ」
 親友の身体が発する温度、今までに何度も触れてきた、自分よりも少しだけ暖かい身体。親しいはずの温度に、何故か今は心臓が痛んだ。
 ――いや、痛みというよりは、熱だ。身体の中心が疼く、その反応に動揺して接触から逃れようと身体を引くと、椅子と床が擦れて鈍い音を立てた。
「ん?」
「……大丈夫だ、何でもない。心配させたのなら、すまなかった」
 体温は安らぎだ、そこに生のあることを何より確かに証し立ててくれる。命を失い、有り得ない温度に冷えた身体の感触を味わってきたから、暖かさが示す幸福はより強い実感として刻みつけられる。
「いや、まあそりゃ良いんだが。ともかく、本当に大丈夫なんだな?」
 問い返すロッシュの顔からは、こちらの言い分など全く信じていないことがはっきりと伝わってくる。触れただけで椅子を倒しかねない勢いで後退り、表情を堅くしているのだから、当然ではあるが。より深い問いを投げられる前に口を開き、ロッシュの声に言葉を重ねた。
「ああ。……お前こそ、本当に怪我は無いんだな」
 言いながら、今度は自分から手を伸ばし、ロッシュの頬に触れる。不思議そうな顔をされはしたが、拒まれることはない。肌理の荒い皮膚のざらりとした感触と、筋肉に覆われていないために少しだけ低い体温を掌に感じて、身体の内でまた心臓が動く。
「見りゃ分かるだろ、怪我も病気もねえよ、ピンピンしてるぜ」
「ああ」
「大体怪我なんかあったら、ソニアが出勤させてくれん」
 豪快に笑う親友に合わせて笑みを浮かべる、だが内側は表情程穏やかでは居てくれない。ソニアの名がロッシュの口から出たことで、ぬくもりから喚起された心臓の痛みが、より強く存在を主張し始めてしまった。形にされなかった最初の問いへの答え、それが何かは既に分かっている。本当は聞く必要すら無かったのだ、ロッシュにとって一番大切なものが何か、そんなことはとうの昔に知っていた。ロッシュが選ぶのは、俺と同じもの、並び合う友ではなく腕の中の護るべき相手だ。
「……どうした、ストック」
 冷たい痛みは心臓を刺し、やがて全身へと広がっていく。隠した筈のそれを、ロッシュは何処かで察してしまったのだろう。笑顔を一転させた深刻な顔で、こちらの顔をじっと覗き込んできた。
「お前、さっきから変だぞ。やっぱり何かあったんじゃねえか」
「……何も」
 無い、と言おうとして喉が詰まった。見詰める親友の顔が、夢で見た姿に重なる。あれは夢で今居るのは現実だ、そう考えても脳裏に焼き付いた光景は断ち切れない。ロッシュは生きている、そう信じたくて頬に触れた手に力を込めた。両の手で顔を包み、内側の存在を感じようとする。ロッシュはここに居る、ずっと無事のまま、何処にも行くことはない。そう信じるようにと、己の心に言い聞かせる。
 だが足りない、ロッシュが纏う戦場の気配が、内側に潜む不安を駆り立てていた。今この時だけはここに居てくれるとしても、この先にどうなるのかを保証することはできない。夢で鳴らされた警鐘が、今この時も頭の中で響いていた。
「ストック? おい」
 痛いほどの焦燥に突き動かされ、ロッシュの身体を抱き締める。触れる面積が増え、よりはっきりと伝わってくる体温に、痛みがじわりと癒えるのを感じた。ロッシュは驚いているのか、服の下の筋肉が硬直しているようだったが、それでも抵抗の気配は無い。彷徨った右腕が、やがてこちらの背に回され、緩い力で叩いてくる。その動きに込められた親愛を感じて、泣きたくなる程の安堵を覚えた。
「ったく。溜め込み過ぎるんだよ、お前は」
 穏やかで優しい言葉は、耳を介してだけでなく、触れ合った部分からの直接の振動で伝わってくる。これだけの接触を求めても拒まないロッシュは、確かに自分の味方なのだと、理性よりも深い部分で納得できた。触れることは最も確かな確認手段だ、暖かさで命の存在を、その近さで心の距離を証立ててくれる。染み込んでくる温度がもっと感じたくて、抱き締める力を強くした。零に近い距離にある身体から、微かな体臭が立ち上る。
 安らいだ幸福な瞬間、だが突然。
「……?」
 何が起こったのか分からなかった、始めの一瞬はわけもわからず、ただの違和感として身体の変調を受け取る。この瞬間に生じる筈の無い感覚、その正体に気付いた瞬間、背筋に水をぶちまけられたかのような恐怖を覚えた。
 今、自分はロッシュに対して、何を感じた?
「ストック?」
 考えるよりも先に身体を離していた、唐突な動きにロッシュが驚いている。その顔を見て、同性の親友であるロッシュをじっと見詰めて、己の衝動が錯覚であることを確かめようとして――だが、それは失敗に終わってしまう。
 否定しても、誤魔化そうとしても、それを裏切る身体の変容。男ならば誰でもが覚えのある、あるひとつの感覚。
「おいどうした、ストック」
 余程酷い表情をしていたのか、本格的に険しい顔で近寄ろうとするロッシュを、手で留めた。距離が僅かに詰まるだけで、心臓とそれに繋がった部分が鼓動を刻む。目の前の相手に対して、有り得る筈も無い反応に、吐き気すらこみ上げてきた。そうだ有り得ない、男相手に、いやそれ以前に親友に対してこんな。
「ひでえ顔色だぞ。やっぱ調子が」
「いや……大丈夫だ、すまない」
 触れたい。恐ろしい強さで主張するその衝動を、全力で抑えつけた。制止するために伸ばした手が、ロッシュの身体のすぐ傍にあることに気付き、引き下ろす。意思と力を込めなければ、真逆の動きでそのまま触れてしまいそうだった。
「突然すまなかった。仕事に戻る」
「おい、ストック」
「大丈夫だ。……少し、疲れているだけなんだ」
 何か言いたげな、そして実際言葉を発しようと半ばまで口を開いているロッシュを無視して椅子を立つ。強引な動きで物音が響くのが、何処か遠くで聞こえた気がして、奥歯を噛みしめた。ロッシュが反応できないうちにと、顔を見ないように踵を返し、出口へ向かう。
「ストック。無理、すんなよ」
 背中にかけられた声は、無礼な態度にも調子を変えることはしない。友を気遣う優しさは、嬉しいと同時に、今は苦悩を呼び起こす種となってしまっていた。己を許すロッシュに向かう感情は、常に対して明らかに変容してしまっている。純粋な友情を以てかけられた声に返すには、あまりにも異様なそれを、必死で抑え込んで足を動かした。
「……すまない」
 呟いたその声がロッシュの耳に届いたのかどうか。それを知ることもせず扉を閉め、ロッシュの視線を遮ってからようやく、詰めていた息を吐く。今のは何だったのか、分かりたくもないが自分自身のことだ、理解しないわけにはいかない。大きく呼吸を繰り返して、あからさまな反応はさすがに収められたが、奥に兆した芽は消えずに残ってしまっていた。燻る熱の気配が、これが一時の迷いなどではないと、俺に訴えかけてきている。
 触れたかった。触れることで存在を確かめ、不安を飛ばしてしまいたかった。それだけならばまだ構わない、だがそれ以上を求める気持ちがあることを、身体は確かに主張している。この反応が異常なものだと、気付くのに誰かの指摘は要らなかった。安心を得るための深い接触は、相手が妻だからこそ成り立つもので、同性の親友相手に取れる手段ではない。理解した上で尚、理性を無視した衝動は消えることなく、昂りを身体に押しつけ続けている。
 気のせいだ、と言い聞かせ、強張った足を踏み出した。こんなものは気のせいだ、夢のおかげで溜まった不安が、妙な形で噴出したに過ぎない。ロッシュとは仕事こそ別になったが、隣家で暮らす親友であることは変わりなく、会おうと思えばいつでも会うことが出来る。しばらく普通の生活を続ければ、喪失の予感も収まり、吐き気をもよおすこの欲求も失せてくれる筈だ。触れても抱き締めても何も起こらない、そんな今まで通りの感覚に、きっと戻ることが出来る。
 自分の執務室に向かいながら、必死でそう言い聞かせる――だが、言い聞かせるとはつまり、信じられていないということなのだ。ともすればその事実が思い起こされ、意識を覆おうとする。同性に欲情する嫌悪感と、親友を貶める罪悪感に、内臓がかき回されるような心地がしたが、それら全てを封じ込めてひたすらに歩を進めた。仕事に戻り、家庭に戻り、現実に戻ればこれは消える。いや、消さなくてはならない。
 そう願いながら、歩き続ける。
 それは結局、何の解決にもなっていないと、どこかで悟っていながら、それでも。



――――――




 夢だ、と分かっていた。

 目の前にロッシュが居る。戦場での鎧姿でもなく、執務中の軍服姿でもない、何の特徴も無い普段着のロッシュだ。戦いから離れていることを示すその服装に、俺は何処かで安堵し、何処かで恐怖を抱いている。何故怯えているのか、と自分自身が問いかけた。ロッシュは今ここに居る、命を賭ける戦場ではなく自分の目の前、腕の中に。
 視界の中に腕が入り込んできた。俺の腕だ、その筈だがやはり夢の中のこと、意思を込めても動かすことはできない。それ自身意識を持つかのように勝手に動き、ロッシュに触れ、その身体を抱き寄せる。鍛えた筋肉に覆われた、堅く暖かな感触。ロッシュは抵抗しない、一本だけ残った右腕を俺の背に回し、優しく叩いてくれている。泣き出したいような安堵を感じて抱き締める力を強くすれば、ロッシュもまたそれに応えて抱き返してくれた。ここに居る、と囁くような声がする。ロッシュの声なのかもしれない、あるいは俺が自分で呟いていたのかもしれない。ロッシュはここに居る、俺の腕の中で、求めるままに体温を与えてくれている。過去の歴史など立ち入る隙は無い、今ここにあるぬくもりが全てだと、心が叫んでいる。
 だが、その幸福な充足も、ほんの一時だけのことだ。瞬きをする間に、触れた身体が冷たくなり、鼻の奥に血の臭気が充満した。どうして、と叫んだ声は、辺りに満ちた死の気配に掻き消される。それでも叫ぶ、どうして、今まで生きていたのに。腕の中で、暖かい身体で、確かに心臓を動かしていたのに。どうして、どうしてロッシュは、こんなに冷たくなってしまったんだ。
 身体が震える、布ごしですら伝わる冷たさに恐怖が掻き立てられ、だが抱き締めた力を緩めることが出来ない。身体を離せばロッシュの姿が目に入ってしまう、事切れた親友の顔を見て、正気で居られる自信などない。どうしてだ、ロッシュの死は過去のものだった筈なのに。全ての禍を退けた筈の未来で、どうしてまたこいつを看取らなくてはならない。
 叫ぼうとしても喉が動かない、呼吸をすることも出来ない。このまま時を進めたくなどないと、全身が拒絶を示している。ロッシュが死んだまま続いていく時間、紡がれる未来、そんなものを見たくは無い。どうして、どうしてこんなことに。
 声にできぬ慟哭を、何度となく叫んで。

 叫んで。

 そして。


 そしてふいに、気付いた。
 暖かい。
 抱き締めた身体が、生を示す鼓動を刻み、自ら発する熱を取り戻している。回された腕に込められた力に、呼吸が止まる程の喜びを感じた。ストック、と名を呼ばれる。身体を離して向き合えば、いつものままのロッシュが、静かに微笑みを浮かべていた。
 生きている。そう実感したくて、もう一度抱き締める。大きく触れ合う身体、分け合う熱で、相手の生を実感する。ここに居る、またロッシュが囁いた。だがもはやそれでは足りない、与えられた絶望が穴となって、声も温度も鼓動も吸い込んでしまう。ロッシュは生きている、だがそれは今この時だけに言えることだ。続いていく未来の何処かで、ロッシュは死んでしまうかもしれない。触れた死の冷たさを思いだし、全身が細かく震えていた。人ならば誰でも死の可能性はある、だがロッシュが持つそれは、他の者より遙かに高い。かつて共にした戦場での姿は、今も俺の目に焼き付いていた。誰よりも前に出て皆を守る、アリステルの若獅子。今でもそれは変わらない、平和になろうと将軍になろうと、ロッシュの身に降り懸かる危険の量は変わってくれていない。
 心臓が痛くて、それを止めたくて、強くロッシュを抱き締めた。身体を押しつけ、心臓の音をひとつにする。ロッシュも抵抗することはなく、右腕を俺の背に添えてくれている。ここに居る、ここに居る、何度も繰り返されてそれでも足りない。今ここに居ても、未来には何の保証も無い。
 ロッシュ、と声に出して呟いたのかもしれない。堅く締め付けた腕の力はそのままに、顔だけを上げてロッシュを見る。焦点を失う近さで、ぼやけたロッシュの顔は、それでも笑っているように感じられた。苦笑に近い、だが親愛の込められた、何もかもを許してくれる笑顔。俺もそれに笑い返して、目の前のロッシュに、そのまま唇を押しつけた。
 やはりこれは夢なのだ、触れた筈の唇は何故かぼんやりとしていて、明確な感触を持たない。過去の経験があればそれを繰り返すことも出来るが、一度も受けたことが無い感覚は、どうなるかも分からず霞んだものにしかならないのだろう。それでも構わず唇を重ね、開いたそれに舌を差し入れる。服越しの皮膚よりももっと直接的な体温に、心臓の穴が少しずつ塞がるのを感じた。
 接触は幸福だ。相手の存在を感じ、繋がりを確かめ、今と未来を信じることが出来る。肩を並べた親友もいずれ道を違えてしまう、だがこうして深くで触れ合えば、きっともっと長くを共に出来る。舌を絡めて、呼吸をぶつけて、もっともっと内側へ。ロッシュ、と名を呼べば、応えて抱き締めてくれる。これは夢だ、こんな反応は現実では有り得ない。皮膚を越えての抱擁など、同性同士で行うことではない、例えそれが親友といえど。男の内側に触れる嫌悪感が、少しだけ過って、しかし直ぐに消えた。そんな当たり前の感覚すら置き去りにしてしまう程、口付けが与える幸福は大きかった。拒まれぬことに甘えて満足いくまで貪ると、さらに先を求める衝動に任せて、ロッシュの身体に手を這わせる。緩やかな服の裾から腕を差し入れ、引き締まった筋肉を辿っていく。やはり感触は曖昧で、夢が夢であることをはっきりと示していた。ロッシュの皮膚など、見たことはあってもこんな風に触れたことはない。触れたいと思ったこと自体が今までは無かった、男の筋肉質な身体に欲情する趣味など、あるわけがない。だがはっきりとしない感触に、ぼんやりとした夢の中の体温に、身体は確かに反応していた。
 唇を離してロッシュを見ると、彼の顔はやはり、苦笑じみた許容の笑顔を浮かべている。夢だからだ。これが夢だから、自分が望むままの、都合の良い反応が返ってくる。しかし頭の片隅で感じる虚しさは、身体を動かす欲の前に霞んで薄れた。もっと深く、もっと強く。荒い息で触れる身体に何を求めているか、分かりたくないが分かっている。抱き合うことが幸福だと感じた、それを許される相手は限られているというのに。欠落を知った本能は、理性の制止を受け入れてくれない。
 感覚がぼやける。この先は知らない、長くを共に過ごした親友だが、肌を重ねた経験などない。
 無くて良い、有るべきことではない、そんなことは知っている。
 知って、それでも、求めている。

 だから夢は終わらない。

――いや、夢の中だけで、終わっていてくれれば。



――――――



 起こしてしまったレイニーが寝付くのを確かめてから、そっと寝台を抜け出した。そのまま眠ってしまいたかったが、いつも通りに眠りは訪れてくれない。冴えきった頭で目を閉じていても、睡眠が近づくことはないと、経験で知っていた。むしろ刺激のない闇の中では、暗い思考だけが膨らんでいく。それを嫌って起き出し、寝室を抜け出し、足音を忍ばせて台所へと向かった。
 音を立てぬように気を付けながら、棚から瓶を取り出す。濃い色をした酒は、いつか誰かに貰ったまま仕舞こんでいたものだ。妻にも知らせず封を切ったその中身は、既にかなりの量が無くなっていた。しばし外側から暗い褐色を眺めていたが、諦めて溜息をひとつ吐くと、杯を取りだして酒を注ぐ。
 濃いアルコールの気配が、流れ出る液体から漂った。杯にわだかまったそれを、口を付けずにまた見詰める。眠れない夜を酒で乗り切るのは、これで何度目だろうか。強い酒精で思考を止め、それでようやく眠りにつける夜が、ここのところ増えている気がする。レイニーに話したことはないが、さすがにそろそろ気付いているだろう。注意される前に止めなければと思うが、目の前の絶望から逃れる手段を求めて、今日もこうして酒を注いでしまった。飲まずに捨ててしまおうか、そんな考えが過るが、直ぐに自嘲で打ち消しす。そうしたところで待っているのは終わりのない苦痛と、夜明けまでの長い煩悶だけだ。
 抗うことを諦めて杯を手にすると、それでも勢いだけは抑えて、酒を喉へと流し込む。濃いアルコールが喉を焼き、内臓へと滑り降りていくのをはっきりと感じた。火を飲んだかのように燃える腹から、酩酊の気配が沸き上がり、思考へと手を伸ばす。もう一口を飲み込めば、頭の芯が無意味な綿に変わり始める。僅かにぼやける視界に、滲む月の光が美しかった。
 こうして忘れてしまえれば良い、夢の中身も、身体の衝動も。全てを隠して、これまで通りを続けていければ、それ以上に望ましいことはない。だが一度生じた欲望は、何度捨てても消すことは出来ず、夜の夢へと染み出してくる。いや、ともすれば昼の光の下までも。
 ロッシュはどう思うだろうか、親友と思っている相手が、自分と抱き合うことを願っていると知ったのなら。それを考える度に、酒に焼けた内臓の底が冷たく凍ってゆく。ロッシュも妻を持つ真っ当な男だ、親友の俺と寝るなど、想像すらしたくないことだろう。もし知られてしまえば笑顔の代わりに嫌悪を、親愛の代わりに侮蔑を、向けられるようになるに違いない。それはあまりにはっきりとした、思考を向けることすら嫌になる、残酷な推測だった。
 しかし、追いつめられた精神というのは恐ろしいものだ。拒絶の確信を抱くのと同じ心の何処かに、ロッシュとの友情を信じる気持ちも残っていた。ロッシュが俺を大切に思ってくれているのは、きっと自惚れではない。魂すら躊躇い無く投げ出してくれる、そんなロッシュならあるいは、全てを賭けて訴えればこの想いに応えてくれるのではないかと。夢で見た幸福が許されるのではないかと、そんな馬鹿げた夢想を続ける部分が、心の何処かに存在すのもまた事実だった。
 勿論都合の良い妄想だ、だが疲弊した心は、馬鹿げた妄想にすら縋りいて離れてくれない。溜息を吐いて杯を煽り、注いだ酒を最後の一滴まで飲み干す。強い酒だ、一杯を干しただけで、意識の全体に濃密な霧がかかっていた。回る思考もようやく動きを止め、くだらない妄想も抱えたままの絶望ですら、その姿を霧に隠しつつある。これでいい、考えることなど止めて、正体の無い眠りに沈んでしまえば良い。異常な欲求に、身を任せれば全てを失う。それよりは酒に溺れて、崩れ落ちてしまう方が良かった。
 いつまでこんな夜が続くのだろう、酩酊した頭で考える。絶望が途切れる日は、何も感じず親友と向き合える日は、本当にくるのだろうか。底のない穴に落ち続けているような、終わらない落下感を感じて、たまらず顔を覆った。信じるしかないが、信じることなどできない。だからといって他の手段など、取れる筈も無い。
 もう寝なくては、眠りが無くとも朝はやってくるが、眠らなければ頭も身体も保ちはしない。これ以上醜態を晒し、レイニーに心配をかけたくは無かった。溜息を吐きながら酒瓶を棚に戻し、杯を洗い流す。せめて明日は夢を見なければ良いと、切実に願いながら、重い足取りで寝室へと向かった。



 時折そんな夜を交えながら、一体幾度の夜明けを迎えただろうか。




 それを知ったのは、自分の執務室でのことだった。城の入り口近く、誰もが目にする掲示板を、何気なく眺めていた最中に。
「遠征?」
 呆然と言葉が零れる。恐らく相当に自失した様子を晒してしまったのだろう、連れていた部下が驚いて目を瞬かせるのを、視界の端で認めていた。
 しかし意識は、張り出された紙に集中している。それは軍の情報を掲示するもので、ロッシュ率いる部隊が遠征を行うことが、はっきりと記されていた。日付を見れば今日から数えて一週間と少し後の予定だ。
 そのようですね、と部下が言うのを、遠くで聞いていた。聞いていない、こんな話は誰からも、ロッシュからも聞かされていない。急に決まったものかと推測する、だが詳細を見ればシグナスとの合同演習だ、急ぎで行う内容とは思えない。もっとずっと前から準備を進めていなければおかしいものだった。
「こちらに、話は無かったな」
「はい。軍部だけで進めていたのでしょうかね」
「……そうだな」
 そのこと自体は不自然ではない、俺自身は外交を担当することも多いが、元々は内政が主の部署だ。遠征と行動を共にするのならともかく、何も関わりがなければ、準備段階で話が回らなくとも何もおかしいことは無かった。だが軍部からではなく、ロッシュ本人からも、何も聞かされていないのだ。部隊を率いる当の将軍が遠征計画を知らないなど有り得ない、ロッシュは随分以前から予定を把握していたことになる、なのに俺には伝えてくれなかった。会う機会などいくらもあった、むしろ昨日も夕飯を共にしたというのに、一言も何も言ってくれなかったのだ。
 部下に名を呼ばれ、意識の半分は我に返る。だが残りの半分は、正気に戻り切らぬままで、何処か遠くに立っているようだった。親友同士だ、例え俺が軍から退いても、その事実は変わらない。これまでもこれからも、誰より近い距離であいつの心に触れられる。そう信じていたのに、どうして。
 いや、冷静な部分で考えれば、さしたる意味など無いとも推測できる。忙しい男だ、先の遠征まで気が回らなかったのかもしれないし、ロッシュ程では無いが仕事の詰まっている俺に気を遣ったのかもしれない。あるいは、家にいる間は仕事のことなど忘れたかった可能性もある。そこに悪意は無い、過失ですらない日常的な情報伝達の過程として、不自然の無い可能性をいくらでも挙げることが出来た。
 だが、剥れた意識はそれを納得してくれない。ロッシュとの間に生じた距離を、手を伸ばしても触れられない心を、冷えた固まりとして感じてしまっている。指先が震えていることに、ふと気付いた。強く握り込んで動きを止め、感情が外へと溢れ出るのを防ごうとする。不思議そうにこちらを見ている部下に視線で応答を返して、いつもの調子で歩きだした。一皮剥けば内側には黒い穴が広がっているというのに、平静を装うだけで周囲は何も気付こうとしない。皆そうだ、少しの距離を置いてしまえばそこから入り込む者など居ない、遠巻きにして噂の種にでもして終わりだ。ロッシュだけが違った、かつての俺に近づいてくれた、ただ一人の親友だけが。
 いや、あるいはロッシュもそうなのだろうか。線の外側に居る他人と同様に、俺の変化など知りもせず、親友の顔をして笑うのだろうか。そしていつか、手の届かぬどこかから、刃を向けてくるのか。
 馬鹿馬鹿しい、と笑う口元は、抑えようもなく引き攣ってしまっている。先を歩く部下は気付かない、硬直した表情にも、開いた穴から覗く闇にも。
 底の見えない暗い穴に詰まっているのは、一体何なのだろうか。形も無く、色も無く、ただ冷えきった風だけが指先を凍えさせてゆく。
 ふと、その感覚を何処かで抱いたことを思い出した。
 あれはかつて書を抱いて旅をしていた時。死を迎えた仲間を抱いて、戦場に一人立ち尽くした瞬間。
 そう、知っていた、開いた穴に詰まったこれは。

――これは、絶望だ。



――――――



 夢なのだと、最初から分かっていた。

 ここしばらくは感じた覚えのない、安らかな心地が、心臓を包んでいる。鼓動の響きまで感じられる程鋭敏になっていながら、それが検知するのは絶望ではない。泣きたくなるような安堵が、充足が、指先から内臓までを満たしてくれている。
 視線の先には、ロッシュが居た。当然だ、ロッシュが居なくてこんなに幸せでいられることはない。ただ一人だけの親友、知る者も居ない世界で唯一手を差し伸べて、居場所を与えてくれた恩人。ロッシュが居たからここまで来られた、笑って、戦って、生き延びてこられた。
 ロッシュの頬に触れ、感触を確かめる。大気に晒されて少しだけ冷えた皮膚は、俺の体温で直ぐに温もりを取り戻した。暖かさはロッシュが生きている証で、幸福の源だ。掌の中にそれがあるのが嬉しくて、心からの笑顔を浮かべれば、ロッシュもまた笑って応えてくれる。
 胸の奥では、未だに黒い穴が開いていた。その中には絶望が渦を巻き、今も手足を凍えさせているが、もうそんなことは関係ない。今ロッシュはここに居る、そしてこれからも、誰かに奪われることはなくなる。悲しみが笑顔で塗り潰されるのを感じながら、ロッシュを抱き締め、唇を重ねた。抵抗は無い、それが嬉しい。ロッシュは受け入れてくれる、俺の存在を、望みを、全て。
 口付けながら、頬に触れていた手を、首へと滑らせた。逞しく鍛えられたそこは、人より遙かに太く、両手を遣っても全体を囲うことは難しい。幾度か指の位置を変えていると、くすぐったいのか、触れさせたままの唇から笑い声が零れた。一度顔を離し、目元に軽く口付けると、名を呼ぶ声が帰ってくる。
 本当に、泣きたくなるほど幸せだった。今、ロッシュはここに、俺の傍に居る。そして俺の気持ちを受け入れて、ずっと離れずにいてくれる。これで、苦しみから解放されるのだ。親友を失う悲しみ、敵対する恐怖、そんな形のない絶望はこれから先に存在しなくなる。ロッシュの名を返せば、その顔に柔らかな笑みが浮かんだ。俺も笑って、掌の中の体温を感じながら、触れた指に力を込め始める。
 ようやく気付いた、逃れられない絶望から逃れる唯一の方法。
 ロッシュを殺してしまえば、彼の死を恐れずに済む。
 誰にも奪われず、立場を違えることもなく、ずっとずっと傍らに居られる。
 太く堅い首は、締め付ける力を跳ねつけるため、分厚い筋肉をさらに強張らせている。だがそれは、身体が反射的に行う防衛行動に過ぎない。ロッシュ自身は、機械と生身の腕をぶら下げたまま、抵抗することもなく俺の力を受け入れてくれていた。その顔は少しずつ、そして段々と大きく、苦しさに歪んできている。空気を求めてか薄く開いた、その隙に惹かれて唇に唇を押しつけた。
 穴が閉じていくのを、胸の奥で感じる。最初からこうすれば良かった、だが大丈夫だ、間に合うことが出来た。大切な親友は、他の誰の手にもかかることなく、俺の手の中に収まろうとしている。震える唇を離して、開いたままの目をのぞき込んだ。白目が赤く充血しているのは、俺の指が血流を阻害しているからか。苦しいだろう、すまない、もうすぐ終わるから。聞こえているのかは分からない、それでも出来るだけ優しく呼びかけて、指の力を強めた。ロッシュの唇は小刻みに震え、視線は虚ろに泳いでいたが、ふとその焦点が俺に合わせられた。名を呼ぶと、口元に微かな、だがはっきりとした笑みが浮かぶ。明確に示された意思表示、受諾を示す徴に、心臓が弾ける程の喜びに満ちた。
 夢だ、そう言ったのは、恐らくロッシュだ。分かっている、と俺は応える。これは夢だ、死んでも構わない程幸福なこの瞬間は、間違いなく夢なのだ。掠れた声が、これは夢だ、と繰り返し囁く。夢だからこそ、首を絞められてもロッシュは喋るし、俺の凶行に抵抗もしない。歪んだ想いで命を絶たれる瞬間を、笑って受け入れてくれている。夢でも良い、そう口に出したのはどちらだったか。これが夢でも構わない、幸せと安らぎの内にお前と共に居られる瞬間があるなら、それが例え夢でも。霞んでいるロッシュの脳には、もはや届いていないかもしれないが、それでも心を込めて耳元に吹き込んだ。お前が好きだ、ロッシュ。ロッシュは笑っている、焦点はもはや合ってはいないが、口元にはそれでも笑みが浮かんでいる。優しい親友、大切な唯一の人を、もう誰にも奪わせはしない。ずっと一緒だ、笑いながら首を締め、何度も唇を押しつけた。ロッシュは笑っている、笑っている。夢だ、分かっている、ロッシュの笑顔もこの幸福も全て。頬に濡れた感触があったから、ひょっとしたら泣いていたのかもしれない。それも良い、夢であるならば涙を流すこともあるだろう、これは現実ではないのだから。そうだ、これは夢だ、最初から分かっていた。だが夢を見る自分は現実だと、そのこともまた分かっていた。
 ロッシュは、現実のロッシュは、一体なんと言うだろうか。なんと言って、どんな顔をして、親友がもたらす死を受け取るのだろうか。

 そして俺は。

 俺は一体、どんな














――――――


 限界なのだな、と漠然と思う。
 眠りが浅いせいか、頭の隅は霞がかかったようになっていた。巡る思考の鈍さに甘えて、深いことなど何も考えぬまま、目の前の瓶を見詰める。光を通して宝石のように煌めく、透明な黄金色の酒は、エルーカから少し前に貰い受けたものだ。ロッシュと共に飲もうと思って置いておいたものだが、まさかこんな形でその目的を果たすことになるとは思わなかった。
 いや、まだ全てが決まったわけではない、用意した手段を使わない道は未だ残されている。迷いも恐れも消えたわけではない、むしろ手の中のそれを忌避する感情は強くはっきりと存在する、だが何が最善なのかはもはや自分では分からなくなっていた。今のまま留まるのは絶望に等しく、といって進める道は全て、闇に閉ざされたものだ。今朝見た夢が脳裏を過り、薬の入った小瓶を持つ手が震えた。狂っているのだと言われれば否定は出来ない、自らの安楽のためにロッシュを手にかけるなど――そして、夢が覚めた今でも、その行為に強い誘惑を感じているなど。ロッシュが誰にも奪われなくなるならそれで良い、手段など何でも構わないと、心の半ばはそう叫んでいる。行動に移さないのは理性の働き以上に、喪失への強い恐怖心が欲望を押し留めているからだ。
 しかしそれもいつまで保つか分からない、限界が近いのだと、自分で分かっている。弄んでいた小瓶を、酒の横に並べた。一握りにすれば隠れてしまう小さな硝子瓶には、無色透明な液体が入っている。情報部の伝で手に入れたそれを、しばらく眺めた後、隣の酒瓶の封を解いた。
 これが正しい手段でないことは、誰に言われずとも知っていた。ある意味においては、ロッシュを殺すのと、何も変わらない方法なのかもしれない。親愛も信頼も失って、今までの関係全てを壊すための行為を、今から自分はしようとしている。瓶の蓋を抜き、間抜けな音と共に開いた口を見据えながら、小瓶を手に取る。こちらも蓋を取って傾ければ、とろりとした液体が、ゆっくりと酒の中に滴り落ちた。少しだけ匂いはあるが、酒の味だと言ってしまえば分からない程度のものだ、気付かれることはないだろう。中身全てを注ぐと、二つの瓶の蓋を閉め、酒瓶を軽く揺らして完全に撹拌する。幸か不幸か混濁も凝固も起こらず、見た目には未開封の酒瓶と何も変わらない。切られた封だけが、その酒と他の瓶との違いを明確にしていた。
 これを飲ませて何かが変わると、本気で思っているのだろうか。自問するが返る答えはない、ただ胸の奥に開いたままの穴だけが、凍る冷気を放って主張を続けている。止まれるものなら止まりたい、だが止まった後にどうなるのか、それが恐ろしい。あるいは静止することなど出来ないかもしれない、どんな形であれ、今の状況を壊してしまうまでは。ならば少しでも絶望から遠くなるよう、望むことを行わなければ。
 そして片隅でもう一つ、主張している心がある。ロッシュは俺を拒まないのではないかと、そんな馬鹿げた希望を掲げて、進むべきだと叫ぶ心が存在した。ロッシュが俺に対して抱いてくれている強い親愛は、きっと自惚れが捏造したものではない。かつてロッシュは、ニエとなり去ろうとする俺を、魂を投げ出してでも救おうとしてくれた。あの瞬間から流れた年月は、気持ちが完全に風化するには、短すぎるものではないかと。
 馬鹿な考えだ。
 愚かな、欲望に忠実すぎる考えだと、理性は理解している。だがそれを抑えつけ、消し去るだけの力は、もはや残っていないようだった。それに結局は同じだ、理想の結末を信じようと信じまいと、きっと動かずには居られない。今の関係のままで居て自分が壊れるならば、現状自体を壊さないわけにはいかないのだ。
 意識しないまま、嘆息が零れた。酒瓶を持ち上げると、重い身体を引き摺って、それを棚に収める。ロッシュが誘いに乗ってくれなければそれで終わりだ、この扉は開かれることはない。ロッシュを前にして俺の気持ちが翻った時は、棚の中にある同じ酒、封の切られていない瓶が持ち出されることだろう。理性はそうなって欲しいと願っており、しかしそれは叶わないという奇妙な確信も、やはり何処かに存在した。
 あるいはそれを叫んでいたのは、夢の中の自分だったのかもしれない。嘲笑う声が聞こえた気がして、ゆっくりと首を振る。
 ――決断は全て、その瞬間に。
 全ての行く末を未来に預けて、何もかもを壊す爆弾を残して。
 俺は、その部屋を後にした。




――――――



「ストック。どうした」
 ロッシュが怪訝な顔で問いかけてくるのに、一瞬応えることが出来ず、そのまま視線を返した。何度か口を開き、言い出すことはできずにまた閉じ、そんなことを繰り返していれば確かに不審にも思われるだろう。
「何か用があったんだろ。何だ?」
 手元に置かれたカップに触れながら、ロッシュが促す。例によって仕事中、突然現れた俺に対して、ロッシュは茶まで入れて迎えてくれた。忙しいのはいつもと変わりないだろうに、拒まれ追い返されずに済んでいるのは、受け入れられている証と取っても良いのだろうか。
「いや。そうだな……」
 それに勇気を得て口を開くが、やはり話を切り出すまでにはいかず、そのまま沈黙を続かせてしまう。向かい合うロッシュは眉根を顰め、低く息を吐き出した。
「ストック。お前、大丈夫か」
 責めるのではない、穏やかな質問に、微かに身体が震える。その反応に気づいたかどうか、ロッシュはじっとこちらを見詰めたまま、視線を逸らそうとはしない。
「レイニーがな、心配してたぞ。最近お前がおかしいって」
「……そうか」
「俺も同意見だ、大丈夫か? 随分痩せたみたいだし、顔色も悪いぜ。ちゃんと眠れてないんじゃないのか」
 いつも通りを貫けている自信など最初から無かったが、それでも実際妻に与えた心労を突きつけられると、心臓が痛む。ロッシュから寄せられるそれも同様だ、何に恥じることもない友情を、今から酷い形で裏切ろうとしているのだ。
「……少し、な」
 短く返して言葉を切ると、思った通りにロッシュの顔が心配そうに歪んだ。ロッシュは優しい、勿論俺相手に限ったことではないが、ともかくこの男は弱っている相手を突き放せる人間ではない。それを利用することに、一抹の罪悪感があったが、それは直ぐに暗い穴へと吸い込まれていった。
「何かあったのか?」
「大したことじゃない」
「……あんまり一人でため込むなって、いつも言ってるだろ。何か手伝えることはねえか? 俺に出来ることなら、何でもするぜ」
 優しく力強い笑顔は、眩しい程に輝いてみえる。一瞬、何もかもをぶちまけてしまいたい気になり、拳を握りしめた。まだ早い、今こんな所で行動を起こしても、何もならない。
「有り難う、ロッシュ。本当に大丈夫だ、だが」
 壊すのならば、もっと深い場所で。こちらを覗き込む薄青い目を見ながら、震える指を握り込む。理性の声はもう随分と小さくなってきて、それに代わって渇望の本能が、絶え間ない叫びを上げている。駆り立て、煽って、押し出して。そうして踏み出してしまえば、もう戻ることはできないと、分かっていて。
「そうだな、それなら……今夜、時間はあるか」
 詳細を欠いた問いかけに、意味を探ってか黙り込んだロッシュに向けて、杯を傾ける仕草をしてみせた。戻れないと、分かっていてそれでも、止まることなど出来ない。
「付き合え。気晴らしだ」
 震えはいつの間にか止まっていた、怯えも迷いも、今は息を顰めてしまっている。見慣れた親友の顔に浮かぶ驚き、そして苦笑を、何処か遠いところで見詰めていた。
「お前な……まあ、そんな余裕があるなら安心か」
「忙しいなら構わないが。そろそろ遠征なんだろう」
「大丈夫だ、一晩飲むくらいの余裕はあるさ。今夜はお前が満足するまで付き合ってやるよ」
 快く零される笑顔も、力強い手で肩を叩かれる、優しい痛みも。この夜が過ぎれば全て失ってしむかもしれないそれらを感じながら、何故か心臓は高鳴ることもなく、静かな律動を刻んでいる。これで良いのか、と問いかける心があり、それに対して肯定と否定を返す声が、同じだけの強さで響いていた。
「ああ、頼むぞ、今日は思い切り飲んでやる」
「その意気だ。んじゃ、仕事が片付いたら合流ってことで良いか」
「そうだな、そうするか。――そうそう、飲む場所だが」
 だがどちらの声も無視して、時は進み、身体も動く。自分が考えているのでは無いかのように、唇から言葉は滑り落ち、用意された未来へと誘う道を作り出していく。
「ロッシュ、お前が昔使っていた部屋でどうだ」
「部屋? 宿舎の部屋か」
「まだ自由に使って良いと言われているんだろう」
「まあな、確かにそっちのが静かに飲めて良いか」
「ああ。それに、丁度酒があるんだ」
 その先にあるのが何か、己が定めた出来事をくぐり抜けた後に何が起こるのか、それはまだ分からない。だがそれでも、生きている限り、人は進み続けなければならない。例え待ち受けるのが、絶望と終焉であろうとも。
 ロッシュを見詰める己の心が、何故か静かに安らいでいるのを自覚しながら、最後の一歩を踏み出すために、口元に笑みを浮かべた。
「エルーカから以前、果実酒を貰っていたんだ。折角だから、空けてしまおうと思うんだが」
 絶望と恐怖と、醜い感情を全て覆い隠したその笑顔は、それでもきっと。
 穏やかで、自然なものに見えたことだろう。
 
 





セキゲツ作
2012.09.24 初出

RHTOP / RH-URATOP / TOP