ストックに充てがわれている部屋にロッシュが戻ってきたのは、夕刻と言うには少し早い時刻のことだった。

「……早かったな」

声をかけても、返ってくるのは呻き声のみ。疲労困憊といった態のロッシュに、ストックはそっと椅子を引いてやる。

「紅茶を入れるか?」
「いや……要らん」

ロッシュがそれにどさりと腰を下ろすと、グランオルグ王宮の賓客室に備えられた豪奢な椅子は、乱暴な扱いと予想以上の重量に鈍い悲鳴を上げた。しかし辛うじて耐えられたのは、彼が普段の鎧を脱いだ礼服姿からだっただろう。グランオルグ製の家具は丈夫な作りではあるが、全身鎧の重装歩兵を支えるにはさすがに力が足りない。
そしてロッシュは、椅子よりもさらに悲痛な様子で、深く息を吐いた。

「はあ……」
「……大変だったな」
「おうよ……全く、消耗するぜ。戦場で一個小隊を相手にしてたほうがまだマシだ」
「酷い言い様だな。相手は婦人一人だろう」
「そう思うならストック、お前変わるか?」
「…………」

黙って首を振るストックに、ロッシュはまたひとつ、大きなため息を吐いた。
歴戦を潜り抜けた戦士であり現在はアリステルの将軍でもあるロッシュだが、その彼でも容易には打倒できない類の問題に、近頃グランオルグに訪れる度に悩まされている。
ロッシュに降り懸かっている難敵……それは、一人の女性からかけられる、熱烈なアプローチだった。



 ――――――――――――――――――




グランオルグとアリステルで同時に革命が起こり、両国間の戦争が終結してから、一年余りが経つ。和平を結んだ当初はぎこちなかった両国の関係も、徐々に穏やかなものへと変わりつつあった。それは勿論、戦争に倦んだ人々の心が生んだ、自然の流れではある。しかしそれ以上に、両国首脳が全面的に協力し合うことを誓い、実際に何度も要人の行き来を繰り返して信頼を強固にした結果でもあった。
そのアリステル側の使者、所謂親善大使としての役割を主に担っていたのは、新女王エルーカと深い関わりのあるストック内政官。そして世界を救う戦いを共にした、ロッシュ将軍だ。軍事演習も兼ねての遠征や、国際会議における首相の名代……頻繁にもグランオルグを訪れている彼らだが、その訪問が常に安穏としているわけではなかった。戦争が終結したからといって、直ぐにグランオルグ人のアリステルへの偏見が無くなるわけではない。特にグランオルグ王宮に群がる貴族位の人々からは、彼らの既得権を脅かす存在ということもあり、陰湿な嫌がらせや妨害が成されたことも何度となくあった。しかし時が経ち、戦争の無い時代を歓迎する意見が主流になるにつれ、貴族達の姿勢も徐々に変化していく。それは勿論彼ら自身が平和を望んでいることもあったが、政治の世界に生きる者が持つ、強い者に流れる処世術もあっただろう。ともあれ最近では、アリステルからの使者達に対する態度も随分と軟化しつつあった。
そしてそれを真っ先に体現し始めたのが、貴族や富裕層の女性達である。誰より早くアリステル人への偏見を捨てた彼女らは、使者達をひとりの人間、ひとりの男性として……つまり彼女らの恋愛対象として、扱い始めたのだ。考えてみれば、今までその範疇に入らなかったのがむしろ不自然とも言えるかもしれない。ストックもロッシュも若く、傾向は違うが、どちらもそれなりに見栄えのする外見をしている。加えて他国への親善大使を任されるくらいだから、国での地位も高い。さらに言うなら、引き締まった筋肉を纏った肉体は、女性を引きつけるだけの魅力がある――細かく挙げれば切りが無いが、つまり彼らには、貴婦人達が繰り広げる恋愛遊戯の的となるのに十分すぎる条件が揃っていたのだ。

「しかし、今日は早かったな。いつもは会食直前まで粘られるのに」
「何だか知らんがな。そろそろ諦めてくれたんなら良いんだが」
「……そうだな、それなら良いが」
「何だよ……そんな、お前のほうが諦めたみたいな顔してくれるなよ」

現在ロッシュに秋波を送っている女性も、アリステル使者攻略に血道を上げている、グランオルグ貴婦人の一人であった。貴族位を持つわけではないが、配偶者が貿易で財を成した商人であり、グランオルグの上流階層では夫婦共にそれなりの地位を持っている。
むしろ貴族であれば女王であるエルーカを通じてある程度行動を制限することもできるのだが、富豪であるとはいえ立場は一般市民であるから、その手段も取れない。ロッシュにとって困ったことに、彼女の夫は最近、コルネ村などとの貿易を通じて、アリステルにも大きな貢献を果たしている。その顔を立てることを考えれば、極端に冷たい態度を取ることもできないのだ。
ロッシュも誘われる度に拒否してはいるのだが、『角が立たない』程度に丸くされた拒絶の言葉など、彼女の耳には一切届かないらしい。何だかんだのうちに強引に茶室へと連れ込まれ、外せない予定……大抵は女王との会食の時間が迫るまで、離して貰えないことが殆どであった。
勿論彼女もロッシュが既婚者であることは重々承知している、というか彼女自身も既に人の妻である身だ。しかし遊技としての恋愛を行うのに、配偶者の存在は関係無いらしい。

「つーか、何で断っても断っても誘ってくるんだろうなあ。いい加減見切り付けて他の相手に行った方が、無駄が無いと思うんだが」
「そうだな、だが人の感じ方はそれぞれだ。彼女は、そうは思わないのだろうな」
「はあ……俺には分からん」
「俺にも分からんさ。だが想像はできる」
「ほう? 聞かせてくれよ、その想像ってのを」
「……狩猟を行う生物の本能として、逃げるものを見ると追いたくなるという性質が存在する。そして人間の中にもその本能は生きていて、特に一部の者はそれが極端に強い」
「…………」
「彼女はおそらく、その類の人間なのだろう。つまりお前が逃げるほど、相手は狩猟本能を刺激され、追いかけたくなるというわけだ」
「……いや、さらっと真顔で怖いこと言うなよ。断っても逆効果ってことじゃねえか、それ」

そう呟くロッシュの顔からは、大袈裟ではなく血の気が引いている。今すぐ戦争に出たほうがまだマシだ、と表情が物語っていた。

「まあ、この想像が当たっているとすれば、対応策が考えられないでもないな」
「何だ? 何か良い案でもあるのか?」
「この手の性質を持った者は、得てして手に入れた後は興味を失うものだ。つまり一度相手をしてやれば…………いや、悪かった」

親友の顔が物凄く、それはもう物凄く嫌そうに歪むのを見て、ストックは途中で言葉を切る。

「お前な、冗談でもんなこと言うなよ……頼むから、本当に……」

地の底まで沈みそうなため息を吐きながら、ロッシュは机に突っ伏した。アリステル1の愛妻家(首相談)からすれば、例え方便であっても何でも、妻以外の女性を相手にすることは考えたくも無いらしい。それはもう相手の女性がいっそ哀れに思えるほどの拒絶ぶりだが、それほどまでに嫌がっている相手に迫り続けているという事実を考えれば、同情する必要は無いのかもしれなかった。

「悪かった、もう言わん。……実際にできるのは、相手が飽きるまで放っておくことくらいだろうな」
「まあ、結局はそうだよな。くっそ、お前は良いよなあ、最近はすっかり平和で」
「……まあ、それはな」

条件としてはロッシュとあまり変わらないストックだが、彼に向かうアプローチは、ロッシュに比べてかなり少ない。理由は、彼の妹……であることは公言できないが、重要な繋がりがあるということが公然の秘密となっている、エルーカ女王の存在である。エルーカがストックに対して特別な感情を抱いていることは、時が経つにつれ貴族達の間にも噂となっていった。――その実態は兄妹愛と呼ばれるものだが、真実を知る者は極限られている。
噂の効果は覿面で、ストックに群がっていた女性達も、噂を耳に入れた者から順に姿を消していったのだ。怖いもの知らずの有閑マダム達であっても、女王の怒りを買う覚悟のある女性は、中々居ないようである。それに対してロッシュは相変わらず望みもしない女性のアプローチを浴びせられる日々で、その格差(どちらが上と見るかは人によるだろうが)に恨み言のひとつも言いたくなるのは仕方がないことだった。
とはいえ彼も、それを羨んで無駄な時間の消費をするほど、不健全な精神をしているわけではない。ただ先の見えない戦いを、少しだけ嘆いているだけなのだ。ストックはそんな親友を気遣うように見守っていたが、ふと。脇の小机に投げ出された、可愛らしい箱の存在に気づいた。

「何だ? それは」
「あ?……ああ、これか。忘れてたぜ」

ロッシュが箱を手に取り、ストックに投げて寄越す。可愛らしいが大人しい色のリボンで飾られたそれは、ストックの両手を広げたほどの大きさをした、薄い箱だった。中に何が入っているのか、振動を与えるとカタカタと軽い音が発せられる。

「何か、珍しい菓子だとか何とか……茶菓子で出て、土産にも持たされたんだ」
「ほう」
「俺は要らん、一個食ったが美味いもんでも無かったしな」
「そうか……開けても良いか?」
「ああ好きにしろ、何ならやるよ。高いもんらしいし、レイニーに持って帰ってやれ」

投げやりに答えるロッシュに苦笑しながら、ストックは箱を包む布を解く。そして中の菓子をつまみ出し……と、その表情が急に堅くなった。

「ん、どうした?」

ロッシュが不思議そうに問いかけるが、ストックは答えず、じっと菓子を観察している。箱の中に入っていたのは、一口で食べられる大きさの粒十数個。それらはひとつずつ白い薄紙に包まれており、ロッシュが言う通り、随分高級そうに見えた。
ストックは無言のまま菓子のひとつを手に取り、薄紙を剥く。そしてしばらく眺めたかと思うと、おもむろに歯をたて、僅かにそれを口に含んだ。

「何だ、妙なところでもあるのか?」
「いや、……これは、食わないほうが良いかもしれんな」
「……毒か?」
「そういうわけではないが」

途端に真剣な、軍人としての顔に切り替わったロッシュに、ストックは困った表情を浮かべる。

「……お前は、知らない方が良い」
「何だよそれ。そんなにやばいもんか?」
「いや、そうではなく……」

考えながら言葉を選ぶ、そんな様子でストックが口を開く。

「これは、チョコレートだ」
「チョコ? だが、苦かったぜ」
「純度が高いんだ。普通の菓子に使われているものはもっと混ぜ物が多く、味が薄い。これだけ濃いものだと、チョコレートと言っても高級品となるのは確かだ」
「ほう、成る程な」

そこで言葉が途切れ、一瞬沈黙が流れる。

「……で、それなら何で、食べたらまずいんだよ」
「…………」
「ストック?」
「……まあ、チョコレートはただのチョコレートなんだが」

繰り返しロッシュに促され、最終的には睨み付けられて。しぶしぶ、と言った様子でストックが口を開く。

「純度が高いチョコレートは、とある薬効を持つ……という民間伝承がある」
「薬効か。どんなだ?」
「……催淫効果」

そして発せられた単語に、ロッシュの顔が盛大にひきつった。ストックは、だから言っただろうと言いたげに肩を竦める。

「そりゃなんだ、つまり……」
「つまり、そういうことだ。お前をその気にさせたかったんだろうな」
「…………」

かたり、とストックが箱を鳴らす。その表情は変わらないように思えるが、見るものが見ればかなり不機嫌であることが分かっただろう。対するロッシュは、これはもう誰が見ても分かりやすく、心底うんざりしているといった表情を浮かべている。この日だけで一体何度目になるのかも分からない溜息が、その口から零れ落ちた。

「何でそこまで……って、そういや」

疲れと倦怠が入り交じった息を吐いていたロッシュだが、それがふと止まり。何かに気づいた様子で、その表情が真剣なものに変わった。

「それ、本当に効果があるのか? 俺は一個だけだが食ったし、お前も今少しかじってただろ」

もし本当なら対処しないと、と身構えるロッシュに、ストックはあっさりと首を振ってみせる。

「いや、単なる流言だ」
「そ、そうか……」
「あるのは、催淫というより興奮剤としての効果だな。昔は気付け薬として用いられていたらしいが……。まあ、これによる興奮を性欲と取り違えるような状況なら、催淫効果を持つと言えなくもないが」
「だが一応、興奮剤ではあるのか」
「大したものでは無いがな。子供が紅茶を飲み過ぎると、眠れなくなったりするだろう? あれと同じようなものだ」
「そうか……なら、とりあえず問題はないんだな?」
「ああ、少なくとも少量を接種した位ならば、何も起こらない。お前の体格なら、これを一箱全て平らげて効果が現れるかどうかという程度だろう」

明言されて、ロッシュがほっと胸をなで下ろした。その様子があまりに切実で、ストックは何となく物悲しい気分になってしまう。彼女もどうしてこう、全く落ちる見込みの無い相手をここまで追いかけるのか。単に意地なのか、それともやはり難攻不落な相手ほど攻めたくなる、戦士としての性なのか。
どちらにしてもロッシュの精神安定を考えると、そろそろ強硬手段を取ってでも手を引かせたほうが良いのかもしれない。妹に相談することも考えつつ、ストックは改めて箱を手元に引き寄せる。

「……では、これは俺が適当に処分しておくが、いいな?」
「おう、悪いが頼む。しかし……」
「?」
「お前、妙に詳しいし、慣れてるよなあ」
「……それは、元情報部だからな」
「そうか……」

ストックの言葉に、ロッシュは頷いて。
しかし再び首を捻り、納得できない様子でぼそりと呟いた。

「何かいつも、そんな感じで丸め込まれてる気がするんだがなあ」
「……気のせいだ」

しれっとした無表情を崩さぬまま答えるストックは、しかしロッシュと視線を合わさぬまま。誤魔化すように、かたりと箱を鳴らした。




セキゲツ作
2011.05.05 初出

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