月が綺麗な夜だった。
 窓を開け放した部屋で機嫌良く杯を口に運んでいるのは、部屋の主にしてこの国の王であるガーランドだ。そして彼と共に卓を囲んでいるのは、アリステルからやってきた若い客人が二人。
 ストックとロッシュがシグナスを訪れるのは、そう珍しいことではない。ストックはアリステルの外交担当として、ロッシュは軍の遠征の責任者として、シグナスとは浅からぬ関係にある。足繁くという程ではないが、顔を忘れられない程度には頻繁に、それぞれこの国を訪問していた。
 だが、それが二人揃ってとなると、途端に珍しいものとなる。軍部と外交は戦後完全に分離されたから、ロッシュが外向的な話し合いに同席することは少ない。移動の際も、魔物が減少して危険も無くなってきている現在の状況では、軍に来る護衛の依頼も減少傾向にあった。特にストックは自身も腕が立つから、将軍自ら率いるような大規模な護衛を必要とすることはまず無い。逆に軍の側が出動する際には、事前に国家間での了解が成されているのだから、外交官を伴う必要も無くなっている。
 そんなわけで、よく訪れる割に揃うことの少ない二人だが、今回は珍しく並んでの来訪となっていた。それもさしたる理由があるわけではなく、単に偶然に呼ばれてのことだ。元々外交部門での表敬訪問の予定が入っていたのだが、そこに緊急の魔物討伐が重なり、こうして二人が顔を揃えることとなったのである。戦闘に政治にと、ガーランドにとっては目の回るような数日だっただろうが、今酒を浴びている姿からは少しの疲れも感じられない。とても若いとは言えない年齢の筈なのに、下手をすれば自分達よりも精力的な王に、ストックとロッシュは密かに驚嘆を覚える。
「どうだ、酒は足りてるか」
 瓶を持ち上げる動きを受けて、ストックが杯を持ち上げた。色の無い透き通った酒が、杯の縁に盛り上がるまで、並々と注がれる。
「入れすぎだ」
 苦笑しつつストックは、零れぬように酒を口に運んだ。酩酊を警戒し、一気に干すようなことはしない。この酒席の前にも公式の宴があり、既に酒気は十分帯びてしまっているのだ。ストックも酒に弱いわけではないが、酔わない体質というわけでもない。調子に乗って杯を重ねれば、限度を超えて倒れてしまうことも有り得る。ロッシュもまた同様の警戒をしているのか、酒を飲む速度は、目に見えて緩やかなものだ。元々酒に対しての愛着が少ない男だ、ここが他国の王の私室ということもあるから、余計に酒量を抑えているのだろう。ガーランドによれば、ストックが居なければそもそも酒を飲もうとしないとのことで、今日はそれでも飲んでいる方と言えるようだった。
「遠慮せずに飲め。どうせ明日は帰るだけだろう」
「無茶を言うな、二日酔いの頭で砂漠を越えられるか」
 ストックの言葉に、ロッシュも深く頷いている。彼が一人で来ている時の様子は、当然ストックには分からない。だが今の態度を見るに、彼もストックと同じく、酒責めに悩まされたことがあるのだろう。ガーランドは酒癖が悪いわけではない、だが無類の酒好きの上本人は極端に酒が強いため、相手の限度を考えず酒を勧めてくるのが困り者である。
「相変わらず仕事熱心だな。今夜はロッシュも居ることだ、羽目を外したって良いだろう」
「勘弁してください。こいつを抱えて部屋まで戻れってんですか」
 苦笑するロッシュの杯にも、同じ酒が注がれる。ストックと同じことを考えているのか、ロッシュの酒もまた、ゆっくりとしか減っていかない。大分飲ませているのは自覚しているのか、ガーランドもさすがに、それ以上の速度を強要することはしなかった。自分自身だけで豪快に杯を呷り、ストックとロッシュが動くよりも速く、自分で瓶を取って再び酒を満たす。
「それが大変だってガタイでもあるまい、それにストックの方も事務方になったんだ。昔よりは随分軽くなってるだろう、お前なら片手でいけるんじゃないのか」
「勝手なことを言うな。前線からは離れたが、そう簡単に衰えるつもりは無い」
 ガーランドの揶揄に、ストックが憮然として反論する。ロッシュも笑いながら同調し、ストックの背を軽く叩いた。
「こいつはそんなに甘い奴じゃ無いですよ。ガーランド王もご存知でしょう」
「ほう、ってことは、今でもちゃんと鍛えてるのか」
「いざという時に困らない程度にはな。……あんたが満足する腕かは分からないが」
 途端に鋭く細められたガーランドの目に宿る光は、それまでの気の良いものと異なり、戦場で見せるそれと同じものだ。希代の名君であるこの男は、同時に最高の武人でもある。ストックが彼の友となったのも、手合わせを通じてその腕を認められたのが端緒だった。その時と同様の、戦意を隠さぬ目で見据えられたストックは、だが張り合うことはせずに静かに苦笑した。
「鍛錬は続けているが、実戦に関わることは少ない。あんたと渡り合うのは、さすがに難しいかもしれないな」
 淡々と述べられる分析に、ガーランドはつまらなそうに鼻を鳴らし、また杯を煽る。
「随分気弱になったもんだな。一国相手にほんの数人で暴れ回ってた奴の言葉とは思えんぞ」
「あの時だって俺だけが戦っていたわけじゃない、シグナスやフォルガの力があってのことだ。……それに、いくら鍛えるとは言っても、前線に出ていない以上どうしても勘は鈍る」
 ストックも、ガーランドよりは余程ゆっくりとではあるが、酒を口に運ぶ。それはストックの本音だった、大切な者達を守るために身体と技は鍛え続けている、だがそれはあくまで鍛錬であり、命のやり取りを伴うものではない。以前より頻度が落ちたとはいえ日常的に戦いに関わっている者達とは、自ずと差が出てしまうものである。ガーランドもそれは予想している筈だが、それでも一度生じた期待を摘まれたのが悔しかったのだろう。拗ねた様子を隠そうともせず、軽く舌打ちをしてみせた。
「ふん、平和になるのも善し悪しだな。落ち着いて国を整えられるのは良いが、暴れる場所が少なくなって敵わん」
「まだ、そう落ち着いたもんじゃ無いと思いますがね。今回みたいに魔物が暴れ出すのも、まだまだ多い」
「俺やお前はそうだな。だが、ストックに関しちゃ、そうはいかんらしいぞ。腕もすっかり落ちているらしい」
 一国の王のそんな態度が面白かったのか、ロッシュは少しばかり笑いながら首を傾げた。
「どうでしょうね、自分じゃそう言ってますが」
「ほう? 成る程、お前の目から見たら、また違う意見がありそうだな」
 そのロッシュの態度に何かを感じたのか、きらりと目を光らせて、ガーランドが口角を持ち上げる。彼は王だが、同時に武人だ。その剣は国のために振るわれるものだが、戦いを好む彼の性情は、時折公の利を越えて騒ぎ出すらしい。ストックを見るガーランドの目は、他国の使節に対するものではなく、武人が武人を見るそれになってしまっている。それを察したのか、ロッシュは一瞬答えを躊躇い、だが直ぐにその頭を肯定の方向に動かした。
「変わっちゃいませんよ。相変わらず、剣の腕は一流です」
 その答えに、ガーランドは満足そうににやりと笑う。直ぐにでも手合わせを申し出てきそうな、好戦的な気配を払うようにして、ストックがひらりと手を振った。
「妙な期待はするな。最初にお前が言っただろう、今の俺は単なる文官だ」
「だが、ロッシュはそうは思っていないようだぞ。お前ら、たまにはやり合ったりするのか?」
 剣を振り下ろす仕草と共に問われ、ストックとロッシュは、思わず顔を見合わせる。
「……そうですね、まあ、たまには」
 数秒視線で意思を交わし合い、代表としてロッシュが肯定の意を示す。ストックも微妙な表情をしてはいるが、反論が出る気配は無い。実際ストックが腕を磨く手段として、それなりの頻度で手合わせを行っているのだ。たまにと言ったのは、武人の目をしているガーランドのやる気を、これ以上かき立てぬ為に過ぎない。及び腰の答えに、ガーランドがつまらなそうに鼻を鳴らす。
「たまには、か。ストック、お前そんなもんで足りてるのか」
「足りない分は自分が相手をする、とでも言いたいのか?」
「おう、分かってるじゃねえか」
 獰猛に笑うガーランドに釣られるように、ストックの口元にも笑みが浮かんだ。今は前線を離れてはいるが、ストックも元は戦士だ。殺し合いが好きなわけではないが、張り詰めた緊張感の元で身体を動かすことには、中毒に近い魅力を感じてしまう。
 職業軍人であるロッシュは、もう少し戦いに対して冷静らしい。笑みを交わし合うストックとガーランドを、苦笑に近い表情を浮かべて眺めている。そんなロッシュに、ガーランドはちらりと視線を遣ると、ふと思いついた様子で口を開いた。
「お前ら、本気でやりあったことはあるのか」
 その唐突な問いに、ロッシュもストックも目を丸くする。
「訓練とかじゃなくて、本気の斬り合いだ。どうだ」
「本気の、ですか」
 ロッシュが困惑の面持ちで首を捻る、その横でストックはまだ驚いた表情を崩さず、ロッシュとガーランドを交互に見ている。
「殴り合いならありますがね」
「素手か、まあ、そんなもんだろうな。しかし武器が無しじゃあ、お前の方が有利だろ」
「そうでもありませんや、こいつは速いし、細い割に力も強いし。良い勝負でしたよ、なあストック」
 口を閉じたままだったストックは、ロッシュに声をかけられ、一瞬身体を硬直させる。ああ、と曖昧な声が零れて、ロッシュが不思議そうに目を眇めた。
「そうだったな。……ああ、覚えている」
 その口から問いかけが出るより速く、ストックが言葉を紡ぐ。その物言いには何処か、浮き足立ったものが混じっていた。ガーランドの鋭い目線が、ちらりとストックの顔の上を走る。
「その時は、どっちが勝ったんだ」
 ストックが示した動揺を王が気付かない筈が無い。直接問うことをしないのは、それをしたところでストックが何も語らないのを分かっているからだろう。ロッシュもまた、滅多になく冷静を失っている親友の姿を、不思議そうに見ている。
「毎回、周りに止められて終わりでしたね。まあ、昔の話です」
「俺が軍に居た時のことだからな……それも、ほんの数度あっただけだ。こんな奴とそう何度も殴り合っていては、身が持たない」
「よく言うぜ、俺より多く怪我したことなんざ殆ど無いくせに」
「……そうだったか? 毎度、遠慮もなしに殴り倒されていた気がするが」
 昔、といってもほんの二、三年ほど前を懐かしむ会話を交わすの二人に、ガーランドは呆れ混じりの笑みを浮かべた。彼もまた友人という立場ではあるが、年も立場も近い二人と比べれば、余程距離は遠い。
「それじゃあお前ら、決着までやり合ったことは無いんだな。実戦でも、喧嘩でも」
 言い合う二人に置いていかれたガーランドが、一人ごちる。問いかけるというよりは独白に近い調子だったが、それを耳にしたストックの表情が、またしても動揺を示して動いた。問われるよりも先に平静に戻ってはいたが、その変化は明らかなものだ。
「何故、そんなことを聞く」
 平静な、いや意識して平静を保っているであろう様子で、ストックがそう聞き返した。戯れ言とするには鋭すぎる眼光を、ガーランドが予想していた筈も無かったが、それでもさすがに一国の王だ。たじろぐでもなく真っ向からその目を受け止め、逆に見返してみせる。
「大した意味は無いさ、少しばかり気になっただけだ。お前こそどうした」
「何もない。あんたが馬鹿なことを聞くから、呆れただけだ」
 呆れたという程度では、その反応は説明が付かない。明らかに何か、大きく心を動かす事柄があったのだと、ストックの態度は示している。だが本人に詳細を語るつもりは無いようで、明らかに嘘と分かる答えの後は、不機嫌な沈黙が返るだけだ。
「ストック。いきなりどうしたよ」
 唐突な態度の悪化は、例親友でも予測できないものだったようで、ロッシュもまた当惑の様子でストックに声をかける。その声音に少しは冷静を取り戻したのか、ストックの目元にちらりと後悔の念が兆した。
「何も無いと言っているだろう、気にするな」
「何も無いって態度か、それが。問題無えなら、もっと愛想良くしてみろよ」
「おいおい、相手はストックだぞ、そりゃ無茶ってもんだろう。人間向き不向きがあるからな、問題が有ろうが無かろうが、出来んものは出来ん」
「……勝手なことを言うな」
 ガーランドの、悪意は無いが揶揄する気持ちは多分にあるのであろう物言いに、ストックの直りかけた機嫌がさらに降下する。剣呑な目で睨まれても、当然のようにガーランドが怯むことは無い。むしろ面白そうに大笑し、加減のない強さでストックの肩を叩く。
「気にするな、お前に愛想を求めるつもりは無いさ。まあ、良いから飲め。今日はそれで勘弁してやる」
「ガーランド、言っていることに筋が通っていない」
「気にするな、酒を飲むのに理由は要らん」
 叩かれたせいで中身の零れた杯に目をやれば、すかさずガーランドが酒を満たしてくる。ついでとばかりにロッシュのそれにも注がれて、恨めしげな視線が、何故かストックの側にと投げられた。
「……明日もある。程々にさせてもらうぞ」
 そんな親友の分までの抗議を込めて、ストックは小さく溜息を吐く。そして、抱えていた鬱屈をぶつけるように、手にした杯を呷った。



――――――



 ――酒宴も終わり、見送りを断っての帰り道。
 といっても同じ城の中、王の私室から、彼らに割り当てられた寝室へと移動するのみなのだが。ともかくその、ほんの短い道行きを、ストックとロッシュは肩を並べて歩いていた。
「どうした?」
 夜も更け、侍従の姿も無い。要所に立っている衛兵が見えなくなれば、そこに要るのは彼ら二人だけだ。ロッシュのガントレットが立てる金属音が、静寂の中に広がっている。それを乱すのを恐れるかのように、ロッシュの発した声は、低く押さえられたものだった。
「さっき。随分臍曲げてたじゃねえか」
 ストックは、斜め上にある親友の顔に、ちらりと視線を遣る。前を向いたままのロッシュの表情には、さしたる感情が浮かんでいるようには見えない。険しくも見える顔を眺めていると、目線に気付いたのか、ロッシュがストックの側を向いた。
「……そんなことは無いが」
「嘘つけ」
 無表情にも見える平静の中、漂う気遣いを感じ、ストックは顔を前に戻す。数歩分の間を置いて、ロッシュのそれもまた前方へと戻されたようだった。視線を合わさぬまま、二人は歩を進める。すれ違う者は居ない。
「何か、気になることでもあったのか」
 再び、ロッシュから問いが投げられる。ストックは答えに迷い、一度息を吸った。ロッシュの気配に、怒りや嘆きは無い。ストックを心配しているのだろう。あるいは、単に違和感を忘れきれないだけかもしれないが。
「いや、何も無い。……ただ、本当に、馬鹿らしいと思っただけだ」
 否定し、思い直して話を続ける。言葉を選んでの台詞であることに、ロッシュは気付いただろうか。本当のことを言っても仕方がない、ストックが感じた本当の動揺は、彼が理解できるものではない。
「馬鹿らしいって」
「俺とお前が、戦うなど」
 理解されるわけがない。理解されてはいけない。あの夜の記憶は、ロッシュの中に無いのだから。
 ストックの頬に、ロッシュの視線が刺さる。見た目に反して細やかな男だ。淡々と語った筈の言葉に込められてしまった感情を、感じ取ったのだろうか。ストックは何も言わず、ただ前を見る。
「そりゃまあ、有り得ん話だろうが」
 呆れたような、困惑しているような、なんとも言えぬ声音だ。ストックは無表情を保っている、そこから感情を読みとることを、ロッシュは出来るだろうか。視線が探る深さに変わり、少しの間ストックを刺した後、諦めたのかふいと逸らされた。
「お前はたまに、妙な反応をするよな」
 嘆息混じりの台詞に込められたのは、諦念なのか、それとも許容なのか。肯定でこそないものの、否定的ではない感情を感じて、ストックの胸が動く。親友から敵意を、あるいは殺意を向けられるのは、良いものではない。既に一度経験してしまっているのならば、尚更のこと。
「もしもの話だろ。適当に流せよ」
「……例え仮定の話だとしても、趣味が悪い。聞いていて気持ちのいいものじゃ無い」
「お前がそんなに繊細な奴だとは、知らなかったぜ」
 ロッシュの足が止まる。いつの間にか、彼らの部屋の扉の前に辿り着いていた。ストックも立ち止まり、親友の側を見る。浮かんでいるのは苦笑だが、ストックを見る視線は、柔らかなものだ。
「まあ、あんまり気にすんな。大丈夫だ。俺とお前が戦うわけあるか」
 どん、とストックの肩が叩かれる。安心させるためなのかもしれないが、些か強すぎる力に、ストックは眉を顰めて睨み付けた。その反応に、ロッシュはにやりと笑いを浮かべる。
「安心しろって。そんな馬鹿なこと、二度と有り得んさ」
 言うと同時にもう一度、ストックの肩を叩いた。やはり強い力に痛みを覚えて、ストックは言葉を詰まらせる。
「それじゃあな。ちゃんと休んどけよ」
 そして、飲み込んだ言葉が戻るよりも前に、ロッシュはひらりと手を振って、自分の寝室へと入っていった。扉の閉じる音と共に、ストックが息を吐き出す。残ったのは静寂だけだ。耳に痛いそれを振り払い、ストックも踵を返すと、己の寝室に足を踏み入れた。
「二度と。二度と」
 月が綺麗な夜だった。開いたままの窓から、砂漠の風と共に月光が降り注いでいる。ストックはしばしそれを見詰めて、光を浴びたまま、立ち尽くして。
「二度と、有り得ない――」
 ふいに窓に近寄ると、荒い力で覆いを下ろし、月の光を遮った。
 暗い部屋の中、身動きもせず立つ彼が、どんな顔をしていたか。
 それを知る者は、誰も居ない。







セキゲツ作
2013.10.16 初出

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