「ちょっと良いかい?」

軽い言葉と共にラウルが顔を出した時、ロッシュは丁度書類を処理している最中のようだった。束になった資料を片づける手を止め、上司を迎えるために立ち上がろうとする彼を、ラウルは片手で制する。

「あ、いいよそのままで」
「いえ、そういうわけにはいきませんよ」
「真面目だねえ、相変わらず」

生粋の軍人らしい生真面目さを将軍になっても失わない彼は、言ってしまえば愚直で不器用な男だ。しかしそれが欠点のみとして働くものでないことは、周囲の人間が彼に持つ好感が示している。

「今日は何か? 書類に不備でも……」
「いやいや、それは大丈夫。字も、読めないようなのは来てないし」
「そりゃ良かった、安心しましたよ。なら、突発の遠征でも入りましたか?」
「いや、そういうのじゃなくてね。君に付ける秘書の件なんだけど」

ラウルがそう言うと、ロッシュは微妙に困った表情を浮かべた。

「はあ……」

気のない返事は、彼が秘書という存在をあまり歓迎していないことの証だ。アリステルを解放し、ロッシュが将軍位についてから大分経つが、彼はまだ秘書を持たずにいた。いや、実際には何度か秘書が付いたことはある。しかしどの者も長続きせず、直ぐにその任を解かれる羽目になっていた。

「そんな顔をしないでくれよ、一国の将軍なんだから秘書くらい持たないと、格好が付かないだろう」
「いや、それは分かりますが……しかし俺には向いてないですよ」
「向く向かないの話じゃなくてね」

やはりと言うべきか、全く乗り気でないロッシュに、ラウルは嘆息した。彼とて元々秘書を迎えることを忌避していたわけではない、むしろ苦手な書類仕事を補佐してもらえると歓迎していたくらいである。ラウルも大事な部下のことと、性格も能力も問題の無い人物を選び、秘書に付けた……しかし何故かそれが、上手くいかないのだ。しかも一度だけではない、何度繰り返しても同じ結果となってしまう。ラウルにとっては頭の痛い問題だった。

「君だって、今のままじゃ仕事が大変だろう?」
「いや、どうもその……俺はむしろ、秘書が付いてるほうがやりづらいみたいで」

心底困った様子のロッシュが零す、それは彼の掛け値無しの本音なのだろう。事実、秘書が付いたその度、彼の仕事の能率は落ちていた。そもそも律儀な性格である彼が、上司に世話してもらった秘書を解任するということ自体が、相当な負担がかかっていたことの証左でもある。
本来なら秘書という職務は、相手を補佐し、より効率よく業務を回すために存在している。しかしロッシュの場合はそれが逆に作用してしまい、負荷を増やす結果にしか結びついていない。ラウルが見たところ、それは彼が相手に対して、根本的な信頼を寄せようとしないのが原因のようだった。補佐役である秘書とは対等な関係であるべきなのに、彼は部下に対するのと同様の扱いで仕事をしてしまうのだ。秘書に業務を整理させるのではなく、彼自身が秘書に仕事を『与えて』いては、いくら優秀な人間を付けても彼の仕事が楽になることはない。その辺りをラウルが説明したこともあるのだが、どうも頭で理解できたとしても、実行に移すことに心理的な障壁があるようだった。

「まあ、君の気持ちも分からなくもないけど」

実際彼は、誰かを信頼し、自分の隣に置くということが極端に苦手なのだろう。疑心に捕われているのとは違う、上司や部下、いやアリステル国内に限らず他国の人間も含めて、周囲の人間を信頼している様子は伝わってくる。そうでなければこの若さで将軍位に就いてやっていけるはずがない、周囲の助け全てを拒絶した状態で勤まるほど、一国の将軍という立場は甘くないのだから。
だから彼は、他人を信じる事は出来ている。……しかし相手を自分と対等な位置関係に置くとなると途端に、その壁は高くなるようだった。例え一部を信じたとしても、最後の一線は絶対に明け渡そうとしない。考えてみれば彼は、隊長時代から同様の態度を貫いていた。副隊長にと希望したのは以前からの親友であるストックで、結果的に彼に断られた後も、他の人間を一切受け入れようとしなかったのだから。そのため彼の隊は、新兵部隊にも関わらず副隊長を空位としたまま、あの戦いを潜り抜けることになってしまった――それでも何とか乗り切ったのが、ロッシュという男の凄いところではあるのだが。

「はあ……すいません」
「謝らなくてもいいよ、そこを折衝するのが僕の仕事なんだし」

大きな体を小さく縮めてて謝る彼の姿に、ラウルは苦笑を浮かべた。ロッシュに悪意は無い、意識して拒絶しているわけではなく、ただ相手を受け入れることが出来ないのだから。その精神を脆弱と責めることは簡単だが、それで状況は変わらない、どころか悪くなる可能性のほうが高い。強く言えば彼は無理をしてでも秘書を受け入れるだろう、しかしそんなことをしても後々新たな問題を引き起こす種を作るだけである。負担が掛かる状態を長く続ければ、時間を置いた後にもっと悪い形で噴出してしまうものだ。
だから、ロッシュに耐えさせればいいというものではない。責めるのではなく調整して改善するのが、上司であるラウルの役目なのである。

「というわけで、新しい秘書を探してきたわけだ」
「……はあ」
「しかも今度は、君もよく知っている人」

ラウルの言葉に、ロッシュの目が丸くなる。

「知っている……俺がですか?」
「そう。誰だと思う?」

問いかけに、しばしロッシュは考え込む様子を見せる。しかし心当たりが無かったのか、首を捻ったまま自信無さげに言葉を紡いだ。

「ストック……じゃあ、無いですよね」
「さすがにね。彼を付けてあげられればよかったんだけど」
「いえ、それは駄目です。あいつの能力は、秘書なんかに収まるもんじゃないですから」

きっぱりとロッシュが言い切る、その言葉は親友への信頼に裏打ちされた強さに溢れていた。これほどまでに信を寄せる相手が居るのだから、確かに生半可な人間では隣を預けたいと思わないのも仕方ないことなのかもしれない。
だが、仕方ないで終わらせられないのがラウルの立場なのである。だから随分と頭を悩ませ、今回の人事を思いついたのだ。

「しかし、ストックじゃないとすると……」
「思いつかないかい?」
「うーん……マルコも違いますよね、というかあいつはむしろ抜けられると困りますし」

本当にさっぱり思い当たらない様子のロッシュに、ラウルはたまらず苦笑した。これでは扉の向こうで待たせている『彼』も、心中穏やかではないだろう。放っておくといつまでも首を捻り続けそうなロッシュをそろそろ解放してやろうと、ラウルはぽんと手を打った。

「じゃ、答えを教えてあげよう。入っておいで」

ラウルの言葉を待っていたのように――いや、実際呼ばれるのを今か今かと待ち構えていたのだろうが、ともかくロッシュの執務室の扉が開かれた、そして同時に。

「酷いです将軍! どうして自分のことを思い出してくれないんですか!」

飛び込む、という形容詞がぴったりくる勢いで、待たせていた彼が入室してくる。鳩に豆をぶつけたような顔になったロッシュを見て、ラウルは満足げな笑みを浮かべた。

「お、おまっ……キール!」
「そう、彼が新しい秘書」
「はいっ、勤めさせて頂きます!」

心底嬉しそうな顔で敬礼するキールに、ロッシュは慌てた声を上げる。

「待て、お前大学はどうした! まさか辞めたんじゃ……」
「いえ、勿論在学していますよ。ロッシュ将軍やストック内政官のお力になるために勉強中なんですから、中途で退学なんてするわけがありません!」

胸を張って宣言する彼は、その言葉通りアリステルの大学に通う学生である。元々は軍に属していた彼だが、生還後は再度従軍することなく、政治や経済などを学ぶため大学に通うことを決めたのだ。終戦以降アリステルは軍縮の傾向にあり、戦争の痛手から回復するために内政に力を入れるべき時期でもあるから、彼の決断は国として歓迎すべきことでもあった。そんな事情を良く知っているロッシュは、混乱を隠せない様子でラウルへと向き直る。

「首相、どういうことです?」
「うん、確かに彼はまだ学生だからね。立場的には、実務訓練生という形になる」

聞き覚えのない言葉だったのだろう、ロッシュがまた困った顔で首を傾げた。それに応えるため、ラウルはさらに説明を続ける。

「我が国が人材不足なのは、君も知っているだろう?」
「ええ、まあ知っているというか、毎日身に染みて実感してますが」
「それは僕も同じくだけどね。ともかくそれを少しでも改善するために、大学に通いながら国政機関でも働ける制度が、今度本格的に始まったんだ」
「自分はそれを利用して、秘書として勤めさせていただくことになったんです」
「そういうこと。しばらくは学生と兼業だけど、気にせずこき使ってくれて良いから」
「それは、首相がおっしゃることじゃあ無いでしょう……」

ラウルの説明で取り敢えずは状況を把握したようだが、それでもまだその顔に納得の色は浮かんでいない。元部下が選んだ新しい道を誰より喜んでいた彼としては、学業を蔑ろにするような今回の人事は、素直に受け入れがたいものがあるのだろう。
しかしラウルに提案を撤回するつもりは無かった、正直キール以外にロッシュの秘書を勤められそうな人材は思いつかないのだ。確かにまだ学生の身であり、秘書としての経験は無いに等しいというか全く無いが、それよりも重視すべきはロッシュとの相性だ。彼は短い間とはいえ、部隊でロッシュの補佐役を勤めていた実績がある。これで押しが強い性格だから、ロッシュが積極的に招き入れない部分にも遠慮なく踏み込んでくれることだろう。そして何より大きいのが、彼自身がロッシュの仕事を支えることを強く希望していることだ。その気持ちは将軍秘書としての激務を耐え抜く原動力と成り得るものである。

「そういうことで、正式な書類もおいおい届くと思うけど、まずは先に通達させてもらったから」
「ちょ、ちょっと待ってください! 俺はまだ」
「納得してない?」
「当たり前です!」
「将軍、そんなことをおっしゃらないでください! 自分じゃあ確かに実力は不足かもしれませんが、やる気だけは絶対に誰にも負けませんから!」
「って、本人も言っているし」
「そんな、気軽に言わないでくださいよ……キール、お前もお前だ、学生ならちゃんと勉強に集中しろ!」
「勿論、学業だって疎かにするつもりはありません!」
「それに実務研修者は、特例として一部試験が免除されるんだよ。業務の中で就学と同等の知識が得られるからね」
「だからって、俺の業務量はご存知でしょう? それの補佐をしながら勉強もなんて、無茶ですよ」
「それを決めるのは君じゃなくて彼。そうだろう?」
「はい! 大丈夫です、将軍にはけしてご迷惑をおかけしませんから!」
「そうじゃなくてだな……」
「はいはい、そこまで」

堂々巡りになりそうな議論を断ち切るべく、ラウルはロッシュに向かって手を振り、その言葉を遮った。当然不服を訴えるロッシュに向かい、ラウルはにっこりと微笑んでみせる。

「首相!」
「やだなあ、あんまりこれは言いたくなかったんだけどね。君がそこまで言うなら仕方ない」
「な、何ですか」
「……『首相命令』」

ラウルが発したその単語に、ロッシュの喉から、ぐうというう呻きが漏れた。

「…………卑怯ですよ」
「何とでも言ってくれて結構、こっちだって色々苦労したんだからね」
「それは……申し訳ないと思ってますが」
「勿論、業務に差し支えるようなら、いつでも言ってくれて構わないよ。そのあたりも含めて遠慮せず、試用期間だと思ってやってくれればいい」
「将軍……自分、一生懸命頑張りますから!」
「…………」

ラウルの言葉と、キールの訴えるような視線に、ロッシュはひとつ大きな溜息を吐いた。……それはつまり、彼が敗北を認めたという表明に他ならない。

「反対しても、無駄なようですね」
「実際にやってみる前はね。試して駄目ならいくらでも受け付けるよ」
「……分かりました」
「将軍、それじゃあ!」
「首相命令とまで言われちゃあな」

諦めた様子で肩を竦めるロッシュに、キールはきらきらとした視線を送っている。

「だが、やるからには仕事も勉強も手を抜くんじゃねえぞ。成績が落ちたら即首にしてやるから、覚悟しとけ」
「……はい! 任せてください!」

軍属では無いはずなのに敬礼で応えるキールは、眩しいほどのやる気に満ち溢れている。彼なら恐らく、秘書としての任を果たしてくれる。ロッシュは無自覚に頑なな男だが、一度懐に入った相手に対しては甘い。初めは業務を増やすだけの秘書でも、これまでと違い、そう簡単には解任を願い出たりしないはずだ。そして時間さえかければキールも仕事を覚え、秘書本来の役割を果たせるようになるだろう。希望的観測であるかもしれない、しかしラウルにはそれが正しいという自信があった。彼はもう護られるばかりの新兵ではない、一人の人間として、ロッシュの負担になり続けるのを良しとするわけがないのだから。

「じゃ、そういうことで、僕は戻るから。簡単な業務説明は済ませてるけど、細かいところは教えてあげてくれよ」
「はい。……よし、それじゃあ早速説明するから、こっち来い!」
「はいっ!」

賑やかに騒ぐロッシュとキールを背に、ラウルは執務室を出た。文句を言いつつも面倒見の良いロッシュの様子に、知らず笑みが零れる――あの分なら、上手くいきそうだ。

「ま、駄目なら他に移ってもらえば、それで済むわけだし」

例え失敗したとしても、将軍秘書という激務の経験は、若いキールの糧となる。どちらに転んでも悪いことは無い……とはいえ、このまま落ち着いてもらうに越したことはないのだが。
あれこれと思いを巡らせながら、ラウルは自分の執務室へ戻ろうと足を進める。相変わらず業務は山積みになっているが、大きな懸念が一つ片づきそうな気配に、自然とその歩みは軽くなっていた。






セキゲツ作
2011.05.17 初出

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