壮麗な装飾に覆われた王宮の廊下で、それに負けぬほど美しい存在が、一人の女性を前にして立ち尽くしていた。女性が誰かは分からない、いつかの夜会で顔を見かけた覚えはあるから、おそらく何処かの議員の妻か娘なのであろう。そしてそれに対するのグランオルグで最も勇猛、且つ最も見目麗しいと評判の高い、ディアス将軍だ。――少し離れたところで彼らの様子を見守っているセルバンと、志を共にする盟友でもある。

「……、…………」
「それは…………、ですが」

セルバンが女王との会見を終えて戻る途中、見慣れた顔が女性を伴って物陰へと消えるのを見て、ふと状況を伺ってみたのだ。彼らは人目に付かぬ場所に落ち着き、真剣な顔をして何かを話し合っている。他の者であれば女性を誘惑しようと試みている最中と判断するところだが、男の側がディアスとあっては、その可能性は完全に排除出来る。彼はこれほどの美しさを持ちながら、色恋に全く興味を持たず、将軍として武の道を邁進することに心を砕いている。さらに言えば彼ほどの美貌と実力があれば、言葉を尽くして誘い込むなどという手間を掛けずとも、流し目のひとつでどんな女性も籠絡できるのだ。
だから、一般的な解釈はこの際当てはまらない。考えられるとすれば、政治的な目的を持っての接触か、それとも。

「………………!」

と、その時突然、女性が何かを叫んだ。抑えた声で発せられたため、内容まではセルバンに届かない。しかし続く行動によって、何を言ったのかは容易に推測することが出来るようになった――『相手に強引に口付ける』、その行為が示す彼女の目的は明白で、ならば会話の中身も簡単に察することが出来るというものだ。確かに、ディアスの側から誘いをかけることが有り得ずとも、逆の立場とあれば頻繁に起こっている事である。彼は才能と容色を兼ね備えたグランオルグの華として、貴婦人達の憧れを一身に集める存在なのだ。
しかしそんな熱い想いも、当のディアスは迷惑の一語としか感じられないらしい。情熱的に迫る女性の身体を礼を失しない程度に押し返し、端正な顔立ちに冷たい表情を浮かべて彼女を見返す。不機嫌に引き結ばれていた唇が開き、そこから何某かの言葉が滑り落ちたようだった。それを聞いた瞬間、彼女はびくりと身を震わせて、そして。

「っ…………」

泣き出しそうに歪んだ顔を隠そうともせず、踵を返し、物陰から飛び出してきた。一瞬身を隠そうかと考えたが、涙で歪んだ視界には廊下の隅で気配を消す部外者の姿など入ってもいないことを察して、そのまま見送ることにする。すれ違う一瞬に嗚咽の声が聞こえて、セルバンは眉を顰めた。女というのは実に簡単に悲劇に酔いしれる、己に陶酔して悲しみを甘美なものに変える手際の見事さは、持って産まれた才能と言っていいものだ。勿論その行為は身勝手極まりなく、最中の姿といったら醜悪としか表現できないのだが、彼女達自身はそれに気付いてなど居ないのだろう。自分の姿がどう見えるかを理解しているとしたら、こうも簡単に意中の男性の前で披露出来るはずもない。現にディアスもセルバンと同じ感想を抱いたらしく、同情など欠片も無い冷徹な色を浮かべて、嘆息を零していた。

「ディアス将軍」

そんな彼の前に、セルバンはようやく足を踏み出し、姿を明らかにする。傍観者の存在と正体に気付いていたのかどうか、突然の登場にディアスは驚いた様子もなく、現れたセルバンに向けて軽く会釈をしてみせた。

「セルバン伯爵。盗み見とは、お人の悪い」
「聞こえの悪い言葉を使わないで頂きたい、話しかける機を失ってしまっただけですよ」

王宮の中ではどこに要らぬ耳があるか分からない、不要な情報を余人に与えることを警戒して、双方共に公式の場で交わす口調のままだ。盟友であり旧友であり、そしてそれ以上の関係である彼らだが、親しげに振る舞うことが許されない状況は当然心得ている。

「ディアス将軍こそ、らしからぬ失態でしたな。武人でもない淑女に隙を突かれるなど」
「これは手厳しい。いや全く、無様なところをお見せ致しました」

先程の不快を思い出したのか、ディアスが美しい顔を微かに歪めた。

「まさか、あれほど恥を知らぬ行動に出るとは想像できませんでしてね。仮にも社会的地位を持つ者と、買い被っていたようです」
「恋に狂った婦人ほど始末に悪いものはありませんからね、これからは気をつけられることです。唇を奪われるくらいで済めば良いですが、思い詰めて命でも狙われた日には、グランオルグ中の女性が復讐に走りかねない」
「そうですね、重々気をつけることに致しましょう」

セルバンの言葉に応えて、ディアスは鹿爪らしく頷きを返す。そして、彼を良く知る者でなければ分からない程度のほんの微かな不機嫌を、その表情に混じらせてみせた。

「それにしても伯爵は冷静でいらっしゃる、人事とはいえこのような場面、少しは慌てるのが常人の反応というものです」
「ほう? そういうものですかね」
「ええ、それを眉ひとつ動かさぬとは、さすが女王の右腕と言われるお方だ」

迂遠な言葉ではあるが、透き通る紫の虹彩に浮かんだ色を見れば、そこに込められた真意は明らかだ。薄情を攻めるその光を、セルバンはしかし気にすることもなく、見た目ばかりは人当たりの良い笑みを浮かべた。

「何、他の者ならともかく、相手がディアス将軍ではね。女性から詰め寄るのも自然なことですし、結果も見えております、動揺する要素などありはしませんよ」
「成る程。評価頂いているようで、光栄の至りです」

ディアスと彼との絆は確固たるもので、誰が横槍を入れてこようが、揺らぐことなど有り得ない。そんな深い自信に裏打ちされた余裕を漂わされ、ディアスも仕方ない、といった気配の苦笑を浮かべた。それを眺めるセルバンの目が、ふと険しくなる。

「ですが、そのままではいけませんね」
「……何でしょう?」
「紅が、移ってしまっています」

強引に口付けられた際に、相手の口紅が付いてしまったのだろう。ディアスの唇が持つ健康的な血色の上に、濃い赤が一筋、掃かれていた。塗るというほどはっきり乗せられたものではないが、ディアスの整った容貌に、それは奇妙に扇状的な色合を加えている。セルバンはそれを不満げに見遣り、懐から手布を取りだした。

「余計な勘ぐりをされてはいけない、拭き取っておいたほうがいいでしょう」
「ああ、これは失礼」
「お気になさらず。それに」

そして紅を拭き取るためにディアスの唇に押し当てた。必然的に、ただ向かい合っていた時より身体は近くなるが、しかしセルバンは必要とされる以上にその距離を詰めて――

「お前のその美しさを覆い隠すのは、例え紅の一掃きであろうとも耐えられないからな」

――寄り添った相手だけが聞き取ることができる、密やかな音量。囁くように発せられた言葉に、ディアスは一瞬目を見開いた。そして、唇に当てられた布の陰で、ふと微笑を浮かべてみせる。

「……光栄だ、と言っておこう」

そう返した彼の声も、また、気を緩めれば聞き漏らしてしまうほど低いもので。しかしセルバンは逃すことなくそれを捉え、にやりと満足げな笑みを浮かべた。

「さ、これで良い」

そして紅を全て拭い取ると、素知らぬ顔でディアスから身体を離す。ディアスもまた、何事も無かったかのように表情を作り、武人らしい背筋の伸びた姿に戻った。

「有り難うございます、伯爵」
「何、大したことではありませんよ。では、私はこれで失礼致します」

儀礼的な礼と言葉、しかしそんな動作の中で、ちらりと瞳に獰猛な色が浮かぶ。

「今度また、話でも致しましょう。もう少しゆっくりと、ね」
「――ええ、そうですね」

それと共に投げられた誘いの言葉に、ディアスも微かな笑みを口元に上らせた。

「是非。楽しみにしております」

その言葉を最後として、彼らは今度こそ、国の要人としての仮面を被り直し。余人の入らぬ時間を得るまで、真実の言葉を、その奥に押し込めるのだった。




セキゲツ作
2011.09.21 初出

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