軍が用意した兵舎における数少ない個室の中を、ロッシュは今、整理していた。己のものではない、彼の上司であり、恩人でもあった男の部屋だ。彼は、妹と共に暮らす家を城下に持っているにも関わらず、最近はずっとこの部屋で寝起きしていた。元々はロッシュの身体に組み込まれたガントレットの調子を見る為だったが、それが安定した以降もここに腰を据えてしまったのは、一体どういう心理だったのだろうか。彼は妹を愛していた、ロッシュの目から見てもそれは間違いないと感じられた。にも関わらず妹から離れ、この部屋で一人、研究に没頭する暗い夜を過ごし続けたのは何故だったのか。
綺麗に纏められた工具の類を見付け、少しだけロッシュの表情が歪む。交戦の後、彼はこの工具を使って、ロッシュのガントレットを調整してくれていた。己の生み出した品だ、愛着があるのは勿論だろう。だがロッシュの記憶の中、ガントレットに触れる彼の顔は、何故か辛そうに歪んでいた。後悔していたのだろうか、そうロッシュは思う。失われた左腕の代わりに与えられたガントレットは、ロッシュにそれまで以上の力をもたらしていた。この義手が無ければ、傷痍軍人として野垂れ死んでいたことを考えると、ロッシュにとって上司はまさしく恩人である。だがその上司自身、この現状をどう思っていたのか、ロッシュははっきりと聞いたことが無い。
彼の力で復活し、戦果を上げるロッシュのことを、彼は誇って良い筈だった。だが彼がロッシュに向けるのは、痛みを孕んだ悲しげな笑顔だ。一体何を悔やんでいるのか、ロッシュはそれが、ずっと気になっていた。――結局、聞けないままに、彼は死んでしまったのだが。
クローゼットの中、僅かばかりに納められた着替えは、そのまま箱に移し変えた。元々大したものが入っていなかったが、それでも全てを取り出してしまうと、寒気がする程の虚ろに変わる。彼が生きていた痕跡が、着々と消えていく。悲しくははあるが仕方がないことだ、軍で管理する兵舎の部屋に、死後いつまでも荷物を残しておくわけにはいかない。
本来ならば彼の身内が行うべき作業だが、たった一人残されたのは、彼の妹であるまだ十六歳の少女だ。諸々の処理で忙殺されている彼女を、態々呼び出して片づけさせるのも躊躇われる。そこで、部屋が近いこともあり選ばれたロッシュの手によって、室内の荷物をまとめて運び出してしまうことになったのだ。ロッシュとしても、処分して良いものの区別などは付かないから、本当に一箇所に纏めることしかできない。だがそれでも、二年弱の間に散らかり尽くされた部屋が相手では、結構な大仕事だった。
だが作業が捗らないのは、片腕が義手のロッシュが、たった一人で片付けを行っているからでもあった。ほかの隊員たちに手伝ってもらえば、もっと楽に作業が終えられるのは、ロッシュ自身理解している。だがロッシュは、自分一人でこの作業を行うことを望んだ。何も返せぬまま死んでしまった恩人の存在に、少しでも長く触れていたかったのだ。それが独りよがりの我が儘であることは、ロッシュ自身も理解している。だが、何かをしたいという衝動を発するべき相手は、もはや存在しない。行動に移せぬまま残された想いを、どう発散して良いか分からず、結局こうして荷物を纏め続けている。
寝台横の机の上、天板も見えぬほどまき散らされた紙を纏めていく。ロッシュには皆目検討も付かない内容だが、恐らくはこれらも機密に属する類の、研究所から持ち出すことは許可されていない代物なのだろう。問題にならないのかと思ったが、例え今この事実が発覚したとして、処分されるべき人間は居ない。ならば気にすることもないかと、苦笑しつつ紙をかき集め、他と同じように向きをそろえる。
と、その中に挟まっていたものが、音を立てて机の上に転がり落ちた。動きと音に反応し、ロッシュがそれに視線を向ける。見ればそれは、掌に乗る程の、小さな薄い箱だった。可愛らしい薄桃色の包装と、もう少し赤味の濃いリボンで飾り付けられている。一目で、誰か女性への贈り物なのだと察せられた。ロッシュはその包みを、そっと、壊れ物でも扱うかのように手に取る。送る相手への心当たりならばあった。命を落とす遠征よりも少し前に、上司が、もうすぐ妹の誕生日だと言っていたのだ。年頃の女性に何を送って良いかなど分からないと、そう語る彼の目は、この二年では殆ど見られなくなった優しげな喜びに満ちていた。
ロッシュの無骨な指が、贈り物の表面を撫でる。何かを確認するかのように、そっと、何度も。
やがて溜息をひとつ吐くと、手にしたそれをそっと机に戻し、片づけを終わらせるために他の荷物へと身体を向けた。
――――――
翌日。医療エリアの控え室に、ロッシュは足を向けていた。
さして広いわけでもない部屋に、ロッシュの巨体と、運んできた荷物が詰め込まれている。狭苦しい光景だが、部屋の主である女性は、気にする様子もなく隻腕の兵士に相対していた。
「これで、寮の部屋にあった分は全部です」
隅に重ねた箱を指し示して、ロッシュが頭を下げる。酷く散らかっているように見えた部屋だが、書類以外の私物といったら極少なく、木箱二つにも満たなかった。全ての荷物を引き上げた部屋は、前住人の影を残さぬよう掃除され、新たに入ってくる者を待っている。
「有り難うございます。お手数かけて、すいません」
ソニアも、ロッシュに応えて深々と礼をした。彼らは初対面ではない、二年前を初めとして、何度か顔を合わせたことがある。といってもその多くが仕事の都合であり、数少ない私事で会う場面でも、常にソニアの兄を介してのことだった。こうして二人だけ、正面を向いて相対するというのは、殆ど初めてのことである。しかし、その事実に対して心臓を動かす程の余裕は、今の彼らからは失われてしまっていた。
「いえ。隊長には、お世話になりましたから」
ソニアは、たった一人の肉親を失った衝撃から未だ立ち直れず、愛らしい顔を暗く沈ませたままでいる。ロッシュの側も同様だ、恩人であり上司でもある男の死は、任務中以外は明朗な彼からすらも明るさを奪っていた。それでも、故人の肉親を前に自分などが暗くはいられないと、無理に笑顔を浮かべている。
「紙のものもこっちに持ってきちまいましたが、大丈夫ですかね。多分研究の何かだと思うんですが、俺には分からなくて」
不自然なのが明らかな表情ではあったが、その想いはソニアにも伝わっているのだろう。やはりぎこちなくはあるが、それでも笑顔を浮かべて、ロッシュに頷きを返す。
「ええ、勿論です。重いところをお任せしてしまって、すいません」
実際それらは、かなりの量と言ってよかった。内容など分からないロッシュが纏めたものだから、向きを揃えて束ねた程度の処理しかしていないが、その山が軽く四つはある。他の荷物全てと比べても勝るのではないかという量の紙を見て、よくあの部屋に収まっていたものだという思いが、今更ながらロッシュの胸中に浮かんできた。どうやら、散らかっていたと思えたのは、殆どがこれらの資料であったらしい。
ソニアが、ひとつの山の紐を解き、中を覗き見る。ロッシュと違い、研究者としての勉強もしてきていた彼女ならば、内容も理解できるのだろう。
「やっぱり、資料や書類ですね。本当なら持ち出しは厳禁なんですけど、困った人です」
そう言いながら苦笑を浮かべた、ソニアの表情に、ふと寂しげな色が過る。
「これ、ガントレットについての資料ですね」
「え?」
唐突な発言に、ロッシュが目を瞬かせた。そんな彼を横に、ソニアは別の一山を覗き、中身を確認する。
「これも。きっと、殆どがそうだと思います」
反射的にロッシュも視線を走らせるが、やはり彼の頭では、内容を理解することは難しい。だがソニアが言うのであれば、きっとそれは間違いないのだろう。実際、彼があの部屋に居座っていたのはロッシュのガントレットを見るためだったのだから、不自然なことはない。
「機密漏洩には、厳しい人でした。片付けにも。その兄が、あんな――不思議に思っていたんです、でも、少し分かった気がします」
彼はあの部屋で、たった一人、己の研究とだけ向き合っていた。それ以外のすべてを捨てる勢いで、本当にたった一人で。
「兄は、あなたのことを気に入っていましたから」
そしてそのために、ソニアは一人だった。ただ一人の肉親を研究に、いやロッシュとガントレットに奪われ、たった一人で長い夜を過ごしてきた。書類を繰りながら、寂しげな笑みを浮かべているソニアに対しての罪悪感が、ロッシュの心を縛る。ガントレット、今はすっかり彼の一部となった鉄の腕に、密かに力が篭められた。
「あと、これを」
それを気付かれぬよう抑えて、ロッシュは懐から、小箱を取り出す。机の上に投げ出されていた、贈り物の箱だ。ソニアが、状況を理解出来ぬ様子で、数度瞬きする。
「部屋にありました。多分――あなたの、誕生日の」
そこまで説明しても、まだソニアは硬直したまま、瞬きを繰り返すばかりだ。理解が追いついていないのではない、痛い程に力を篭められ、白くなった指の間接からもそれは見て取れる。ただ、動けないのだろう。視線は縫い止められたように小箱に固定されているが、手を出すことも出来ず黙り込むばかりだ。
「生前、隊長が言って……おっしゃって、ました。もうすぐ妹の誕生日だって」
だから、これな貴方のものです。そう言ってロッシュが箱を押しやると、ようやくソニアは指を伸ばし、箱の表面にそっと触れた。
「兄さん」
可愛らしい薄桃色の包装と、それより少し色味の濃い、薄赤のリボン。それらを指で辿り、箱の外形をなぞる。恐るおそると言った様子で箱を手に取り、己の元に引き寄せた。
「兄さん……」
指先が震えている。いや、指だけではない、一抱えに出来そうな華奢な肩もだ。瞼はぎゅっと閉じられていた。だが努力の隙を潜り抜けて、堅く封じられた隙間から涙が滲み出し、滴となって顎に伝う。
ロッシュはそれを、為す術も無く見詰めていた。
「兄は、毎年」
瞼を閉じたままのソニアが口を開く。その声はやはり震えていたが、口調ははっきりとしていて、取り乱した様子も無かった。
「私の誕生日には、贈り物をくれていたんです。ずっと小さな頃から、毎年欠かさずに」
気丈な人だ、ロッシュはそう思う。葬儀の時もそうだった、我を忘れて泣きじゃくっても仕方がない場面で、彼女は凛と立ち尽くしていた。涙は零れている。だがそれとは別物のように、揺るがない言葉を紡いでいる。
「私も、兄の誕生日には、お返しの贈り物を用意して。ずっと、続けていたんです。――忘れないで、いてくれたんですね」
あるいは彼女も、一人の時には泣いているのかもしれない。耐えることなく泣いて、泣きわめいて、だからこそ今はこうして話していられるのだろうか。
そうであって欲しいと、ロッシュは思う。折れることを己に許さず立ち続けているとしたら、あまりに辛すぎる。ソニアの華奢な双肩に、それは重すぎるように思えた。
「隊長は、ソニアさんのことを何より大切に思っていました。いつでも」
「……有り難うございます」
ソニアの瞼が開き、その拍子に溜まった涙がぽろりと零れた。
「最後の贈り物、ですね」
ぎこちなく、悲しげな、それでも微笑みの形をした表情が浮かぶ。その顔を見た瞬間、考えるよりも早くロッシュは口を開いていた。
「――そんなことは無い!」
きっと彼女の兄も、妹のそんな顔だけは、見たくなかっただろう。二年前の敗戦以来何処かを変えてしまった上司が、それでも妹のことを語る時だけ昔と同じ顔を見せるのを、ロッシュはよく知っていた。大切な二人きりの肉親なのは、当然彼の側でも同じことだ。そんなソニアを苦しませるのを、彼が望む筈が無い。
「最後だなんて、んなことは無……ありません。隊長は、来年も再来年も、ずっと貴方に贈り物を渡すつもりだった筈です」
「……はい。でも、もう、兄は」
「俺が、代わりに」
死した上司が彼に何を望んでいるか、ロッシュには分からない。あるいは、大切な妹に血生臭い軍人が近づくなど、許したくも無いのかもしれない。だが、今この場で流れ続ける涙を、止めなくてはいけないと思ったのだ。そしてそれは、生き残ってしまった自分の役目なのだと。
「代わりに、贈ります。隊長の代わりに、あなに贈り物を」
その台詞が、余程以外だったのか。あるいは単に勢いに圧されているのか、ソニアは言葉も無く口を開き、数度瞬きをして、ロッシュを見詰めた。
「俺じゃ隊長の代わりになれないのは分かってる、いや、分かってます。だから隊長の代理として、隊長が贈れなかった分も、俺が用意しますから」
立ち上がって迫りかねない勢いで語るロッシュが、実際に動かなかったのは、単に椅子が小さくて大きく動くのが難しかったためだ。そうでなければ椅子から立ち、左の義手を差し伸べていただろう。
「あの人は、俺に全部をくれました。左腕も、戦う力も、居場所も、生きる意味も」
左腕を失い、戦う力を無くし、軍からも追い出される筈だった。それら全てを取り戻したのは、上司がロッシュに与えたガントレットだ。あるいはそれは、彼が自分の研究を進めるための実験だったのかもしれない。だがそうだとしても、ロッシュにとってこの左腕はまさしく救いであり、他の全てと彼自身を繋ぐ鎖だった。
「今更どうしたって、あの人には恩を返せません。あの人はもう――居なくなっちまいました」
ずっと考えていた、与えられた恩を返すために、何をしたら良いのかを。研究に協力し、軍で戦果を挙げ、それでもまだ足りないと思っていた。足りないまま、相手は死んでしまった。
悔しいのか、悲しいのか、苦しいのか。整理できない感情が、ロッシュの胸の中にはわだかまっている。
「だからその分は、あなたに返させてください。隊長が一番大切に思っていたあなたに、隊長がしたかった筈のことを、俺が代わりに」
それが本当に正しいのかどうか、ロッシュには分からない。だが目の前の女性が泣き続けることを、彼の恩人は、絶対に望まないという気がした。天板の上で、右の拳が握りしめられる。ソニアはその手を見て、左腕に視線を落とし、やがてロッシュの顔を見た。涙の膜を通して、茶の虹彩がロッシュに向けられる。瞬きと共に、ころりと涙がこぼれ落ちた。
「いや、その、迷惑かもしれませんが」
その視線に、ロッシュの理性も少しばかり働きを取り戻し、省みた己の言動に一気に顔が赤くなる。大男が首までを朱に染めた姿に、ソニアは驚いた様子で目を見開いて、そして少しだけ笑ってみせた。
「有り難う」
強がってのものではない、かといって儀礼的なものでもない、心からの微笑。それはきっと、彼女の兄が生きていた頃には、いつでも見られたものだったのだろう。魅力的な、こんな時であっても目を奪って離さない笑顔に、ロッシュは困惑して俯く。
「すいません、勝手なことを」
「いえ、そんなことはありません。嬉しいです」
ソニアもふと気付いた様子で、手巾を取り出し、頬に刻まれた筋を拭き取る。新たな涙が零れる気配は、取り敢えずのところ無くなったようだった。ロッシュの心に安堵が満ち、同時に強烈な羞恥と、申し訳なさがこみ上げてくる。ロッシュの真意はともあれ、兄の死につけ込んでソニアを口説いているのだと、そう責められても言い訳の出来ない状況だ。上司のためにと思いつつ、当の上司が見たらどう受け取っただろうかと、今更ながらに冷や汗が流れる。
「私、もう、本当に一人だから」
とはいえソニア自身は、下心の存在など疑ってもいない様子だったが。少しばかり遠慮がちな、だが親愛の篭もった笑顔を、ロッシュに向けてくれている。
「両親はもうずっと昔に他界してしまって、兄だけが私の家族だったんです。その兄も居なくなってしまって、もう誰も居なくて――寂しくて。だから、嬉しかった」
手にした箱を、ソニアは優しく握り締めた。柔らかな表面を、先程までとは違う強さで撫でる。
「誰かが誕生日をお祝いしてくれるなんて、この先無いんだと思ってました」
「……そんなこと、あるわけが無い」
微笑むソニアに、ロッシュは心からそう言った。自分が傍に居るという気持ちが半分、そしてそう遠くない未来に、彼女が伴侶となる男性を見付けるであろうという確信が半分。十六になったとはいえ未だ少女の域を抜けきれていないソニアは、傍らに居るといったら兄のような家族しか思い浮かばないようだが、本来その役割を負うべきは彼女の恋人だ。魅力的な彼女のこと、そんな存在は直ぐに見付かることだろう。
自分の役目は、命を落とした上司の代わりに、それまで彼女を守ること。そう、ロッシュは自分に言い聞かせる。
「はい。有り難う、ございます」
ソニアは、ロッシュの決意など知らぬ様子で、はにかんだ笑顔を浮かべている。そうして笑っている彼女は、普段の大人びた様子と異なり、年相応に可愛らしかった。涙の気配も、今はもう感じられない。
「そうだ。それなら、ロッシュさんの誕生日も教えてください」
「へ?」
その笑顔を眺めていたロッシュは、予想の外から投げられた問いに、不意を付かれて目を丸くした。
「兄とはいつも、贈り物を交換していたんです。だから、ロッシュさんが私の誕生日を祝ってくれるなら、私もお返ししないと」
「え、いや……それは良いですよ。俺なんかは良いから、隊長のお墓に供えてあげてください」
「駄目、兄は兄、ロッシュさんはロッシュさんです。ね、いつなんですか」
先程までとは打って代わって、楽しげに詰め寄るソニアに、ロッシュは困惑して視線を彷徨わせる。考えてもいなかった問いに、口から妙な呻き声が漏れた。別段隠すようなことでは無いが、ロッシュにとって自分の誕生日など、もう長い間意識から外れていた情報だ。有り体に言ってしまえば、すっかり忘れてしまっている。
「いや、ええと」
困りきったロッシュが言葉を濁すと、今度はそれを拒絶と取ったのか、ソニアが顔を曇らせてしまう。
「そのっ、俺のは、もう過ぎてますから」
「あら、そうなんですか?」
「ええ、そう、そうなんです。ついこの間、終わったばっかりで」
「まあ! それじゃあ急いで用意しないと」
適当に誤魔化そうと作った言葉だが、返った反応はロッシュが考えていたものとは大分違っている。一年も間を置けば忘れてしまうだろうという目算は、どうやら外れてしまったらしかった。何にしようか、と考えを巡らせているソニアの様子に、ロッシュはどうして良いか分からず身を小さくする。自分はあくまで隊長の代役なのだと思い、だがそれを念押しするのも拒絶と受け取られるのではないかと考え、口を開こうとして止めて。
「ふふ。何だか、本当に、兄さんといるみたい」
そう呟いたソニアの声に、何度目かに開きかけた口が、そのまま停止した。意識してかどうか、ソニアの視線は、ロッシュの左腕に注がれている。いや、『ロッシュの左腕』ではない。そこにある、ガントレットに。
当たり前だ、態々確認する間でもなく、自分はただの代理だ。ロッシュは少しだけ苦笑しながら、狭い空間に苦労しつつガントレットを持ち上げ、机の上に乗せた。
「隊長は、います。ここに」
ソニアはそれを見詰め、そっと表面に触れる。鉄の塊であるそれに微細な触覚などがある筈も無いが、何故かロッシュの感覚には、仄かな暖かさが伝わってきた。
「兄さん」
ソニアの細い指に篭もる、柔らかな熱。例え錯覚だとしても、ガントレットに触れるそれを守るために自分は居るのだと、ロッシュは自らに言い聞かせる。
彼女の傍らから、兄の存在を消さないために。
この笑顔を、守るために。
「――そうそう。それから」
ぱっと顔を上げたソニアと視線がかち合い、慌ててロッシュは目を泳がせる。
「その敬語も止めてください。私の方が年下なんですから」
「へ? あ、いえそういうわけにも」
そしてその隙を付いてソニアが発した主張に、ロッシュの顔がまた困惑に染まった。年下とはいえ、ロッシュにとって彼女は、上司の妹である。自分の粗雑な態度が失礼になってはいけないと、そう考えるロッシュの心配は、ソニアにとって完全に無用の長物のようだった。
「駄目です。寂しいじゃないですか」
「さ、寂しい?」
「ええ、折角また家族が出来たと思ったのに」
子供のようにむくれるソニアの顔は、きっと本来彼女の兄に向けられるべきものなのだろう。兄の代わりに、そう言ったのはロッシュ自身だから、まさかそれを拒むわけにもいかない。とはいえ喜々として距離を詰めるのも、様々な葛藤が邪魔をして出来ず、自然とロッシュの顔には引き攣った笑いが浮かぶ。
「でも、それじゃあ隊長に申し訳ないですから」
「何言ってるんですか、兄の代わりなんでしょう? そんな言葉遣いじゃあ、兄が怒りますよ」
いやそれはどうだろう、とロッシュは内心で呟く。傍から呆れられる程妹を溺愛していた男だ、慰めて友人になるのはまだしも、そこまで親しくなってしまうのは許さないのではないだろうか。ロッシュはちらりとガントレットを見るが、当然ながらそれは動きも喋りもしない。鉄の腕は、あくまでロッシュの一部であり、上司の代理はしてくれないのである。
「それとも、さっきの言葉は嘘なんですか」
どうしても躊躇いを無くせないロッシュに、ソニアが寂しげに呟き、視線を俯かせる。――そんな仕草を、恐らくは意識もせずにしてしまうあたり、彼女も女ということなのだろう。こうなったらもはや逆らうのは不可能だと、ロッシュは諦念の嘆息をかみ殺し、不器用な笑みを浮かべた。
「そんなつもりは無いです。……ええと、それじゃあ、分かりました」
「分かって無いじゃないですか」
「う……じゃあ、ええと、分かった」
「はい」
観念したロッシュが頭を掻くと、応えるようにソニアが明るい笑顔になる。
「ロッシュは丁寧な言葉遣いが苦手だって、兄から聞いていました。無理せず、普通に話してください」
「苦手ったって、そんな全く分からないってわけじゃ無いんですが……」
「ほら、また戻ってます!」
「っと、すいませ、いや……すまない」
厳しく睨みつけられるロッシュの顔は、既に限界まで赤い。それが可笑しいのか、ソニアが可愛らしく笑い声をあげた。その姿は、ロッシュも知っている十四歳の彼女と同じようであり、全く異なるようでもある。ソニアの目に、これまでに無かった親しさを感じた気がして、ロッシュはふと苦笑した。かつてロッシュは、彼女に恋をしていたことがあった。左腕と共に亡くしたと思っていた衝動が頭をもたげ、直ぐに打ち消される。
兄代わりなのだ。本当の兄にはなれずとも、肉親の親しさで彼女を支え、それによって上司の恩に報いる。そう決めたのは、ロッシュ自身だ。
「ソニア」
意を決して名を呼ぶと、さすがにソニアも顔を赤くし、だが直ぐにまた親しげな笑みに戻る。子供のような親愛を向けられ、喜びだけでない想いを抱えながら、ロッシュはぎこちなく笑ってみせた。
セキゲツ作
2013.08.13 初出
RHTOP / TOP