『使用禁止』
そう大きく書かれた紙が張られた扉を前に、ラウルはしばし立ち尽くした。
「どうなさいましたか、首相」
背後から声をかけてきたのは、彼の秘書だ。有能で少し……どころではなく厳しい、しかし一応忠実な秘書は、今日も執務室に入る前から彼の後ろに着き従っている。正直そんなにべったり張り付かなくても、とラウル自身は思っているのだが、口に出せた試しがない。
「いや、昇降機がね」
「ああ。そうそう、今日から使用禁止になりましたから」
「そうなのかい?」
「ええ。書類も通っています」
「あー、そういえばあったような気がするけど」
言われて、ここ数日で目を通した書類の数々を思い出してみると、そういえばそんな内容のものもあった気がした。首相であるラウルが処理する業務は膨大で、彼の頭脳を持ってしても全てを覚えておくことは難しい。必然重要性の低いものは処理した端から頭の隅に追いやることになるが、彼の素晴らしく有能な秘書は、それさえもしっかりと記憶に留めていたようだ。
「何だっけ、点検か何かかい?」
「いえ、恒久的な使用禁止です。アリステル全体で、魔動によるマナの消費を押さえよう、ということになりまして」
「……ああ、それは覚えているよ」
ラウルが首相になるきっかけともなった戦いで、世界が砂漠化する原因がマナの枯渇であることがはっきりと認識された。
物質からマナが失われ、砂に還ってしまうことで砂漠化が進むこと。そしてそれを食い止めるための儀式が、グランオルグ王家によって行われていたということ。今まで隠されてきたそれらの真実が、あの戦いを契機として世界に広く知られるようになったのだ。
そしてそれを受けて、今では儀式に頼らず砂漠化をくい止めるための研究が、各国で行われていた。操魔の力を伝えるグランオルグ、学術体系としてマナの力を利用する技術を持ったアリステル、そして古よりの伝承と種族的な能力でマナを操るセレスティア。様々な国が協力し合って、ひとつの目的に向かって進んでいる。一年前には考えられなかった、それこそ奇跡のようなことだった。
そして砂漠化防止の一環として、アリステルではひとつの決定がなされた――即ち、マナの消費を抑えるため、魔動機械の使用を控えるべし。順当な案であるが、実際に実行するとなるとそう簡単にはいかない話でもある。アリステルの生活に魔動技術は深く浸透しており、一朝一夕に排除できるものではない。そもそも砂漠化防止のための研究にも魔動機械が必要で、落とし所を探すのに随分と揉めたものである。
最終的に落ち着いたのは、必須でない機械を可能な限り停止することで、徐々に生活の中の魔動機械を減らすというものだった。そしてその結果が目の前の張り紙と、動かない昇降機である。
「昇降機が動かないってことは、階段を使うのかな?」
「そうなりますね」
「僕の執務室は3階なんだけど」
「存じております」
「…………」
「世界の未来を護るためです」
「昇降機くらい、って言ったら駄目だよね、やっぱり」
「これくらい、の積み重ねが大きな消費に繋がるのですよ」
「……だよねえ」
「階段はあちらですよ、首相」
「はいはい、分かってます」
秘書に促され、溜息を吐きながら階段へ向かう。ラウルが向かうのは上層部の執務室しか無い棟だから、階段を使う人も少ない。むしろこれまでは殆ど使われているところを見たことがなかった階段だが、今日からはそんなこともなくなるのだろう。現に今も、上ろうとするラウルの後ろから、目立つ大きな影が近づいていた。
「ラウル首相。おはようございます」
「ああ、ロッシュ。おはよう」
振り向いて目にした彼は、見慣れた全身鎧を身に着けていた。戦争後に首相となったラウルはもう鎧を着ることもないが、軍に残って将軍職に就いた彼は、未だに隊長時代と同じ赤い全身鎧を愛用している。
といっても突発の戦闘があるわけではない現状では、さすがに常時完全武装ということもない。書類仕事などはもう少し軽装でこなしているのだが、それでも実戦を伴う訓練や遠征などはどうしても鎧を着用する必要があった。確か今日の午後に模擬戦闘訓練がある予定だから、この鎧はそのための準備だろう、彼は着る時は大抵一日中鎧姿で居るのだ。午後からの訓練なら朝から身に着けておく必要は無いとラウルなどは思うのだが、ロッシュ曰く着替えるのが面倒らしい。
因みに大変なのは、鎧よりもむしろ普通の服の脱ぎ着なのだそうだ。鎧の着脱は訓練されているから短時間でできるが、布製の服はガントレットを外さないと脱ぐことも着ることも難しいため、着替えに時間がかかるらしい。一応納得できる言い分ではあるが、何とも難儀に思われるのも確かである。
「今日から、昇降機が使えないんだってねえ」
「ああ、そういや今日からですか」
「張り紙、あっただろう」
「昇降機にですか。確かにそりゃ、分かりやすくていいですね」
「あれ、見ていないのかい?」
「や、大体いつも、昇降機は使わないもんで」
ロッシュの言葉に、ラウルの目が丸くなる。
「じゃあ君、いつも階段で上ってるのかい」
「ええ、そうですよ」
「その鎧でも?」
「はい。まあ、大した距離じゃあありませんが……動けるときに動かないと、身体が鈍っちまいますからね」
事も無げに言い放つロッシュだが、彼の全身鎧は、確か小柄な女性一人分くらいの重量はあったはずだ。着て動くだけでも普通の人間には難しいというのに、それに加えて鋼鉄製のガントレットを腕に着け、行うことは歩くどころではなく、階段を上り下りである。常人から見れば、正気の沙汰とも思えない行動だ。
そもそもあの昇降機自体、軍上層部が制服として鎧を着けるようになってから、上階への移動を楽にしようと作られた経緯があるのだが。過去の技術部が成してくれた心遣いを全力で無視した行動に、ラウルは感心を通り越してただ呆れてしまう。
「君、凄いねえ……」
「何がですか?」
しかし当のロッシュはきょとんとした表情を浮べるばかりだ。実際彼にとっては大したことでもないのだろう、考えてみれば同じ鎧を着たまま戦場を駆け回り、ガントレットに加えて身長程もある大槍を振り回していた男だ。それに比べれば階段昇降くらい、運動の範囲にすら入らないのかもしれない。
「若さ、ですね」
「単に主とする役割の違いだと思うよ。鍛え方が違うんだから仕方がない」
「そうですね、後年齢と」
「……君、僕に恨みでもあるのかい?」
「いいえまさか、そんな。ただ、事実を申し上げているだけです」
「…………」
「あ、あの……」
目の前で繰り広げられる火花の応酬に、置いて行かれたロッシュは可哀想なくらいに困った顔をしている。基本的に根が真っ直ぐな彼は、意地の悪い舌戦に慣れていないのだろう。気づいたラウルは彼を解放しようと口を開いた、その時。
「ラウル首相にロッシュ将軍。こんなところで立ち話ですか?」
現れたのは、やはりラウルのよく知る人物。あの戦いでヒューゴを討ったことを期として軍最高責任者としての任に就いている、ビオラ大将だった。直接の上司にあたる人物に、ロッシュが敬礼の姿勢を取る。
「おはようございます、ビオラ大将」
「ああ、おはよう。楽にして構わない」
「はっ」
「ビオラ君か、珍しいところで会うね……といっても昇降機が使えないんだから、当然か」
ちらり、と昇降機がある方向を見て、ビオラが苦笑する。
「そうですね。前もって通達されていたのに、習慣でつい足を向けてしまって」
「ああ、分かるよそれ。僕もつい忘れてしまってねえ」
「まあでも、直ぐに身体が覚えるでしょう。そのうち撤去もされるでしょうし」
「そうだね、階段を使うのにも慣れないといけないな」
はあ、と溜息を吐くラウルに、ビオラは破顔した。
「暗い顔になっておいでですよ、首相。鎧が無い分お楽でしょう、頑張ってください」
「ははは……うん、まあ何とかね」
考えればビオラも、常にでは無いが鎧を着けて執務することもあるのだ。ロッシュのものほど重量があるわけではないが、それにしても鎧は鎧、金属は金属である。重量物であることに変わりはない、彼らを前にして泣き言は言えない、とラウルは密かに嘆息した。
それに対して横に立つロッシュは、ラウルとはまた別の感想を抱いたようだった。厳つい顔に心配げな表情を浮かべ、上司の様子を伺っている。
「しかしビオラ大将、お体は大丈夫なんですか?」
「ん、何がだ?」
「平服なら良いでしょうが、鎧を着用してですと、それなりの負担になるのでは? もし無理があるようなら、医療部に頼めば特例で動かしてもらえると思いますが」
「ああ、そういうことか」
ビオラが意を得て頷く、ロッシュが言っているのは彼女の病気のことだ。最高指令として軍を統括するビオラだが、同時に戦時中に得た病の治療を受ける患者でもあった。平和になった今だから治療も順調だが、恒常的に戦闘が起こって心身を消耗させ続ける状態が続けば、彼女の命も長くなかったと、医療部は診断している。
そしてロッシュが心配しているのは、日常生活で必要以上の負荷がかかることにより、病状を悪化する可能性だろう。しかしビオラ自身は、部下の言葉を軽く笑ってあしらった。
「大丈夫、戦場に立つわけではないからな。鎧を着ているとはいえ、階段の上り下り程度が出来ない程弱っていたら、ここには居られないさ」
「そうですか……それなら良いんですが」
「何だ、私はそんなにか弱く見えるか?」
「い、いえっ、そういうわけではありませんが」
「そうか、それは残念だ」
「へっ? ……あの、いやそれはえーっと」
「こらこら。ビオラ将軍、あまり彼を虐めないでやってくれよ」
またしても困惑の極みに達してしまったロッシュに、苦笑しつつラウルが助け船を出してやる。自分がからかう分には面白いが、他の者が同様のことを行っているのを見ると、やや可哀想に感じるのが不思議なところだ。
「彼の仕事が滞ると、僕に皺寄せが来るんだからね」
「はは、それは確かに困りますね。程々にしておきますよ」
「はあ……」
「それに、あまりしつこくしては、ソニア殿に怒られてしまう」
そこで妻の名が出てくることを予想していなかったのか、ロッシュは虚を突かれて目を白黒させている。
「ふうん、さすがのビオラ大将も、ソニア君には敵わないのかい」
「当たり前でしょう、主治医の怒りを買いたい患者は居ませんよ」
朗らかに笑う彼女は、1年前とはまるで別人のように明るい。戦女神と讃えられた美しさはそのままだが、それ以上に人間的な魅力が顕れているように、ラウルには感じられた。
「……さて、それでは私は先に失礼致します。ロッシュ将軍、午後の訓練は宜しく頼む」
「はっ、了解しました」
「ラウル首相も、頑張って上がってください」
「はは……善処するよ」
軽い足音と共に階段を上っていくビオラを、ラウルは何となく見送る。
「彼女、変わったねえ」
「そうですね。何ていうか……明るくなりましたね」
「ああ。以前に比べて、背負う物も少なくなったのかな」
ラウルの言葉に、ロッシュも頷きを返す。
「良いこと、ですよね」
「勿論。素晴らしいことだよ」
と、二人の背後から、抑えた咳払いが響いた。……先ほどからずっと着き従ったままの、ラウルの秘書である。
「首相?」
「あー、はいはい分かりました、僕も行きますよ」
「あ、それでは俺も先に。午後の準備があるもので」
「ああ、引き留めてすまなかったね」
「いえ。では、失礼します」
最後に敬礼を残して階段を上がるロッシュの鎧の音が、直ぐに遠くなっていく。駆け上がるのと殆ど変わらないその速度に、ラウルは軽く溜息を吐いた。
「元気だねえ、本当に」
「若いというのは素晴らしいことですね」
「あーもう、しつこいよ君!」
「そうおっしゃるなら、早く行かれてください」
「はいはいはいはいはい……」
「はいは1回で結構、5回も6回も要りません!」
秘書に追い立てられ、溜息を吐きながらラウルは階段を上っていく。
その姿はしばらくの間、朝の風物詩になったとかならないとか。
セキゲツ作
2011.04.27 初出
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