「あ、マルコ!」
呼びかける声に、マルコは急いでいた足を緩め、後ろを振り返った。そこに居たのは別の隊を率いている、顔見知りの軍人だ。マルコが足を止めたのを見て、小走りに開いていた距離を詰めてくる。
「ひょっとして、今からロッシュ将軍のところに行くのか?」
「うん、そうだけど」
友人という程では無いが、同階級の気安さから、行き合えば言葉を交わすことは多い。だから話しかけられたこと自体は全く不自然ではないのだが、世間話にしては妙に深刻な顔をしている気がして、マルコは首を傾げた。
「そうか……気を付けろよ」
「……何を?」
「いや、今忙しいじゃないか」
そしてその疑問は、続けられた言葉によってさらに深まり、首の角度が大きくなる。
元々軍事国家だったアリステルは、戦争が終わった今でも、軍が負う業務が極端に多い。軍全体が日常的に多忙ではある上、突発的な災害などが起これば、その対応によってさらに忙しさを増すことになる。さらにそこへ魔物の発生報告があれば、目が回る程の仕事が積み上がるのは間違いない。
そしてアリステルでは先日、季節外れの大嵐が発生しており、各地で被害が出てしまっている。さらに、魔物では無いが、グランオルグからの訪問を来週に控えてもいた。
「まあ……そうだよね」
それ故彼の言うとおり軍は、そしてそこに所属するマルコは、本当に忙しいのだ。だから急いで書類をロッシュに届け、やるべきことを片付けてしまわないといけないのだが。
「ロッシュ将軍も、随分疲れてらっしゃるみたいで」
「そうだろうねえ」
「だから、気を付けた方が良いぜ」
話を最後まで聞いても、やはり相手の言っていることが分からず、マルコは眉を顰めた。
「だから、何にさ。ロッシュ将軍が疲れてるからって、何か気を付けることがあるの?」
ロッシュは厳しいが、けして理不尽な男ではない。むしろ律儀で真面目で、その上部下思いの、上司としては理想的な人間だ。自分の疲れから部下に当たり散らすなどというようなことは、ロッシュに限れば有り得ないと言っても良い。見た目と態度だけで誤解して欲しくは無いという、その憤りがマルコの外にも出てしまっていたのだろう、相手は慌てた様子で首を振った。
「いや、まあ勿論特に何されるってわけじゃないんだが」
「当たり前だよね、理由が無いなら」
「そうなんだけどな。ただ何ていうか、将軍、何もなさらなくても変に威圧感があるし」
しどろもどろになって言い訳じみたことを言う男に、マルコは珍しく隠そうともせぬ不機嫌そのままに、溜息を吐き出して首を振った。
「何もされないなら良いじゃないか。とにかく、僕は行かないと――君も、まだ仕事は残ってるんだろ?」
とにかく今、アリステル軍全体が忙しいのだ。マルコに立ち話などしている余裕など無いし、その条件は目の前の男も何ら変わらない筈である。マルコの指摘に、男もさすがに話を続ける気を失ったのか、引き攣ったような笑みを浮かべて首肯した。
「あ、ああ……まあな」
「早く終わらせないと、いつまでも帰れないよ。それじゃ、僕はこれで」
きっぱりと会話を打ち切って歩き出す、僅かな間だけ背に視線を感じていたが、それも直ぐに消えて廊下を去っていく足音に取って変わった。マルコはもう一つ溜息を吐くと、早足に歩を進め、やがて目的の扉の前で足を止める。執務室が並ぶ区画において、一際重厚――ということもなく、他の部屋と全く同じ作りの、無個性な扉。脇の名札にロッシュの名が記されているその扉を、マルコは二回、やや強めに叩いた。
「……開いてるぜ」
主が在室している限り、鍵がかけられていたことはないのだが、それでも確認するのが礼儀というものだ。入室の許可を受けてから、マルコは扉を開き、改めてぺこりと頭を下げる。
「失礼します。警備計画書を提出しにっ……」
そして顔を上げ、執務机に座って書類に齧りついているロッシュの顔を見た途端、動き始めたマルコの口が見事にもつれた。中途で途切れた部下の発言に、ロッシュも下に向いていた視線を上げ、マルコを見遣る。
「……どうした」
酷い顔だった。いや、普段のそれと比べての具体的な差異は、それほど大きいものではない。少しばかり目付きが険しく、目の下には軽い隈が浮かび、口元が完全に引き締められている程度だ。それらの微妙な違いが、驚くほど効果的に、彼の纏う雰囲気を厳しいものに変えてしまっていた。威圧感、という単語が否応なしに頭を過り、必死で思考を切り替える。ロッシュはそんな男ではない、これは単に疲れが顔に出てしまっているだけで、部下を脅すつもりなど欠片も無いのは間違いない。
「マルコ?」
ロッシュがじろりとマルコを睨む、実際は単に一瞥しただけなのかもしれないが、その強さは睨むと評さないと間違いになってしまう気がする。硬直したマルコをさすがに不審に思ったのか、どうした、と重ねて問いかけられ、マルコは慌てて書類を前に掲げた。
「あの、警備計画書を、もってきました」
「……そこ、置いといてくれ」
ロッシュは顎をしゃくり、書類の山を示す。そしてマルコの反応を見ることもせず、再び視線を机の上、彼が格闘している最中の書類へと落とした。被害状況の纏めか、それともマルコが持ってきたのと同じような出動計画書か、ともかくやたらと細かく書き込まれているらしいそれを険しい目付きで睨みつけている。どうやらロッシュは、マルコが想像していた以上に多忙であるらしい。その低すぎる温度に慄きながら、彼の邪魔をしないようにと、マルコはそっと近付き書類を山に重ねる。
ロッシュはひたすら己の仕事に集中している、一通り書面に目を通したのか、何かを書き付けようとペンを取り――と、伸ばした指先からペンが逃げだし、硬い音を立てて床へと落下した。
「だ、大丈夫ですか!」
「ああ……折れちゃいないだろ。ありがとよ」
慌ててマルコはそれを拾い、空を切った姿勢のまま硬直していたロッシュへと手渡す。ロッシュはそれを受け取り、書類へ戻ろうとしたが、その動きは途中でゆらりと止まってしまった。
そして代わりに発せられた、深い深い溜息に、マルコは丸い目を瞬かせる。
「……大丈夫、ですか?」
困ったように問いかけても、ロッシュは答えず、己の肩と首を回している。ごきごきと響く不吉な音は、言葉よりも強く、彼の疲労を表していた。
「すごい凝りですね……医療部に行って解してもらったらどうですか」
「これが片づいたらな」
マルコの心配と現実的な提案も、積み上げられた書類の山の前には、敢えなく阻まれてしまうようだ。大きく表に出そうとはしないが、明らかに辛そうなロッシュの様子に、マルコは気遣わしげに首を傾げる。
「随分、忙しいみたいですね」
「まあな。お前らだってそうだろ」
「ロッシュ将軍に比べたら、大したことありませんよ。キール君はどうしたんですか?」
将軍秘書として働いている青年のおかげで、最近は随分ロッシュの業務も楽になったと聞いたのだが。しかしロッシュは、何事も無さげに首を振り、目の前の書類を指し示した。
「あちこち駆け回って貰ってるよ。おかげで随分減ったぜ」
「……これで、ですか」
キールは十分頑張っているが、彼の事務処理能力を持ってしても業務を真っ当な量に戻すことはできなかったのだろう。将軍を助けることを生き甲斐にしている青年の、苦悩と嘆きが見ずとも感じられ、マルコは引き攣った笑みを浮かべた。
「大丈夫ですか、この量? 僕で引き受けられることでしたら、回してくださって構いませんよ」
マルコとて余裕があるわけではないが、さすがにこれを見過ごすことは部下として、そして友人として出来ない。しかしロッシュは苦笑して、手をひらりと振るのみだ。
「ありがとよ、だがお前も手一杯だろ。こっちはこっちで回してるから大丈夫だ」
「でも……」
いくら軍全体が忙しいといっても、その中でロッシュが最も忙しいのは間違いない。それを前にして、多少の業務すら引き受けられないわけがないと、そう意気込むマルコの心が少しは伝わったのだろうか。
「……だが、まあそうだな。お前、この後時間あるか」
ロッシュは考え込む様子を見せると、マルコをすっと見据えた。声を発したからか、少しは和らいだ視線を受け止めつつ、マルコは首肯を返す。
「はい、勿論です」
「そうか。じゃ、ちょっとこっち来てくれ」
本当は戻って報告書を作らなくてはならないのだが、それは後に回しても構わない。呼ばれるままに机を回り込み、椅子に座ったロッシュの横へと近付いていく。
「何です……ふぎゅ!?」
当然仕事を申し付けられるのかと思っていた、口に出そうとしていたのは、その内容を問う言葉だ。だがそれが終わるよりも早く、何故かロッシュの右腕が伸び、マルコを掴んで腕の中に納めてしまった。
「……あー」
移動させただけではない、片腕のみとは思えない程強力な力でマルコの身体を締め付け、その位置を固定している。軍服ごしに分厚い胸板に押し付けられ、マルコはぎゅう、と動物じみた鳴き声を発した。ロッシュはそれにも気付かないのか、ただひたすらマルコを抱き締め――そうだ、これは抱擁だ!――一回りした手を首周りの毛皮に押し当てている。もふもふと柔らかな毛を弄るロッシュに抗して、マルコも必死で手足をばたつかせるが、そんな些細な努力で覆せる体格差ではない。
「ロッシュさん! ロッシュさん!」
それでも、胸元でもごもごと叫び続けると、さすがにロッシュもマルコの抗議に気付いてくれたようだった。おう、だか何だかと口の中で呟くと、締め付けていた腕の力を緩め、マルコを解放する――
「ふう……うわわっ!!」
と、思えたのは一瞬にも満たない間のことだった。力を抜いたのは、単に身体の間に空間を作るためのものだったらしい。ロッシュはマルコの肩を掴み、ぐるりと身体を半回転させると、再び腕の中へと収めてしまう。確かにこれで呼吸は楽になった、身体の収まりも心なしか良い気がする、だが問題はそういうことではなく。
「な、何するんですかいきなり!」
自由になった両手で、マルコはロッシュの腕をばしばしと叩き、今度こそはっきりと抗議の意を示した。不安定な状態ではさほど力が入るわけではないが、取り敢えずマルコの意志が伝わればそれで良い。明確にされた抵抗に、ロッシュは毛皮を探る手を引きはしなかったが、一応その動きを止めた。マルコの頭上、視界から外れた見えない位置で、低い唸り声が響く。
「……急ぐか」
「え、え?」
「この後。何か急ぎか」
「いや、えっと、そうじゃなくて」
「時間あるなら……少しこのまま、頼む」
「何をですかっ!?」
悲鳴のような問いに、帰ってくる答えは無く、許可は取ったと言わんばかりにロッシュの手が動きを再開する。マルコの困惑を無視して、ひたすらに毛皮のふわふわした感触を楽しんでいる右腕が、しかし突然ふいと外れた。必然的にマルコの拘束は失われる、だがそれが終了の合図では無いことくらい、まともな学習能力があれば簡単に推測できることだ。マルコの予想通り、ロッシュの右手は平常の位置に戻されることなく、マルコの頭上に移動する。そしてためらう事無く頭上の帽子を取り外すと、机の上に置いてしまった。
「ロッシュさん、だからこれ、どういうことなんですか!」
そして、守りを失った頭部に右腕を回し、マルコの髪を遠慮なくかき回し始める。さすがに毛皮に比べれば硬いはずだが、それでも猫毛気味の頭髪は十分柔らかく感じられたのか、ロッシュは好き勝手にその髪を弄くり回している。
「あー……気にすんな」
「無理ですよ!」
何処の国に、上司に抱き竦められて服だの髪だのを触り倒されるのを、気にしないでいられる者が居るというのか。しかも何だかその体勢が、妙に収まり良く感じられてしまい、マルコはぐぅと呻き声を上げた。確かにマルコは小柄だ、そしてロッシュは相当に体格が良い、だからといってまるで人形でも抱くかのようにはまらなくとも良いだろうに。もしこれが収まり悪くはみ出すようなら、ロッシュだって妙なことは諦めて離してくれたに違いないのだ。
「落ち着くんだよ、こうしてると」
「僕は落ち着きません……」
ロッシュはどうやら髪の感触が気に入ったようで、先程までの威圧感は何処へやら、心地よく緩んだ気配を全力で振りまいていた。マルコの側はそれと真逆だ、殆ど身体全体で他人の体温を感じる機会などそうは無く、伝わる心音と掌の感触は無意味に心を騒がせてくる。強引に逃げ出してしまおうかという考えが、ふと脳裏をよぎった。掌が頭に回されたことで、右腕の拘束は半ばまで解かれている、今なら振り切ることは十分可能だろう。しかし幸せそうに髪を撫で回しているロッシュの様子を考えると、それを実行するのも躊躇われてしまう。
「時間がやばかったら、言えよ」
そう言って気遣ってくれるあたり、彼もマルコの人格を忘れているわけでもないのだろうが。しかし、時間以外に気にするべき点があるということにも、出来れば気付いて欲しい。どうしたものかとマルコが頭を抱える、いや実際にマルコの頭を抱えているのはロッシュなのだが。
と、そこに。
「将軍、ただいま戻りまっ」
勢い良く扉が開く、そしてそれ以上の勢いで、部屋の中へとキールが飛び込んできた。若さに溢れる溌剌とした挨拶は、当然と言えば当然だが、室内の様子を目に入れた途端に途切れてしまう。身体も表情も凍り付かせたキールが、マルコの位置からははっきり見えてしまい、慌てて手足をばたつかせて抗弁した。
「キール君、落ち着いて、これは……」
「おう、キール、戻ったか」
焦りが極まっているマルコに対して、ロッシュの側は堂々としたものだ。部下を抱きかかえて頭を撫でているという異常な行動の最中だというのに、何故こんなにも揺るがず居られるのか、マルコとしては理解できない。キールも状況は飲み込めていない筈だが、将軍に話しかけられればそれに反応するのが身についているだろう、ロッシュの声にびしりと背筋を伸ばす。そして秘書のそれへと、顔を戻した。
「はい、遅くなりました。総務と警備部には調整を取ってきましたので、最終提出の期限は二日前で大丈夫です。それと被害状況調査隊の後処理も、総務と医療部に移管できます」
「おう、そりゃ助かる。ありがとよ」
目の前に広がる情景を無視して、きびきびと報告するキールは、本当に秘書の鏡と言える。それが何故か哀れに見えてしまうのは、マルコの心境が影響しているからだろうか。相変わらずマルコの頭を撫で回しながら、ロッシュは少しだけ微笑んだようだった。
「じゃ、お前も少し休憩に入れ。朝からずっと動き詰めだったからな」
「いえ、自分はまだ」
「俺も休んでるから大丈夫だ。ちっとでも回復しねえと、集中力が持たんぞ」
言っていることは優しい上司なのだが、休みながらしていることがおかしいというのは、どうやって教えたら良いのだろうか。少なくともキールはそれを指摘する気はないようで、素直に頷いて書類を置き、いそいそと自分の机に向かった。
「分かりました、それじゃお茶入れますね。マルコ隊長も、よろしかったらご一緒にどうぞ」
そう言って三人分のお茶を淹れようとしているから、一応マルコの存在を無視するつもりは無いらしいのだが。そこまでするならこの状況をどうにかして欲しいと、無言で訴えるマルコの視線に気付いたのか、キールは申し訳なさそうな表情を浮かべて頭を下げた。
「すいません、マルコ隊長もお忙しいのに、引き留めてしまって」
「いや、それは良いんだけど……っていうかそうじゃなくて、もっと他の問題があるっていうか」
ロッシュの手前、直接言うのも躊躇われて口を濁すマルコに、キールが分かっていると言いたげに手を合わせ、視線で何かを訴えてくる。
「すいません、少しだけ付き合ってあげてください。……僕じゃ、駄目みたいなんで」
「試したのっ!?」
思わず出てしまった大声を気にして身を縮めたが、ロッシュもキールも、特に気にした様子はない。むしろ少しくらいは気にして欲しい、と思うのだが、それは贅沢な願いなのだろうか。
しかしこのような目に遭わされたのが、マルコ一人では無かったとは。だがキールではロッシュの眼鏡に敵わなかったようだ、それが体格の問題なのか、それとも触り心地の問題なのかはロッシュ本人に聞かないと分からないが。問いつめてみたい気が一瞬だけ過り、そして直ぐ虚しさに取って代わった。
「とにかく、将軍のお疲れを少しでも取るため――ひいてはアリステルのためだと思って、お願いします!」
「いや、そんなこと言われても……」
放っておけば地面に頭を突きかねない程全力で礼をするキールに、マルコはそれ以上の言葉を接ぐことも出来ず、代わりに深い溜息を吐いた。
「マルコ?」
頭上から響く声は、単純な問いかけではなく様子を伺う気配がある。ようやくのことで示された、マルコの意向を聞いてくれそうだ、これに頼れば今の拘束を抜け出せるかもしれない。
しかしマルコは、拒絶を伝える代わりにもう一つだけ溜息を吐いて、ロッシュの腕に身体を預けた。
「十分経ったら、仕事に戻ってくださいよ。それ以上抜けたら、将軍も僕も、周りが困ります」
「……ああ」
マルコの答えにロッシュが応える、その振動が背中に伝わってくる。そして太い指が髪を梳く感触。最初の驚きと、多少の異常ささえ流せれば、それもそう悪いものではない――残念ながら。
「良かったですね、将軍」
ロッシュ以上に嬉しそうな、しかしその中にも一抹の嫉妬を混ぜて、キールが微笑んでいる。それが理不尽なような、ほんの少しだけ申し訳ないような気持ちになりつつ。とにかくロッシュが幸せであるなら良いかと、諦念と共に、ゆっくりと瞼を閉じた。





セキゲツ作
2012.06.03 初出

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