「ストック、いるか?」
その声が聞こえた時、ストックは最後の良心と戦った。
顔を合わせてしまったら、もう元には戻れない。
今ならまだ間に合う。今までのまま、変わらずにいられる。
壊れる覚悟で進むのか、耐える覚悟で留まるか。
ストックは自らの意志を確認するために一瞬だけ目を閉じた。
次に目を開けた時感じたものを見よう、そう決めて。
そしてストックは目を開け、映ったものを見た。
−−−−−−−−−−−−
「久しぶりだな、ここに来るのも」
今日ストックが呼び出した場所は、軍の宿舎の元ロッシュの個室だ。
ロッシュが妻子持ちとなり一軒家を建てた折に、当然この部屋は空にして引き払ったのだが、何故か主はロッシュのまま、いつでも使っていいという許可をもらっていた。
ロッシュは急場の会議室や休憩室として使っているようだが、こうしてたまに互いに酒とつまみを持ち寄って飲むこともあった。
今回はストックからの誘いだったが適当な場所が無かったので、またここを使わせてもらうことになった。
ストックはロッシュのグラスに酒を注ぐ。
「で、これが言ってたやつか」
「あぁ」
「当たり前だが見た目は普通だな」
「そうだな」
苦笑しながらストックは自分の分も酒を注ぐ。
今ストックが注いでいる酒は、グランオルグ王家、端的に言うと妹のエルーカよりもらった珍しい果物の蒸留酒だ。しかも三本ほどある。
エルーカは余り酒を飲まない。かといって、貰いものを水に流してしまうのも勿体無い。いつもは家臣たちにあげてしまうのだが、今回は丁度その時グランオルグに滞在していたストックに話がやってきたのだった。
ストックもそこまで酒が好きなわけではないのだが嗜む程度には飲めるので、有難く譲り受けることにしたのだ。
「あ、すまん。注がなかったな」
「あぁいい。気にするな」
律儀にも酒を注がなかったことを謝るロッシュにさらりと返事をし、ストックはグラスを掲げた。
ロッシュもストックに続いて手に取る。
「久々に乾杯でもすっか」
「…何にだ?」
「今日も無事に仕事が終わって、だな」
「だからこの時間でも大丈夫だったのか」
「少しは余裕が出てきたんだぜ、これでも」
「これでも、か」
「失礼なヤツだな」
将軍職についてから事務関係の書類仕事が極端に増えたロッシュは、夜遅くまで居残って仕事をこなすことが多かった。
今日はまだ早い時間だ。ストックはわざと憎まれ口を利いたが、きっと、ストックと会う約束があったから昼間無理して仕上げてくれたのだろう。
お互いに笑い合いながらグラスを鳴らして、透き通った濃い茶色の酒を口に入れた。
「結構甘いな」
酒自体は、やたら甘くて濃かったことは覚えている。アルコールもきつい酒で、ストックにとっては好都合だった。
それから暫くは他愛の無い話をした。お互いの仕事の話。レイニーやソニアの話。世界情勢の話。
その実、二時間少しくらいだったが、ストックには短いようで長すぎる時間だった。
さらに幸運なことに、先に限界が来たのはロッシュの方だった。
体格が良ければ良いほど酒に対する抵抗力も強い、というのが世界の通説だ。実際、ロッシュが酒に酔ってどうにかなったことなど見たことがない。
ストックの方からすれば到底酔える気分などではなかった。元情報部ということで、酒に酔わない飲み方や薬物・毒物の対処法などは心得ているが、しかし今回はそれが役に立っていたとは考えられなかった。
ストックはその理由が二文字で片付くことを知っている――緊張だ。
そんなストックの思いなど欠片も知らないであろうロッシュは、しかし明らかに飲み始める前とは様子が違っていた。
右腕で頭を抑え、身体の変調に呻いている。
もちろん、飲み過ぎなどでは有り得ない。いくらこの酒が強いと言っても、これくらいの量など普通だったらただ酒臭くなるだけで、ものともしないだろう。
「あー……」
「大丈夫か」
ストックは少し横になるか?と聞きながら、余りの白々しさに笑ってしまいそうになった。
と同時に、全てを吐き出してしまいたかった。始まる前に全てを謝罪して、赦しを請ってしまいたい。
しかし赦しを請うには罪を説明する必要がある。口で言うのか、行動で示すのか、それだけの違いだ。
口で言っても行動で示しても同じ結果が待っているのならば――行動を起こしてしまった方が良い。
その記憶があるだけで、きっと自分は救われる。
「わりぃ……そうさせてもらう」
「気にするな」
ふらふらになりながら立ち上がるロッシュをストックは寝台の側まで連れて行った。
さりげなく背中に触れると、熱かった。酒を飲んでも身体は熱を発するものだが、それだけではないような熱だ。
寝台に横になる寸前、ロッシュはふと口を開いた。
「……か」
「…どうした」
「お前は大丈夫か……?」
「…………」
俺と同じくらい飲んでたろ、と。
酒に何かが仕込まれていたことなど寸分も疑わず、自分がそんな状態になっても人を気遣う親友に、ストックは一度唇をぎゅっと噛み締めて――次に彼が見る自分の顔が少しでも良いものに見えるように信じて、口の端に笑みを浮かべて言った。
「俺は大丈夫だ」
それなら良かった、と安心したように笑って、ロッシュは顔を抑えて寝台に横になった。
ストックはそのまま暫く荒い息を吐きながら横たわるロッシュを見つめていたが、一度長い息を吐いて意を決すると立ち上がった。
「ロッシュ」
そして寝台のロッシュに声をかける。鈍い返事が返って来た。恐らく、酒と薬の効果で夢うつつな状態なのだろう。
ストックはそんなロッシュの右腕を手に取った。
ロッシュは過去の大怪我で左腕を失っている。横になった状態で右腕の自由を取ってしまえば、ロッシュにとってはかなりの不利になるだろう。
もっともこんな状態で尚且つ相手が見知った者でもなければ、重い一蹴りで部屋の隅まで転がることになるだろうが。
「ストック……?」
ストックはロッシュが横たわったままの寝台に上がった。
そして大きいその身体を跨ぐようにして膝をつく。
「………?」
まだ状況が良くわかっていないロッシュに、ストックは決定打を下す。
右手を絡ませて、力を入れて握りしめる。
それでもまだぼんやりしているその顔へ、己の顔を近づけて。
ロッシュの目が大きく開かれるのを見届けて、ストックは唇を合わせた。
「………………」
ストックにとって光栄なことに、その口付けを終わらせたのもまたストックだった。
最悪の場合、至るまでに殴り倒されて終わりかと思っていた。
かといって、これが了承の合図であるはずがない。物の分別がつかない状態故の反応だろう。
そんな状態にまで追いやったのは当然ストック自身であるわけで。
密着した身体を少し離して眼下のロッシュを見下ろすと、口付け前に見たままの、目を見開いた状態の彼が視界に入った。
「……ロッシュ」
低く名を呼ぶと、当然のように疑問の言葉が聞こえた。
親友だと思っていた相手にそんなことをされれば、誰もがそんな反応を取るだろう。当然のことだ。
そもそも、まだこの体勢が維持されていることが奇跡だ。
ストックは声を振り絞って言った。
「……話を聞いてくれ」
「話って……」
ロッシュの顔に再び困惑の表情が浮かぶが、ストックはそれに構わず続けた。
「さっき飲んだ酒に」
「酒?」
「薬を仕込んだんだ。……催淫剤を」
「な……!」
驚愕にロッシュの目が開かれ、身じろぎする――構わず、ストックは力で押さえ込んだ。
「もう何も聞きたくないと思うのなら、今すぐ俺を殴り倒すなり蹴り倒すなりして出て行ってくれ。……頼む」
言ってから、ストックは自分の左手にさらに力を込めた。
どんなに力を入れようと、ロッシュに敵うはずがないのはわかっている。
今のロッシュが薬にやられている状態であっても、それは変わらない。
少しでも望みが欲しかった。
ひっくり返せる状態でもなお、それをせずに居てくれているということを。
決定的な決別の時まで、僅かな望みに縋っていたかった。
そうしてどのくらい時間が経っただろうか。一分後だったかもしれないし、三十分後だったかもしれない。
ロッシュが何かを呟いて、ストックは弾かれたように身体を震わせた。
「……せめて、手は離せ」
戸惑いながらも手を離すと、ロッシュは自由になった手を顔に当てた。
ストックは離されてから初めて、触れ合っていた手の熱さを知り、同時に空気の冷たさを知った。
しかしそれであっても。自分には想いを伝える機会が与えられたのだ。ロッシュがまだこの場に居ることが全てだ。
そう言い聞かせて、ストックは再び口を開いた。
「ロッシュ、俺は……もっと近くにいたい」
「近くって……」
「いつもじゃなくていいんだ」
今のロッシュはアリステルの将軍職に従事している。ストックもアリステル国内で働いてはいるものの、仕事関係での接点はあまりない。
とはいえロッシュたちの新居も当然知っているし、会おうと思えばいつでも会えることもわかっているつもりだった。
「もちろん、ソニア以上になりたいとは思っていない…そんなのは無理だろう。だが」
ソニアとロッシュの仲を取り持ったのは他でもないストックだったが、それに後悔などしたこともない。
例えソニアが身篭ってロッシュが父親になろうとも、真に祝福したい気持ちがあっただけだ。
ストック自身のことでいえば、レイニーのことは同じように大事に思っている。その心に偽りなどない。
ストックは先ほどまでロッシュの手を握っていた左手で、今度は肩を掴んだ。
良く鍛え抜かれ逞しい肩だ。
「………」
しかしそこでストックは口を噤んでしまった。次に何を言えば良いのだろう。
どうすれば、決して言い訳のきかないこの状況を打破して、なおかつロッシュの心を手に入れられるのか。ふと、わからなくなった。
最初はただ伝えたかっただけだった。このどうしようもない想いを伝えて、それで。
それで――どうなると思っていたのだろうか。酒に誘って、その酒に薬を仕込んでその気にさせようとして、何を得ようとしていたのか。
ロッシュは決して人のことを軽んじて扱うことはしない。特に、信頼した相手に対しては絶対だ。
親友、それも同性の男に告白されたとしても、それが変わらないとしたら。
常識から逸脱したことをしている自分に対してもまだ気遣ってくれているとしたら。
「……………」
ストックは下を向いて手で顔全体を覆った。きっとこちらの表情は影に隠れて、ロッシュには見えないだろう。
もっともロッシュも同じようにしているから、見えることはないのだろうが。
また暫く同じような沈黙が続いて――今度の静寂を破ったのもロッシュだった。
ふいにストックは強い力で頭を引っ張られた。慌てて手を付いて身体を支えようとしたがバランスを崩し、ロッシュの上に突っ伏すことになった。
ストックの視界には自らの寝台のシーツが映り、すぐ横にはロッシュの乱れた髪と肩口がある。
後頭部には硬い掌を感じた。
「……ロッシュ?」
意味を図りかねて、ストックはやや間抜けな声で聞き返す。
「……終わりか」
「……?」
「話は終わりかって聞いてんだよ」
そのロッシュの言葉一つで、ストックはまだ伝えるべき言葉があることを思い出した。
「………まだだ」
乗りかかっている今の状態のままでは姿勢を正すこともできなかったし、何しろ伝える相手にそう言われたのではどうしようもないが――ストックは気を入れ直した。
ロッシュの身体に体重を預けることにしたストックは片手を肩に、もう片方の手を自らの頭にやって、ロッシュの手を上から握る。
ストックは軽く息を吸って吐いた。そしてもう一度吸い込む。
「ロッシュ。……好きだ」
一息で言い切れるように、言葉を繋げる。
「もっとお前の側にいて、お前を守りたい。それが叶わないことだったら、たまにでいい」
そこでストックはロッシュの右手を頭から離すと、寝台に押し付けた。
「たまにでいいから……こうやって、無事であることを確認したい」
それと、あと一つ。
それこそ、愚かなる望みなのだが。
「もし、お前も同じように思ってくれているのなら……そう思ってくれていることの証が欲しい」
そこまで言って、ストックはまた、長い長い息を吐いた。
証と言っても、ストックは具体的に何が欲しいのか、ロッシュに告げることはできなかった。
今なら、この行為を許してくれるだけでも、恐らくそれで、それだけで充分だ。
改めてロッシュの表情を窺うと、何故か、いや、他に選択肢は無いのかもしれないが――苦笑いを浮かべていた。
ロッシュがゆっくりと口を動かし、そしてわかりきったことを言った。
「……ストック。一応わかってると思うが、俺は男だぜ」
「……どこの酔狂がこんなごつい大男に薬まで盛って襲いかかると思う。しかもお互い恋人がいるのに、だ」
「そりゃそうか」
ロッシュはおかしそうに笑っていたが途中で何かに気づいたのか、待てよ、と疑問の声を上げた。
「つーかお前だってあの酒飲んでたよな…薬もか?」
「当たり前だろう。お前にだけ飲ませるなんて卑怯な真似はできない」
「……ったく、お前は」
どこまで馬鹿なんだ、と。
言ったロッシュの手から、強い力が返って来た。
「まあ…こんなんでその証ってヤツになるのかわからんが」
「……充分だ」
ストックは名残惜しくも一度手を離すと体勢を立て直し、正面から向き合える姿勢を取った。
そして、足で体重を上手く支え、ロッシュの脇の下から腕を伸ばす。もう片腕は首側から回すようにして、抱きしめた。
ロッシュの体格はストックよりかなり勝っている。
「ロッシュ。……ありがとう」
抱きしめるというより抱きつくといった方が正しいような姿勢だったが。それでも、ロッシュは右腕をストックの背に置いた。
−−−−−−−−−−−−
大して眠ってはいなかったはずだ。
ストックはロッシュより先に目覚めると、寝台をそっと抜け出した。
部屋はカーテン越しに薄らと朝の光に包まれている。
「…………」
大の男二人で寝るには狭い寝台を今は一人で占拠しているロッシュを見やった。
少し口を開けて、心地良さそうに眠っている。
将軍職についてから非常に忙しい毎日を送っているロッシュは、睡眠時間もかなり削られていることだろう。
結局朝帰りになってしまい、レイニーやソニアも心配しているに違いないが、もう少し、せめてロッシュが自ら目を覚ますまではそのままにしておこうと思った途端、その身体がのそりと動いた。
その目が開くのを見届けてから、ストックは声をかけた。
「……おはよう」
「ん…?あぁ…」
「起こしたか」
「いや……おはようさん」
まだ若干寝ぼけているのか、ロッシュは起き上がると大きく伸びをした。
ストックはその様子を注意深く観察しつつ、心配そうに聞いた。
「……身体、大丈夫か」
「あぁ、別になんともねえぞ」
肩をぼきぼきと鳴らしながら頼もしく話すロッシュにストックは安堵した。
酒はともかく、もしも薬がまだ抜けていなかったら本格的にまずい。
ロッシュの妻のソニアは医者だ。一発で見破られる可能性がある。
あんなことをしておきながら言い訳がましいかもしれないが、ストックには彼らの生活を壊す気は毛頭無かった。
「お前の方は大丈夫なのか」
「大丈夫だ」
「おし、そんじゃあとっとと帰るか」
「ソニアも心配してるだろうな…すまなかった」
「まあそこは大丈夫だろ。お前と一緒だって言っといたからな」
「それならいいんだが」
「レイニーの方こそ大丈夫なのか?」
「お前と同じだ」
「それならいいけどよ。酔い潰れてたなんて言ったら怒られそうだがな。もう少し身体を労れとかって」
「それは俺も言いたいところだ」
「俺はそんなにひ弱じゃねえって」
ひ弱じゃないからこそ心配したくなるということを、きっとロッシュは一生理解できないだろう。
もっともストックとて、戦争中そしてアリステルに帰ってきた直後は随分心配されたものだが。
ストックも同じくアリステルで働いてはいるが、ロッシュほど激務ではない。
だからこそ、レイニーもアリステル内で働くことを承知してくれたのだ。でなければ、仕事を世話してくれた首相であるラウルにさえ噛み付いたことだろう。
「なあところでよ。帰る前に一つだけ聞きたいんだが」
ロッシュは器用に片手で服を着ながら言った。
「お前があんなことしようと思った、その理由はなんだ?」
「…………」
「……何かあったのか?」
それでもなお、ストックが黙っていると、ロッシュは少し苛立ちを募らせたようで。
「お前なあ。ここまでしといて隠し事するつもりか」
「……いや、そんなつもりはない」
本当にそんなつもりはなかったのだ。
ただ、言えることと言えないことがあった。そして、言えないことを言わないで説明できるのかわからなかった。
しかしこのまま黙っていては目の前の男は納得しないだろう。ストックはロッシュに視線を据えて答えた。
「……言えることと言えないことがある。それでもいいか。…本当に身勝手なのはわかっている」
「…ほんとにな。まあいいぜ、それでも」
「…すまない」
ストックは窓際に置いてある机の椅子に落ち着くと、ロッシュもそのまま寝台の端に腰かけた。
ストックは静かに話し始めた。
「今度、シグナスに遠征に行くだろう。魔物退治の応援で」
「なんだ、いきなり……特に珍しいことじゃねえだろ」
実際問題、シグナスへの応援は過去何度もやっていることだった。
全体的に縮小傾向にあるとは言え、他国家よりは軍として整っているアリステルにシグナスから依頼が来るのだ。
アリステルとしても軍の練度を高める実践訓練になるし、シグナスに恩は売れるし、ということでアリステル側に特に断る理由はない。
当然将軍であるロッシュはいつも同行することになっている。今、将軍位に就いているのはビオラとロッシュの二人で、ビオラは病気の治療があるため、遠征は常にロッシュの仕事だ。
「今度の遠征はいつだ」
「いつって、えーともう日が昇ってるから…五日後だな」
「……いつから決まってた」
「確か、一ヶ月くらい前だったはずだが」
「………俺が知ったのはいつだと思う」
「……そりゃわからん」
「一昨日だ」
「ほー、そうだったのか。で?」
「…………」
ストックがジト目でロッシュを睨み付けて暫く。ロッシュはまさか、と呟いた。
「お前、それが不満だったのか?」
「………」
「だからって……直接お前に関係あることじゃねえだろう」
「関係ないわけあるか」
声を荒げることこそなかったものの、ストックはいつしか詰問口調になっていた。
「お前がいつどこで怪我をするのか、心配するこっちの身にもなってみろ」
「……戦いがあれば、無傷じゃいられねえってわかってるだろ。おまけに、シグナス遠征はアリステルだけじゃなくてシグナスからも応援は出るから、そんな厳しい戦いにはならねえぜ。もちろん油断はしないがな」
「そんなことはわかっている」
「じゃあ何でそんなに怒ってんだよ。……そこが言えないところか?」
ストックはふと口を噤んだ。言葉を口にしなくても、それが答えになっただろう。
いや、言ってしまっても良いのだ。
過去何度か経験した歴史の中で、何度かお前が死ぬのを見てきたと。
だが白示録はもうない。やり直すことはできない。
ならば、自分のできる限りの範囲でその可能性を排除しておきたい。
しかしそれこそ、軍に籍を置いていないストックの仕事ではなく、この間秘書になったキールや、上司のビオラ将軍、総大将であるラウル首相の仕事なのだ。
「……だが俺の身勝手なのも間違いはない。軍に戻らないと決めたのも俺だからな」
「………」
ロッシュは一つため息を吐いて立ち上がった。つられて、ストックも立ちあがる。
「全く……さっきも言ったが、お前らは心配しすぎなんだよ」
「それは、お前が愛されている証拠だ」
あのなあ、とロッシュは頭を掻きながら反論した。
「さっきも言ったが、お前だって皆から相当心配されてんだぜ。わかってんのか」
「わかっている。だがお前ほど、危険な現場に身を置いているわけじゃない」
実際、今ストックが携わっている仕事は国の内政に関わることだ。
血生臭いことと完璧に無縁とは言いきれ無いが、将軍であるロッシュの比ではない。
ストックは棒立ちになっているロッシュに正面から抱きついた。
「……頼む。誰もお前の代わりになんかなれないんだ」
「それはお前だって同じだろうが。俺だって命を捨てたいわけじゃねえよ」
「………」
とは言ってもストックにはわかっていた。
この男は仲間を守るためならば、いくらでも自分の身を危険に晒すだろう。自分の身を省みず、目の前に助けられる人がいればそれを助けるだろう。
こんなのはただの口約束にすぎない。
第一、世界のために一度己の身を投げ出した自分が何を言っても、重みのある言葉になどならないのだ。
「ソニアもガキもいるし…心配性すぎる親友もいるからな」
「……どっちがだ」
軽口を叩くロッシュに、それでもストックは口の端に微かに笑みを浮かべて見せた。
「すっかり遅くなったな」
「怒られるぜ、絶対」
「怖いのか?」
「お前はソニアの真の恐ろしさを知らねぇんだよ…」
「……そうか?割と見ていると思うんだが」
「甘い甘い。つーか今日もこれから軍に行かなきゃならんしな…絶対怒られる」
行って、ロッシュは大きな身体を縮ませた。
軍の宿舎からの帰り道。ストックとロッシュは同じ通りを歩いている。
実は二人の家は隣同士にあった。
利便性など諸々の要素を熟考した結果、何故か並んで家を構えることになってしまったのだ。
「……それなら無理させてしまったな、すまない」
「いや、まあ…気にすんな」
そして噂をすればなんとやら。遠くに見覚えのある人影が見えてきた。
「あーーっやっと帰ってきた!」
大声をあげて走り寄ってきたのはレイニーだ。
料理の支度中だったのか、前掛けをした状態で側までやってきた彼女は、すぐに一歩退いた。
「うわっ二人とも酒クサっ!」
「……すまない、遅くなった。ロッシュと朝まで飲んでたんだ」
ストックが言い訳をしながらレイニーに謝っていると、もう一つの人影が近づいてきた。
言うまでも無い、ソニアである。腕に赤子を抱いている。
「……ロッシュ」
「ソニア」
ロッシュの額にはじとりと嫌な汗が浮いている。
「…今日も仕事ですよね」
「あ、あぁ」
「……とりあえず帰りましょうか、家に。そのままじゃ行けませんよね」
「…………ハイ」
実際はただ腕を引っ張って連れて行っただけなのに、何故かストックにはロッシュの襟首をがっしり掴まえて去って行くソニアが見えた。
レイニーも同じような錯覚を見ていたようで。
「……ソニアさんってほんと凄い怪力だよね」
「……そうだな」
世界がひっくり返っても、ソニアには絶対に敵わない――そんな気がしたストックだった。
平上作
2011.05.21 初出
RHTOP / RH-URATOP / TOP