アリステル軍の医療部は、何故か城の地下にある。
 防衛の際に有利だとか、実験の為に研究所の近くに無いといけないだとか、はたまた未知の病原菌が発見された際に隔離を容易にする為だとか。色々な噂が流布しているが、単に空間の確保が問題だったのだろうと、ストックなどは予想している。
 ともかく、医療部は地下にある。城の端にある階段まで行き、それを降りないと病室に辿り着けない。普段は意識などしないが、急いでいる際には些か面倒な立地だ。内心でぼやきつつ、ストックは足早に階段を駆け下りた。かなりの速度だが、鍛えた足腰は強靭で、その程度でもつれることは無い。幸いなことに、目指す病室は、階段の直ぐ近くにある。地階の床を踏んでからほんの数秒後、ストックはその部屋の扉を大きく開いた。
 一瞬の沈黙。寝台から上体を起こしていた親友と目が合う。驚いた顔をしていた。心外だ、とストックは思う。親友の怪我を見舞いにきて何が悪い。
「なんだ、その顔は」
「いや……ノックもせずに飛び込んでこられたら、そりゃ驚くだろう」
「ああ、そういうことか。すまない」
 指摘されて気付いた、そういえば確かに扉を叩いた覚えが無い。早足で歩いてきたから、足音で察することも出来なかったかもしれない。自分の非を理解して、ストックは素直に頭を下げた。ロッシュの表情が呆れたものに変わる。
「良いから、こっち来いよ。見舞いに来てくれたんだろ?」
 手招きされ、戸の前から寝台の傍らに移動する。置かれた椅子に遠慮なく腰掛けると、改めて親友の顔を眺めた。任務の最中に怪我を負って入院した、と話を聞いたのは、今日の昼のことだ。噂ではかなりの大怪我を負ったということになっていたので、大急ぎで任務を切り上げて駆けつけたのだが。
「なんか差し入れとかねえのか?」
 こうして直接会う限り、噂ほどの重傷では無いように感じられる。確かに普段の鎧を脱ぎ、医療部支給の白い衣を着た相手は、一回り小さくなった印象を受けた。胸元の合わせからも白い包帯が見えており、軽い怪我では無かったのが分かる。だが血色は良く、本人の態度もいたって平静だ。安心しても良いのだろう、とストックはひっそり息を吐く。
「贅沢を言うな。顔を出しただけでも有り難く思え」
「へいへい、分かってるって。まあ、実際助かったぜ、一人で寝てるだけってのも気が滅入ってな」
「怪我をしていんるだ、当然だろう」
「そりゃそうなんだが」
「で、具合はどうなんだ」
「大したことねえよ、寝てりゃ治る程度のもんだ」
 というロッシュの言葉をそのまま受け取ることは出来ないにしろ、だ。寝台の上で、あからさまに退屈そうな親友に、ストックは苦笑を零した。
「確かに、血の気は足りているようだな」
「ソニアが騒ぎすぎなんだよ。小隊の奴らが心配するからって言われちゃ、こっちも断れんしな」
「そうか。……お前がそう言っていたと、ソニアに伝えておこう」
「ってオイ、それは止めろ!」
「焦るくらいなら言わなければ良いだろう」
 笑っていると、頭を叩かれる。痛い、と文句を言うと、半眼で睨まれた。
「酷い仕打ちだ、態々見舞いに来てやった親友相手に」
「そりゃ有り難いがな。そういや、仕事は大丈夫なのか? 情報部だって暇じゃないだろ」
 ストックが突然情報部に異動になったのは、今から三ヶ月程前のことだ。異動前には情報部の存在など聞いたことも無かったが、それも道理で、情報部と軍は完全に別の組織なのである。上司であるハイスの言動からは、むしろ軍とは反目し合っている印象すら受けていた。当然ながら、軍に所属するロッシュには、情報部の動きは全く入らない。それが理由か、ロッシュはよく、ストックの現状を気にしてくれていた。仕事を離れても、こうして親友として気遣ってもらえるのは、ストックとしても嬉しいことだ。だから、上司が良い顔をしないのは承知の上で、軍人である親友の見舞いにも駆けつけている。
「大丈夫だ。やるべきことは終っている」
「ふうん、それじゃ今は休憩中ってところか。今何をやってるかってのは……直接聞かない方が良いんだろうな」
 苦笑交じりのロッシュに、ストックは小さく頷く。彼らの友情はさておいても、部署同士の対立があるのは確からしいし、ロッシュ個人もあまり情報部に良い印象を持っていない。軍という、ある意味においては花形の場所から見れば、情報部の仕事は随分と薄暗いものに見えるのだろう。実際、とても公表などできないことを仕事として行う場合もあるから、その意見について反論はできない。ストック本人は気にしたものでは無いが、ロッシュは以前から、ストックの評判について随分と気にかけてくれている。
 だが今問題なのは、ストックの仕事ではなく、ロッシュの体調だ。
「で、何でそんな怪我をしたんだ」
「何って程の理由もねえよ、ちと厳しい戦いでな」
「お前が大きな怪我をする程?」
「だから、そんな大した怪我じゃねえっての」
 確かにロッシュは、聞いた話よりは余程元気そうにしている。だがそれにしても、戦場での彼の実力を知っているストックとしては、やはり意外に感じられた。
「だが、入院する程の怪我なのは確かなんだろう。……お前、腕が落ちたんじゃないか」
「言いやがる! 軍を離れたお前ほどじゃねえよ」
 ストックが指摘すれば、冗談とでも思われたのか、笑いながら背を叩かれた。情報部でも戦いの機会は多い、それをロッシュも知らないわけでは無いから、ロッシュの側も冗談で返したつもりなのだろう。ストックとしては半ば以上本気であったから、少しばかり憮然とした表情で、ロッシュを睨みつける。
「だが、以前はここまで大きな怪我をすることは無かった」
「そりゃ、お前が居たからな。お前が軍を抜けちまってから、どうも戦いにくくていかん」
「……そう言われても、困る」
「そりゃそうだな、悪かったよ。まあ、本当に大した怪我じゃない、心配するな」
「分かっている。お前がそう簡単にやられるとは思っていない。殺しても死なないような男だからな」
「その言い方も、どうかと思うがな……」
 ロッシュの強さは、肩を並べて戦ったストックが、最も良く理解している。こうして病室に横になってはいるが、それも周囲の人間――主にソニアの意向があってのことだろう。苦笑しながら寝台に横になる親友を、ストックは見下ろした。怪我による憔悴など欠片も見られない、逞しい身体だ。共に戦った中で、負け戦も何度か体験したし、怪我をするところだって見てはいる。だがそれでも、この男が戦場で倒れるなど考えられない気がした。
「事実だろう、『アリステルの若獅子』」
「おいおい、自分で言うなよ。そりゃ、お前のことでもあるんだぜ?」
「俺は今は軍人じゃない」
 からかい口調に顔を顰めるロッシュの布団を剥ぎ、腹部に手を置く。病人用の薄い着衣の下に、包帯の感触があった。さらにその下には、負った筈の怪我があるのだろう。
「ん、何やってんだ」
「傷は腹か?」
「ああ。……叩くなよ? いくら大した傷じゃないったって、さすがに辛い」
「お前は、俺のことを何だと思っている」
 分別も付かない小さな子供では無い、と反論すれば、呆れた顔のロッシュが鼻を鳴らした。気にせず、ストックはロッシュの身体を観察する。直接跡が晒されているわけでは無いからか、その下に傷があることを、想像することは難しい。まして、それがほんの少し深ければ、容易に命を奪い得るものなどとは。
「やっぱり、想像できないな」
「何がだ?」
「いや。……ところで、ソニアは? 仕事に戻ったのか」
「ああ。そのうち、包帯を換えに来るとか言ってたけどな。ほら、手退けろよ、こんなとこソニアに見られたらまた絞られる」
「……相変わらず、ソニアには弱い」
「お互い様だろ。ソニアに怒られる気があるんなら、そのままにしといたって良いがな」
 そう言われて大人しく手を引くストックに、ロッシュも笑いを堪えつつ、布団を引き戻した。
「ソニアは少し、心配症だからな」
「そう言ってやるなよ。待ってるだけ、ってのは心配なもんだ」
「そういうものか。……俺には分からないな」
 ストックは首を捻る。人は誰しも死ぬ、それは理解しているし、戦場で命を落とす人間などいくらも見てきている。だがそれを、ロッシュにだけは当てはめて考えることが出来ない。それはストックに、ロッシュと共に戦う力があるからかもしれない。だが今、二人の戦う場所は異なっているのだ。戦うロッシュを庇うことが出来ないという意味では、ソニアと条件は変らない筈なのだが。
「お前が死ぬところなど、想像も出来ない」
「そうかあ? まあ、それじゃあ精々、裏切ることにならんよう気をつけるぜ」
 寄せられた全幅の信頼に対して、ロッシュはいささか複雑そうな様子だ。苦笑を浮かべ、ストックの腕を軽く叩いてくる。分厚く逞しい手だ。何とは無しに触れる。暖かかった。触れた皮膚に、ロッシュの顔が、ふっと真剣になる。
「お前も。……死ぬんじゃねえぞ、ストック」
 薄青い虹彩に真っ直ぐに見詰められ、ストックは目を瞬かせた。ロッシュにとって、ストックが死ぬということは、十分に起こり得る未来なのだろう。ストックとて危険な任務に従事しているのだから、その認識は正しい。ストックは、信頼されていないことが寂しいような、心配されるのが嬉しいような、複雑な心持でそっと頷く。真剣なロッシュの視線は、戦場では無い場所においてはいささかむず痒い。
「お前も、大概心配症だな」
「ほっとけ。わかってるよ」
 そんなストックの表情を、ロッシュはどう受け取ったものか。憮然とした表情で溜息を吐き、ストックから視線を外す。
「わかってる。だが……もう、居なくなられるのは、沢山なんだ」
 掠れた声で囁かれた言葉は、とても小さくて、ほんの微かにしか聞き取ることはできなかった。しかし、ストックが聞き返すよりも速く、部屋の扉が叩かれる音が響く。
「あら? ストック、来てくれていたんですか」
 声と共に入ってきたのは、治療用の道具を抱えたソニアだ。ロッシュが言っていた通りに、手当てを行いに来たのだろう。男二人は、なんとなしに視線を合わせ、へらりと笑い合った。取り敢えず今の状態であれば、ソニアに怒られるような要素は無い。
「え、何ですか? 何かあったんですか」
 意味も無く笑い出す二人に、ソニアは困惑して首を傾げる。その表情がおかしくて、また笑いの発作が深まる。ついには腹を抱えてしまったストックとロッシュを、ソニアは呆れた様子で睨みつけた。
「ちょっと、何なんですか、もう! 二人して、妙なことでも話していたんじゃないでしょうね」
「いやっ、そういうわけじゃなくてな……」
「あ、ああ。別段、何も無い」
「本当ですか? あなた達、放っておくと何をするか分からないですからね」
 ほとんど子供を叱るようなソニアの口調に、収まりかけた笑いがまた噴出してしまう。ソニアの機嫌を損ねたら後が面倒だと、分かってはいるが止められない。
「ああ、もう! いいから退いてください、傷を診ないといけないんです!」
 笑いながら寝台の傍らから退き、ソニアに場所を譲る。ロッシュも、まだ身体を震わせてはいるが、さすがに治療を邪魔する意思は無いらしい。おとなしく上体を起こし、包帯を解かれるに任せている。
「全く……ああ、取り敢えず傷に障りはありませんね。良かった」
「さすがにストックも、そこまで馬鹿じゃねえよ」
「……ああ。怪我人に手を出す訳があるか」
 服越しに触れるところまで行っていたのは、この場では伏せておく。下手なことをしなくて良かったと胸を撫で下ろすストックだったが、包帯が全て取り去られた下の傷跡に、ふと目が吸い寄せられた。大した傷ではないと繰り返されていたが、皮膚がそれなりの範囲で削れたようで、当てられた布には未だ血が滲んでいる。場所は脇腹で、肉のみで済んだから良いが、ほんの少し箇所がずれれば内腑にまで到達しかねなかっただろう。
「あなたもストックも、深刻さが足りませんよ。これくらいで済んだのは運が良かったけれど、感染症にでもかかったら」
 ソニアの説教が耳に入る。傷がもう少し深かったら。処置が適切でなくて感染症にかかっていたら。怪我が命に関わるものになっていたら。死んでいたら。
「悪かったって。大丈夫だ、ちゃんと大人しく寝てたよ。なあ、ストック?」
「……ああ。俺が保証する」
「それは、信用できるものなんですか?」
 不審も露なソニアに、また笑いの発作が出そうになって、慌てて堪えた。見ればロッシュも同じ様子で、肩を震わせてはソニアに睨まれている。声を抑えて笑いながら、頭の片隅で考える。今この場に、ロッシュが居なかったら。この部屋にも、城のどこにも、大陸中を探しても居なかったら。
 それが、死ぬということだったら。

(そんなことは、考えたくもない)

「もうっ、いい加減にしてください!」
「いってえ! わ、悪かったって!」
 ロッシュが悲鳴を上げる。アリステルに知られる若獅子であろうと、治療中のソニアには敵わない。時にストックも同じ立場となってしまうのだが、取り敢えず今この場では傍観者に徹することができる。
「……我慢しろ。自業自得だ」
「お前が言うな! お前だってな……ってえ!」
「終るまで黙っていてください、手元が狂います」
「いや、お前なら大丈夫だろ。だからもうちょっと」
「喋らない!」
 痛みに悶える親友という、滅多には見られない光景を、ストックは意地悪く眺めた。こちらを睨みつけるロッシュと目が合う。言葉に出来ない恨み言をたっぷりと込めた視線を、ストックは滅多に見せない笑顔で受け止めた。後で思い切り文句を言われるだろう。だがそれも悪くないと、ストックは思う。
「ストックも。次に怪我をしてきたら、覚悟してくださいね」
 ソニアのその発言に関しては、悪くないなどと言っていられる余裕は無かったのだが。笑顔を引き攣らせつつも、不思議と幸せを感じ、目元を緩ませるストックだった。






セキゲツ作
2016.02.16 初出

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