何故、などと問う暇も無かった。
あまりに急激過ぎる増援に完全に虚を突かれ、気付いた時には完全に本隊と分断されていた。ロッシュが率いる小隊、その中でも極少人数だけが敵に取り囲まれ、執拗な襲撃から逃げるうちにアリステル軍本隊からは遠ざかり。元々片手で足りる程度の人数は、途切れることなく襲ってくる敵兵の前に持ち堪えられるはずもなく、最後に残ったのはやはりと言うべきかストックとロッシュの二人だけだった。
「くそっ……何だ、こいつら」
ロッシュが敵兵の一人を槍で貫き通してその動きを止める、長大な突撃槍で腹部の半ばまでを食い破られれば、さすがに生きていられる人間は居ない。しかし奇妙なのは、彼らが『そこまでしなければ』動きを止めないことだった。普通であれば生命を奪うまでせずとも、適当な苦痛を伴う傷を与えてやれば、戦いを続けることは難しくなる。しかし今2人に襲いかかってきている敵兵は、その常識に当てはまる様子がまるで無かった。多少の傷を受けても動きを鈍らせることなく、生命自体が停止するような大きな欠損を与えない限りは戦い続ける。それだけではない、力や速さも、今まで戦ってきたグランオルグ兵の実力平均を大きく上回っているのだ。特殊に訓練された熟練兵かとも考えられるが、それにしては数があまりに多い。ストックとロッシュ、2人合わせて相当な人数の兵を叩き伏せたはずなのだが、その度に新手が湧き出るように現れる。
「くそっ……たれが!」
「ロッシュ!」
「大丈夫だ、まだ……」
そして何よりも異常なのが、襲いかかる敵兵が皆、揃ってロッシュに向かっていることだった。確かにロッシュは重装兵であり、軽装のストックに比べれば動きが鈍く、攻撃を当てやすい。より組しやすい側を集中的に狙うというのは戦術として納得できるものなのだが、それを踏まえても尚異常を感じる程に狙いの比重が偏っている。何しろストックに対して刃が向けられるのは、彼が自ら切りかかった相手に限られているのだ。何らかの特異な意図があるとしか考えられない状態だが、しかしそれを分析するだけの余裕も無く戦い続けなければならない。
ストックにもロッシュにも、焦りの色が強くあった。2人の実力が如何に突出していようとも、絶え間無く敵が現れ休む間も与えられない状態で、長く戦い続けられるはずもない。どうにかして突破口を見つけねば先は見えているのだが、連続する戦闘は彼らから僅かな思考時間も奪っていく。ロッシュの息が荒い。当然だ、どれくらい続いているかも分からなくなった戦闘の間、一時も止まらず動き続けてきたのだから。ただでさえロッシュは重量物である全身鎧を着用しており、同じだけの動きでも、通常の兵士と比べて遙かに体力消費が大きい。例えロッシュの持久力が常人を凌駕しているとしても、回復する時間が無ければ、それが尽きる時は必ずやってくるのだ。それを分かっているのは、何よりロッシュ本人で――戦う動きは止めないまま、ロッシュの表情が、ふっと消えた。
「ストック……お前、先に行け」
「……!? 何を……」
「幸い今なら敵も少ない。森に飛び込めば、お前の脚ならすり抜けられるだろ」
「馬鹿を言うな、お前を置いていけるか!」
「馬鹿はお前だ、このままじゃ共倒れだぞ!」
言葉を交わしつつも、振るわれる武器は、動く身体は止まらない。ストックの剣が一人の兵の首を裂き、絶命を促す。崩れ落ちる身体が動作の邪魔にならないように蹴り飛ばしたのは、既に次の敵兵の姿が見えていたからだ。一体これで何人目だろうか……そして何時になったら終わるのか。切りの見えない戦いに、ストックの背に冷たい汗が流れ落ちた。
「良いから行け、本隊に連絡を付けて増援を呼んでくれれば……」
「それまで1人で持ち堪える気か? 無茶を言うな!」
現れた新手は、それまでの兵と同じように真っ直ぐロッシュへと向かっていく。何故、とストックは心の中で呻いた。明らかに自分のほうが距離が近い、しかし彼らは必ずロッシュを狙って動く。だがその理由を探す余裕も無い、ロッシュは既に1人の兵と交戦しており、もう1人を相手に加える余裕は無いだろう。ストックは敵の接近を阻止しようと、敵兵の懐に飛び込んだ。一撃が急所に入り、その兵も動きを止める、しかしまた直ぐに新たな兵が現れるのだろう。ストックは絶望に近い気持ちで周囲の気配を探った、今、この状態から生き残る望みはどれほど残っているのか、考えることすら恐ろしい。それでもまだ諦めずに戦い続けられるのは、彼が1人でないから……隣に、背を預けられる親友が居るからだった。
しかし。
「っく……」
ストックが呻く、新手となる敵兵が、まずいことにロッシュの身体を挟んでストックとは逆方向から現れたのだ。ロッシュは目の前の相手をようやく片づけた直後で、直ぐに反応することはできない。
――一瞬の、しかし致命的な隙を露わにしているロッシュに向かい、敵兵は手にした斧を振り被った。
「ロッシュ!」
ストックが走る、だが明らかに時間が足りない。彼がどれほど速くとも、ロッシュの身体を回り込んで敵兵の動きを止めるまでにかかる、その時間を無にすることはできないのだ。それでもストックは動いた、その背を預けられているのが自分しか居ないと分かっていたから。
だが、一度決まってしまった運命は残酷なまでに平等で、強く想えば変えられるものでは無く。
「がっ……」
ストックの剣もロッシュの防御も、紙一重で間に合わない。無情に振り抜かれた斧の一撃は、鉄壁を誇る彼ですら防ぎ切れない威力を持ち、鎧諸共にロッシュの胴を砕いていく。
「…………あああ!」
次の瞬間には、滑り込んだストックの刃が、敵兵の腕を飛ばしていた。しかしそれはあまりに遅い、行動が終わった後に攻撃手段を奪っても、既に与えられた損害は変わらないのだ。ロッシュが声もなく崩れ落ちる、破断された腹部から血が溢れ出すのが、ストックの視界に写った。
「ロッシュ……!」
返す刀で敵の首を裂いて安全を確保し、ストックはロッシュを振り返る。途端に目に飛び込む、紅。砕かれた鎧の奥からどくどくと流れ出す赤い液体が、赤い鎧をさらに赤く染めている。
「スト、ック」
だが、まだ彼の意識は保たれていた。裂かれた皮膚が、砕けた骨と筋肉が、潰された内臓が……与えられた大きな傷が生み出す激痛に表情は歪んでいたが、それでも彼は正気のままでそこに居た。
「ストック……逃げ、ろ」
「ロッシュ! ロッシュ……くそ、喋るな!」
ストックはその場にひざまずき、ロッシュの傷を覗き込む――しかし直ぐにその顔は絶望に染まった。深い。そこは分厚い鎧と筋肉に覆われていたはずなのに、大斧の力を込めた一撃を防ぐには、それでも足りなかったのか。何か凶暴な生物に食い破られたかのように荒らされた腹部からは、止まることなく赤い血液が溢れだしていた。
「いい、から、行け……」
「喋るなと言っているだろう、傷が開く!」
「もう、遅い……逃げ、ろ、今なら……敵、居な」
ロッシュの言葉が切れ、ごぼ、と湿った咳が鳴る。その響きの不吉さに、ストックは背筋が凍り付くのを感じた。ああ、本当に今なら敵兵もようやく居なくなり、安全に動けるというのに。どうして今なのだ、後ほんの数分前にこの状態が訪れていれば、彼のこの怪我は無かったというのに!
「行け、ストック……にげ、ろ」
「駄目だ、お前も一緒に行かないと」
「無茶、言うな」
ロッシュが苦笑する気配が伝わってくるが、ストックはそれを見ることができない。恐ろしいのだ、彼の顔を見てしまえばそこに迫る死の気配を無視することはできなくなってしまう。傷に手を押し当て、可能な限りの強さで回復魔法を発動した。緑色の光がロッシュの傷を包み込み、染み込んでいく……しかし傷の具合に変化は無い。当然だ、ストック程度の魔法の腕で、これほど大きな欠損を塞ぐことができるはずがないのだから。それでもストックは繰り返し魔法を発動する、その肩にロッシュの右手が掛かり、押し戻すような動きを見せた。
「もう、いい、から」
しかしその力の、何と弱いことか――つい先程まで槍を振り回していたあの腕力は、一体何処に消えてしまったというのだろう? ストックは目の前の現実を否定するかのように、何度も首を振る。
「駄目だ、駄目だ……ロッシュ、頼むから……」
「ス、トック」
苦しげな息の下から名を呼ばれ、ストックはようやくロッシュの顔に視線を向けた。苦痛に引き歪んだその表情は、しかし微かに笑っているようにも見える。
「すま、ん」
「ロッシュ……」
「………………に、げ」
ふ、と。
まるで、かき消されるかのように、ロッシュの瞳から光が失せた。
「……ロッシュ?」
肩に置かれた手が、どさりと滑り落ちる。苦しげだった呼吸音も、気付けば途切れていた。耳に届くのは風と葉擦れの音と、砂がこぼれるような耳鳴りばかりで。
「ロッシュ」
生と死の境は、一体何処にあるのだろう。意識の消失は死ではない。心臓が止まっても、呼吸が止まっても、再び蘇生する可能性は存在する。それなら何処で、彼は死んだと判断すればいいのだろう。
「ロッシュ」
名を呼んでも、応えは返って来ない。視線がストックを追うこともない。
ストックは血に塗れた手を伸ばし、ロッシュの頬に触れた。そこにはまだ温もりが残っている、しかしそれは残酷な程の速度でストックの指からすり抜け、気温に向けて降下していくばかりだ。視線を落とせば、破れた腹からは未だ血液が流れ続けていた。勢いは弱くなってきているが、それは勿論傷が塞がりかけているからではない、ロッシュの中にあるものが尽きかけているからだ。
「……ロッシュ」
分かっていた、分かっていたがそれでも耐え切れず、ストックは傷に手を当てて回復魔法を発動させた。
「…………ああ」
しかし、手から溢れだした緑の光は、吸い込まれることなく拡散して失せてしまう。分かっていた、命を失った者に対して魔法は作用しない。何度発動させても、光は何処にも行けず、空間に溶けて消えてしまうだけだ。
「あああ……」
何より。ストックの持つ生物としての本能が、訴えていた。
ここに、生命は存在しないと。
あるのは魂を失った肉体で、もはやここにロッシュは存在しないのだと。
「………………」
生と死を分ける境界、彼は既にそれを踏み越えてしまったのだと。
分かっていた。
分かっていた。
……分かって、いた。
(――――)
頭の隅で、何かの声がする。それが何なのかを理解することは、今のストックには出来なかった。ただ目の前の親友を、親友だった亡骸を見つめながら、立ち上がることもできず呆然とするばかりで。
(――……)
あれほどひっきりなしに襲いかかってきた敵兵は、何故か全く姿を消していた。何故、とストックは思う。何故今なのだ、どうしてほんの少しで良いからこの時が早まってくれなかった。そうすれば、ロッシュも……
(――ック――)
頭の中の声が強くなる、しかしやはりストックはそれに応えられない。意識を向け、立ち上がり、歩き出すだけの力が今の彼には存在しなかった――あまりにも、その絶望が深い故に。
(………………)
やがてその声も、薄れて消えた。
そして、どれくらいの時が経ったのか。
ストックの、こんな時にも変わらずに鋭敏な神経は、その感覚を逃すことは無かった。
複数の人間が動く、ざわめくような気配。戦闘の跡を辿っているのだろう、それは確実に、ストックの居る場所へと近づいてきている。
「…………」
金属音が鼓膜を叩く。ストックはそれを聞いて初めて、放り出したままの剣を手に取った。
「すまない、ロッシュ」
自軍が助けに来た、などと甘い想像はしていない。……それに、そうでない方が良いと、何処かで考えてもいた。
すまない、あれほど望んでれたのに。死に至る最後の一息まで、訴え続けてくれたのに。逃げ切ることは、生き延びることは……出来そうに、ない。
動く気配も無かった重い身体だが、不思議と今は立ち上がることができた。戦いが近付くのを感じる。背を預ける親友を失い、独りとなった今、生存する確率が何処まであるのか。きっと望むことすら愚かに感じるほど低い可能性だろう、だがそれを恐ろしく感じる心も、もはやストックには残っていなかった。
気配が近付き、茂みががさりと音を立てる。
「居たっ……まだ残りが居たぞ!」
ストックは、最後に親友の姿を見下ろして。
そして、静かに微笑んだ。
「…………」
振り返ればそこには、思った通り敵兵の姿。既に武器を構え、臨戦態勢に入っている彼らに向けて、ストックもまた剣を構えた。
すまない、ともう一度だけ、心の中で呟く。
「……はっ……!」
それでも、最後まで、彼の親友として恥じない戦いをしようと。
ストックは鋭い気合いを発すると、敵の隊に向けて駆け出していった。
――――――――――――
ゆらり、と空気が揺れた。
いや、この場所に『空気』と呼ばれるものがあるのかどうかは分からない。だがともかく空間が揺れ、歪み、そこから漆黒の光が溢れて。
「…………」
そして光が収束した時、そこには一人の男が立っていた。手には、未だ黒い光を残したままの本を1冊、掲げるようにして持っている。
彼はそれを落ろし、そして、ふっと溜息を吐いた。
「戻って来ましたね、ハイス」
鈴を振るような声が、頭上から投げかけられる。男――ハイスはその声の主に、射るような視線を向けた。
そこに居るのは、声の音色から想像できるそのままの外観をした、可愛らしい少女だ。そして隣には、同じくらいの歳の小柄な少年……ヒストリアの案内人であるリプティとティオは、いつものように用途も分からない柱の上に腰掛け、ハイスを見下ろしていた。
「早かったね。まだ『彼』は生きていたようだけど?」
「……あの段階で目覚めないなら、結果は同じだ」
吐き捨てるようにハイスが呟く。彼は今まさに1つの歴史に見切りを付け、ヒストリアに戻ってきたところだった。
失敗と判断したのは、ストックの目覚めが適わなかったからだ。白示録の使い手として覚醒させるため、親友であるロッシュを戦いの中で殺してみせた。適当な戦場を選び、ストックとロッシュの2人だけを軍の本隊から引き離してから、シャドウを使ってロッシュの命を奪う、そこまでは順調に進んだのだが。
……目の前で起こった親友の死、それを回避するために白示録の使い手として目覚める。ハイスが狙っていた結末は、しかし実現することは無いまま終わった。白示録は確かにストックを呼んだ、しかしストックの側でそれに応えず、そのまま戦いに赴いてしまったのだ。
「わしは、あれが死ぬのを見たいわけではない」
「……まあ、そうだろうね」
気の無い様子で、ティオが肩を竦めた。隣のリプティは、何も言わずに彼らの様子を見守っている。その端正な面に宿る感情を読みとることは、少なくともハイスには出来ない。
ハイスがロッシュの命を使い、白示録の覚醒を促したのは、これが初めてではなかった。繰り返される時間の中、何度か彼の死をストックに突きつけ、その魂を揺さぶって……しかしそれらの試みは全て、失敗に終わっている。それも、ただ覚醒が成らないだけではない。ロッシュが死んだ後の世界では何故か、必ずストックも命を落とすという、最悪の形に歴史が流れていくのだ。戦場の中で命を奪えば、その戦いを生き抜けずに戦死する。かといってストックに危険のない状況で死が伝わるようにしても、その後無謀な戦いに身を投じてしまう、そして命を散らしてしまうという結末に変わりはない。
今回も白示録は覚醒しなかった。ならば最後まで見届けたところで希望は見出せないだろう、今までと同じ轍を踏むだけの世界など、見る価値も無い。
「くそっ、覚醒には十分な衝撃を与えているはずなのに……それともこれでは、まだ足りないというのか」
ハイスが呻く、正当な手続きを経ずしてストックを白示録の使い手として覚醒させるため、彼は長い間歴史を操り続けてきた。試みを始めた当初に比べれば、随分と近いところまでは来ているという実感がある。実際、最も親しくしている男の死は、ストックに対して十分な悲嘆と苦悩を与えているように思われた。しかしそれでも足りない、あと一歩がどうしても届かない。今回も白示録と共鳴する気配はあった、しかし何故かそれが覚醒に結びつかないのだ。
ヒストリアの双子は、そんなハイスを黙って見つめていたが、やがて。
「……逆だろうね」
ティオが口を開いた、その声を耳に受けたハイスは、ぎろりと少年を睨み付ける。
「逆……だと?」
「ああ。ロッシュの死は、ストックにとって大きすぎるんだ」
「どういうことだ」
「確かに、発生した悲劇に対する後悔と嘆きは、歴史を操る白示録の使い手として覚醒するきっかけとなる。だけど、その時の絶望が大き過ぎれば、現状を変えようと立ち上がる気力すら失ってしまうだろう」
ハイスはティオの表情を伺う、しかし彼は淡々と言葉を紡ぐばかりで、そこには何の感情も見出せない。隣に座るリプティもまた、同じ表情を浮べたまま、ハイスを見詰めている。
「……ストックが、絶望していると?」
「そうだろうね。彼はロッシュに対して多大な信頼を寄せている……戦場でも、私的な部分でも。その彼が死んだとあれば、絶望して当然だと思うけど」
「…………」
「不満そうだね」
からかうような口調のティオをハイスは苦々しく眺めるが、相手はやはり表情ひとつ変えない。ただ、空間に乱立する不思議な柱の上で、そこだけは子供らしく脚をぶらりとさせているだけだ。
「ともかく、あの男の死はストックを絶望させる。そしてその感情は、ストックを白示録の覚醒から遠ざけるということか」
「そういうことになるかな」
「…………」
ティオの言葉を、苦々しくハイスは受け止める。しかし、彼の言葉を認めれば、ロッシュが死亡した未来でストックが必ず死を迎えることにも説明が付くことも確かだ。戦いを生きるためには、戦いの技術は当然として、それ以外にも生存を望む意志が重要となってくる。絶望を抱えたまま戦場に出ているのなら、如何にストックの腕が立つとしても、生き延びるのは難しいだろう。
「それに」
考え込むハイスに向かって、今度はリプティが口を開く。
「もう少し明示的に、『白示録』という存在を意識させたほうが良いでしょう」
「……あれに真実を話せと?」
「いいえ。単に、白示録の存在を意識させるだけで良いのです。今までは偶然を装わせて彼の手に入るようにしていたでしょうが、それでは彼の意識に呼びかける声が遠くなってしまいます」
「これが重要な物であるということを認識させ、お前らの声が届きやすくする、ということか」
「そうですね」
「……ふむ」
双子は、言うべきことは言い終わったという様子で、考え込むハイスを眺めている。その無表情な視線はハイスにとって勘に障ることこの上ないのだが、今はそれに構っている暇もない。
「ならば……まず、あれには適当な友人、もしくは仲間……そんなものが必要だな」
今の方向性は根本的には間違っていないのだろう、現に覚醒は極近くに感じられている。ならば、ロッシュではなく、誰か他の相手の死ならば上手くいくかもしれない。その死によって衝撃と嘆きを与えることが出来て、しかし喪失による絶望を生まない相手、つまり親しくはあるが頼りすぎないような友人や仲間――今、ストックの交友関係の中に、適当な人間は居るだろうか? あまり人付き合いの上手い男ではない、期待はしないほうが良いだろう。それに、今居なかったところで構うことはない、こちらで適当な相手を用意して充てがえば良いのだ。
後は、白示録を彼の元に送る手段か。
「……そろそろわしも、表舞台に出る時期かもしれん」
「ふうん? 積極的だね」
「白示録を意識させるとなると、直接手渡すのが一番だ。……上手くすれば、あれの行動を縛ることもできるしな」
考えていたのは、軍においてストックの上司となることだった。それならば『仲間』を与えることも、白示録を手渡すことも容易となる。
そう、それに。今の部隊からハイスの元に異動させてしまえば、あの男との繋がりも切ることができるだろう。
「ロッシュめ。使えると思って泳がせておいたが、とんだ見込み違いになったわ」
「…………」
「絶望、か……」
ハイスの口が、ふと歪んだ。考えてみれば、それこそ自分がストックに与えたい最後の感情なのだ。
ストックが白示録に目覚めて終わり、ではない。その後も自分の目的は続く、彼が自分と同じ場所までやってくる、その時まで。ならばロッシュにはまだ使い道があるかもしれない、ストックに『絶望』を教える、そのための駒として。
「ふん、まあいい。今はまだ、生かしておいてやろう」
一人頷くと、ハイスは書を掲げた。取るべき道が決まればもうここに用は無い、黒い光が書に宿り、彼の身体に移り始める。
「……ヒストリアの双子よ」
ハイスが、無言のままの双子を睨み、低く呟いた。
「お前らの目論見は分かっている。だが、それは叶わぬものと思え」
双子は何も言わない、ただ黒い光に包まれ、歴史の何処かへと踏み出すハイスを見詰めているだけだ。
「ストックの……エルンストの魂は渡さん。あれは、わしと共に世界の最期まで在るのだ」
光が収束していく。現れた時と同じ、空間の揺らぎと歪みを伴い、彼の姿は光と共に消えていく。
「……あの子に、世界など、救わせるものか」
最後に、微かに響く程度の声を残して。ハイスは再び、歴史の中へと姿を消した。
ヒストリアの導き手は、ただ黙ったまま。
静かに顔を見合わせ、人の紡ぐ時の流れを、見守り続けていた。
セキゲツ作
2011.05.13 初出
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