アリステル城下、門前からほど近い位置にある酒場、レッドテイル。常より賑わっている店内だが、その夜は一段と、激しい喧噪に包まれていた。
「乾杯! アリステルに乾杯!」
「ほら、ベイリンもっと飲めよ!」
「ったく、その酒癖は相変わらずか。仕方ない奴だな…」
 いくつもの杯が干され、笑顔と談笑に混じって、懐昔の念が零されている。そこに居る男達は皆、元ロッシュ隊の面々だった。戦争の終結と共に解散したロッシュ隊だったが、変革の激戦を生き抜いた隊員達の絆は深く、時折こうして集まっては杯を酌み交わしているのだ。平和となった世を味わうかのように、一人が酒を飲み干し、深い溜息を吐く。
「それにしても皆、忙しくやってるみたいだなあ」
 元々は志願兵の集まりとして組織されたロッシュ隊だが、解散後、全員が従軍を続けたわけではない。故郷へ戻ったもの、文官に転身したもの、やはり軍に残ったもの――それぞれの隊員がそれぞれの道を選び、新しい生活を初めていた。常に起居を共にしていた戦中と異なり、こうして場を設けなければ全く顔を合わせない者達も多い。
「そりゃ、何処の部署も人手不足は変わらないからな。食堂の料理人だって、忙しくて目が回りそうだって嘆いてたよ」
「あそこは戦争中からそんなもんだろ」
 そのやり取りに笑いが起きるが、実際のところ冗談では済まない程、彼らは忙しく働いていた。まだ若い者が殆どの元ロッシュ隊だが、戦争の弊害による人手不足はアリステルにおいても深刻で、年齢の若さなど気にして働いている者はいない。それは経験においても同様で、軍に残った者は勿論、文官の道に進んだ者でも既に重要な役目を任される程にはなっていた。もっとも、そういった意味で言えば、最大の出世頭は隊長であるロッシュということになるが。
「ロッシュ将軍も、本当にお忙しいみたいだな。今日も結局来て頂けなかったし」
「出来れば行きたいとは言ってくださったんだがなあ。キールの奴も来てないし、また書類が山積みになってるのかな」
「戦場では敵無しでも、書類仕事には弱いか」
 また笑い声。ロッシュに対する彼らの敬愛は、隊が解散したところで些かも衰えてはいない。ひとしきりの笑いが収まると、誰かがしみじみと呟いた。
「まあ、しかし正直、戦争中は考えもしなかったよ。俺が事務官として城に務めて、しかもこんなに出世することになるなんて」
「確かにな。俺はそもそも、戦争が終わるってことが想像出来なかった」
「俺達が産まれた時から戦争してたからな。平和な世の中なんて、話の中にしか無いと思ってたぜ」
「それが今や現実だもんな」
 その思いは、彼らだけではなく、アリステル国民全員の認識だったかもしれない。アリステルとグランオルグの戦争は、表立って宣戦布告が成されるよりも前から数えれば、数十年にも及んだものである。争いの無い時代を知る者など、アリステルには殆ど居ない。まして彼らのような若者であれば、戦時中の方が日常としての認識は強かったのである。だがそれでも、終戦後一年が経てば、段々と今の生活に慣れてくるものだ。戦いの緊張感から解き放たれた喜び、そしてそれが常となった穏やかな容相が、今のアリステルに住まう多くの人々に浮かんでいた。
 平和は素晴らしいものだ、大抵の場合において。しかしその、大抵の中に含まれない事情を抱えた者が、この集まりには存在しているようだった――それも、何人も。ふと一人が沈んだ顔つきになり、それに気付いた元隊員が声をかける。
「どうした? なんだか暗い顔をしてるじゃないか」
「お前もこの間昇進してたよな。忙しすぎて身体でも壊したのか?」
「いや……まあ、忙しいのは勿論あるんだが」
 その男は肩を落とし、はぁ、と重い溜息を吐いた。宴席に相応しくない態度に、周囲の者達が顔を見合わせる。そんな元同僚たちを、男はちろりと見て、自分の杯へと視線を落とした。
「なんだか、上に行けば行く程……ロッシュ将軍にお会いする機会が減っている気がして」
 そして呟かれた言葉に、一瞬沈黙が落ちる。他の席で起こった笑い声が、脳天気に響いた。
「下っ端のうちは、まだ使い走りだ何だで、お顔を拝見することもあったんだがな。昇進して部下を持ってからは、態々書類を届けにいくのも難しくて」
「……確かに。俺も、そう思ってたんだ」
 深く頷きながら、周囲のうち一人が続く。表情は、最初の一人と似たような、沈痛なものだ。
「外務が将軍とご一緒することなんて、トップでも無ければ有り得ないだろ。雑務にかこつけてお会いするしか無かったのに、最近じゃそれも出来なくてなあ」
「分かる、分かるぞ!」
 二人ががしりと握手を交わし、他の者達も何人かが頷いている。異質に沈み込んだ空気に、隣の卓の者達が注意を向け始めていたが、負の方向に盛り上がり始めた彼らは全く気付いていない。
「軍に残ったのは正解だぜ。将軍と同じ部署とか、羨ましいよ」
「何言ってるんだ、将軍は軍の頂点だぞ? 一軍人如きがご一緒できる機会なんて殆ど無いさ」
「だが遠征だってあるし、大規模な演習の時は未だに将軍が率いられているだろう。俺達はそんな機会すら無いんだぞ!」
 軍人と非軍人が睨み合い、ちょっとした諍いの気配を撒き散らす。隣席した者達が宥めるが、彼らとて暗い表情であることに変わりはない。
「それを言うなら俺達は、田舎に帰った奴らより余程恵まれてるよ。少なくとも同じ城で仕事が出来てるわけだしな」
「そうそう。運が良ければ、行き帰りにお会いすることも、食堂でご一緒することだって出来るんだ」
「まあな。しかし食堂と言えば、最近将軍を食堂でお見かけすることが減っていないか?」
「ああ、将軍もお忙しくていらっしゃるからな。執務室でお食事を摂られることが増えているらしい」
 その瞬間、悲壮、と言っても良いような表情に、彼らの顔が変わった。嘆きのあまり頭を抱えて呻いている者すら居る程だ。
「本当か! そんな、数少ない将軍にお会いできる場所が!」
「だが毎日ってことは無い筈だ。全く食堂に行かれないってわけじゃない――きっと」
「それでも機会が減ったのは事実だろう。唯でさえご一緒出来るかは運次第だったのに」
「食堂に行かれるにしても、時間は不確定だからな。ずっと食堂に張り込んでいられれば良いんだが」
「そんなことをしたら、それこそ部下に示しが付かない。ああ、偉くなんてなるんじゃなかった」
 はああ、と盛大な溜息が唱和する。頷く首は、先程よりも数を増していた。周囲の席に居た筈の者達が、話に釣られて寄ってきたようだ。
「門の見張りが一番好きな任務だったんだよ、将軍にご挨拶できるからな。だが、最近じゃあそれも部下に任せなきゃいけなくなって」
「雑用をするのが一番、確実に将軍にお会い出来るのになあ。出世したって良いことなんて何もないよ」
「お前ら、そんなこと言うなよ。もっと出世すれば、雑用なんて言わないで、将軍と共に働かせて頂くことも出来るようになるだろ?」
「そりゃそうかもしれないが」
 一部の理性的な者が正論で諭すが、何処までも沈み込んでしまった男達は、それにすら素直に頷こうとしない。
「そんなに出世するまで、一体どれくらいかかることか。戦争も終わったから、一気に手柄を立てることも出来ないしなあ」
「だが逆に今だからこそ、出世の好機も多いじゃないか。人手不足が深刻だって、皆よく分かってるだろ?」
「不足してるのは上の役職ばかりじゃない、下っ端だって全然足りてないんだ。このままずっと、雑用の纏め役みたいなことをさせられたら……」
 自分の言葉に恐怖を抱いたのか、ぶるり、と身体を震わせる。その周囲には、気付けば大部分の参加者が集まり、似たような話題を繰り始めていた。落ち込む者、嘆く者、そんな彼らを呆れた目で見る者。様々な反応が入り交じり、賑やかな筈の宴席は一種異様な雰囲気に支配され始めていた。一人が遠くを眺めながら、物憂い溜息を吐き出す。
「前は良かったよな。ロッシュ隊として、ずっと将軍とご一緒できてたんだから」
「そうだな、あの頃は何も考えていなかったが、凄いことだったな。将軍が俺達を直々に率いてくださったなんて」
「将軍だって、あの頃は隊長だったからなあ。俺達も将軍のような速度で出世出来たら……」
「将軍程じゃなくても良いんだよ、マルコ隊長みたいに、将軍の部下として働けるだけでも。一体、何十年後になるやら」
「何をごちゃごちゃ言ってるんだ! 俺達の本懐は何だ? アリステルのために戦うことだろう。将軍とご一緒できなくても、そのことに変わりはないじゃないか。今のお前等の姿を見たら、将軍は何て言うと思う!」
 実に良識あるその言葉には、さすがの男達も少しは心動かされたらしい。面持ちが真剣なものに変わり、考え込む者が現れ始める。
「確かに、俺達はアリステルの軍人だ。将軍のために軍に入ったわけじゃない」
「アリステルのために戦おう、そう思って志願兵になったんだ。そうだな、忘れてたぜ」
 本来ならば忘れる筈もないことではあるのだが、そんなことは棚に上げて、元隊員が深く頷く。周りの者も、指摘したい心持ちはあるかもしれないが、口にすることはせず同調を示した。
「例え将軍とご一緒でなくとも、アリステルのために全力を尽くすんだ!」
「気合いを入れ直して、真面目に仕事しないと――いや、今だって十分真面目にやってるが」
「けどなあ、いくら真面目に働いたって、将軍に褒めて頂くことは出来ないわけだろ」
 前向きに戻りかけた空気だが、その一言に逆らえる程の流れでは無かったらしい。卓を取り巻く集団が、再び俯き、溜息を零し始める。
「訓練は厳しかったけど、成果を出したら隊長にお褒め頂けていたかなあ」
「……そうだな。それが嬉しくて頑張れていたところがあるからなあ」
「職場も変わっちまったし、もう褒めてもらうことなんて出来ないだろうなあ」
 実際、彼らの隊長であるロッシュは、中々に部下のことを細かく見る男だった。顔と名前を一致させるのは苦手としていたが、隊員一人ひとりのこと良く気にし、きさくに声をかけていた。その努力がこんな結果に結びつくとは、ロッシュ自身は思いもしなかったに違いない。
「昔みたいに、隊長に褒めて頂きたいよ」
「お顔を拝見するだけでも幸せなんだけど、将軍に俺のことを見ていただけたら、もっと頑張れるからなあ」
「本当だよ。……キールは良いよな、将軍の秘書だろ? 褒めて頂けるとか、もうそんな話は飛び越えてるじゃないか」
「キールか。あいつ、一人だけ抜け駆けしやがって」
 ロッシュ隊の中で新兵の纏め役として働いていたキールだが、戦争が終わった後は、ロッシュの秘書として働くようになっていた。他の者が一瞥を求めて呻いている現状を考えれば、それこそ楽園とも言えるような職場環境である。酒の勢いもあり、抑えていた常の妬みが一気に吹き出してしまったらしい。居並ぶ男達の中には、ちらほらと険悪な目付きの者が見え隠れしている。
「抜け駆けとはちょっと違うだろう。将軍の秘書なんて望んで成れる立場じゃない、それだけあいつが努力してたってことだ」
「努力なら俺達だってしてる! あいつと俺と、何が違うっていうんだ……」
「大体あいつは調子に乗ってるんだよ。同じロッシュ隊だっていうのに、自分と俺達は違うと蔑んでるんだ」
「おい、さっきから言い過ぎだって。本当にいい加減にしろよ」
「今日も呼んだって来なかっただろう! そりゃ古い仲間と飲むよりは、将軍とご一緒した方が楽しいのは分かるが」
「だからそれは忙しいからだって」
「将軍だって、キールの奴が引き留めてるのかもしれないぞ! だから将軍もキールも」
「おいっ!」
 諍いが激しくなり、何人かが椅子を蹴って立ち上がる。店の主人が顔を顰め、割って入ったものかを思案する表情になる。しかしそれを行動に移すよりも前に、店の扉が開き、ひょこりと顔を覗かせた者が居た。
「おう、やってるか?」
 噂をすれば本人。酒場の大きな扉から、軍服姿のロッシュが入ってきた。そしてその後ろには、半ば隠れるようにして佇むキールが居る。散々話題にしていた人物二人の登場に、白熱していた空気が一転、揃って直立不動の姿勢になる。
「ろ、ロッシュ将軍!」
「来てくださったんですか……!!」
「おう、まあ長居は出来んが、お前らが集まるってんだからな。顔くらいは出しておかねえと」
 ロッシュは、一拍前までの緊張など知る由も無く、以前と変わらぬ笑顔を浮かべている。そして、自分に付き従ってたキールの襟首を掴み、ぐいと前に引き出した。
「ほれ、お前も今日くらいは楽しんでこい」
「いえ、ですがやはり将軍がまだお仕事をされるというのに、自分だけ抜けるというのは」
「その俺が良いって言ってんだ。こんな時にまで働かせてたんじゃ、どんな鬼将軍だって噂が立っちまう」
「将軍、またお仕事に戻られるんですか?」
「ああ、まだちっと片づかんのがあってな」
 ロッシュが渋い顔で呻く。どうやら元隊員達が推測していた通り、山となった書類に悩まされていたらしい。
「キールだけでも先に来させてやりたかったんだが、どうにも切りが付かなくてな。悪いな、折角の集まりに」
「そんな、お気になさらないでください。お忙しい中、態々有り難うございました」
 ざっ、と全員で綺麗に揃った礼をするとロッシュの表情が楽しそうな笑みに変わった。
「いや、声をかけてくれてありがとよ。お前らとも久々に話したかったんだがな――皆、随分頑張ってるみたいじゃねえか」
「そんな、将軍に比べましたら、我々など」
「謙遜すんなって。お前も、今度一部門を任されることになったんだろ? 立派なもんだ」
「えっ……じ、自分のこと、承知していてくださったんですか!」
「当たり前だ、元部下のことだぞ。俺も鼻が高いよ」
 ロッシュから与えられた褒め言葉に、居並ぶ男達の目がじわりと潤む。それなりの年齢の男性が、揃いも揃って涙を滲ませているのは、一種異様な光景だ――薄暗い室内のこと、ロッシュは気付いていないようだったが。
「これからも頑張れよ。またお前らと一緒にやれるの、楽しみにしてるからな」
「はいっ!!」
「じゃ、悪いが俺は城に戻るぜ。お前らも、楽しむのは良いが羽目を外しすぎないようにな」
「はいっ、有り難うございました!」
 酒場から去っていくロッシュに向けて頭を下げ、扉が閉まった後も頭を下げ続け、そのままたっぷり十数秒が経過して後にようやく頭が上げられる。上向いた表情は、数分前からは考えられない程、きらきらと輝いていた。
「将軍、俺達のこと気にしてくれてたんだな……」
「出世したのも、ちゃんと気付いてくださってて」
「また一緒にやりたいって……そうだよな、俺頑張ってもっと出世するよ! 将軍とご一緒の席に並べるくらいに!」
「あの、悪い……仕事が長引いて」
「ああ、気にするなって、キール。忙しいのは分かってるんだから」
 キールに対しても、邪推を連呼していたのを忘れたかのように、和やかな態度で接している。互いに笑い合いながら席に戻り、誰からともなく杯を掲げる。
「将軍は、将軍になっても俺達の隊長だ! ロッシュ将軍に乾杯!」
「将軍に乾杯! アリステルに乾杯! ほらほらベイリン、もっと飲めよ!」
「だからその調子に乗る癖をどうにかしろって! ったく、仕方ねえな……」
 始まった頃に倍しての勢いで男達は盛り上がり、酒場の中を更なる喧噪で満たしていく。
 ただ一人話についていけないキールは、彼らの狂騒に戸惑いながら、それでも隊長の名を呼びつつ杯を合わせるのだった。








セキゲツ作
2014.09.30 初出

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