背後に、気配を感じる。

それには形も色も匂いも無く、ただ茫漠とした存在だけを知覚に訴えかけてくる。そして距離を置いて、あるいは直ぐ近くから、キールのことを追ってくるのだ。気配からの逃走は今に始まったことではない、それは随分前から続いていて、もはや慣れ親しんだと言ってすら良いものだった。
気配が力を現すのは、夢の中でだけだ。現実の光の下では意識すらしないというのに、今この時、眠りに落ちたキールが見る夢の中において、それは酷く恐ろしく感じられた。逃げなければいけない、あれに捕まるわけにはいかないと、魂の奥から恐怖が湧きだしてくる。もし捕まれば自分は自分で居られなくなる、そんな予感がキールには有った。何の根拠も無いように思われるがそれはきっと正しい、だから逃げる、最悪の未来を形にしないように。気配は未だ遙かに遠いが、それで安心出来るわけではない。
何故なら。

(……キール)

何処からか、声が聞こえた。耳慣れた愛おしいそれが心に届いた瞬間、キールと気配との間に開いていた距離が、一気に縮まってしまう。ここは夢、物理的な空間など意味を持たない世界、ある時には遠くに在っても次の瞬間そこに居るとは限らない。油断をすればあっという間に追いつかれてしまう、だから逃げ続けなければ。捕まって、全てが終わってしまわないように。

(キール)

夢の奥、閉ざされたはずの思考の底にまで届く真っ直ぐな声。それが響く度に気配の勢いが増し、キールとの距離を狭めてくる。追い縋ってくる気配が直ぐ傍まで接近し、彼に触れようと手を伸ばすのを感じた。キールはそれを振り解く、しかしほんの一瞬だけであっても気配に接触したことにより、心は望まぬ変質を始めてしまっていた。抱えた心の一部、気配と接した部分が、腐臭を放つ醜いものへと姿を変えてゆく。爛れ崩れかけたそこは繰り返し響く声に反応し、痛みと、痛みに似ているがそれより遙かに甘い感覚を生みだした。身を支配しかねないそれを嫌って、キールは変わってしまった心を元に戻そうと、あるいは切り捨てようともがく。しかしその隙を突いて、気配はついにキールとの距離を零にしてしまった。背中にべたりと張り付いたそれは、実体など無いくせにどんどんと重さを増し、キールと同一になるべく染み入ってこようとしてくる。やめろ、と叫んでも夢の中のこと、実際に声を発することなどできない。さらに気づけば、周囲の闇すら気配と同質のものに姿を変え、キールのことを取り囲んでしまっていた。

(起きろ、キール)

響く声に呼応するようにして、増殖した気配がどくりと蠢く。それを止めたくてもがくが、動きは夢特有の粘りつくようなものにしかならず、気配に対して何の効果も与えられない。微かな抵抗など構いもせず、キールを包み込む程に膨れ上がった気配に、それでも抗おうと必死で身体を動かした。やめろ、はなせ、と叫び声をあげ、腕を振り上げて。


「っ、おい落ち着け、キール!」




…………そこで、目が覚めた。


ゆらりと回る視界、しかし目の前に立つ大きな影を認識した瞬間、意識と視覚の焦点が一気に収束する。

「し、将軍!」
「おう、目ぇ覚めたか」

些か驚いた様子で身を引いていたロッシュだが、キールが声を上げると、普段の柔らかな笑みを取り戻して机の傍らに寄ってきた。

「自分、ひょっとして寝てましたか?」
「おうよ。俺も今来たとこだから、どれくらいかは知らんがな」

乱れた息を整えながら問いかけるキールに、ロッシュは事も無げに頷く。その答えにキールは、寝起きの顔色をさらに悪くして、盛大に頭を抱えた。

「うわああ、すいません、仕事中に……!」
「気にすんな、疲れてたんだろ。随分うなされてたが、大丈夫か?」

しかし業務中の居眠りを咎める様子は、ロッシュには無かった。むしろ息を切らし、脂汗をかいたキールの様子を心配してか、気遣わしげな声をかけてくる。一瞬その場から離れたと思うと、常備されている水差しからコップに水を移し、それをキールに手渡した。

「ほら、これ飲んで落ち着け。ちっとは目が覚めんだろ」
「すいません、有り難うございます……」
「そのままにしとこうとも思ったんだが、呻くは唸るは寝言は言うわで、ちっとも休めてねえみたいだったからな」
「いえっ、そんな、業務時間中に寝ているわけにはいきませんよ!」

震える手でそれを受け取ったキールは、啜るように僅かばかりの水を口に含み、口腔の嫌なねばりけを濯ぎ落とした。それで少しは夢の存在感が薄まった気がして、大きく息を吐く。残った水を一気に飲み干し、視線を上げれば、父親のように力強く微笑むロッシュと目が合った。
――夢の中で感じた気配が、キールの背でどくりと存在を主張する。キールの心に侵入し、支配しようと蠢くそれに抗って、キールは手の中のコップをきつく握りしめた。

「……あの、ちなみに寝言って、何て言ってました?」
「止めろとかなんとか、そんな感じだったぜ」
「…………」
「んで、起こしたらいきなり叫んで跳ね起きたんだが……やな夢でも見てたのか?」
「あ、えーっと……はい」

そんな葛藤など知る筈もないロッシュが、笑いながらそんなことを聞く。へばりついたままの気配、そしてそれに変質させられて熱くなる心の一部を抑え込んで、キールも必死で笑顔を浮かべた。

「何か、追いかけられてるみたいな感じの夢でした」
「へえ、何にだよ」
「……それは、よく分からないんですけど」

その答えが嘘だと、自分自身は分かっている。夢の中でキールを追い回し、現実に戻った今でも存在を誇示することを止めない気配。ロッシュの声に、体温に、浮かべた笑顔にも反応して疼くそれの正体を、キールは確かに知っていた。
何故ならそれは、元々キールの一部だったものだから。

「正体が分からんもんに追いかけられる、か」
「はい、嫌な夢でした、本当に」
「だろうなあ。お前、何か逃げたいことでもあるんじゃねえか? 仕事とか試験とか」
「そのままですねえ」

実直な性格そのままに、実に素直な解釈を披露してくれるロッシュに、思わず笑い声が零れた。しかしその推論は正しい、夢の中で追ってくる醜い自分から、キールは逃げたくてたまらない。日常で存在を押し込め、否定している劣情が、現実から解き放たれた世界でだけは抑える力を失って噴出するのだ。出来ることなら完全に消し去ってしまいたい、しかしどうしても消滅させることは出来ず、終わることのない追跡と逃走を眠りの狭間に繰り返している。

「何だ、自分はもっと複雑だとでも言いたいのか?」
「うーん、その言い方だと実際は単純みたいに聞こえますよねえ」
「その言い方だと本当は違うみてえに聞こえるな」

からかうような口調で言われ、キールは憮然とした表情を浮かべる。この人は本当に何も分かっていない、目の前に居る男がどれほど危険な感情を負っているのか、全く気づいてもいないのだ。共に仕事をする秘書が自分に対して醜い劣情を抱いていて、その想いを切り捨ててようやく普通の姿を保っていることなど、想像すらしたことはないのだろう。キールが示す愛情は、裏も表もない部下としての親愛だと、信じて疑っていない。
不機嫌そうに口を尖らせたキールに向けて、ロッシュは豪快に笑ってみせた。そしてキールの頭に大きな手を乗せて、ぐしゃりと髪を乱しながら撫で回す。

「冗談だって、拗ねんなよ」
「拗ねてなんかいません、そんな子供みたいなことないでください!」
「分かった、分かった」
「本当に分かってくださってますか? 何か適当っぽいなあ」
「適当なわけあるか、信じろって。大体、ガキと思ってたら秘書なんてさせてねえよ」
「…………」

ロッシュの言葉に、キールはたまらず黙り込んだ。ずるい、と言葉に出さずに呟く。にやりと笑ってそんなことを言われれば、怒りも他の感情もぶつけられない、黙らざるを得なくなってしまうのに。そんな卑怯な発言を、この上司は何の計算も無く、心からの声として発してしまうのだ。
小さく溜息を吐いて、せめてもの抵抗に頭の上からロッシュの掌を引き剥がしてやる。……離れていく体温に、強い渇望を掻き立てられそうになるが、理性の力で抑えつけた。

「どうしてそういう事をおっしゃるんですか。反則ですよ」
「ん、何がだ?」
「…………何でもありません!」

ロッシュがキールを見詰める、その笑顔には欠片ほどの疑念も警戒も存在しない。敵に対しては鉄壁を誇る将軍も、身の内に入れた者に対してはどこまでも無防備だ。そこに害意があることなど考えもしていない、仮にキールが悪心を以て行動すれば、彼の命を奪うことは十分可能だろう。もしかしたら、夢の気配が望むような結末に持ち込むことすら、出来るかもしれない。
だから、守らなければ。他者の、そして己の悪意から、彼を守ってやらなければ。

「はい、そうおっしゃって下さるなら、ちゃんと秘書として働かせて頂きますからね。将軍も、仕事に戻ってください」

意識して厳しい顔と声を作り、普段の自分を取り戻す。変質しかけた心を正常なものに戻し、将軍の秘書としてふさわしい姿を保つために。ロッシュはそんなキールの様子に安心したのか、視線を僅かに柔らかく緩めて、自分の執務机へ移動した。

「ああ、そうさせてもらうぜ。さっさと片付けねえと、今日も残業になっちまう」
「え、まさか残業せずに帰れるつもりでいらっしゃるんですか?」
「……無理そうか?」
「そうですね……とりあえず、まずは夕飯前を目標にしましょう」
「ああ……いや、因みに夕飯っつーのは、何時くらいで考えてるんだ」
「9時くらいでしょうかね?」
「遅えよ! くっそー、せめて7時までには終わらせねえと、チビが寝ちまうんだよ」
「それじゃ、頑張って進めましょうね。僕も出来るだけ補佐しますから」
「おう、頼んだぜ。ったく、どうして毎日毎日こうも書類があるんだろうなあ……」

ぼやきながら仕事に取りかかるロッシュの姿を、キールは苦笑しながら見詰めた。静かな親愛が心を満たし、常の姿が戻ってくるのを感じる。重く覆い被さっていたはずの気配は、いつのまにか酷く力弱くなっていた。
そう、現実の光の下では、夢のように逃げる必要などない。目の前にいる守るべき人が、自分自身に立ち向かい、ねじ伏せる強さをくれる。

「ぼやいていても仕事は終わりませんよ? 口じゃなくて手を動かしましょう!」
「わーってるよ、ったく……段々首相の秘書官に似てきたな、お前」
「えええ、僕はあそこまで酷くないですよ!」

賑やかに騒ぎながら仕事を続けるキールの背で、夢の中の気配は、いつの間にか薄れて消えてしまっていて。
その事実に気付いたキールは、ふと穏やかな笑みを浮かべ、それを最後に気配の存在を締め出した。




セキゲツ作
2011.09.21 初出

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