まだ夜も明け切らぬ早朝のこと。
 ロッシュはもぞりと寝台から起き出すと、大きな欠伸と共に身体を伸ばした。将軍となってからも怠らずに鍛え続けている肉体が、動きに従って薄い夜着の下で伸縮する。肺に空気をたっぷりと取り込むと、まだ少し眠気の残る顔のまま、頭をがりがりと掻いた。
 と、夫の動きに促されてか、ソニアもその半身を起こす。こちらは淑女らしく小さな欠伸をすると、ロッシュに向けて微笑みかけた。
「おはようございます、あなた」
「おう、おはよう」
 二人のまだ小さな子供は、同じ部屋に置かれた子供用寝台の上で、すうすうと可愛らしい寝息を立てている。もう赤子とはいえない年となり、眠りも深くなっているようで、両親が起き出した今でも覚醒する様子は無い。何の夢を見ているのか、時折意味もなく表情や手を動かす様を、ロッシュは微笑ましく眺める。
「まだ寝てますか?」
「ああ、あんだけ夜泣きしてたのが嘘みてえだ。でっかくなったよなあ」
 幸せな時間だが、成すべき仕事がある以上、いつまでもそうしているわけにもいかない。ロッシュは名残惜しげに子供を一瞥すると、寝台の横から離れ、身支度をするために部屋を出た。
「ソニア、身体の調子はどうだ?」
「ええ、大丈夫です。いつも有り難うございます、ロッシュ」
「それなら良いんだがな。お前も忙しいからな」
「あなた程じゃあありませんよ」
 顔を顰めるロッシュから少し遅れて、ソニアが出てくる。歩を早めて台所に向かっているのは、朝食を作るためだ。ロッシュの言う通り忙しい彼女だが、家族のために朝夕の食事を作ることは、けして誰にも譲ろうとしない。
「私のことより、あなたはどうなんですか。最近、いつも帰りが遅いじゃないですか」
「う、そりゃ悪いと思ってるが」
 ロッシュは、台所はソニアに任せて、別に設けられた水場に向かう。冷たい水を桶に汲み、顔を洗うと、僅かにぼやけていた意識もはっきりした。そのまま軽く身体を拭い、台所へと足を運んだ。
「悪いとかじゃなくて、あなたの身体のことですよ。忙しすぎて身体を壊したらどうするんです」
「おう、そこは大丈夫だ。無理はしねえよ」
「本当ですか?」
 席に着いたロッシュの前に、暖かなお茶が置かれる。ロッシュはそれに口を付けながら、立ち働くソニアの後ろ姿をぼんやりと眺めた。余裕があれば軽い鍛錬を行うのだが、ソニアの言った通り、ここのところの多忙で疲労が溜まっている。
「今だってちゃんと休んでるじゃねえか。悪いな、一人で動かせて」
 軍人であるロッシュは、鍛錬の重要さと同時に、必要な時に休養を取らない愚も承知していた。だからこうして腰を下ろしているのだが、妻が働いている最中に座って寛いでいるというのは、やはり落ち着かない。ソニアは既に仕事に復帰しているから、尚更である。
「当たり前です。だから、もう少し遅く起きても良い、って言っているじゃないですか」
「そういう訳にいくか」
 手伝うことが出来たら手伝っていただろう。だがロッシュは隻腕で、料理に親しんだこともない。割って入っても邪魔になるだけと分かっているから、何もせずに大人しく妻を眺めている。
 それに、こうして家に居るソニアを見るのは、ロッシュにとって幸せだった。城でも戦場でもなく、家の中――自分の家で、他ならぬ彼女が自分の為に食事を作ってくれている。その事実をじわりと噛み締めると、胸中に暖かな充足が広がるのだ。
「そろそろ出来ますから、もう少し待ってくださいね」
「ああ」
「今日も遅くなるんですか?」
「多分な。出来るだけ早く帰れるようにはするが」
「忙しいのは分かりますが、無理だけはしないでくださいね。あの子も、あなたと遊びたいって言ってましたよ」
 幼い子供を引き合いに出されると、ロッシュは弱い。いつも仕事で帰りが遅く、満足に一緒に過ごしてやることも出来ていないのを、彼は非常に気にかけていた。
「……頑張ってみるよ」
「お願いしますね。さ、出来ましたよ」
 ソニアの手によって並べられた朝食に、ロッシュは早速手を伸ばす。暖かなスープに厚切りの薫製肉、新鮮な野菜は定期的に市場に寄って買ってきているものだ。
「相変わらず、軍も忙しいみたいですね」
「ああ。ようやく魔物が落ち着いてきたと思ったら、今度は大雨だ。いつも何処かしらで異常が起きやがる」
 ソニアもロッシュと向かい、朝食を摂る。もう少しすればこれに子供が加わるのだろうと、ロッシュはふと思う。今はまだ、親の手で食べさせてやるばかりで、共に食卓を囲めるようなものではない。だが幼子の成長は速い、ソニアの手料理を二人で頬張る日は、もう瞬きの先まで来ているのかもしれない。
「兵士も上も、休んでる暇がねえよ。マルコ達がよく下の奴らを纏めてくれてるから、俺は随分助かってるんだが、今度は隊長格に負担がかかっちまってな。崩れないように、そのうち息を抜いてやらんと」
「研究所でも、実地に出る際の警護を依頼してしまっていますからね。申し訳ないとは思っているんですけど」
「気にすんな、それは必要分だろ。世界のための研究だ、でかい顔して命令してくれよ」
「もう、何言ってるんですか」
 ソニアの苦笑を、ロッシュは笑って受け止めた。
「もっと世の中が落ち着けば、研究者だけでグランオルグまで移動しても平気になるのかもしれんがな。今はまだ、危なくって仕方ねえや」
「魔物の数も、大分減ってきたとは思うんですけど」
「それでも安全ってわけにはいかねえよ。まあ、今はそれ以上に野盗の類だな」
 人を襲う魔物に関しては、マナが安定して後は、徐々に数を減らしつつある。だが街道に出現する野盗は、一向にその数を減じようとしない。大抵は終戦で食い詰めた傭兵で、戦争中に経験を積んだ彼らの実力は、侮れたものではなかった。要所に配備する警備兵に、研究所や外務の者が行き来する際の護衛と、軍の負担は確実に増している。
「あいつらが居なくなれば、マルコ達も随分楽になるんだがなあ」
「ええ。あなたの負担も、ですけど」
 心なしか叱責の気配を感じて、ロッシュは目を瞬かせた。しかしロッシュがソニアを見詰めても、彼女の側はそれ以上何も言おうとしない。首を傾げながら、食卓に残った最後の肉を飲み込み、ロッシュは席を立った。
「ごちそうさま、美味かったぜ」
「有り難うございます」
 ちらりと時計を見てから、慌てて寝室に戻る。よく眠っている子供を気遣いながら、手早く軍服に着替える。
「そんなに急がなくても、いつも始業より早く着いてるんでしょう?」
 ソニアは笑うが、ロッシュとしては笑っていられない切実な問題だ。帰る時間が遅くなるよりは、早めに行って業務を片づけておきたい。朝など、殆ど全力で城まで走っていた時期もあるくらいだ――これは、首相であるラウルに諫められて止めることになったが。
 最後にガントレットを着けると、申し訳程度に鏡を覗き込み、異常が無いかを確認した。と、ソニアが顔を出し、ロッシュを一瞥する。
「どうした?」
「いえ。ちゃんと身繕いが出来ているか、と思って」
「子供じゃねえんだから」
「そう言って、この間は階級章を着け忘れていたじゃありませんか」
 ぐ、とロッシュが詰まると、ソニアは笑ってロッシュに近づいた。少し離れたところに立ち、上から下までじっくりと視線を走らせる。
「まあ、服は大丈夫ですね。髪の毛が酷いですけど」
「そうかあ? 元々こんなもんだろ」
「いつもあなたは適当すぎるんです。ほら、座ってください」
 顔を顰める程度の抵抗は、ソニアの前では物の数に入らない。笑顔で椅子を示され、不承不承ロッシュは腰を下ろす。櫛を手にしたソニアが後ろに回り、ロッシュの視界から外れた。
「毛も随分痛んでいますよ。自分で気になりませんか?」
「女じゃ無いんだから、そんなこと一々構ってられるか」
「そうだろうと思いました。もう、櫛が引っかかって」
 文句を言う口調に対して、髪を梳く手つきはとても優しい。手入れが悪く、あちこち絡まったロッシュの髪を、丁寧に梳いていく。他人の指が頭部に触れるむず痒さは、ともすれば不快にも繋がるものだが、その柔らかな気遣いによって幸福な感触となっていた。
「痛くないですか?」
「ああ」
「本当に? 我慢しないでくださいね」
 ソニアの気遣いを考えれば、ロッシュはきっと、痛みがあったとしても何も言わなかっただろう。ソニアは、そんなロッシュの思いを見透かしていたのかもしれない。
「あなたは、何でもすぐに耐えてしまうから」
「ん?」
「周りのことばかり気にして、自分のことは放りすぎなんです。髪の毛だって、手入れもしないで」
「いてて、こら、引っ張るなって」
 後頭部の毛を引く悪戯めいた仕草に、ロッシュは苦笑した。
「大丈夫だって、自分の身体のことくらい分かってるさ」
「どうだか」
 また髪を引かれる。痛むほどの強さではない、だが意識に訴えかけてくる。
「もう、止めろって。ヒューゴみたいになったらどうすんだ」
「あら、私は構いませんよ。意外と似合うかもしれないじゃないですか」
「ええ?」
「髪の毛であなたを選んだわけじゃありませんよ?」
「そりゃそうかもしれんが、しかし」
「気にしなくちゃいけないところは、もっと他にあるじゃないですか」
 髪を、頭を撫でられる。ふ、と背中が暖かい熱に包まれた。
「あなたは本当に、周りのことばかりり見て。ちゃんと自分のことも考えて。大事にしてあげてください」
 首の後ろから胸に回された腕を、ロッシュはそっと撫でた。ロッシュのものより余程細い、けれどそれが持つ力を、ロッシュは知っている。ほんの少しでも力を込められれば、逆らうことはできない。
「けど、そう言ってもどうせ、聞いてはくれないんでしょうね」
「ソニア」
「だから良いんです、あなたの分まで、あなたのことは私が気にしますから」
 身体が離れ、指がロッシュの髪を梳く。相変わらず堅いが、指通りは先程よりも随分良い。
「だから、私の言うことはちゃんと聞いてくださいね?」
「……ああ。すまんな」
「今更じゃないですか、もう」
 微笑む気配に、ロッシュは今直ぐ立ち上がり、彼女を抱き締めたい衝動にかられた。小さな身体を自分の腕に納め、その体温を感じたい。けれどそれを実行するよりも前に、脇で寝ていたもっと小さな生命が、不満げにくずり始めた。
「あら、そろそろ起きるかしら」
 母親としての本能で、ソニアはロッシュから離れ、子供を覗き込む。ロッシュは少しだけ寂しく思いながら、大人しく立ち上がった。彼にも仕事がある。
「俺もそろそろ出ねえと」
「そうですね、引き留めてしまってごめんなさい。……あ、もうちょっとだけ待ってください」
 身支度を終え、荷物を掴もうとしていたロッシュの背に、ソニアが近寄る。軽く髪を引かれる感覚が、一カ所、二カ所。
「これでよし、っと」
「ん、なんだよ?」
「ふふ、何でもありません」
 ソニアに問いかけても、悪戯な笑いが返るのみだ。諦めて、ロッシュは荷物を担ぎ、出立の準備を整える。
「ごめんなさい、遅くなってしまいましたね」
「構わねえよ、いつも随分早く出てるんだ。たまには良い」
「でも、その分帰りが遅くなってしまいませんか?」
「そうならんように努力するさ」
 最後に、子供の眠る寝台を覗き込み、その滑らかな頬を軽くつつく。
「お前に心配もかけるし……たまにはこいつと遊びたいし。なあ?」
 ロッシュの言葉に応えるように、子供がふっと目を開き、父に向けてにこりと笑いかけてくれた。



 ロッシュは急いで家を出ると、アリステル城に向かった。今日も一日働き、愛する妻を安心させるために。
 その後頭部に、巨体に似合わぬリボンが結ばれていることを指摘されるのは、その日の午後も遅くなってからである。







セキゲツ作
2014.10.11 初出

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