アリステルの、とある民家の一室。落ち着いた空気の漂う部屋の中、二人の女性が、茶器を挟んで向かい合っていた。
 一人は、可憐と呼ぶのが相応しい女性だ。目を奪う程に美しく優雅な彼女は、だが見る者が見れば、その美しさよりも先にとある感想を発するだろう。即ち、何故、グランオルグ女王がこのような民家に居るのか――と。
 確かに彼女は、王宮に居る時のような、豪奢な衣装を纏っているわけではない。だが着るものを庶民と合わせ、近辺から護衛の姿を排しても、その物腰に漂う高貴さは消しきれることなく残っていた。少しでも女王の姿を知る者は勿論、全く事情を知らぬ人間ですら、彼女が一方ならぬ存在であることは直ぐに察せられるだろう。
 勿論、一国の女王が完全に一人で行動できる筈は無い。家の外には目立たぬように護衛の兵が配置されており、無害な子供一人すら近づけぬように見張られている。さらには家屋内の直ぐ隣の部屋にも、腹心の警備兵が控え、火急の際に備えていた。しかしそれだけ厳重な警備であっても、同じ室内には一人の兵も、部下ですら同席していない。女王と空間を共にしているのは、向かい合って座る女性のみなのだ。
 あまりにも特別な扱いだが、それが許されだけの理由があった。一つは勿論、彼女が間違いなく信頼のおける相手であること。彼女、ソニアは、エルーカとも間接的に深い縁を結んでいる女性だ。そして公的な目で見ても、砂漠化防止研究の第一人者であり、アリステル内外を問わず非常に大きな発言力を持っている。その彼女が、余人に知られぬ内密な話をしたいと伝えてきたのだ。普通であれば有り得ない会談であっても、実現させることは不可能ではなかった。まして、女王の側でもそれを強く望んだとあれば、尚更のこと。
「アリステルは、如何ですか?」
 微笑みながら、ソニアがエルーカに尋ねる。この家はソニアの、いや正しくはソニアと彼女の夫、ロッシュが住む家だ。戦後に将軍となったロッシュが住む家は、一般の市街地からは少し離れた、警備の容易な地域に建てられている。そうでなければ、エルーカもこうして訪れることはしなかっただろう。グランオルグ国内では驚く程大胆に歩き回る彼女だが、外遊中とあればそうはいかない。他国の地で女王の身に何かあれば、外交問題にもなりかねないのだ。
「とても興味深い街ですね。家も城も鉄でできているなんて、話は聞いておりましたが、実際に見るまで信じられませんでした」
「グランオルグの……いえ、他国の方からすれば、そうでしょうね。私はアリステルで生まれ育ちましたから、こちらの方が当たり前の光景に感じてしまいますが」
「そうでしょうね、暮らしている方からすれば、その方が日常なのですもの。アリステルの方々には、むしろグランオルグの町並みの方が、不思議に感じられるかもしれません」
 ソニアは頷き、ふと視線を遠くに遊ばせた。
「ストックは一体、どんな風に感じていたんでしょうね。私達のこの国を」
 その名に、エルーカは束の間沈黙した。この国で兄が使っていた名は、彼女の胸に愛おしさと痛みを呼び起こす。窓の外を見遣るソニアを、エルーカは見詰めた。彼女が兄の親友だということは、話に聞いて知っている。だが、彼らが過ごした時間について、詳しいことは何も知らない。
それを知りたいとも、知るべきではないとも、知ってはいけないとも感じられていた。
「ストックに、兄、エルンストとしての記憶は無かったと思われます。グランオルグについても、どれくらい覚えていたか――案外ストックも、アリステルの町並みこそが当然のものと感じていたかもしれません」
「さあ、それはどうでしょう」
 幾ばくかの寂しさと共に吐き出された言葉を受け止めたのは、ソニアの静かな笑顔だ。彼女はエルーカよりもほんの二歳程度しか年嵩でないが、その挙動からは、年齢以上の落ち着きが感じられた。彼女の研究者としての実績がそうさせるのか、それとも。
「明確な記憶が無くなっただけで、経験した全てが消えたわけでは無いと、私は考えています」
「残っている記憶もあった、と?」
「ええ。本当に何もかも全てを忘れてしまえば、喋ることも歩くことも、戦うことも出来なくなってしまうでしょう。少なくとも一度学んだそれらは、ストックの中に残っていたということです」
 医者であり学者であるソニアの物言いは、少しばかり難しい。エルーカは一拍置いて意味を咀嚼する。
「残っている記憶があるとしたら、それは一体、どれくらいのものだったのでしょうか。儀式について、そして王家についての記憶は、彼の中から消えていたようでした」
「ええ、それは特に、ハイスが消したかったものでしょうから」
「ならば一体、ストックの中には何が」
「彼は、昔のことは何も語りませんでした。語りたくなかったのか、それとも本当に何も覚えていなかったのか、私達には分かりません。……分からなくても、彼は間違いなく、私達の親友でしたから」
 懐かしむような目で、ソニアは窓の外を見た。そこに話題の人が現れ、彼女らに声をかけてくれる気がして、エルーカも目を向ける。だが有るのはひっそりと静まった庭のみだ。護衛の影が僅かに見え、息を吐いた。
「そうですか。ならばストックは」
「エルーカ女王。無理にストック、と呼ぶ必要も無いのですよ。ここに居るのは私とあなたの二人だけなのですから」
 エルーカはびくりと肩を震わせ、前に向き直る。優しい、労るような微笑みが、エルーカに向けられていた。
「私も、ある程度の事情は聞いています。あなたにとって彼はストックではなく、大切な家族なのでしょう」
「ええ。ですが同時にストックでもあります、この国では特に」
 記憶を失い、一人生きていた兄をエルーカは想う。何もかもから断絶された彼は、しかしエルーカが再会した時、とても強く満ち足りているように見えた。エルンストではなくストックとしての人生を、このアリステルで、彼は確かに手に入れていたのだろう。そんな彼を古い名で呼ぶのは、甘えを捨て切れぬ心の現れだ。
「それでも、あなたの兄です。記憶を失っても、彼はあなたのことを想っていたのでしょう」
 エルーカの頑なな心など、ソニアは全て見透かしていたのだろうか。笑顔に、記憶に無い実母の姿を見た気がして、エルーカは瞼を瞬かせる。押し殺した弱さが吹き出しそうになって、強く拳を握り締めた。
「お話とは、そのことでしょうか?」
 誤魔化すように笑って、首を傾げた。この奇妙な茶会は、元々ソニアの要望によって実現したものだ。彼女が、どうしても女王と二人で話すことがある、と――それが何の話か、エルーカもまだ知らされていない。年若い女王の虚勢を剥ぐことが目的というわけでは、さすがに無いだろう。
 案の定、ソニアは首を横に振り、表情を真剣なものに変える。
「エルーカ女王に伺いたいことがあるのです。とても失礼で、そして酷いことではありますが」
 徹底した人払いをし、強引にも二人だけの空間を作ったことから、その内容は察せられた。儀式については徐々に情報公開を進めている、だがその中でも未だ秘匿されている、そしてこれからも公表することはない話もある。――最も新しく行われた儀式について、だ。
 予想に違わず、ストックについて、とソニアは話を切り出した。
「先に行われた儀式で、ストックはニエとしてその魂を捧げたと伺いました」
「――ええ、その通りです」
「儀式について、ニエについて、私は一通り以上の話を聞いています。その上で伺いたいのです、エルーカ女王。ストックは」
 ソニアは研究者だ、儀式についての知識も、グランオルグ王家に伝わる限りは全て伝えてある。他国にそれだけの情報を開示することに反対の声も多かったが、エルーカが女王の権限において強行した。もうあんな悲劇を繰り返させるわけにはいかなかったからだ、あんな、兄のように、
「ストックは、いつか帰ることがあるのでしょうか。私達の知るストックとして、再びこの世界に現れることが」
 ――一瞬、エルーカの呼吸が止まった。顔を強張らせたエルーカを、ソニアがじっと見詰めている。その顔は静かで、冷静で、何の表情も感慨も浮かんでいないように見える。緑がかった瞳が何処か兄に似ていると、エルーカはふと考えた。
「儀式については、グランオルグのご厚意を受け、可能な限り調べさせていただきました。ニエの魂は執行者の魂に戻り、ひとつの大きな力となって儀式を執行すると」
「……その通りです」
「魂が生みだした力は大陸中に散らばり、マナを安定させて全ての命を支える。そうして、その力が尽きるまでは大陸に平和が訪れる、と」
「その通りです、何もかもが」
「有り難うございます、ならば――儀式に挑んだニエの魂は、実質的には消滅し、二度と元の姿に戻ることはない。そう考えられるのです」
 息を吐いた。聞き苦しいそれが自分のものだと、エルーカは少しの間気付かなかった。顔が下を向いたことにも、遅れて気付く。
「辛いことを聞いています。酷いことだと分かっています。ですが私は知っておかなければならないのです」
「研究者として、ですか?」
「いいえ、妻として。そして友人として」
 顔を覆いたくなる衝動を堪えて、目を上げる。決然としたソニアと視線が重なった。
「ストックの帰りを、今も待っている人達がいます。私の夫もそうです、そしてレイニーさんも」
 共に旅した女性がストックと思いを通わせていると、エルーカも薄らとは気付いていた。今もストックの帰りを信じているとは知らなかったが――あの、儀式の場に、居合わせたというのに。彼らはストックが消える背を見送り、それでも尚信じるというのだ。
「いつかストックが帰ると信じて、待ち続けている。その想いは報われるものなのか、いえ、可能性が存在するのか否か」
 答えははっきりしている、先程ソニア自身が言ったことが、そのまま答えだ。研究者としての知識など無くとも、少し考えれば誰でも分かる。だがそれを理解しない人間も居ると、彼女はそう言っているのか。
「……いつかまた会おう、という声が聞こえました。きっとロッシュさんの声、儀式に挑む直前のことです」
「彼は信じています。いえ、信じたいだけなのかもしれません。ストックがまた、自分の前に現れるということを」
 信じている。信じたい。その気持ちは痛い程にわかる、エルーカとて信じられるものなら信じたい。いつか兄が戻り、昔と同じに微笑んでくれるのだと。だが。
「私は、知っておかなければならないんです。彼らの信じる希望が、本当に存在するのか否か」
「知ってどうすると? 彼らに伝えて、愚かな希望に縋るのは止めろと諭すのですか」
「いいえ、ただ、誰かが知っておかないといけないのです。いつか絶望に変わった時、それを支えられるように。いつか――どんな結末を迎えたとしても、全てを昔話にできるように」
 強い瞳だった。彼女は本当に、全ての絶望をその身に引き受けるつもりなのだろう。何もかも投げ出して耳を塞いでしまいたい衝動が、ふいにエルーカを襲った。信じたい未来だけを信じて、希望だけを夢見て生きていけたら。
「分かりません。……分かりません、私には」
 ついに耐えきれず、エルーカは顔を覆った。闇に包まれた視界の中、朧な記憶が蘇る。儀式に挑んだあの時、強すぎる力に朦朧とする意識の中、飛び込んできたもの。
「本当に分からないんです、あれが一体何だったのか。私には」
「エルーカ女王」
「私は儀式を行いました、ですがあれは――あれは、兄では無かった!」
 沈黙が落ちる。呼吸の音を、エルーカは強く意識した。心臓は動いている。自分は生きている、だが兄は。
 兄は――一体どうなったのか。
「いえ、そうではありません、だってニエはもう兄しかいなかった。だから兄の筈なんです、あれは」
「エルーカ女王、落ち着いて。ひとつずつ、順番に話してください」
 ソニアが席を立ち、エルーカの隣に座り直す。手を握り、肩を抱き寄せられた。柔らかな体温に、心の底がじわりと震える。
「私は、儀式を行いました。ニエの魂と共に」
 眩しい程の光、いや光に覆われた闇。視界を失った純粋な力の中、彼女は執行者として、ニエの魂を受け入れた。
「確かに儀式は成功しました、ですが奇妙な違和感があったのです。ストックと、いえニエの魂と一つになった時に」
「違和感。それは」
「分かりません。儀式を行うのは初めてのことでした、ですから何もおかしいことなど無かったのかもしれない。けれどどうしても、私と共に儀式を行った魂、あれは私にとって異質なものだと」
「本来、ニエの魂は、執行者から分け与えられたものなのですよね?」
「はい、兄も四年前に一度――命を絶たれて、私の魂と共に復活しています。ですがその後、けして短くはない時間を私と離れて過ごしていることを考えれば、違和感があったとしても当然のことです」
 言い聞かせる。言い聞かせなければ、信じてしまいそうになるからだ。あれが彼女のニエではなく、何かもっと別のものであれば、ストックの魂はどこかに存在していることになる。だがそれは、あまりに安易で身勝手な思い込みだ。
「儀式に挑めるのは執行者とニエだけ、だからあれが兄以外であることは有り得ないのです。絶対に」
「そうですか? 本当に絶対に有り得ないと、そう言い切れるでしょうか」
「当然です! だから兄は……もう、絶対に、帰ってこない」
 震えるエルーカの背を、ソニアの手が撫でた。止めてほしい、とエルーカは思う。優しくて、暖かくて、泣き出しそうになってしまうからだ。
「私は儀式を行った身ではありませんし、その場にすら居なかった。だから私の言うことは、全て後から聞いた情報を元にした推測です」
 握られた手が、暖かかった。考えてみればもう随分長い間、こうして人に触れられたことなど無かった。こんな風に、親しげに、包み込むように。
「ニエは、一人だけではありませんでした」
「……何ですって?」
「ハイス――ハインッヒと言った方が良いでしょうか。彼の正体が、元グランオルグ王弟であったと、私は聞いています」
 そのことについては、エルーカも聞いていた。事実としてではなく、後になって様々な情報を繋ぎ合わせると、それが最も整合性がつくという話だったのだが。彼はエルーカの父、グランオルグ王ヴィクトールのニエで、それ故黒示録を操ることも出来た。そう、彼はニエだった、だが。
「ですが私達は、ハイスを倒しました」
「殺しましたか?」
「――ハイスは儀式を阻止しようとしていました。叔父は、儀式を避けて王宮から去ったのです」
「感情を論理に組み込むことはできません、人の感情は容易に翻ります。少なくともあの場に、ニエは二人居た」
「そんな、でも、それじゃあ」
 エルーカがソニアを見る。見詰め返すその顔が、ぼやりと歪んだ。
「あれは、兄でなかったかもしれない」
 泣いているのだ、と直ぐに気付いた。溢れた涙が頬を伝う。
「兄は、生きているかもしれない」
 信じるべきでは無いと思った。あまりにも安直で、あまりにも感情的な推測。希望と言うには脆すぎて、。信じた瞬間壊れてしまいそうで、誰かに伝えることもできなかった。塗れた頬を、ソニアがそっと手巾で押さえた。
「儀式に挑んだニエはハイス、いえハインリッヒであった可能性があります。それが真実であれば、ストックは生きている」
「でもそんな筈はありません、だって兄、いえストックは戻ってきていない」
「何か事情があるのかもしれません。あの人はいつだって、説明もしないで一人で動くから」
 可笑しそうにソニアが笑って、気付いたらエルーカも笑っていた。何でも、国の未来も大陸の命運も、一人で背負っていた兄の姿を思い出す。ストックであった時も同じだったのだろうと、そう思うと妙に可笑しく思えてきた。名が変わったくらいで、人は何も変わりはしない。
「根拠は何もありません、私の主観など、何の根拠にもなり得ない」
「その通りです、だからエルーカ女王が感じられた違和感はただの気のせいで、やはり儀式はストックが行った可能性もある。でも、そうでない可能性もある」
 希望は、輝かしくはあるけれど、それでもやはり曖昧なものだ。けして事実にはなり得ない、そう考えると、あまりに怖い。だが一度口にしてしまったその希望は、あまりに眩しすぎた。
「兄は戻ってくるかもしれない。もう二度と戻らないかもしれない。信じて裏切られるのは、最初から諦めることより、ずっと辛いです」
「ええ。もしストックが本当に帰ってこないと分かったら……その時は、一緒に泣きましょう」
 瞬きをしたその瞬間に、溜まった涙が零れ落ちる。歪みの消えた視界の中、ソニアもまた、目を潤ませていることに気付いた。笑いながら涙を浮かべるソニアに、エルーカも笑みを深くする。
「だから、もう、信じることを恐れないでください。ストックが、いつか帰ってくることを祈りましょう」
「――ええ。いつかまた、兄に会えることを」
 その祈りが裏切られたら、エルーカはまた涙を流すのだろう。だが、一人で絶望を抱え込むよりは、ずっと楽であるようにも感じられた。
「そういえば。兄、と呼んでくれていますね」
 ソニアに指摘され、エルーカは頬を赤らめた。
「ストックは、例え記憶が無くとも、あなたにとっては兄です。もし帰ってきたら、彼もきっとそう言いますよ」
「そう……ですね。そうだと良いです」
 その言葉にも、素直な気持ちで頷くことが出来る。心の一部がとても軽くなっているのを、エルーカは静かに認めることができた。それが許されるのだと、ようやく思えた気がして。
「ソニアさん、兄の話を聞いてもいいでしょうか。兄がアリステルに居た時のことを」
 そうして、ようやく言葉にできたその願いを、ソニアは勿論笑顔で受諾するのだった。





セキゲツ作
2015.02.28 初出

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