小脇に抱えた書類を持ち直しながら、ストックは扉を叩いた。分厚い扉の向こうに、振動が音となって広がる。数瞬そのまま待機したが、室内からの応えは無い。扉脇に掲げられた在室を示す札を見遣り、ストックは首を傾げた。彼が確認した限りでは、この時間、ロッシュに予定は入っていない。だがロッシュも忙しい男だ、急な呼び出しでもかかったなら、事前の予定など直ぐに崩されてしまう。出直すつもりで札を不在の側に変える、そのまま、ふと何の気無しにドアの取っ手に触れた。引こうとしても鍵に阻まれ敵わない、はずだったのだが、返ってきたのは予想を外れた軽い抵抗だ。僅かに開いた隙間を、ストックは驚いて見詰める。施錠を忘れて外出してしまったのか、あるいは応えが無いだけで中に誰かが居るのか。一瞬躊躇ったが、ストックはそのままさらに力を込め、己が通れるだけの隙間を作り出した。気配を探りながら滑り込むが、室内には誰の姿も無い――いや。
 それが間違っていることに、直ぐに気付いた。視界に入り込む、鮮やかな赤。
「……――っ!!」
 その存在を認識した瞬間、ストックの身体が凍り付き、次いで勢い良く動き出す。投げ出された書類が乾いた音を立てて広がるが、それを見返る余裕も無い。意識は全て目の前の男、床に座り込んだ姿勢のまま動かない、部屋の主へと向けられていた。
「ロッシュ――!?」
 彼は見慣れた赤い鎧を着て床に腰を下ろし、背を壁にもたれている。その頭は力無く、重力に引かれるままに俯いており、意識が失せていることを容易に想像させた。ストックがロッシュを呼ぶ、その声に応えるように、垂れている頭が微かに揺れる。無意識の身じろぎか、いや、動きは直ぐに大きなものに変わり。
「……ん?」
 やがてその頭が、ゆっくりと持ち上げられた。閉じられていた瞼も開き、未だぼんやりとはしているが、焦点の合った目がストックを捉える。くあ、と盛大な欠伸をされて、ストックは脱力して足を止めた。直ぐ近くまで迫っていたストックを、ロッシュが見上げる。
「おう。すまんな、気付かなかった」
 その、暢気なとも形容できる態度を、ストックは些かの怒りを以て見下ろす。よくよく見れば、昏倒して倒れているわけではなく、単に座った姿勢で眠っているだけだったと気付いただろう。しかもストックにとって、彼のこんな姿は、初めて見るものではない。前線では、兵士たちが鎧を着たままで仮眠を取るのは、よくある話だ。そしてロッシュの場合は特に鎧が大きく、横になること自体が難しいため、こうして座り込んだまま浅く眠るのである。同じ部隊で戦っていた頃は、散々目にしたものだ。
 もっと早くに気づいても良かった、だがその頃の記憶よりもさらに強く、喚起される映像があったのだ。ストックの中に刻み込まれている風景、赤い鎧を着たまま、鎧に支えられるようにして、倒れることもなくうずくまっている姿――
「紛らわしい真似をするな。倒れているかと思った」
 舌打ちをして、瞼に浮かんだ光景を振り払う。ストックの不機嫌に気付いたのか、ロッシュが不思議そうに親友を見た。やはり暢気な様子の相手の頭に、ストックは軽く拳をぶつける。いてえ、と抗議めいた声が上がるが、無視して踵を返した。退室するためではなく、入り口付近に散らばった書類を集めるためだ。
「すまんな、驚かせたか」
 ロッシュもその惨状を見て、ストックの動揺の激しさを理解したらしい。すまなさそうに言いながら、立ち上がり、身体を伸ばす。
「まったくだ、他の奴が見たら、飛び出して医療部まで走っているぞ」
「さすがにそりゃねえと思うが」
 否定するロッシュだが、あながち冗談ばかりでも無いと、ストックは内心で考える。今は各部署に散らばっている彼の元部下は、上司に付いて祖国を捨てる程に彼を尊敬していた。今では直接の部下でないものも多いが、距離によって彼らの感情が弱まるとも考えづらい。そんな者達がこの光景を見たら、騒ぎ立てることは間違いないだろう。
 書類を集めて数え直すストックに向けて、ロッシュが椅子を引き出す。幸いなことに欠けたものは無かったから、紙束を机上に放り出すと、ストックは勧められた椅子に遠慮なく腰掛けた。ロッシュもまた、自分の椅子に腰を下ろす。鎧の重さを受けて、椅子が微かに軋んだ。
「大体、何でその格好なんだ」
「午後から大演習なんだよ」
「それは聞いているが、始まる前から鎧でいる必要はないだろう」
「途中で着替えるのも大変だからな。今から着っぱなしなら、手間が省ける」
 当然のように答えるロッシュに、ストックの眉根が寄る。
「一日鎧姿で居る方が、余程大変だと思うが」
「そうでもねえさ、着替える方が面倒臭い。普段ならまだ良いが、軍服ってもんは脱ぎ難くて困る」
 機械の左腕を持っている身では、布製の服を脱ぎ着するのも、それなりの難事なのだろう。それはストックも理解できるが、戦時中ならいざ知らず、今は平和な城の中だ。手伝う人間ならばいくらでも居るし、少しばかり時間をかけたところで大事になる筈も無い。身体への負荷を考えて楽な服装で過ごしておいても、大きな問題は起こらないはずなのである。それでも敢えて鎧を着用しているのは、根本のところで過去の影を脱し切れていないのか、それとも単なる無精なのか。
「そんなことを言っているから、要らない疲労が溜まるんだ」
 どちらにしろ、ストックにとって不愉快なのは間違いない。苦虫を噛み潰したような口調で言われ、ロッシュは一瞬目を瞬かせ、そして苦笑を浮かべた。その動きから自分の言葉も深刻には受け止められていないことを悟って、ストックはさらに険しい表情になる。相変わらずロッシュには、己を労るという思考が存在しないらしい。戦後それなりに時間が経った今でも、ビオラと共に軍を率いるロッシュの忙しさは変わらない。それが原因で一度は倒れているというのに、無茶を重ねる態度を変えようとしないのには、心配を通り越して呆れてしまう。あるいは自分の体力を過信しすぎて、この程度で疲労することは無いと考えているのかもしれないが、どちらにしろ同じような事だ。
「だから、こうやってちょこちょこ休んでるだろ」
「それで休めていないから言っているんだ」
 気楽な様子のロッシュだったが、本当に本調子であれば、ノックの音にも気付かず意識を喪失したままということは有り得ない。戦場から遠くあっても戦士は戦士だ、異常があれば直ぐに覚醒できるように、眠りの中でも気を張っている筈である。それが出来ないのは、眠りに落ちたら容易に戻れない程疲れているからだ。そんな状態にも関わらず、少しの手間を惜しんで不要な労を重ねるのは、愚の骨頂と言える。
 もう一度倒れたらどうする気だと、浮かんだ想像を振り払ってロッシュを睨むが、やはり相手は苦笑したままだ。体調に対する苦言ならばもう何度も呈している、だからこそストックの言葉に対しては感覚が鈍ってしまっており、何を言っても心に響いていないのか。困ったような笑顔に力が抜けて、ストックは大きく溜息を吐いた。
「すまんな、心配かけて」
 申し訳なさげに頭を下げる姿を見るに、ロッシュもストックの気持ちが分かっていないでもないのだろう。だが例え理解があったとしても、それを行動に反映してくれなくては何も変わらない。あるいは本人、あれで自愛のつもりなのかもしれないが――そうだとしたらさらに性質が悪い、一体何と言い聞かせれば、彼の業務が過密すぎると理解させられるのだろうか。
「そう思うなら、もっと気をつけろ」
「ああ、そうするよ。ソニアにも散々言われてるしな」
 笑いながらのその言葉は、恐らく彼なりの本気なのだろうが、だからこそそこから先を押し進めるのは難しい。諦め混じりの虚脱感に、ストックはもう一度だけ息を吐き出すと、腰掛けたばかりの椅子から立ち上がった。
「もう行くのか?」
「ああ、書類を届けに来ただけだからな」
 見送りに立ち上がろうとするロッシュを手で制する。鎧を着たままでは、姿勢を変えるだけでも十分な労働だ、これ以上彼に無駄な疲労を溜めさせたくはない。そんなストックの心情を汲んだのか、ロッシュは大人しく座ったまま、視線だけでストックの動きを追った。
「お前も無理するなよ、最近忙しいって聞いてるぞ」
 だがこうして、人の心配ばかりをしている姿を見ると、本当に分かっているのかどうかも不安になってくる。立ったついでに頭を小突くと、反撃が来るより前に、素早く歩を進めて扉の方へと移動した。
「お前だけには言われたくないな。……良いか、とにかくもっと身体を休めるんだ」
「ああ、分かってるって。ありがとな」
 その言葉がどこまで真実なのか、疑問に思う心はどうしても納得してくれなかったが。
 それ以上何が出来るでもなく、首をひねりながら、ストックはロッシュの執務室を後にした。



 ++++



 医療部は、いつ来ても忙しなく人々が動いている。勿論最近のアリステル城内では、暇を持て余している部署など有りはしない。だが命を扱うという緊張感からか、地下の浅い階層に設けられたこの一画では、他所とは別の忙しさが渦を巻いているように感じられる。選択を誤れば人が死ぬ、氷の上を渡るのにも似たその感覚は、ロッシュが慣れ親しんだ戦場のそれに通じるものもあった。
 戦争が終われば怪我人が減り、医療部も前より暇になる。漠然とそう予想していたのだが、どうやらそれはロッシュの楽観だったらしい。確かに怪我人は大きく減った、だが余った設備と人手が放っておかれる余裕は、当然ながらどこにも無い。これらを活用するため、また軍と内政が分かれたことを対外的に示すため、城の医療部は一般に開放されるようになっていた。そうなればむしろ、以前よりも仕事は増える。受け入れるのは重大な傷病の場合に限っていたが、だからこそ一人の患者に対してかける手間は大きい。アリステルだけでなく他国からも訪れる人々に、生じたはずの余裕など、あっという間に無くなってしまっていた。
 そしてその負担は、ソニアの上にも容赦なく降り懸かっている。さすがに出産前後は休んでいたが、子供が成長して人に預けられるようになってからは、段々と業務に復帰できるようになっていた。勿論結婚前に比べれば拘束時間は短い、だがロッシュからすれば、それでも十分に忙しすぎるように感じられる。
「あなた、どうかしました」
 黙り込んだロッシュに、ソニアが不思議そうに首を傾げた。考えを巡らせる数瞬の間、自分がソニアをじっと見詰めていたことに気付いて、ロッシュは慌てて首を振る。隣を歩く相手にそんなことをされたら、何事かと思って当然だ。だがソニアは特に追求することもなく、ふわりと笑って視線を前に戻す。ロッシュも手にした荷物を抱え直すと、妻と並んで再び歩き始めた。
「御免なさい、重いのを任せてしまって。大丈夫ですか?」
「軍人に向かって何言ってるんだ。こいつの倍は重い槍を、いつもぶん回してるんだぞ」
 誇示するように荷物を持ち上げてみせると、ソニアの笑顔が苦笑に変わる。彼らが運んでいるのは、医療部で使われる備品の入った箱だ。今日は納品日であったらしく、大小様々な箱が積み上げられているところに、検査にやってきたロッシュが行き合ったのだ。別段手伝うのは義務ではない、だが作業をしている者の中にソニアの顔があるとなれば、ロッシュが手を出さないということは有り得ない。
「ロッシュ将軍。あまりご無理なさらないでください、私たちがソニア先生に叱られますから」
 職員が一人、頭を下げつつ早足ですれ違う。一兵卒や、精々尉官であった頃ならばともかく、軍を代表する立場の人間が荷物運びの雑用を手伝っているののだ。事情を知らない人間が見れば、どんな重要物資を扱っているのだと疑われても仕方のない光景である。
 だが城内の多くには将軍の愛妻家ぶりを知られているから、隣に並んでソニアの姿があれば、それで大体の事情は察せられるのだが。ソニアの側では少しばかり恥ずかしそうにしているが、ロッシュにとっては妻の話でからかわれることなど慣れっこである。傍を通った女性職員の微笑ましげな表情も知らぬ顔で、妻の後に続いて倉庫に入った。
「これで終わりか?」
「はい、後は軽いものだけですから、他の方々が運んでくれます。御免なさい、検査に来たのに雑用をさせてしまって」
「気にすんな、どうせお前の手が空くまでは待ちだからな。何処に置けばいい?」
 指示された棚――取り出しやすいように下の側の棚で、ロッシュは随分と身を縮めなければならなかった――に運んできた箱を収め、ロッシュは腰を伸ばす。他の荷物を持ってきた職員に場を譲ると、ソニアと共に部屋を出た。
「忙しい中有り難うございました。早く検査を済ませないと、部下の方に怒られてしまいますね」
 ソニアはそう言って笑うが、ロッシュからしてみれば、自分などよりソニアの方が多忙を極めているように感じられる。医療部全体が忙しいのは勿論だが、彼女の場合、兼任する業務が多すぎるのだ。医者としての職分に加えて魔動学者としても活躍し、家に帰れば母親として、家族の住む家を整えてくれている。どれも大切なことだし、ソニアがすべてを引き受けたいと思っているのは分かっていたが、それにしても些か量が多すぎる。ソニア本人の申告はともかくとして、ロッシュの側はそう感じている。
「検査の間は、どうせ休憩扱いなんだ。休んでる間に何してたって、文句は言わせないさ」
「もう。そうやってちゃんと休まないから、色んな人が心配するんじゃないですか」
 だがそんな夫の心配を余所に、ソニアはロッシュの身を気遣う方にばかり気を回している。医療エリアの一画に辿り着き、鍵を使って扉を開けた。ここはソニア個人の部屋ではなく、検査を行う器具の揃った、専門の部屋である。身体の調子を診る程度ならば家でも出来る、今回行うのは機器を使った、もう少し本格的な検診だ。数ヶ月に一度、ロッシュはこうして、詳しい検査を受けていた。普通に考えれば高すぎる頻度だが、身に付けたガントレットが引き起こす異常を示唆されれば、文句を言うことはできない。とはいえやはり、ロッシュ本人からすれば、厳重すぎる用心だと思えるのだが。
「俺は大丈夫だ、他の奴にも気を使ってもらってるしな、有り難いことに。こうしてお前も診てくれてるし、倒れる程疲れようったて難しい話だ」
 ロッシュの主張に、ソニアは呆れた視線を返すのみだ。それよりお前の方が心配だ、ロッシュがそう言っても取り合う様子は無く、患者となった夫を椅子に座らせて検査の準備を整えている。それは素人のロッシュにも分かる見事な手際で、彼女が優秀な医師であることが、座ったままでも診て取れた。だがそれは本来、生死をかけた治療にこそ発揮すべきもので、こうして単なる体調管理に使われるのはあまりにも勿体無い。
「なあ、前から言ってることだが……お前、ちょっと仕事を減らすべきだと思うんだよ」
「え?」
 驚いて振り向いたソニアに凝視され、ロッシュはバツの悪い気持ちで頬を書く。
「医者の仕事もそうだし、マナの研究もある。その合間にチビの世話と家のことまでしてくれてるんだ。これじゃあんまり大変過ぎる」
「そんなことはありませんよ。どれも好きでやっていることですから」
「ああ、そりゃ分かる」
 ソニアの言葉を否定することはなく、ロッシュは首を捻る。ロッシュも、彼女の仕事にかける情熱を疑うわけではない。未だ混乱が続く世界の中で、有能な研究者であるソニアの力は、どの分野でも強く必要されている。ましてその研究は、二人の親友であるストックの未来に関わることだ。忙しさ故に止めろと言えるようなものではなく、ソニアも止めるつもりなどけして無いだろう。医療に関してはマナの研究程逼迫しているわけではないが、ソニアにとっては思い入れのある仕事だ、これもまら軽々しく止めろと言えるものではなかった。まして母親としての立場は、止めるの止めないのというものではない。ロッシュもソニアもしがらみの多い立場ではあるが、それでも第一に考えているのは、やはり子供のことだ。
「おまえが仕事を好きなのも、止められないのも分かってる。だからな、こんな細かい検査まで、お前がやる必要は無いと思うんだ。ガントレットの整備もだが……忙しい中で、俺の面倒まで見る必要は無い」
 それは前から考えていたことだった、ソニア自身が何と言おうとも、彼女は忙しすぎる。それを少しでも減らせるとしたら、定期的に行われるロッシュの検査や、ガントレットの管理くらいしか無い。そう考えた末に為された提案だが、ソニアはあっさりと笑い飛ばした。
「何を言っているんですか、あなた」
 器具を手にしてロッシュの正面に座ると、断るでもなくロッシュの腕を露出させる。まずは血を採るらしい、と意識した時には冷たい液を塗られ、次の瞬間鋭い痛みがロッシュの腕に走った。
「これくらい、大した手間じゃありません。毎日やっているわけじゃないんですから」
「それは今回みたいな奴の話だろう、調子の方は毎日見てもらってる。それを止めて少しでも負担が減るならそっちの方が」
 喋っている途中の顎を捕らえられ、ロッシュの言葉が止まる。ロッシュに比べれば遙かに細い指の何処にそんな力があるものか、逃れられない強さで顔を固定され、口を開かされた。
「そんなことを言うんだったら、私が心配しなくても済むように、ちょっとでも自分の身体を労ってください」
 喉の奥を覗き込まれながらでは反論もできない、代わりのようにしてロッシュの眉が顰められ、喉の奥から低い呻き声が発せられた。主張が許されるならば、既に十分労っているつもりだと言いたかったのだろう。
「――良いんですよ、これは私の我が儘なんですから」
 だが、妻が発したその言葉の意味は、ロッシュにも分からなかったらしい。疑問を示す表情でソニアを見詰め、顎を押さえる手が離れても、抗議の声は発せられなかった。無言で自分の喉をさする、その腕をソニアが取り、器具から伸びた線の端を貼り付けていく。
「どういうことだよ、そりゃ」
 ソニアが扱う装置の意味は、ロッシュには分からない。そしてそれは彼女考えに関しても同じことなのだと、不貞腐れた、あるいは寂しげな表情が語っている。夫の不満をソニアが理解したのかどうか、彼女は小さく微笑みながら、装置の動きを見て、素早く何事かを書き付けた。異常を示すものでは無かったらしく、結果を見ても彼女の笑みが消えることはない。
「勿論、こんな検査くらいなら、それこそ補佐役の新人にだって出来ます。他の方にお願いしたって、本当は構わないんです」
「それなら」
「だから、我が儘だって言っているでしょう――腕を上げてください、ロッシュ」
 装置を動かしたまま、ロッシュが右腕を高く上げ、そのまましばらく停止させる。ソニアが装置を叩くと同時に、右腕に微弱な衝撃が生じ、左腕の付け根まで走り抜けた。痛いですか、と問われ、ロッシュは首を横に振る。
「我が儘、か」
 語るでもなくロッシュが呟いた、その声にソニアが視線を巡らせる。
「ええ、我が儘です。貴方のことは、私が一番よく知っていたい」
 ロッシュの腕が、ソニアの手で下げられる。そのまま、寝台に横になるように指示された。
「――どういうことだよ」
「そのままです。深呼吸をしてください」
 繋がれたままのものとは別の装置をソニアが動かし、ロッシュの身体の表面をなぞるようにした。顔が赤くなっているのを見てか、もう一度深呼吸が指示される。
「他の人があなたを検査したら、その人は私よりもずっと、あなたの身体のことを知ってしまう。そんなことは嫌なんです」
「……お前でも、そんな馬鹿言うんだな」
 眉を顰めるロッシュだが、そんな小さな動作では、顔に上った血を戻すには至らない。ソニアが苦笑して、横になったままのロッシュの額を撫でた。
「ええ。私、結構馬鹿なんですよ」
 その感触に、ロッシュはそれ以上の追求を諦め、口と目を閉じた。そこまでを言われて、尚且つこの行為を止められる程、ロッシュの心は冷たくない。妻の指に触れようと腕を上げるが、動かないでください、と制止されて慌てて元の位置に戻した。
「大丈夫です。ちゃんと、負担のない程度に抑えて、仕事をしていますから」
 ソニアは主張するが、当然ロッシュに信じられる筈も無い。とはいえ否定したところで堂々巡りになるのは目に見えている。
「本当に、無理するなよ」
 せめてもの反抗として、訴えると共に睨みつけるが、下からの姿勢ではそれも大した迫力にならない。平然と笑い返され、ロッシュは気づかれぬよう、小さくため息を吐く。どこまで自分の心配が伝わっているのか、この反応では分かったものではない。ロッシュの心配をすよりも先に、自分自身の身体を大切にするべきだと、幾度となく言っているのだが。
「分かってます、あの子も要ることだし、倒れたりなんか出来ません」
 あるいは、普段から伝え続けていることこそが、言葉を軽くしてしまったのかもしれない。ロッシュがこれ以上言葉を重ねたところで、それが重要な主張なのだとは感じてもらえなくなっているのか。
「それじゃ、検査を続けますよ。早く終わらせてしまいましょう」
 どちらにしろ、今は言っても無駄なことだ。ソニアの頑固さは、夫であるロッシュが一番よく知っている――ソニアが、ロッシュのことを最も良く知っているように。
 ソニアが再び装置を動かし、ロッシュの身体から、訳も分からぬデータを取り出す。それを処理する妻を見ながら、ロッシュはぼんやりと、どうしたものかと考えを巡らせていた。




――――――



 ストックの所属する部署の名を出した途端、周囲からいくつも差し出された書類に、ソニアは呆れて息を吐いた。どうせ届けに行くのだから、持っていくものが増えたところで困ることは無い。だが渡された書類の宛名全てにストックが含まれているのは、何処となく不穏なものを感じてしまう。
 確かにストックは、内政において重要な仕事を、いくつも任せられている。人手の足りないところに優秀な人材がやってきたのだから、当然のことと言えた。だがそれでも今までは、一人に責務が集中する危険性を考え、ある程度以上の仕事は回されていなかった筈である。ある程度というのも曖昧な話だから、手にしたこれらの量もその範囲内に当たるのだと、言ってしまえば言えるのかもしれないが。
 ――いや、それはさすがに無理があるか。中身を流し見て、ソニアはそう考えを改める。人員の要求申請から破損した設備の修繕要求まで、誰がやっても構わないような構わないような些末事も含めた案件が、そこには無節操に並んでいた。医療部だけでこれなのだから、他の部署からのものも含めれば、机の上に山が出来ているのではないかと想像できる。レイニーが知ったら何と言うことか、そんなことを考えると、知らず表情も険しいものとなってしまう。すれ違った職員に不思議そうな目で見られて、ソニアは慌てて真顔に戻した。とはいえ内心は未だに心配と不安が渦巻いている、無茶を省みないストックの性質は昔から、それこそストックが情報部に居る頃からよく知っている。だからこそ、忙しくなったのも意識せずに働き続け、身体を壊してしなわないかが心配でたまらないのだ。
「失礼します、医療部のソニアです」
 考えながら歩いているうちに、いつの間にか目的地に辿り着いていた。踏み出しそうになった片足を慌てて止め、向きを変えて扉を叩くと、声を上げて己の訪問を知らせる。
「お疲れさまです。書類を届けに来ました」
 返事を待たずに扉を開けると、中にいたのはストックだけだった。彼に付けられている秘書は、用事か何かで席を外しているらしい。書類仕事でもしていたのか、手にしたペンを放り投げて、ストックはソニアを出迎える。
「……どうした、何かあったのか」
 整ったその顔には、よく見れば気づく程度の驚きと緊張が浮かんでいた。ソニアが直接書類を届けにくるのは珍しい、緊急事態でも起こったのかと身構えるストックに、ソニアは笑って首を振ってみせる。
「いえ、手が空いていたので届け物を引き受けただけです。急ぎのものはありませんので、後で目を通しておいてください」
 ソニアから受け取った書類を、ストックはぱらぱらと流し見て、納得したのかそれらを未処理の箱に放り込んだ。そこに重ねられているの書類の枚数を見積もって、ソニアは愁眉を寄せる。
「随分忙しそうですね」
「そうでもない。先週の遠征で時間を取られて、溜まっていた分が処理し切れていないだけだ」
 大したことでは無いとばかりにストックが肩を竦めるが、それはソニアを安心させる回答では無い。就任後しばらくであれば、例え長期の出張があったとしても、それを見越した量の業務しか回されていなかった筈だ。
「ストック、最近、仕事が増えすぎているんじゃありませんか」
「そんなことは無いが」
 だが当のストックは、その事実を気にした様子も無い。増えたという意識が無いのか、それともこれくらいの量は構わないと思っているのか。動かない表情から内心を読み取ろうと、ソニアはじっとストックを見詰める。
「……以前よりは増えているかもしれないが、忙しいという程じゃない。ロッシュやお前と比べれば、暇過ぎるくらいだ」
「それは言い過ぎでしょう」
 ソニアの凝視に居心地の悪さを感じたのか、ストックが僅かに視線をずらす。ソニアは構わず見続ける、何年も親友として付き合っているのだから、遠慮も何もあったものでは無い。
「体調が悪いと感じることはありませんか? あるいは、夜寝付きが悪くなったり、逆に朝起きれなくなったりとか」
「大丈夫だ。お前に心配されるようなことは、何も無い」
「本当でしょうね」
 ストックの主張を受けても、ソニアの表情が和らぐことはない。手振りでストックに着席を促すと、多少躊躇いを見せたが、大人しく椅子に戻ってくれた。こういう時のソニアに逆らっても無駄なことは、これまでの経験から身に染みて理解しているのだろう。ソニアが額や首に触れ、口の中を覗き込んでも、抵抗の気配は無い。
「――取り敢えず、異常は無さそうですね」
「当たり前だ。無理をしなければいけない程の仕事量じゃない」
 それより自分のことを心配しろ、そうストックが睨み付けるが、ソニアの側は素知らぬ顔だ。
「今度、もう少し精密な検査をしてみましょうか」
「大丈夫だ、定期検診は受けている。お前もこうして気を付けてくれているんだ、十分だろう」
「ストック、身体を壊してからじゃ遅いんですよ」
「お前は少し過保護過ぎる」
 夫にするのと同様に、医療部に連れ込みかねない勢いのソニアに、ストックは苦笑を零す。さりげなく肩に触れて身体を離すと、安心させるかのように微笑んだ。無言の主張に、ソニアも少し冷静を取り戻し、机を挟む位置に移動する。
「無理はしていないと言っている、それを信じろ。俺だって、お前やレイニーに心配をかけたいわけじゃない」
「本当ですか?」
「信じろと言っているだろう」
 ストックは無為に嘘を吐く人間ではない、それはソニアもよく知っている。だが徐々に増える負担というのは、当人が把握し切れぬうちに域値を越えてしまうものだ。ロッシュもそうだが、元々軍人だったストックもまた、己の体力を過信しすぎる。そうやって無理を重ねて、いつか倒れてしまったら、どうするつもりなのか。
「それに、忙しいのはお前も同じだろう。仕事に戻らなくていいのか?」
 しかし密かに憤慨するソニアに対して、ストックはもうこの話を終えるつもりのようだった。優しい口調ではあるが、切り上げたい意思を明確に表示され、ソニアは諦めて口を閉じる。結局ソニアは、ストックの友人に過ぎず、何かを強制させられる立場には無い。彼女にできるのはあくまで助言と忠告を行うことのみで、判断するのはストック自身なのだ。
「そうですね。長居してしまってすいません」
「気にするな、こちらこそ、茶の一つも出さずにすまなかった」
「そんなことは良いんですけど、でもストック、本当に無理はしないでくださいね」
 そう言うソニアの後ろで、扉を叩く音が響いた。新たな客が訪れたのだろう、ソニアは身体を引き、道を空ける。
「失礼致します。軍務からの連絡で参りました――よろしいでしょうか?」
「ええ、こちらの話は済んでいます。それじゃあストック、また」
 そしてそのまま執務室を出る、扉を閉める後ろで、早速用件をまくし立てている声が聞こえていた。やはり忙しいのではないかと、ソニアの口から溜息が零れる。とはいえあれだけはっきり拒絶されてしまったのだ、ソニアがさらに言葉を重ねても無駄であることは、想像するに難くない。日を改めて言ってみても良いが、ストックも頑固な男だ、それで反応が変わるとも思えない。
「いっそ、レイニーさんからでも言ってもらおうかしら」
 自分の妻から訴えられれば、少しは反応も変わるだろうか。確信があるわけではないが、自分やロッシュが言い続けるよりは良いかもしれない。
 そんなことを考えながら、ソニアは身軽になった身体で、医療部への道を歩いていった。



――――――



「――それじゃ、ぐるぐる回っているわけだ」
「そうなんです。ぐるぐる回っているんです」
 真顔で答えるラウルに、これまた真剣な顔でレイニーが頷く。ぐるぐる、という響きが気になったのかどうか、もう一度呟いて頷いたりしている。無邪気にも見えるそんな姿に、ラウルは一旦口を閉じ、息を吐きながら天井を見上げた。
 ややこしい話ではない、親友――元親友、現夫婦の間柄も含めて――同士、互いの多忙と体調を心配し合っていると、言ってしまえばそれだけのことだ。本来なら当人らの間でぐるぐる回っているのみだったろうが、三人が三人ともレイニーに相談してしまったために、事が大きくなってしまったのだ。相談すること自体と、それをする相手は、どちらも自然なものだ。夫婦であるストックは勿論、ロッシュとソニアに関しても、今は家族ぐるみで親しくしている相手である。意識してか、あるいは雑談のついでにか、心配ごとを話しても何も不思議は無い。問題なのはそのタイミングが綺麗に揃い、それによってレイニーが、必要以上に事を重大に捕らえてしまったことである。
「それで、ラウル首相、皆があんまり忙しくて身体を壊したら困るから」
「ああ、分かってるよ。仕事を調整しろって言うんだろう」
 レイニーは元軍人ではあるが、既に結婚を機に退役した身だ。元々の階級も極端に高かったわけではない、首相の執務室に押し掛けられる立場では、本来ならば無いのである。この訴えを聞かなければならない義務は、ラウルには存在しない。部外者が入り込んできたと、衛兵に命じて追い出させても良いくらいだ。ラウルの言葉に真剣に頷いているレニーが、そのところを分かっているのかどうか分からないが。
「でも、どうして僕のところに来たんだい。ストックもソニアも、そりゃ突き詰めれば僕の部下に当たるのかもしれないけど、僕が直接彼らを管理しているわけじゃ無い。まして軍はもう別組織になったんだ、ロッシュの業務になんて、本当なら口も出せない立場だよ」
「ええと、それはそうなんですけど。でも三人に影響力がある人って言ったら、ラウル首相しか居ないんです。それぞれの上司に掛け合うのは確実じゃないし、ラウル首相だったら、市井の人間の話でも聞いてくれるだろうから」
「成る程、そうマルコ君が言ったのかな」
「え、ええっ! 何で分かるんですか!」
 心底驚いた様子のレイニーに、ラウルは溜まらず苦笑した。レイニーは多少直情なところはあるが、けして分別のない女性では無い。以前勤めていたとはいえ、今は無関係と言っても良い場所に乗り込んできたのは、何かしらの入れ知恵があってのことだろう――そう思って鎌を掛けてみたのだが、推測は見事に的を得ていたらしい。考えてみれば、ストックたちが相談するのがレイニーなら、彼女が相談するのは元相棒のマルコを置いて無い。
「いえ、それでともかく、そういうことなんです」
 今まで話していたのが他人の言葉であったことを見抜かれたのが恥ずかしいのか、狼狽えた様子で視線を彷徨わせつつ、レイニーが言う。頬が赤くなっているのを見ぬ振りをしつつ、考え込むふりでラウルが息を吐いた。
「さて、どうしたものかな。内務はともかく、医療部と軍部の人事に僕が口を出すわけにはいかないんだけど」
 態とらしく呟かれた一言に、レイニーの表情が暗くなる。感情が分かりやすいのは美点だろう、そう内心で考えるラウルに、秘書の鋭い視線が突き刺さった。遊んでいるわけではない、との意を含めて睨み返し、改めてレイニーへと顔を向ける。
「とはいえ確かに、彼らに倒れられると、困るのは周囲全体だからね」
 レイニーにおもねっているわけではなく、それは純粋に事実だ。彼らは三人が三人とも、それぞれに優秀な能力を持ち、アリステルを動かすのに大きく寄与してくれている。うち一人でも倒れられて、一時的にでも戦線離脱されてしまえば、その混乱は想像に難くない。ラウルの言葉に、レイニーが何度も頷く。
「そうです、だから今のうちに」
「分かった、分かっているよ。そうだね……直接的に指示するわけにはいかないけど、関係部署の上長に話をしておこうか。それで良いかな」
 ラウルの提案に、レイニーはぱっと顔を明るくさせた。
「ただ、どれくらい調整できるかは、各部署の業務量にもよると思うけど」
「大丈夫です、それで十分です! 有り難うございます!」
 輝かんばかりの笑顔を振りまきながら、何度も頭を下げる。ラウルは苦笑してそれを止めると、話の区切りを示すように、未処理の書類を一枚取り上げた。
「じゃあ、そういうことで、話は通しておくよ。後は、君が家で気をつけておいてあげると良い」
「はい、勿論です。忙しい中押し掛けちゃって、すいませんでした」
 さすがにその言葉に同意するほど、ラウルも意地が悪くは無い。深く頭を下げ、跳ねるように出ていくレイニーの背が消えてから、大きく息を吐いて身体を伸ばした。
「随分お優しい対応でしたね」
「それ、皮肉のつもりかい?」
 伸びた姿勢のまま秘書を睨むと、素知らぬ顔で目を逸らしている。
「いえ。ただ、忙しいのは何処も同じだと、そうおっしゃって追い返すかと思いました」
「そんなことをしたら君に何て言われるか分からない……じゃなくて、僕だって血も涙もない仕事人間てわけじゃないんだよ」
 君と違って、と続けられた一言には、特に反論は返らない。代わりに投げられた探るような視線に、ラウルは片頬を持ち上げて応えた。
「別に、彼女に言ったそのままの理由さ。彼らに揃って倒れられでもしたら、それこそとんでもないことになる」
「それは確かに、その通りですが」
「だろう。――それに、彼女には借りがあるしね」
「借り、ですか」
 何気なく付け加えた理由に対して、返ってきた反応が思ったより大きく、ラウルは首を傾げる。驚きを示す表情の中から無言で説明を求められ、ラウルは口を開いた。
「ああ、君には話していなかったかな。彼女とマルコには、以前」
 と、しかしそこまで語って言葉を切る。以前、何だっただろうか。何か致命的な事態があって、そこをレイニーとマルコの二人に助けてもらった、そんな記憶がある。だがそれは何時のことだったか、考えてみれば彼ら二人はストックと行動を共にしており、戦後になるまでラウルとは顔も合わせたことが無かったのではないか。単なる記憶の錯誤なのだろうか、だがそれにしては奇妙な程、彼らに対する好印象が残っている。
 途中で話を止めてしまったラウルを、秘書が不思議そうに見ている。その視線に気付き、ラウルは首を振った。
「――まあ、色々あってね。無碍にすることもないかと思ったんだよ」
「はあ。まあ、首相が納得なさっていらっしゃるなら、私が口出しすることではありませんが」
 納得し切らない様子ではあったが、追求するほどの深刻さを感じなかったのか、秘書もそれで矛先を収めるつもりのようだった。ラウルも、放り出していたペンを取り上げ、改めて仕事に向き直る。
「ああ、そうしてくれ。ところで」
 そのペンを書類に下ろそうとして、ふと。
「僕の忙しさを心配をしてくれる人は、一体何処に居るのかねえ」
「……さあ」
 吐き出された溜息に、秘書は一瞬動きを止めたが、直ぐに冷静な様子に戻る。
「可愛い奥さんでもお作りになって、心配して貰ったら如何でしょうか」
 さらりと言い放たれた言葉に、ラウルは肯定も否定も返さず。
 ただ大きな溜息を吐き出して、大人しく書類に向かうのだった。






セキゲツ作
2013.11.3 初出

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