執務室の扉を叩く音がして、ラウルは顔を上げた。時計に目を遣ると、終業時刻はとっくの昔に過ぎている。一瞬居留守を使おうかとも思ったが、それが許される状況ではない。目線で対応を促す秘書に、疲れた表情で頷き還すと、扉の向こうへと施錠されていない旨を伝えた。
「首相、失礼します」
 現れた人物を見て、ラウルは片眉を持ち上げた。入ってきたのはロッシュだ、重厚な筈の扉を小さく見せる程の巨体で、生真面目に礼をする。その表情は、ラウルの見立てが間違っていなければ、常になく堅く強張っていた。
「やあ。よく来たね、ロッシュ」
 応対しながらも、素早くラウルの思考が回転する。将軍である彼が首相の執務室を訪ねてきた。しかも、酷く緊張した様子で。かなりの重大時に対する要請、あるいは相談と思われるが、そんな事案が最近あっただろうか。
 部屋に置かれた応接用のソファを示すと、ロッシュは大人しく腰掛けた。どうやら、座って話す程度には長くなる話らしい。ラウルも身構えて、しかしそれを表に出さず、朗らかに笑ってみせる。
「紅茶は要るかい? 今日は会議も無かったからね、飲み過ぎて胃が一杯ってことも無いだろう」
「いえ、それは……あ、有り難うございます」
 ロッシュが何か言うよりも早く、ラウルの秘書官が二人分の紅茶を準備し始める。ロッシュは申し訳なさそうに頭を下げると、ラウルを見て、しかし再び視線を下げてしまった。やはり何某か、心に抱えた懸念があるようだ。
「君も忙しいね、業務時間外まで。まあ、僕も言えた義理じゃ無いんだけど」
「あ、はい。遅くにすいません」
「君が謝ることじゃないだろう、アリステルのために働かされ――もとい、働いてくれているんだから」
「いえ、そんなことはありません。それに今日は、仕事で来たわけじゃなくて……少し、ご相談したいことがありまして」
 ロッシュの言葉に、ラウルが目を瞬かせる。
「相談? 仕事以外のことで、かい」
「はい。あ、いえ、全く関係ないってわけじゃないんですが」
 曖昧な表現だ。仕事でないと言うのであれば、軍で起こった問題では無いのだろう。しかし全く懸け離れた話ではない、それは一体何なのか。ラウルは頭を巡らせる。
「ふむ。君の奥さんについて、とか」
「それは……その、内密の話なので、首相だけにお話したいのですが」
 ちらり、とロッシュが秘書を見た。秘書がラウルに目線で問う。ラウルはそれに頷き返し、彼が退出するのを見送った。
「部屋の前で待機してもらおう。これでいいかい?」
 実際のところ、扉を隔てた程度で、完全に音を遮蔽できるわけではない。声をかければ聞こえる程度の防音性しかない扉では、聞き耳を立てられればそれを防ぐのは難しい。秘書を外に出したのは、部外者の盗み聞きを防ぐための処遇だ。
「はい。有り難うございます」
「で、話とは何だい? 余程の重大時のようだけれど」
「……それは」
 ロッシュが視線を落とし、何度か目を瞬かせた。その様子を、ラウルは忍耐強く見守る。やがて覚悟が決まったのか、ロッシュが真っ直ぐにラウルを見据え、口を開いた。
「ビオラ将軍のことです」
「何、ビオラ将軍? 彼女が一体」
「――将軍に、結婚を考えるような恋人がいるかどうか、ご存じでしょうか?」
 ラウルの、顰められた眉間が、そのまま静止した。ロッシュを見る。真剣な表情だ。しばらく二人で見詰め合っていたが、やがてラウルの視線が上に向いた。天井が見える。ふと、天井の隅に汚れがあることに気づいた。目立たぬ位置だが、気付いてしまうと妙に気になる。清掃員に伝えてもらおうか、いやさすがに指示が細かすぎるか、と頭を悩ませる。
「……あの、首相」
「ロッシュ」
 視線を正面に戻した。やはり、真剣な顔だ。
「浮気は良くないと思うよ?」
「いえそういうことではなくて」
 困惑してた様子で、ロッシュが首を振った。ラウルはまた少し考え込む。
「なら、彼女に見合いの釣り書が来ているとか? 知り合いに紹介を頼まれたとか」
「いえそういうわけありません。すいません、説明が足りませんでした」
 全くその通りだ、とラウルは思うが、口に出すことはしない。目の前の男は、巨躯に似合わず繊細なところがあるのである。
「最初からお話します。少し長くなるかもしれませんが」
「うん、頼むよ」
「最近、うちにビオラ将軍がよくいらっしゃるんです」
「やっぱり浮気じゃ」
「違います。頼むから、最後まで聞いてください」
 はあ、とロッシュが溜息を吐いた。ちょっとした冗談だよ、とラウルが笑うが、無視された。疲れが溜まっているのかもしれない。
「ソニアがビオラ将軍の主治医なのはご存じですよね。それで、仕事を離れても仲良くさせてもらっているようで」
「ああ、うん。最近よく、一緒に話しているところを見かけるね」
「それで、うちにもよくいらっしゃってるんです。レイニーも一緒になって、三人で。ソニアにも仕事と家事以外に楽しみができて、それは有り難いんですが」
 内容こそ違えど、ビオラもソニアも、アリステルの中核をなす責務を担う女性達だ。普通の女性職員が相手では、本人の感覚はともかく、どうしても相手が気後れしてしまう。そういった意味で、彼女ら同士で親しく付き合うのは、中々良いことのように思えた。何処に問題があるのか、とラウルはロッシュに続きを促す。
「ここしばらく、ですね。三人でしていることが、そのう」
「うん」
「…………」
「大丈夫、茶化したりしないから。さっさと言いなさい」
 それでもロッシュは、ラウルのことを疑わしげに見ていたが、やがて諦めた様子で話を再開した。
「三人で、料理をしているようなんです」
 沈黙。ラウルがまた天井を見た。やはり隅が汚れている。一度気になると意識から離すのは難しい、後で秘書に言っておこう。嫌味が返ってくるのは間違いないが、仕事はきっちりする人間だ、明日か明後日には跡形もなく綺麗になっていることだろう。そうと決まれば少し心が落ち着いた、やはり働くのであれば綺麗な部屋が良い。一国の首相なのだから、それくらいを望む権利はある筈だ。
「あの、首相?」
「うん、大丈夫。何が問題なのか考えていたんだ。一体、それの何が不味いんだい?」
 女性が料理。悪くない、いやむしろ美しい光景だ。特に見目からして麗しい女性が三人そろっているのであれば、尚更のこと。ロッシュとしても、妻が女性と共に居たからといって嫉妬するような、異常な愛情を持っていたという印象も無い。
「ええ、まあ、不味いことは無いのかもしれません。いや、普通に作ってるだけなら俺も気にすることは無かったんですがね。ただ……」
「ただ?」
「見てると、ソニアとレイニーが、ビオラ将軍に料理を教えてるみたいなんですよ」
「成る程、それは」
 それは――問題なのだろうか。ラウルは内心首をひねる。料理の技術など、女性が身につけて困るものではあるまい。アリステルでも外食は出来るが、家を仕切る女性が食事を作るのが主流だ。確かにビオラは未婚で、作る相手は居ないわけだが、この先絶対に現れないとも限らない――
「あ、ひょっとして」
「はい。もしかして、結婚の予定でもあるのかと」
 ロッシュは真剣だ。この上無く真剣だ。だからラウルも真剣に考え、そして答えを出した。
「気のせいじゃないかな?」
 言下に断じられ、ロッシュが渋い顔になる。
「料理を習っていたから結婚の予定があるんじゃないかとか。君が心配性なのは知っているけど、さすがに少し飛躍しすぎだよ」
「けど、有り得ない話じゃないでしょう」
「可能性は薄いんじゃないかな。何せ相手はビオラ将軍だ」
「そうですかね? あれだけ美人なんだ、その気になりゃあ引く手数多でしょう」
「それはまあ、間違いないだろうけど」
 確かにビオラは美人だ。戦女神とすら称される美貌だ。英雄的な活躍による美化を差し引いて、男所帯の中の数少ない女性であるという環境を考慮して尚、希有な美女と言える。年齢については、まあ――多少、婚礼を迎える平均的な年齢を超えてはいるが、それを置いても魅力的な女性であることは間違いない。
「しかし君、奥さん以外の人を美人と思える感性があったんだねえ」
「そりゃ一番はソニアに決まってますがね。ともかく、戦争も終わったことだし、ビオラ将軍だって結婚くらい考えられることもあるでしょう」
「うーん、確かに友人と一緒に遊ぶこと自体、戦争中じゃあ考えられなかったわけだし」
 戦女神と讃えられ、アリステル全土の希望を背負っていた頃は、彼女が結婚するなど誰も――おそらく、彼女自身ですら考えなかった。だが戦争は終わり、将軍の職にこそ残っているが、その背に負っているものは随分と軽くなった筈だ。普通の女性のように恋をすることも、結婚を考えることですら、不自然な話では無いのかもしれない。考え込んでしまったラウルに、ロッシュが得たりといった様子で頷く。
「でもやっぱり、考えすぎじゃないかな。考えられる理由はいくらでもあるだろう? それこそ、戦争が終わって肩の荷が下りたから、趣味でも作ってみようと考えたとか」
「そりゃ分かってます、俺だって絶対そうだなんて言うつもりはありません。ただ、もし予想が当たってたとしたら、早めに対処しないとまずいじゃないですか」
「対処って……一体何に対処するつもりだい」
「仕事の割り振りですよ!」
 ロッシュの右拳が、力強く握られる。
「結婚したら職を辞されるか、そこまでいかなくとも今までよりも仕事に入れる時間が減るでしょう。そうなったら、軍部は大混乱です」
 闘病中のビオラは仕事の量も制限されているが、それを踏まえても軍部の代表として、彼女の負う役割は大きい。万が一結婚して退職するなどということになれば、大きな混乱が起きるのは必至だ。勿論これまで通り将軍職を続ける可能性もあるし、そもそも結婚すると決まったわけでもないのだが――ロッシュを心配性と笑いつつ、ラウルの心にも、一抹の不安が忍び込んでくる。
「そんな、まあ確かにそうかもしれないけど」
「もしそうなったら、軍部だけで済む話じゃないですよ。アリステル城中、あっちこっちで大騒ぎになるのは目に見えてます」
「まあ、それは否定しないよ。しかしね……」
「しかし?」
「……うーん。しかし、その」
 一度気になってしまえば、その不安を頭から追い出すことは難しい。天井の汚れと同じだ。汚れなら綺麗に掃除させれば良いが、この不安を払拭するにはどうすればいいのか。
「ともかくまずは、疑惑を確定することじゃないかな? ビオラ将軍にかかる負担を減らすのは必要なこととして、それを徐々に進めるべきか、それとも今直ぐ完遂すべきかで、取るべき手段は全く違ってくるだろう」
「はい。だから首相に、お心当たりが無いか聞きにきたんですが」
「あー、そういえばそうだったね。端的に言えば、全く心当たりは無いよ」
「そうですか……」
 沈黙。ロッシュからの視線を、ラウルは感じる。訪ねてきた目的の話は終わった筈だが、ロッシュはこの場を去ろうとしない。当然といえば当然の話だ、その質問だけが目的であった筈も無く、彼はラウルに相談するつもりで来たのだろう。その解を求める気配が、口にせぬまでもなく伝わってくる。
 どうしたものかと、ラウルは内心頭を抱えた。筋合いとしてはラウルが受けなければならないようなものではない。だがラウルが突き放してしまえば、他に相談できる相手を探すのは難しいだろう。ロッシュもこれで将軍だ、さらに問題がビオラ将軍に関することなのだから、生半な相手に聞かせるわけにはいかない。許されるとすればラウルのような元上司か、あるいは彼の信頼する――と、そこまで考えてようやく、ラウルの頭にある男の顔が浮かんだ。
 それと同時に、部屋の扉が叩かれる。ロッシュが身体を強張らせた。ラウルが誰何するよりも先に、扉が僅かに開き、秘書の顔が覗く。
「失礼致します。必要と思われましたので」
 それだけ言い残すと秘書は姿を消し、代わりに部屋の中に放り込まれたのは、他ならぬストックだった。突然の、しかしこの場においては最も相応しい乱入者に、ラウルとロッシュは揃って目を丸くした。
「ストック! お前どうして」
「……書類を届けにきたんだが。お前達こそどうした、顔を揃えて」
「いや、丁度良かった、とても難しい問題に直面していたところだったんだ。あ、書類は適当に置いておいてくれ、後で目を通すから」
 ストックが手にした書類を強引に取り上げ、机の上に放り出すと、ラウルはストックを強引に座らせた。ストックは警戒も露わにしているが、親友が居ることもあってか、取り敢えずは大人しく腰を下ろす。
「忙しいところ悪いんだけど、是非力を貸してほしい。恐らくストック、君でなければ解決できないことだ」
「……大仰だな。一体、何の話だ?」
「うん、ロッシュ、説明してあげてくれ」
「はい。実はな――」
 ラウルに促され、ロッシュが先程の話を要約して伝える。簡単な説明が終わると、ストックはしばし黙り込んだ。首を上向け、天井を睨み付ける。
 数秒、数十秒、あるいは数分だったかもしれない。やがて、ふっとストックが視線を戻し、ラウルを見た。
「天井の隅が汚れている、掃除した方が良い」
「おいちょっと待てストック」
 飄々とした親友の頭を、ロッシュが叩く。
「考えろよ! せめて考えたって言うくらいはしろよ! 首相だって考えるフリだけはしてくれたんだぞ!」
「そう言われてもな。ビオラが結婚? 随分飛躍した話だな」
「んなこた無えよ。大体、有り得ないって言い切る方が失礼だろ」
 息荒いロッシュに言われ、ストックがようやく少し考え始める。
「結婚自体が妙だというわけでは、確かに無いかもしれない。だがもし本当に結婚に至ったとしても、ビオラはおいそれと自分の仕事を放り出すような人間では無いだろう」
「そりゃ勿論その通りだ。だがもし子供でも出来たってことになったら、悠長なことは言ってられんだろう」
「結婚するって決まってもいないうちから子供の心配かい?」
「……さすが経験者」
「ほっとけ。ともかく、もしそうなったらどうするか、って話です」
 頑なに話を続けようとするロッシュに、ストックが大きな溜息を吐く。
「お前の心配性は、たまに度を超すな。そんなことは、実際起こってから考えたとしても、十分に間に合うだろう」
「人事だと思って気楽に言いやがって、それで割を食うのは俺なんだぞ? これ以上残業が増えたら、ガキの顔だってまともに見られなくなる」
 剣呑な顔のまま、ロッシュも溜息を吐いて返した。成る程、とラウルが頷く。
「やたらと強情だと思ったら、理由はそれかい」
「……お前な」
 確かにロッシュは、現在でも随分と忙しくしている。妻のソニアにも叱られると、愚痴を零していたこともあった。万が一ビオラが退職でもしたら、それが倍増しになると恐れているのだろう。
「何だよ、ストック。遠征から帰ったらガキに顔を忘れられてて、見るなり大泣きされた俺の気持ちが分かるってのか」
「ああ、それはまあ、うん。いつも悪いと思っているよ」
 ビオラは療養中だから、長期の遠征となると、どうしてもロッシュを頼らざるを得なくなってしまう。業務が集中しているのは確かだから、ラウルとしても罪悪感が無いわけではない。
 しかし、当のロッシュの親友である男の表情は変わらない。さすがの鉄面皮だ。
「それについては同情する。ビオラやお前に仕事が集中し過ぎているのは、組織として考えても確かに問題だ、改善すべき点だろう。だがそれは軍部の問題であって、俺には直接関わりのないことだ」
 戦後アリステルに戻った後、ストックは軍から離れ、内務や外交で国を支える道を選んだ。情報部に居た頃と違って、正式に籍も移っている。だから彼の発言は、一応は理に敵ったものではあった。関わりがない、というのは些か酷薄に過ぎるが――
「ストック、お前、さっさと帰りたいからって突き放しやがって」
 そんな親友の態度にか、それとも単純に手伝いを拒否されたからか、ロッシュが不満げに唸っている。鉄腕将軍の睥睨はさすがに迫力があるが、対するストックは素知らぬ顔だ。
「うるさい。お前は子供に会えないと言うが、俺はその子供もまだ居ないんだぞ」
「ガキなんぞ、時間が無くたって作れるだろ」
「ほうほう。さすが経験者だねえ」
「……そういう問題じゃない。ともかく俺には関係ないことだ」
「ほーう、言ったな?」
 直ぐにでも部屋を立ち去りたそうなストックだったが、ロッシュはそれを許さない。良いとは言えない人相が、どんどん凶悪になっていく。離席しようとしたストックの手を、大きな右手ががしりと掴んだ。
「それなら、今軍部で引き受けてる内務方の業務を、全部返上させてもらうぞ」
「なっ……ちょっと待て、それは」
「元々再編成直後で仕事が回らないからって、軍部がそっちを手伝ってたんだ。こっちの仕事が溢れてる時にまで続ける道理はねえよなあ?」
「おい、卑怯だぞ!」
 ストックが怒気も露わに睨み付けるが、それで怯むロッシュではない。二人は至近距離で火花を散らす。仇敵同士もかくやと言わんばかりの気迫に、ラウルは気付かれぬよう一歩後ずさった。
「君達、親友同士だよねえ?」
「「勿論だ」です」
 実際親友らしく綺麗に息を合わせる二人に、ラウルは肩を竦める。距離を取られたことに気付いているのか否か、ストックは大きく息を吐くと、ぐるりと首を回した。
「……分かった、付き合えば良いんだろう」
「さっすがストック、話が分かるぜ!」
「仕方のない奴だな、本当に」
「それで済ませられる君も大概だと思うけどね」
「で、結局お前は何がしたいんだ? 軍部の仕事に関してまでは、さすがに手は出せないぞ」
 諸々のしがらみから自由に見えるストックだが、一応組織人である自覚はあるらしい。ロッシュもそれには流石に反論しない。
「勿論、それはこっちでやるよ。今問題なのは、ビオラ将軍が結婚するって推測が事実かどうかだ」
「事実であれば早めに対応しなくちゃいけなくなるし、そうでなければ急激な業務分掌の変更がもたらす弊害の方が大きいからね。現状がどうなのか、はっきり把握することが大事なんだよ」
「……成る程な。しかしそれなら、ビオラ本人に聞けばいいんじゃないのか」
「ストック、お前聞けるか?」
 沈黙。ロッシュの凝視から、ストックは黙ったまま顔を逸らす。珍しいストックの態度に、ラウルも苦笑した。
「まあ、本人に聞くのは確かに躊躇われるよね。それなら、君達の奥さんに聞けばいいんじゃないかな? そうやって協力しているってことは、何某か理由を知っている可能性もあるんだし」
「ソニアにですか」
「……レイニーか。どうだろう、効果があるとも思えないが」
 最も現実的な案と思えたのだが、二人の返事は捗々しくない。互いに顔を見合わせ、首を傾げている。
「ソニアの性格からしたら、本人が言わないうちは何も言わないと思うんです」
「レイニーも同じくだな。軽々しく噂を吹聴するような人間じゃない」
「成る程ね。なら、鎌を掛けてみたらどうだい? ビオラ君から聞いたということにして」
「……いや、それはちょっと」
 やはり、揃って渋い顔。ラウルとしては悪くない案だと思ったのだが、妻に対する愛情豊かな彼らからしたら、あまり歓迎すべき内容ではなかったようだ。
「奥さんが怖いのかい。鉄腕将軍ともあろうものが、情けないなあ」
「そう言ってやるな。ソニアに勝てる人間は、アリステルの中でも多くは無い」
「レイニーも、ソニアとはまた別な感じで、逆らいづらいもんがあるよな」
「ああ……信頼されているからこそ、裏切れない」
「そんなものかねえ。ともかく、細君に聞くことは出来ない、と」
 頷き合う夫達にラウルが共感することは、残念ながら出来ないのだが。ともかく、これ以上の惚気を聞く気は毛頭無いので、話を元に引き戻す。
「けど、それなら他にどんな方法があるかな? ビオラ将軍の側近にでも聞いてみるとか」
「どうだろうな、彼らも優秀な軍人だ、不確定な情報をばら撒くような真似はしないだろう。それに、もし一切何も知らなかった場合は、こちらの方が無用な噂を広げてしまうこととなる」
「確かにそれは上手い手ではないね。ふむ……」
「ストック、お前元情報部だろ。なんとか調べられないか?」
「執務室に忍び込んで書類でも持ち出すか? 無茶を言うな、大問題になる」
「それ以前に、付き合っている男性がいるかどうかを示すような書類なんて、無いと思うけどねえ……」
「盗み出すとか、んな剣呑なのじゃなくて、何か方法は無いのか? 考えるのはお前の方が得意だろ」
 確かにストックは頭が良い。軍で働いていた時代も、補佐としてロッシュを良く助けていたと、ラウルも聞いている。しかしこの場においては、その能力も役には立たなかったらしい。無表情を崩し、険しい顔で考え込んだまま止まってしまっている。
 三人が揃って固まり、出口の見えない思考を巡らせていたところに、再び扉を叩く音が響いた。間髪入れずに扉が開き、秘書の顔が覗く。
「失礼致します。必要かと思われましたので」
 そしてさっさと姿を消したと同時に、部屋の中に小柄な影が放り込まれた。今度はマルコが、その場に居る全員の視線を受け、当惑して立ち尽くす。
「あの、ロッシュ将軍。えっと、キール君が探して」
「丁度良かった、マルコ。お前もちょっとこっち来い」
「いえ、僕は将軍を探していただけですから! 仕事に戻り――」
「……良いから座れ」
 ただならぬ雰囲気を察して踵を返しかけたマルコだが、親友二人の息の合った連携によりその退路を塞がれてしまう。腕を捕まれ、ずるりと会合の中心に引きずり込まれてしまったマルコに、ラウルは心の中で合掌した。
「な、何があったんですか! 機密に関する話なら、僕は気かない方が」
「大丈夫だ、お前なら信頼できる。ロッシュ」
「ああ。実は、こういう事情でな――」
 聞きたくないという意思を全面に出したマルコに、構わずロッシュが話を聞かせる。三度目ともあって、中々に筋道立った説明だ。
「――というわけだ」
「成る程、状況は分かりました」
「分かってくれたか。正直手詰まりでな、お前に何か考えが無いかと」
「ある訳ないじゃないですか! 雁首揃えて、一体どんな馬鹿なことに頭を悩ませてるんですか!!」
 小柄な体に似合わぬ怒声に、ロッシュもストックも揃って首を捻っている。上司と元上司の姿に、マルコは大きく肩を落とした。
「まあ、君の気持ちも分かるよ。とはいえ彼らがこのままじゃ納得しないっていうのも、残念ながら事実でね」
「首相、まるで人が全面的に悪いみたいに言うじゃないですか」
「そうだ、騒いでいるのはロッシュ一人だぞ」
「ストック、お前しつこいぞ。協力するって言っただろうが」
 ロッシュとストックが、火花を散らすが、ラウルはそれを無視してマルコへと笑いかける。
「すまないけど、何か案を出してくれるかな? 仕事だと思って」
 そう言われてしまえば、何しろ相手は国の元首だ、マルコが断ることはできない。溜息を噛み殺しているのがありありと分かる表情で、はあ、と力無く頷く。
「といっても、僕にも良い案なんて思いつきませんよ。直接聞くのも、誰かに聞くのもダメなんでしょう?」
「残念なことにね」
「とすると、うーん」
 考えるマルコが天井を向――こうとするのを、ロッシュとストックが押さえて止める。
「な、何ですか!」
「いや、何ってわけじゃないが」
「天井が汚れているのは分かっている、聞きたいのはそれ以外の意見だ」
「天井? ああもう、分からないけど分かったから離してください!」
 マルコが暴れ出す一瞬前に、計ったように二人同時に手を離す。本気で睨み合っていたのが嘘のような息の合った動作に、ラウルは感心し、マルコは呆れている。
「そうだなあ。聞くのが駄目なら、やっぱり調べるしかないんじゃないですか?」
「調べる、か。だがどうやる? 政敵の弱点を探るのとは訳が違うぞ、忍び込んで書類を盗めば良いというわけじゃない」
「ストック、君、なんだか妙に忍び込むのに拘るねえ?」
「ううん、書類を盗むのは無理だろうけど、つまり情報を得れば良いんですよね。それなら、盗み聞きしてみるとか」
「盗み聞き?」
 三人の視線が一気に集まり、マルコはびくりと背筋を伸ばした。
「そ、そう言ったら人聞きが悪いかもだけど。ソニアさんとレイニーが料理を教えてるってことは、二人は事情を知っている可能性が高いわけでしょ? だったら、教えてる最中に、ビオラさんの相手のことも話したりしてないかなって……」
「「それだ!」」
 段々と小さくなるマルコの声に、ストックとロッシュの大声が被った。扉の前でガタリと音がしたのは、秘書が驚いて身じろぎでもしたのだろうか。
「確かにそれなら、少しは詳しいことが分かりそうだな」
「……ああ、良い案だ。少なくとも誰かに聞くよりは余程可能性が高いし、実行も不可能な話じゃない」
「そ、そう? それなら良かったけど」
 納得した様子の親友二人に、マルコと、ついでにラウルもほっと胸を撫で下ろす。何とはなしに顔を見合わせ、引き攣った笑いを交わし合った。
「ストック、手伝うな?」
「ここまで来たら途中で投げ出す訳にもいかないだろう。仕方がない、手伝ってやる」
「うんうん、よかったねえ」
「それじゃあ、話が纏まったならこれで……」
 これでようやく解放される、そう安堵した二人だったが。
「そうですね、今日のところはこれで解散ってことで」
「確か、次の休みにまたロッシュの家に集まると、レイニーが言っていたな。その時にまた集合しよう」
 ロッシュとストックがが続けた言葉に、その笑みは引き攣ったまま戻ることなく、綺麗に凍り付くこととなったのだった。




――――――



 そして、問題の休日。
「よし、向こうはちゃんと始まってるみたいだな」
「ねえストック、本当にやるの?」
「ああ。ここまできたらやるのみだ」
「何で僕まで付き合わされなきゃいけないんだい……」
 ロッシュ宅の付近に集まった四人は、頭を突き合わせてぼそぼそと言葉を交わし合っていた。煙突からは煙が立ち上り、今まさに使われている最中であることを示している。気合いを入れて壁を睨んでいる親友二人と対照的に、ラウルとマルコは、今にも逃げだしたい気持ちを隠そうともしていない。
「二人とも、やる気なのは良いけど、実際に盗み聞きなんて出来ると思うのかい? 相手はビオラ将軍だよ」
 体調を理由として実戦からは退いているが、戦女神と称される武人だ。雁首揃えて近付くのを、気付かれないとはとても思えない。
「それもそうですね。ストック、何か案はあるか?」
「いやあ、さすがのストックでもそれは無茶だろう。だから……」
「方法ならある」
 考え直してくれないか、いや考え直すべきだという言外の願いを、あっさりとストックは退けた。整った口元に、微かな笑みが浮かぶ。そして――ふっ、とその姿がかき消えた。
「――!?」
 いや、正確に言えば姿が消えたわけではない。意識を強く向ければ、そこに居ることは視認出来る。だが少しでも気が逸れれば、存在が知覚からすり抜けてしまうのだ。
「長くは保たないがな。しばらくの間なら、ビオラといえど気付かれることはないだろう」
 そして、再び姿を現す。手妻のような現象に、ラウルもロッシュも、驚いて目を見張った。マルコは一人、納得した様子で頷いている。
「それかあ。それなら確かに、何とかなるかも」
「……情報部の技術かい?」
「ああ、気配を消して行動できる技だ。俺だけでなく、周囲の人間にも効果は及ぼせる」
 そう言ってロッシュに軽く触れると、今度は二人揃って姿がかき消えた。一瞬の後、元に戻る。
「グランオルグの王宮に忍び込むのに使ったんだよね。懐かしいな」
「お前、そんなことも出来るのか。大したもんだな、さすがだぜ」
「そうだね。そんな凄い技をこんな目的に使って良いのか、って気もするけど」
「ただ、先程も行ったが、長くは保たない。そうだな――五、六分が精々といったところだろう」
 魔法のような技術だが、さすがに制限はあるらしい。数分で目的の情報が得られるか否かは、完全に賭だ。
「よし、じゃあ頼んだぜストック」
「任せろ。台所の近くまで行ったら、術を発動させる。そこからゆっくり近付こう」
 そんな分の悪い賭に身を投じるのは――という、ラウルとマルコの無言の訴えには、ロッシュとストックの二人は完全に気付かない。互いに力強く頷きあい、迷い無く行動に――何故かラウルとマルコを引いて、行動に移っていった。


 家長の体格を反映してか、ロッシュ宅の間口は全体的に広い。だがそれも、大の男が四人同時に動くとなれば、さすがに狭苦しさを感じる。
「押さないでくれよ、皆」
「この術、どれくらいまで近付いても大丈夫だっけ? 部屋の中まで行くのはいくら何でも不味いよねえ」
「てか、本当に見えてないんだろうな? なんか不安だな……」
「しっ、静かにしろ。あまり大声を出すと、ビオラに気付かれる可能性がある」
 途端に、全員の口が閉じた。台所の扉は半ばまで開いていて、中の様子を探ることも出来るが、こちらの声もまた筒抜けだ。術の効果があるから直ぐに気付かれることは無いとしても、あまり煩くしてしまえばその限りでは無いのだろう。
 男達の声が途絶え、静かになった空気の隙間から、女性陣の話し声が聞こえてくる。
「――そろそろ良い頃ですね。開けてみてください」
「わ、美味しそう!」
「おお……凄いな」
 どうやら、料理教室も佳境らしい。四人は互いにそっと目を見交わす。扉に近づき、重なるようにして耳をそば立てた。
「最初はどうなることかと思ったが、出来るものだな。教師の教えの賜だ」
「そんなこと無いですよ、ビオラ将軍の飲み込みが速いんですって。包丁の使い方もすごく上手だったし」
「ええ、本当に。これだけ出来れば、お一人でも十分台所を切り盛りできますよ」
 台所を切り盛り。聞き捨てならぬ台詞に、男達の目が光った。
「どうだろうな、まだ自信が持てないが」
「大丈夫ですって! 料理なんて勢いですよ」
「それと、大切な人のために作ることですね。ねえレイニーさん?」
「ふむ、成る程。君達が言うと説得力があるな」
 華やかな笑い声。それに紛れるように、密やかな声が交わされる。
「――大切な人?」
「問題のある単語が出てきたねえ。これは、もしかするともしかするかな」
「しっ、静かにしろと言っただろう」
 乗り気で無かった筈のラウルとマルコまでが、はっきり聞き取ろうと扉ににじり寄る。ロッシュがストックに、本当に見えていないのだろうなと、目線で確認した。ストックが頷き、先例を示して扉から室内を覗き込む。
「ん?」
 と、ビオラが扉の方を見た。四人の身体が硬直する。ビオラと目が合った――と、四人全員が思った。しかしそれは揃って勘違いだったらしい。ビオラは首を捻りながら、それ以上近付くことはしなかった。
「どうかしたんですか?」
「いや、そこに誰か居たような気がしたのだが。気のせいだったようだな」
「あの子は奥で寝ているし……ロッシュが帰ってきたのかしら?」
 妻に名を呼ばれたロッシュが、無意味に口を押さえ、息を殺している。しばらく様子を伺っていたソニアだったが、動く気配が無いことで、気のせいだと判断したらしい。不思議そうに首を傾げながら、料理の方に意識を戻す
「とにかく、後は仕上げと盛りつけですね。少し手をかけると、ぐっと美味しくなるし、見た目も全然違うんですよ」
「うむ、宜しく頼む。以前は食事など、栄養が摂れれば良いと思っていたのだがな。こうして手をかけて作ってみると、その大切さに気付けるというものだ」
「あはは、そう言ってくれると教えた甲斐がありますよ! 後は皆で美味しく食べるだけですね」
「それは勿論。――自分で作った料理を誰かに食べて貰うなど、これまで考えてみたことも無かったよ」
「これからは、いくらでも機会がありますよ」
 声を出せない男達が、無言のまま顔を見合わせる。これは、決まりかもしれない。ストックが、静かに背後を指し示す。情報は十分に得た、まずは戻って善後策を練ろう、ということだ。三人が頷き、そろそろと後退を始める。
 と。
「――!!」
 ビオラの目が鋭く光り、その身体が音そのもののように動いた。調理台に置かれていた調理刀を逆手で握り、手首の動きだけで投擲する。
「何者だ!」
 声と同時に、柱に調理刀が刺さった。驚愕と衝撃で、ラウルの身体が均衡を失う。体勢を立て直せず崩れた身体は、密着していたマルコに直接ぶつかった。マルコの身体はストックに、ストックの身体はロッシュに。そうして体重が中継された結果。
「「「「うわっ!!」」」」
 男の身体四つが、床に投げ出された。その勢いで、ストックの術が解ける。となれば当然、彼らの身体を隠すものは、何もない。
 沈黙。
 女性達の視線が注がれる。
 ビオラの、そしてソニアとレイニーの目に驚愕と疑問が渦巻くのを、ラウルは逃げ出す手立ても無く眺めることしか出来なかった。


――――――


「――話は大体分かった。つまり君達は、私の様子を探りに来たというわけだな」
 台所の床は冷たい。直接座るべき場所ではない。
 だが招かれぬ侵入者である彼らは、揃って基処に座らせられ、ビオラ達三人に見下ろされることとなっていた。美しいが迫力のあるビオラに、無表情のまま見下ろされる――見下されるのは、嗜好によっては快感ともなるのだろう。だが残念ながらラウルにそういった趣味は無いし、居並ぶ他の男達も同様の筈だ。ロッシュはひたすら小さくなり、マルコはどこか遠いところに視線を遊ばせ、ストックは立場も弁えず不貞腐れたような表情を浮かべている。
「……申し訳ありません」
 一応、首謀者の自覚はあるのだろう。ロッシュが代表して応え、深々と頭を下げる。威厳の欠片も残っていない部下に対して、ビオラは深い溜息で応えた。
「私の病気については、私事と思い、あまり君達には伝えないようにしている。それが原因と思えば、強ち君達ばかりが悪いとも言えないが……」
「でも、さすがにちょっとおかしいよね。盗み聞きまでするなんて」
 ずばり、とレイニーが断言した。隣ではソニアも深く頷いている。彼女が腕に抱いた乳児も、分かっているのか否か、むずがるような声を発した。
「ソニア、チビは寝かせておいた方が良いんじゃ」
「先程の騒ぎで起き出してしまったんですよ」
 あなたのせいで、と明確な含意で責められ、ロッシュはまた身体を小さくした。頼りにならない将軍だ、とラウルは密かに肩を落とす。
「首相も。何故彼らを止めてくださらなかったのですか」
 しかしそんな他人事な態度が許される筈も無い。ビオラの冷たい視線に射すくめられ、ラウルの身体が縮まる。
「いや、止めたよ勿論。けど聞いてくれなくてねえ」
「もっと強く止めてください。ロッシュ将軍を制止できる立場にあるのは、貴方だけだったでしょうに」
「……いや、面目無い」
 ビオラの言うことは、全くの正論だ。ラウルも全く反論出来ず、ひたすらに小さくなっていることしか出来ない。国家元首の威厳も、年長者の立場も、全て形無しである。
「ストックだってそうだよ、一緒になって騒いでないで、ちゃんと止めればよかったのに」
「それは誤解だレイニー、俺はロッシュを止めた、だが聞き入れられなかったんだ。今日だって、ロッシュに脅されて参加したようなものだ」
「そうですか? ストック、貴方、そんな殊勝な人間だったかしら」
「途中まで皆が見えなかったの、ストックの技でしょ? 結構乗り気で手伝ってたんじゃない」
 堂々と罪を逃れようとしていたストックだが、女の観察力なのかどうか、レイニー達がそれを信じた様子は無い。あっさりと事実を指摘され、ストックの唇が引き結ばれる。都合が悪くなったためか、黙り込む姿勢の夫に、レイニーが呆れて唇を尖らせた。
「マルコさんは……」
「ぼ、僕こそ巻き込まれただけだよ! 何度も止めたのに、皆聞き入れてくれなくて」
 必死の訴えに、女性陣はあっさりと頷く。
「ああ、それはそうだろうな」
「マルコさんが率先してこんなことをする筈がありませんよね」
「マルって人に引き摺られて苦労するのが多いよね。相変わらず情けないなあ」
 あまりにも拘り無く流され、それが信頼なのか軽視なのか判断できずに、マルコは顔を引きつらせている。しかしこの場において、女性陣の詰問を逃れたのは確かで、他の男達は珍しく羨望の眼差しをマルコに注いでいた。
「……俺の時とは、随分と違うんだが」
「人望の差じゃないかな?」
 拗ねて顔を顰めるストックに、ラウルとロッシュも苦笑するしか出来ない。確かにマルコは無害そうに見える。見える、だけで実際それが真実かを知っているのは、極一部の人間に限られているのだが。その、極一部であるストックは不満げに息を吐き、じろりとビオラを睨めつけた。
「で、実際はどうなんだ。結婚するのか。それとも別の理由があってのことか」
「ちょ、ちょっとストック」
 虚飾を嫌うのは彼の美点だが、それにしてもこれは直截過ぎる。慌てたマルコが口を塞ごうとするが、ストックは上体だけで器用にそれを避けた。勢い余ってマルコの身体がバランスを崩したのを、ビオラが手をかけて止める。
「ふむ。私が料理を習っていた理由だな」
「ああ。どうなんだ」
「結論から言えば、君達の想像とは異なる。結婚する予定は全くない」
 断言。誤解のし様もなくきっぱりと言い切られ、男達は目を瞬かせた。
「え? じゃあ、どうしていきなり料理なんて」
「私の病気については知っているだろう? 私事と思って詳細については周知していないが、ソニアさん達医療部のお陰で、最近では随分改善されてきていてな。薬事などの本格的な医療行為を抑えて、食事療法などに切り替えていこうという話になっているんだ」
「食事療法……」
 何となく話が見えてきた。男達が顔を見合わせる。
「勿論城の食堂にも話は通して貰ってある。だが、私一人の為に他の部署にまで負担をかけ続けるのは忍びなくてな。少しでも自力で補えないかと家で料理を始めてみたんだが、何しろ長いこと戦ってばかりいたので、料理の手順などすっかり忘れてしまっていて」
「それでソニア達に、料理を教えて貰っていた――ってわけですか」
 脱力したロッシュが、崩れかけた身体を右腕で支える。
「え、でも大切な人に食べさせるっておっしゃってたのは」
「そこも聞いていたんですか? そんなの、ただの一般論ですよ」
「誰かに食べさせる機会が、っていうのは何だったんだい」
「作った料理は、ソニアさんとレイニーさんと一緒に食べていたんだ。二人とも美味しそうに食べてくれるのが嬉しかったと、そういうことでな」
 はあ、とビオラが、いささか芝居掛かった様子で溜息を吐く。
「上達したら、君達にも食べて欲しいと思っていたんだが……」
「す、すいません」
「まあ、そう謝ることはない。状況を説明していなかった私も悪かった」
 そんなことを言われて、はいそうですかと気にしいないことなど、特にロッシュには不可能だろうが。小さくなったまま動かないロッシュを見て、ビオラはふっと笑みを浮かべた。
「だがまあ、私だけでなくソニアさんとレイニーさんにも失礼だったことは確かだ」
「そうですよ、私に黙ってこそこそ立ち聞きするだなんて」
「そうそう、聞いてくれればちゃんと説明したのにさ」
「……悪かった、と思っている」
「うむ。君達の反省を確かめるためにも、やはり何某かの罰を受けてもらうべきだろうな」
 罰、という単語に、ラウルとマルコが顔を見合わせた。互いの顔色が悪いのを確認し、無意味に首を傾げる。
「そ、それはえっと……一体どんな」
「一応僕にも立場ってものがあるから、軍部の人間から何かをされるっていうのはちょっと困るんだけどなあ」
「勿論、仕事とは関係のないところで、ですよ。私事から起こった騒動なのですから、公にするわけにはいかないでしょう」
「……前置きは良い。結局、何が言いたいんだ」
「ご迷惑をかけたのは俺達です、何でもやりますよ」
「ちょっとロッシュ、そんな勝手な」
「でも仕方ないですよ、今更逃げられそうにないですし」
「ふむ、いい覚悟だ。そうだな……」
 不満、従順、焦燥、諦念。四者四様の表情を浮かべる男達に向けて、ビオラはにやりと笑ってみせた。
「君達にも料理を作ってもらおうか。私達の為に」
「あ、それいい!」
 ビオラの提案に、真っ先に反応したのはレイニーだった。手を叩き、満面の笑顔で夫を見詰める。
「そういえば、ストックの料理って食べたことないんだよね。楽しみだなあ」
「な……おい、ちょっと待て」
 対してストックの側は、妻程に楽しげではない。珍しく焦燥を露わにして、レイニーを制止するように手を伸ばす。
「俺達、って全員でですか?」
「え、僕も含むのかい!?」
「勿論です。連帯責任ですよ、首相」
 全員の脳裏に、調理場の光景が思い描かれる。調理刀を握り、材料を刻み、調理し――それを、ここに居る面々で行うのだ。視線が互いの顔を行き来し、その度に顔色が悪くなった。
「正直、ロッシュに料理が出来るとは思えないのですけど……まあ、ストックとマルコさんが居るなら大丈夫ですね」
 同じような想像をしたのだろう、ソニアも苦笑している。だが、明らかに止める気は無さそうだ。
「ええ、ちょっと待ってください! そんなこと言われても、僕達に料理なんて」
「ふむ。それならやはり、仕事に関わる何かの方がいいかな?」
「……それはちょっと」
「困るねえ」
 常態で忙しい仕事にさらに面倒事が上乗せされるのは死活問題だし、こんなことを周囲に知られるのも御免だ。逃げ場を塞がれ、絶望と共に肩を落とす男達を見ながら、ビオラは実に楽しげに微笑んでいる。そうなったビオラに逆らえる者は、おそらくアリステルには存在しない。皆、ストックですら諦めを目に浮かべ、溜息を吐く以外の反抗は出来ずにいる。
「よし、決まりだな。君達の料理、楽しみにしているよ」
 決定事項として、ビオラが告げる。男達はそれを大人しく拝聴し、粛々と頷くことしか出来なかった。







セキゲツ作
2014.11.03 初出

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