室内に満ちる若者達の声に、ストックは目を細めた。ロッシュ隊が配属された砂の砦、2つの歴史を行き来しているストックが経験した中でも、ここは格段に騒がしい場所である。特に今は砦周辺の魔物討伐に出かける直前であり、大人数が一所に集まって戦支度をしている最中だから尚更だった。部屋に詰め込まれた人数が多いのも一因、金属製の武具を扱っているのも一因、そして隊に所属しているのが総じて若い男達であるのも一因となっている。さすがに少女のような姦しさは無いが、何かにつけて野太い声で騒ぎが起こり、今のように大人数が一室に集められると耳が痛いほどの音量になっていた。
とはいえこうして騒ぐことができるというのも、彼らが戦場の緊張に慣れてきたためと言えなくもない。隊が結成された直後は、戦いの準備を行っている間など、それこそ葬式にでも赴くのではという程の重苦しい沈黙に支配されていたものだ。

「ストック、どうした?」

一瞬心が過去に飛んだ、その気配を敏感に察したのか、共に支度をしていた親友が声をかけてくる。ストックは慌てて意識を現在に戻すと、無言で首を振って何事もないことを主張した。この男は豪放な見た目と言動に反して、妙に敏感で細かいところまで気のつく性質なのだ。だからこそ、新兵部隊の隊長などという面倒な仕事も、立派にこなしているのだが。

「いや、何でもない。……それより、時間は大丈夫か」
「ああ、集合時間までは余裕がある。こいつらも随分支度が速くなったしな」

笑いと共に発せられたその言葉に、周囲に居た隊員達の表情がぱっと明るくなった。彼は細部に到る気遣いと、元来の人当たりの良さで、隊員達から確実に人望を集めている。敬愛する隊長に誉められて機嫌を上向かせる男達を、ストックは苦笑して眺めた。
と、その横でロッシュが、ふとある隊員に目を留める。気配の色が変わったのを感じてストックが目を遣ると、ロッシュが徐にその隊員へと近づく姿があった。

「おい、今良いか?」
「はいっ、何でしょうか!」

隊員はロッシュの言葉に振り向くと、笑顔と共に問いを発する。しかしロッシュはそれに答えぬまま、彼の右手をひょいと持ち上げて。

そして――てのひらの中心に、自分の唇を押し当てた。


「…………」
「………………」
「……………………」

騒がしかった室内が瞬時に静まり返り、太陽すらも凍り付くような冷気が漂う。中心に置かれたロッシュは、一瞬にして変化した部屋の空気に驚いたのか、隊員の手を離して周囲を見渡した。

「な、何だよ。どうした?」
「……どうしたも、こうしたも……」

硬直した室内の者達、その例に漏れず固まっていたストックが、ぎこちなく溜息を吐く。普段から滑らかではない舌をさらに重くしている親友の様子に、ロッシュは不思議そうに首を傾げた。そのあまりに暢気な仕草に、ストックの脳に鈍痛が生じる。

「……お前は一体、何をやっているんだ」
「ああ、今のか? そうか、ストックも知らねえか」

しかし当のロッシュは、隊員達全員が固まって動けないのも、ストックが視線に冷たいものを乗せて睨み付けているのも、頓着した様子はない。てのひらに口付けられた隊員が慌てた様子で何かを言おうとしているが、それも気にせず言葉を続けた。

「シグナスに伝わるまじないらしいぜ。腕の立つ戦士が武器を持つ手に口付けると、力を分けてもらえるとかいう」
「…………まじない? シグナスの……?」
「ああ、こいつがシグナス出身だとかでな。前に頼まれてたのを思い出したんで、やってやったんだが」

ロッシュの前に立つ隊員に、室内全員の視線が集まる。因みにストックの知識、記憶を失っても残されていた各国に関する知識の限りで言えば、シグナスにそのような風習は無かったはずだ。代わりにグランオルグやアリステルの一部には、口付ける場所で相手に対する想いを表現するという文化があり、それに当てはめるとてのひらに口付ける意味は――

「お、お、お前……何をっ、隊長に、何を吹き込んでっ」

顔を真っ赤にしたキールが、隊員に詰め寄る。興奮し過ぎているのか口が上手く回っていないが、しかし言いたいことは十分に伝わってきた、ただしロッシュ以外の相手にはという条件が付くが。そのまま彼は隊員の胸ぐらを掴み、怒鳴りつけようと息を吸い込む。しかしそれが声として吐き出される直前。

「そうだキール、お前もやってもらえよ!」

先手を取って発せられた声に、キールの目が点になった。虚を突かれて
動きが止まる、その隙を狙ってさらに隊員が言葉を被せる。

「お前もええと、祖父さんがシグナスの出身だっただろ! このまじないだって知ってるって前言ってたじゃないか、折角だからやってもらったらどうだ!」

キールが何か言うのを防ぐようにまくし立てる、その剣幕に隣で聞いていたロッシュは目を丸くした。勿論言われた当人であるキールも呆然としている、しかし言われている内容を理解した瞬間、先程までとは違う意味の赤さがその顔に上った。

「な、な……」
「言ってたよな、前!」
「いやっ、自分は、ええと」
「知ってるって、言ったよな! 祖父さんに聞いたって!」
「じ、自分は……」
「キール、そうなのか?」

ロッシュが問いかけと共にキールを見る、真っ直ぐな視線がキールのそれと絡まり。

「…………ハイ」

その瞬間、青年の中の何か大切なものが折れる音を、ストックははっきりと聞いた気がした。
見守る他の隊員達の前で、キールは顔を真っ赤にしたまま、ロッシュの右手に自分の右手を預ける。

「……よろしくおねがいします……」
「おう、分かった分かった」

固まりつつ呟くキールに、ロッシュは屈託無く笑いかけ、てのひらに唇を押しつけてやる。さほどの時間もおかずに唇が離されると、キールは力が抜けた様子で傍らの壁に寄りかかった。

「あっ……有り難うございました」

罪悪感と、恐らくはそれ以外の何かでロッシュと視線を合わせることが出来ないのだろう、顔を逸らしたまま深く頭を下げる。そんな彼の様子に、ざわざわとした温度の違う囁きが部屋を満たし。やがて、おずおずと一人の隊員が進み出て、ロッシュに向かって手を差し出した。

「その、隊長……実は自分も、シグナスの出身でして」
「ん、そうなのか?」
「はいっ、なので宜しければ自分にも、是非……!」
「まあ、別に構わんが」

ロッシュはその台詞にも疑問を抱くことなく、それまでの2人と同じように「まじない」をかけてやる。その瞬間室内の声が一気に大きくなり、どよめきと言って良い音量に達した。そしてロッシュがそれに驚く暇も無く、残りの隊員達が彼の元へと詰めかける。

「隊長っ、自分にもお願いします! 自分は祖母がシグナスの者なんです!」
「自分も、母方の祖父の父がシグナスからの移民で!」
「自分はええと、従兄弟の配偶者の父親がシグナスの……」
「じ、自分はペットの亀がシグナス産でして」

中には訳が分からない主張をしている者も居るが、それでもロッシュは異常を指摘することもせず――いや、あまりの勢いに指摘することが出来ず、求められるままてのひらにまじないという名の口付けを与えていく。ストックはそれを呆れた顔で見守っていた、親友に対して何か言ってやりたい気もするが、言葉を届けるには隊員達が作る壁は厚すぎる。

「……」

諦めを込めた嘆息を吐き、壁にもたれかかって男達の狂騒を眺める。と、ロッシュがその気配に気付き、ストックに視線を投げてきた。物言いたげな目に応える気にもなれず、無表情で傍観を決め込む、しかし。

「ストック、どうした?」

男達の囲いを軽く突破し、ロッシュがストックに近付いてきた。隊員達も、相手が副隊長とあっては突撃することが躊躇われるのだろう、追随はせずその場に留まって様子を伺っている。彼らの視線を背にして、ロッシュはストックににこりと笑いかけた。

「……どうしたも、こうしたも」
「さっきも同じこと言ってたが、何かあったのか」
「この状況で何も無いと思えるお前が、どうかしている」

言いながら手のひらを指し示すと、しばしの間、ロッシュはその仕草の意味を考えているようだった。沈黙が数瞬続いた後、彼は口を開いて。

「お前もやって欲しいのか?」
「どうしてそうなる!」

あまりと言えばあまりにも飛んだ結論に、思わず日頃発さない大声が出てしまった。隊員達にびくりと身を縮められ、慌てて気を落ち着かせるよう意識する。

「何だ、違ったか」
「違う。……むしろお前は、やれと言ったらやるのか」
「ああ、別に構わんぞ。やるか?」

実に自然な、欠片の他意も無い様子で肯定を返され、今度はストックが口を閉じる番となった。そのまま言葉を切り、しばしの間思考を巡らせて。

「…………」

そして逡巡の後に、どのような結論を得たものか。ストックは無言のまま、自分の右手をロッシュの右手に乗せた。固唾を飲んで隊員達が見守る中、ロッシュは全く含みの無い爽やかな笑顔を浮かべ――そして躊躇いもなく、手にしたてのひらの中央に自身の唇を押し付けた。

「――――」

さして柔らかくもないが、他の皮膚とは明らかに感触の違う組織を手に感じて、ストックは僅かに目を細める。ロッシュはその目を真っ直ぐに見ながら唇を外し、代わりとばかりに、生身の右手をその上に乗せた。

「……何だ?」
「何だ、じゃねえよ。お前もやってくれるんだろ?」

まるで当然のように発言したロッシュの顔を、ストックはまじまじと見詰める。しかしロッシュにとってはストックのその反応こそが予想外であったらしい、不思議そうな目でストックの凝視を受け止め、視線を返してきた。そのあまりに無自覚な表情に、ストックはそれ以上反論することも出来ず、ただ小さく息を吐いて。

「…………」

そしてロッシュの右手を握り締め、大きなてのひらの中心に、己の唇を触れさせた。――周囲から、先程までとは異なる意味合いのどよめきが上がる。

「ふ、副隊長! その、自分にも是非……」

いつの間に復活したやら、キールがまた顔を赤くして、ストックに向かって詰め寄ってきた。しかしその歩みは、ストックの前に立った逞しい身体に、実にあっさり阻まれてしまう。苦笑を浮かべたロッシュの拳が、ぽかりとキールの頭を小突いた。

「お前はさっき俺がやってやっただろ。贅沢言うな」
「す、すいません……」
「お前等もいい加減準備に戻れ! 出発が遅れるぞ!」

ロッシュが部屋中に響きわたる大音声を上げると、隊員達はもはや条件反射で背筋を伸ばし、蜘蛛の子を散らすように己に割り当てられた空間へと戻っていく。それを確認したストックとロッシュも、改めて自分の装備に手をかけ、準備を再開した。

「あのまじない、効くと思うか?」

普通のものより格段に重い鎧の部品を軽々と持ち上げ、片手で器用に身につけながら、ロッシュがそんなことを言う。ストックは一瞬ロッシュの顔を見遣り、そしてふっと視線を逸らすと、さあな、と呟いた。

「あれだけ大勢に巻き散らしていては、効果も薄れていそうなものだが」

仏頂面で発せられたその言葉に、ロッシュは小さく笑いを零す。

「それじゃあ、俺のは効果抜群だな」
「……だと良いがな」
「ああ、間違いねえ」

ロッシュはしばらく、ストックが口付けを与えた右手で拳を作っては開くという動作を繰り返していたが、やがて満足したのかその上から手袋を装着した。

「今度は俺も、あいつら抜きでやってやるよ」

そして機嫌よくそんなことを言うものだから、ストックもついに無表情を貫き切ることが出来ず。にやりと笑みを浮かべて、ロッシュの目を覗き込んだ。

「……楽しみにしている」

その応えに、ロッシュもまた浮かべた笑みを深くして。お互い密やかに笑い合うと、出撃時間に間に合わせるべく、大急ぎで各々の武具を装着していった。




セキゲツ作
2011.09.15 初出

RHTOP / RH-URATOP / TOP