ストックが水差しと共に部屋の中へ戻ってくると、ロッシュは寝台の中に潜りこんでいた。
しかし完全に寝入ったわけではないだろうと判断して、ストックは声をかける。
「飲むか?」
「おう、もらう」
思った通り、しかし若干眠たげな声が返って来ると、ストックはコップになみなみと注いで寝台脇の机に置いた。
ロッシュは上半身を起こしてそれを一気に飲み干す。
「もう一杯いるか」
「いや、もういい」
「そうか」
それにつられたわけではないが、ストックも水を一杯飲み切ると寝台に滑りこんだ。
ロッシュは背中を壁に預けた姿勢で、視線の先にある布団をぼーっと見つめている。
「……少し疲れたか」
「あぁ、大丈夫だって」
何とも言えない空気が二人を包む。
こうして一月か二月に一度肌を重ねるようになってから暫く経つが、お互い家庭を持っているという特殊な状況だからなのかわからないが、事をいたした後のこの空気は何とも言えないものがある。
だからと言って、それが不快だと思ったことも一度もないのだが。
ふとストックは思い立って、壁とロッシュの身体に挟まれた髪の一房を手に取った。
「……髪、切らないのか」
途端にロッシュは苦笑いを浮かべた。
「おまえも聞くかそれを。しかも今更」
「誰もが気になることだからな。おまけに今ならまだ切る時間はあるだろう」
「まあそりゃそうだがな……」
身なりやその長い髪の影響もあってか、ロッシュは戦時中は『若獅子』などと呼ばれていた。皆の記憶にない歴史の中で、ストックもロッシュ隊の副隊長、若獅子の一人として名を連ねていたこともあった。
将軍位に就いているロッシュは現在も超多忙の身ではあるのだが、戦時中より時間的には余裕がある。切ろうと思えばそれこそ明日にでも切れそうなものだが、今も自身の象徴として切らずにいると言う。
ストックは一応納得して、手の中の髪に指を通した。ごわごわとした硬い感触が伝わってくる。
「そんなの触ってて楽しいか?」
「ああ」
「……そうかよ」
間を置かずに返された声に憮然として、ロッシュは黙った。
ストックは気にせず、ロッシュの髪を弄びながら、それなら、と提案する。
「切らないなら、せめて結ぶとかどうだ」
「結ぶ?」
「こうやって一纏めにするとか」
言ってから、ロッシュの髪全体を一纏めに掴み、後頭部に持ち上げて見せた。
「……あのなあ。人の髪で遊ぶなよ」
「結構似合っているぞ」
正面から覗き込んでそう言ってやると、この野郎と、手を振り払われ布団に押し込められた。
「くだらねえこと言ってないで寝ろ」
布団から顔を出すと、ロッシュも布団に潜り込んでいた。
そしてストックの方を暫く見ていたかと思うと、仕返しのつもりなのか、こう切り返して来た。
「お前は前髪邪魔じゃねえのか」
「……あぁ」
ストックの髪も少し癖があるが、ロッシュのものとは違い柔らかめの髪質をしている。全体的に長めの短髪であるが、ロッシュの言うとおり前髪も長めで少し煩わしいのではないかと思えるほどだ。もっともロッシュに対しても全く同じ事が言えるのだが。
とりあえず自分のことは棚に上げておいて、ロッシュは言った。
「もっときちんと切ったら喜ぶ女官たちが増えるだろうによ」
「………」
「お前、城の中で何て呼ばれてるか、知ってるか?」
ストックはとても端整で整った顔立ちをしているのだが、前髪が隠れ蓑の役割を果たしてしまっている。
しかし、城の女官たち、少しでもストックと仕事上の話をする機会のある女性陣の目は誤魔化せないようで、抜け目のない彼女らはストックの容貌をきちんと見抜いていた。
「……わかるわけないだろう」
憮然とした様子のストックに、ロッシュは笑いを堪え切れずにでこう告げた。
「『王子』」
「……」
「王子って呼ばれてるらしいぜ。王子と話せた日は、何か良いことが起こるんだってよ」
「…………」
「ストック?」
しかしロッシュは話の途中でストックが顔色を変えたのを見逃さず、すぐにその顔を引き締めた。
心配そうに顔を覗きこんでいる。
「……王子、か」
ストックは自嘲的な笑みを浮かべた。
ストックはグランオルグ王家の正当なる後継者だ。現女王であるエルーカの実兄に当たるので、ストックがその玉座に座っていても全くおかしいことはない。しかし今はとある事情により、ストックと名を変え、籍をアリステルに置いている。
その事情を知ってる人間はごく限られているし、以前グランオルグにいた時に姿を見られていたとしても当時とはかなり印象が違う。彼とグランオルグの王子がイコールで結ばれる可能性は限りなく無に等しい。それはわかっているのだが。
そんなストックをロッシュは一蹴した。
「単に見た目からそんな感じがするってだけだろ」
そう言って、ロッシュはストックの頭をわしわしと撫でた。髪の毛が絡まるほどに撫で回される。
「実際、首相なんかもっと酷ぇ言われようだぜ。光栄、くらいに思っとけよ」
ラウル首相のあだ名はもっと直接的、というよりも髪型そのものの名が付けられている。
ストックの『王子』とは比べものにならないほど表立って言えない言葉だ。ストックの方が仕事柄、ラウルに近い環境にいるので、実際に何度も見聞きしていた。
それもそうだなと、ストックは微かに笑った。
「それは誰から聞いた情報なんだ」
「もちろんキールだ。あいつ、そういう噂話にすげぇ詳しいからな」
全くどっから仕入れてくるんだか知らねぇが、とロッシュは呆れたように言った。
キールは今はロッシュの秘書として働いている。そういう噂話を将軍の耳に入れるのも仕事だと思ってのことだろう。
いや、本当にそう思っているのかどうかはわからない、単に面白がっているだけかもしれない。
いずれにせよ、ストックにはできないことだ。
「ロッシュ」
「なんだよ」
呼びかけて、その目に今は自分だけが映っているのを確認してから、顔を接近させた。
一度唇に触れた後、すぐに離して、また口付ける。二度目はもう少し深く、口腔内に舌を忍びこませた。
拒絶されることはなく受け入れられたが、離すとロッシュの苦笑が目に入る。
「……まだ足んねえのか」
「悪いか」
「………」
むっと開き直って応えたストックだったが、それ以上行為を続けることはなく距離を取る。
人伝の情報だが、最近遠征やら魔物退治やらでアリステル軍の出撃依頼が多いと聞いていた。今日の逢瀬だって、かなり無理を言って時間を作ってもらったようなものだ。
ふとストックの頬に手が触れた。手の平ではなく、手の甲の固い感触が伝わってくる。
「次にツケだな」
「いいのかそんなこと言って」
「まあ平気だろ、一回くらい」
「一回じゃ済まないかもしれない」
「……どんだけやる気なんだお前は」
「悪いか」
触れられた手に自らの手を重ねて握り返せば、苦笑の色が濃くなった。
ストックがさらに言葉を重ねようとした丁度その時、ロッシュの口からひとつ、大きな欠伸が漏れた。
「……少し疲れたか」
「いや、大丈夫だ」
「すまない」
「謝んなって。お前は何も悪いことなんかしてねえよ」
ストックは何も言い返さず、代わりに手を解きロッシュの背に腕を回した。
ロッシュは先ほどと同じように手の甲で頬に触れてくる。
そのまま背中の体温を味わっていると、自然とロッシュの目が閉じられる。
「……ちゃんと寝るんだ。無理はするな」
ああ、と短い返事があった後、すぐに規則正しい寝息が聞こえてきた。
ストックは暫くその寝顔を眺めていたが、やがて訪れた睡魔に抗う術などなく。
訪れる夢が悪夢ではないことをぼんやりと願いながら、心地よい眠気に身を任せた。
平上作
2011.06.09 初出
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