その書き付けが読み上げられた瞬間、場を満たしたのは、沈黙だった。重いものではない、ただ言葉の意味を理解するまでの間は反応を返すことができないから、発生する沈黙。だから当然長く続かない、読み上げられた内容が列席者達の脳裏に浸透するに従い、茫漠としたそれは、凍り付く冷たさを持つものに変わっていく。
「……はぁ?」
一人の男が引き攣った顔で、疑問というよりは感情の飽和に近い声を上げる。それを受けて、書き付けを手にした男はもう一度、淡々と同じ内容を繰り返した。先程と一言一句違わぬ言葉に、場の緊張感が一気に高まり、そして弾ける。
「待て、ちょっと見せろ」
一人が書き付けを引ったくり、書かれた内容に目を通す。それが、読み上げられたものと相違無かったことは、彼の顔を見れば明らかだった。冗談だろ、と譫言のような呟きが漏れる。それを契機として男達全員が、一斉に書き付けに手を伸ばした。
「本当だ、本当に書いてある」
「おい誰だよこんなもん入れたの。ふざけるにも程があるぞ」
「これは不味いよ、さすがにさあ」
次々に回され、その中身を確認された書き付けが、最後に一人の男の前に置かれた。童顔の、普段は可愛らしいとも評される丸っこい目が、今は緊張を漲らせてその紙切れを睨み付けている。その尋常ならざる気配に、他の者たちは顔を見合わせ、その男――キールに視線を集めた。
「これは無効だ」
一人が断言する。キールは黙ったままだ。
「こんなの出来っこない。いやそれ以前に、やったら不味い。不味すぎる」
力説する男に追随して、何人かが首を縦に振った。だがキールはやはり黙っている、黙ったまま書き付けを手に取り、目の前に掲げた。
「もう一回引き直すぞ。他はもっと真っ当な内容の筈だ」
「当たり前だ、俺はこんな馬鹿は書いてない。こんなもん入れる奴が二人も三人も居てたまるか」
「そうだな、んじゃキール、もう一回引いて」
「いや」
それをもう一度見て、キールははっきりと否定の意を示した。意味が理解されるまでの一瞬の沈黙、誰かが息を飲む音、それに導かれるように驚愕のざわめきが沸き上がる。
「やる。やってみせる」
言い切ったキールの表情には、悲愴とも言える決意が浮かんでいた。無理するな、そう言ったのは誰だったか。この場に居る誰もが、それを為すことによって被る被害、与えられるであろう悲劇を理解している。ルールを定めたのは全員の意思だ、だからこそ彼らはそのルールによって、仲間の一人が死地に赴くことを良しとしない。進み続ける先に破滅が待つのなら、誠実さを打ち捨てることも必要だと、その考えに頷かない者はこの場に居なかった。
だがその優しさを、仲間を思って差し伸べた救いを、はね退けたのは他ならぬキールだ。
「無理だろうってことは分かってる。けど、試してみたいんだ」
この力が、通じるかどうか。独白に似た呟きに、他の者たちは顔を見合わせる。
「キール、お前が真面目なのは知ってるよ。だがこんなところまで」
「勿論、一人じゃ無理だ」
逸れた目を追うように、キールが視線を巡らせた。ほんの二ヶ月、一生を考えればごく短い期間、だがどの瞬間を取っても濃密な時を共に過ごした仲間達。キールの真剣さに吸い寄せられるように、彼らもまたキールを見詰める。
「手伝って欲しい。皆でやれば、きっと、全然やられっぱなしにはならないと思う」
「だが」
「皆だって、試してみたくないか? この二ヶ月の成果を」
即座の否定は上がらない。誰かが唾液を飲み下した音が、沈黙の中で響いた。戸惑いと、怯えと、それに消されることのない挑戦心が、彼らの目に宿り始めている。キールが手にした紙を、幾人かが見た。そこに書かれているのは、一歩間違えば彼らを破滅させかねない誘惑だ。だが、彼らの中には何処か、否定し難い信頼があったのだろう。例えどんなことをしても、その人が受け入れてくれるであろう、という。
「一人でも、やる。けど手伝ってくれる奴が居るなら――これは、その全員のものだ」
キールが紙を表にし、場の中心に差し出した。皆、黙ってそれを見詰めていたが、やがて。
無言のまま、一本の手が差し出された。それを契機として一本、また一本と手が重なり、やがて全員の腕が中央で重ねられる。キールはその一番上に手を置き、他の者達の顔を順繰りに見回した。
「――やるぞ!」
「おお!」
他の誰かに聞かれるのを恐れてか、小さく潜められたかけ声。だがそこには、はっきりとした決意と、狂騒が満ちていた――
――――――
声を上げてから数秒を待ち、キールは扉を開く。無人なのかと危惧が浮かんだが、果たしてそこにロッシュは居た。報告書でも書いていたのか、険しい顔で机に向かっていた、その顔がキールの側に向く。睨み付けられているような錯覚を覚えるが、別段キールを威圧するつもりでないことは、経験則で知っていた。あの顔は、苦手な書き仕事を前にして、頭痛を堪えているときのものだ。
キールが声を発せられずにいると、ロッシュは無言のまま、卓上に視線を戻す。ここは彼らを含めた複数人にあてがわれた寝室だ、荷物でも取りに戻ったと思われたのかもしれない。一瞬、これが好機かとも思った。だが視線を逸らしたとはいえ、意識までもが外れたわけではないだろう。特に相手の様子が普段と違う時には、ロッシュがちらりと投げた視線に、キールは自分が挨拶もせぬまま立ち尽くしていたことを自覚する。
「お、お、お疲れさまですっ!」
常日頃から、やる気が一番の取り柄だと自認している自分が黙り込んでいては、何かがあると大声で喧伝しているようなものだ。出来るだけ普段と同じになるように声を張り上げるが、その効果は薄かったらしい。問いかけることはされなかったが、明らかに様子を伺っている気配が、ロッシュからは漂っている。
「し、失礼します」
声が上擦るのを必死で抑える。いつも通りに、呪文のように言い聞かせるが、意識すればする程、普段の自分というものを思い出せなくなってしまう。呼吸の仕方はどうだったか、歩幅は、手を挙げる角度は。考え始めてしまえばどれもこれもぼんやりとしていて、ようやく動いた身体はまるで人形のようにしか動いてくれない。自然に近付いて警戒を解き、隙を突いて目標を達成する、その計画は完全に失敗だ。
「どうした? 何かあったか」
横を通ろうとしたキールに、ついにロッシュが声をかけた。ペンは机に放り出し、身体を回してキールの側を向いている。突くべき隙など何処にも無いし、この先に発生しそうな気配も無い。仕方がない、キールは腹を括った。どのみち油断させての不意打ちなどという計画は、まず間違いなく失敗すると思っていた。ならば次の段階、実力行使へと駒を進めるだけだ。
「はい、その……少し、隊長にお話したいことがありまして」
出来るだけ深刻そうに、そう思って出した声は、深刻どころか震えていた。ロッシュの側でもただ事でない気配を感じ取ったらしい、椅子の向きを変え、完全にキールと向き合う。
「ああ、何だ」
近付こうとしてキールは躊躇った、ここでも常の距離間が思い出せない。普段自分は、どれくらいの間を置いてこの上司と向き合っていたのだろうと、キールは考える。考えながら数歩を踏みだし、手を伸ばせば指先が触れる程の位置に止まると、ロッシュが僅かに驚いた顔を見せた――どうやら、近すぎたらしい。
「問題とか、そういうことではないんですけど」
構うものか、心中で吐き捨てる。どうせ隙は作れないのだから、今更もう少し警戒されたところで、大して変わりはしない。キールがもう一歩を進めると、さすがに異常と取ったのか、ロッシュの眉が険しくなる。この近さであれば、キールの身長であっても、座ったロッシュを見下ろすことが出来た。普段であれば有り得ない角度からの眺めを、キールは奇妙に余裕のある、新鮮な気持ちで眺める。
「少し――」
握りしめていた手を緩める。指に込められた力が失せ、それらの隙間が広がった。ロッシュも気付かないほど僅かな動きだが、手の内のものには十分な広さ。生じた隙間から、固定を失った金属片が滑り落ちる。それはキールの手から落ち、落下して、床にぶつかって。
カツンと、大きな音が響いた。
ロッシュの視線が、意識が、ほんの一瞬逸れる。
過たず同時に、キールの腕が伸びて。
「――すいませ」
ん、と結ばれるはずだった単語は、語尾を殴打の音に取って替わられた。押さえつけようと伸ばした腕はその中途でロッシュに跳ね飛ばされ、反撃の拳がキールの腹に叩き込まれる。一連の動作が思考よりも早かったことは、驚きに見開かれたロッシュの目を見れば明らかだ。そしてその驚愕は、キールに対してのものだけではない。
「隊長っ!」
キールが発した合図を受けて、男達が部屋に雪崩込んでくる。ロッシュが座っている位置まで、扉から大股で数歩。キールを退けるために使った時間を上乗せしても、隙を突くには遙かに遠い。
「何だなんだ、一体!」
混乱を隠しもせずに叫びながら、ロッシュが立ち上がる。ふき飛ばされた椅子が、派手な音を立てて床を転がった。それを目で確かめもせず、体勢を立て直したキールが、ロッシュに飛びかかる。腕も腹も大した痛みではないから、先程の迎撃は本気ではなかったのだろう。だがその優しさ、あるいは甘さが、いつまでも続くとは限らない。迎撃に繰り出された拳を間一髪避け、と思ったがそれは空中で向きを変え、キールの動きに追随して額にぶつけられた。頭を狙ったものだからかさほど強いものではない、だがそれは昏倒することが無いという程度のことだ。喧嘩の範疇で考えれば十分に強烈で、一瞬キールの目の前に火花が飛ぶ。
「申し訳ありません隊長!」
「我々決して謀反などではなく」
「ただ少し隊長にお願いしたいことが」
その後を追うようにして、ようやく二人の元へと歩を進めた隊員達が、てんでにロッシュを襲う。ロッシュが一人を正面から殴り飛ばす、その隙を狙って回り込んだ一人が斜め後ろから手を伸ばしたが、その動きは読まれていたらしい。僅かに身体を引き、相手の踏み込みに対して距離を増やすと同時に向きを変え、近付いた襲撃者が手を触れる直前にその身体に拳を叩き込む。勿論それで動きを止めはしない、殴打のために付けた勢いなど無かったかのように瞬時に動きを反転させて、死角から忍び寄ろうとしていた男を殴り倒した。
流れるような一瞬で三人までが打ち倒され、残りの二人は突進を躊躇したようだった。たたらを踏んで踏みとどまる部下達に、ロッシュは鋭い視線を投げつける。
「てめぇら、どういうつもりだ」
演習時ですら滅多に聞けない程低い声で脅され、収束しかけていたキールの意識が、そのまま飛んでしまいそうになる。だがここで折れるわけにはいかない、眦を決してロッシュを見返すと、震えの止まった足で床を踏みしめた。
「――模擬戦です!」
胸を張り、今出すことができる可能な限りの大音声で、高らかに宣言する。予想外の内容だったのか、ロッシュの目が丸く見開かれた。は、と間の抜けた声が、引き締まっていた筈の唇から零れる。
「全員でかかるぞ、散開しろ!」
その隙を突いて、他の者達も立ち上がり、ロッシュを囲むように位置を移動した。椅子や机が薙ぎ倒され、転がる音を聞きながら、この後に待っているであろう始末書と説教の雨を想像する。一瞬足を止めたくなったが、ここまで来て引くことは出来ない。
「ちょっと待て、一度止まれ! こんなところで」
「はあぁっ!」
斜め後ろの男が、気合いと共にロッシュに突撃する。全員武器は持っていない、己の肉体だけが頼れる術だ。素手で組み伏せることなど体格差を考えれば不可能に近いが、それは一対一の場合で、全員で押さえつけてしまえばさすがに動くことはできないだろう。もっとも、その体勢に持っていくまでが難しいのだが。
「ちっ」
言葉での説得を諦めたロッシュが、半歩分身体を回転させ、伸ばされた手を掴む。下に向けて腕を引かれ、突進していた勢いもあって、男は盛大に脚をもつれさせた。
「わ、わ、とっ」
「うおっ!」
ロッシュはさらにその腕を引き、もう一人攻撃を仕掛けて来た相手に向けて、その身体を放り出す。双方の勢いは急に止められるものではなく、当然のように激突して動きを止めてしまった二人を尻目に、ロッシュは足を引いて向きを変えた。今度は同時に二人、タイミングを合わせて伸ばされた四本の手は、さすがに避けるのは難しいだろうとキールは拳を握る。だがそれは甘い目算だったらしい、向かってくる相手に対してロッシュは、逆に大きく一歩を踏み出した。速度を乗せた身体で、ぶつかるようにして襲撃者の腕を弾き、手が届くまで接近した二人の脚を順に薙ぐ。
「お前ら、本当にいい加減に」
そしてぐるりと向き直り、全員を睨み付け――だがそれを留めるように、ロッシュの頭上に白い影が広がった。だれかが寝台に敷かれていたシーツを引き剥がし、ロッシュに向けて投げつけたのだ。人間の身体と違い、柔らかな布は容易に払うことはできない。被さるのを腕で防いだとしても、今度はそこに纏わりつき、一瞬の隙を生む。その時こそが勝機だと、考えた者の判断は、基本的に間違ってはいない。だがロッシュは、慌てもせずに床を蹴り、瞬時の加速でその場から移動した。キールがそれを遮ろうと飛びかかる、が、ロッシュはそれに対して速度を緩めることすらしない。右腕を突き出してキールの肩を押し、外力でバランスを崩しかけたところを横に払い、身体を支えきれなくなるまでほんの一秒程だ。キールが尻餅を突いたところに、ばさりと音を立ててシーツが落ちるが、既にそこにロッシュは居ない。
「てめぇ! 備品は大切にしろって言ってんだろうが!」
青筋を立てたロッシュの怒号が響き、全員反射的に身を竦ませる。
「じ、自分が洗いますので!」
「そういう問題か、馬鹿が! 全員そこに並」
べ、と最後の一文字を封じるように、ロッシュの脚に一人がしがみつく。まだ勝負は付いていない、彼の必死の形相は、そのことを雄弁に語っている。攻撃しづらい位置を取られたロッシュの表情に、初めて微かな焦りが浮かんだ。
「いい加減に」
腕では届かない、蹴りつけるには力加減が難しい。そんな迷いが、一瞬留まった動きに表れている。好機だ、考えるよりも先に身体が悟った。地を蹴り、立ち上がる。他の者も同様に、突くべき隙を突くために、体勢を転換させ、手足に力を込めていた。床に散った砂が擦れる音が、何重にもなって鳴る。ロッシュが息を吸い込むのが、流れる視界の中で、はっきりと見えた。
「しろっ!!」
ロッシュの筋肉が膨れあがり、その逞しい脚が、しがみついた男ごと真っ直ぐに振り上げられた。ひっ、と鋭い悲鳴が上がるが、それを情けないと称する者は居ない。そんな状況でも手を離さなかったことを賞賛するべきかもしれないが、ぶら下げられた彼の身体は、正面からかかろうとする者に対して格好の目眩ましになってしまっている。攻撃するべき対象を視界から取り上げられ、キールや他の者達は、慌てて踏みとどまった。
「ふっ」
その気配に応じてなのかどうか、ロッシュは急激に勢いを反転させて、振り上げていた脚を地に叩きつける。その急加速に、さすがの隊員も耐えられず、手を離して地面に叩きつけられた。ロッシュはそれを確認することもなく、脚を振り降ろした勢いそのままに身体を回転させ、背後から襲いかかろうとしていた者達に回し蹴りを叩き込んだ。
「……少しは頭が冷えたか」
鋭い舌打ちと共に、頭どころか魂まで冷えるような目付きで睥睨され、キール達の攻撃の手が止まる。蹴り飛ばされた二人と地面に放り出された一人は、床に転がったまま呻き続けており、戦い続けるのは難しい様子だ。未だ立っている二人、そしてキールも、数度加えられた攻撃のダメージは確実に蓄積されてしまっている。キールはふと、自分の脚が震えているの自覚した。止めようと意識しても、体は勝手に限界を主張し、ともすれば立っていることすら難しくなってしまう。耐えきれなくなったのか、一人がその場に膝を付いてヘたり込んだ。
「お前ら、ふざけた真似してくれたな」
まだ諦めてはいない、その気配を察しているのか、ロッシュの目線は鋭い。戦場に立つのと大差ない気迫で睨みつけられ、反射的に頭を下げたくなる。いや、下げるべきなのだ、実際悪いのはこちらなのだから。
「立て。全員並べ」
だが、もう少し。まだ終わっていない、後もう少しを足掻きたくて、キールは必死で視線を走らせた。他の者たちも、悔しさと諦めの混じった表情で、互いに顔を見合わせつつ立ち上がっている。最もダメージが大きかったのか、一人がふらりと脚をもつれさせ、再びその場に倒れ込んだ。
「おい、大丈夫か」
隣の一人が慌てて手を伸べ、体を持ち上げようとする。ロッシュの視線がそれを追って動く、だがそれとぴったり同じタイミングで、室内に響く音があった。
外から扉を叩く音だ。そして、間を置かずそれが開かれる。
「ロッシュ、居るか――っ!?」
顔を出したのは、副隊長のストックだ。哨戒任務の帰りなのだろう、部下の二人が後ろに続いているのが、キールの位置から見えた。部屋の惨状に、驚いて息を飲む気配。それに応じてロッシュが首を動かす。意識が来訪者に向き、親友に状況を説明しようと、口を開く。
隙だ。
視線を合わせる間でもなく、声を出すこともせず、彼らは動いていた。座り込んでいた一人、そして彼に手を貸していたもう一人が、その姿勢のまま飛びかかって脚にしがみ付く。反射的なものか、身体をずらそうと脚に力が込められるが、今度は二人がかりだ。さすがに容易には振り離せず、瞬間動きを封じられ、ロッシュの表情が歪む。それでも彼が全力を出せば、二人を諸ともに蹴散らすことが出来るだろう。重要なのはその時間を与えないことだ、もう一人の隊員が、ロッシュの右腕に全力で捕まった。
「ロッシュ!?」
説明される間でもない、異常を見て取ったストックが、部屋に踏み込んでくる。ロッシュもまた、己に架せられた拘束を振り解こうと身体に力を込める。どちらも致命的な、彼らの行動を制止するに十分な力だ。
間に合いさえすれば。
キールが動いたのは、二人よりもずっと早かった。他の隊員達と同時、二人が脚を押さえ、もう一人が右腕を押さえ、他の二人が別方向から手を伸ばして意識を攪乱させたその間を縫って動く。高い位置にある肩を掴み、全力でそれを引き寄せる。腕を掴んだ隊員が助けてくれた。さすがのロッシュも抵抗敵わず、長身の身体が傾ぐ。キールが手を伸ばす。間近まで近づいた首に手が届く。引き寄せる。同時に自らの身体を、いや頭を、全力で突き出して。
鈍い衝突音。
勢いよく近づけたキールの唇が、ロッシュの頬にぶつかって停止した。
不自然な体勢に耐えきれず、ロッシュが尻餅を付く。
そして、沈黙。
その場の全員から凝視され、だがキールはそれらの視線を感じる程の余裕も無い。そのまま誰も動けず、たっぷり五秒は経過しただろうか。
「え……えええ、え」
女性の、つまりレイニーの呻き声が響く。それがきっかけで、凍り付いた時が動き出し、キールはその場にヘたり込んだ。仲間達が駆け寄ってくる、その彼らに向けて、物入れから取り出した紙片を掲げてみせた。
「やった! 見たな! 達成したぞ!!」
うおお、と怒号に似た歓声を上げて、男達が両手を突き上げた。これはキールに架せられた試練だった、だがそれは彼らの助け無くてはけして達成できず、栄誉は全員で分かち合うべきものである。誰も何も言わぬうちから、彼ら全員の中でその意識は共有されていた。そして次に取るべき行動も、また。
彼らはキールを引き起こし、呆れるほどの素早さで一列に並び、そして。
「すいませんでした!!」
ロッシュに向けて、異常に揃った角度で頭を下げた。余りの変わり身の早さに、話が読めないレイニーとマルコが、眼を丸くして見詰めている。ロッシュは硬直したまま動かない。ストックが手を伸べて、意識を飛ばして戻らない親友を立ち上がらせる。どういうことなのさ、と呟いたのは、おそらくマルコだ。
「すいませんで」
「ストック」
返らない言葉に焦れて、もう一度発せられた謝罪を遮るように、ふいにロッシュが口を開く。呼ばれたストックが顔を向けるが、ロッシュはストックではない、キール達でもない、遠い何処かを見詰めたままだ。
「――付き合え」
「何処にだ」
そして唐突に言い捨てて歩きだそうとするロッシュに、ストックが冷静に問いかける。
「鍛錬だ。油断してたとはいえ、こいつらに遅れを取っちまうとは」
鈍りすぎだ、そんな呟きと共に、獰猛な唸り声が響いた。
「鍛え直す。お前も付き合え」
「それはまあ、構わんが」
断る理由も無いからか、あるいは据わった眼の親友を止めても無駄だと思ったのか、ストックはあっさりと頷いて返す。そして肩を竦めると、ちらりと、頭を半ばまで上げたキール達を見遣った。
「こいつらに、言っておくべきことがあるだろう」
「ああ……そうだな」
上昇しつつあった上半身は、ロッシュの鋭い一瞥を避けるように、再び深く折り曲げられる。並べられた部下達の後頭部を、ロッシュは順に睨み付けた。
「お前ら、やらかしたことの馬鹿さは分かってるだろうな」
「は……はい」
地の底から発せられるような声に、キールの返答が震える。伏せられて狭められた視界の外で、ロッシュが呆れたように鼻を鳴らすのが聞こえた。
「今回の件に関しては、俺もボケてたってことで、不問にしてやる。だが、次に同じ馬鹿をやったら」
分かってるな。
静かな、それ故に恐るべき語調に、キール達は心底から震えて頷いた。繰り返し、何度も上下する首に満足したのか、ロッシュはひとつ頷くと、荒々しく部屋を出ていった。ストックも、一応は納得した様子で、肩を竦めて親友の後に続く。
「あ、ちょっとストック」
「お前達は休んでおけ」
そんなやり取りが聞こえた後、扉が閉まる音が響いてようやく、キール達は身体の力を抜いてへたり込んだ。そんな彼らを、部屋に残されたレイニーとマルコが、呆然とした表情で見ている。
「何なのよ、もう」
レイニーが呟く、その隣でマルコも同様に肩を落とし、大きなため息を吐き出した。と、その目がぱちりと開かれ、一点を凝視する。
「あれ? これって」
拾い上げたのは、いつの間に手から零れ落ちていたのか、キールが掴んでいた紙だ。皺だらけになったそれを広げ、中の書き付けに目を走らせる、と。
「ええっと……隊長の顔にキス、って何これ!?」
「何よそれ、ちょっと貸して。……――場所問わず、援護は認める、ってちょっとあんた達」
端に書き加えた追加条件まで律儀に読み上げてから、レイニーは目を丸くしてキール達を見た。座り込んだ男達は、少しばかり視線を逸らして、照れ笑いを浮かべている。本来は笑っているような場合でもない筈なのだが、笑うことくらいしか出来ないのかもしれない。あるいは戦いで得た高揚が、未だ残っているのか。
「賭カードの罰ゲームだったんです。負けたのは自分ですが、一人じゃとても出来そうになかったんで、皆に手伝ってもらいまして」
キールが解説すると、レイニーとマルコの顔に何とも言えない色が浮かんだ。はぁ、と気の抜けた声が、揃って零される。言うべきことが見付けられない、そんな様子でレイニーは頭を押さえ、大きく溜息を吐いた。
「あのねえ、あんた達。あんまり羽目を外しすぎない方がいいんじゃないの」
「はっ、やはりちょっと、無茶しすぎましたか。普段の鍛錬の結果も試してみたかったのですが」
「そうじゃなくて! 前のマッサージ騒ぎとか、食事の時のあれとかもだけど、前線に居るって緊張感あるの? ふざけ過ぎるとさすがの隊長さんだって黙ってられなくなるよ」
「我々、ふざけているつもりなど」
「あんた達に無くても、隊長さんがそう思ったら終わりでしょ!」
レイニーとて、階級的に大きく上というわけでは無いのだが、さすがに黙っても居られなかったらしい。隊員達もその迫力に押され、反射的に背筋を伸ばす。――一拍置いて、言っていることの意味が実感できたのか、困惑した様子で互いに顔を見合わせ始めた。
「隊長……怒ってらっしゃるだろうか」
「さすがにちょっと、失礼だったな……」
「いや、怒っていらっしゃるならまだ良いが、呆れて我々を見限られてしまわれたら」
数分前まで満ちていた満足感は何処へやら。小声で不安を吐露し合う姿は、身体すら小さくなってしまったかのように力無い。どうしよう、と一人が呟いた言葉に、全員ががくりと肩を落とす。その様子は、本人達は至極真剣なのだろうが、残念ながら滑稽の一語だ。
「まあ、えっと、今後はもう少し気を付けたら良いんじゃないかな」
見かねたマルコが言葉をかけたが、それも耳に届いているかどうか。揃って吐き出された盛大な溜息に、マルコとレイニーは無言で視線を交わし、肩を竦めることしかできなかった。
セキゲツ作
2013.09.01 初出
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