ラウルがその里を訪れるのは、これが初めてのことだった。歩いても一両日中には辿り付ける距離だが、道の長さ以上に、両国の間は隔たってる。人を疎んで張られた結界の内に、こんな事態でも無ければ、入り込むことはまず出来なかっただろう。現状に余計な余裕など無いと理解して、それでも抑えきれぬ感慨を以て、ラウルは里の中を眺める。
 周囲に人の気配は無い。それとも、ラウルの姿を見て、近寄るまいと逃げ出してしまったのか。そうだとしても文句は言えない、サテュロス族の人間に対する敵意は、つい先程エルムに教えられたばかりだ。アトの善意で里に入ることは許されたが、他の者達にも好意的な対応を望むのは、過ぎた贅沢というものだろう。
 姿を見せるだけで良い顔をされないのならば、族長の部屋で休んでいれば良い。だがそれでもラウルはこうして、セレスティアの中を歩いていた。話し合いで疲弊した気分を入れ替えたかったのもあるし、単純に初めて来る場所への興味もある。周囲に鬱蒼と広がる森は、アリステルでは既に見られないものだ。丘を越えて直ぐの場所なのだから、植生自体が大きく異なるわけではない。だがアリステルは、地表を削り、鉄で固めた魔動機械の都市だ。森と共に生きるセレスティアに対して、その姿勢は真逆である。あるいはセレスティアがアリステルとの国交に応じようとしなかったのも、そのあたりに原因のひとつがあるのかもしれなかった。
 そしてこの森の中に、彼ら、祖国に追われたラウルの部下達は隠れていたのだ。ストックとロッシュがアリステルから姿を消した時、驚きこそしなかったが、密かに覚悟をしたことを思い出す。彼らが二度とアリステルに帰らず、戦線から離脱してしまうこと。あるいはこのまま命を落とし、歴史の闇に消えてしまうことを、あの時ラウルは覚悟していた。それだけ絶望的な状況だった、国を牛耳る支配者に牙を向けられ、片方が瀕死のまま逃げ出した彼らが、何事もなく無事だと考える方が愚かだろう。ソニアの助けを借りられたとしても、それはあまりに絶望的な戦いだった筈だ。だが、彼らは生きていた。予想も付かなかった場所に潜み、今も戦い続ける姿を示してくれた――少なくとも、ストックに関しては。
 彼はどうなのだろう、敗戦による大きな怪我を負い、生死の境を彷徨っていた彼は。ロッシュも共にセレスティアに居ることは、ストックの口から聞かされていた。だが詳細なことは分からない、意識も戻らぬまま連れ出された彼が、今どんな状態であるのか。少なくとも彼は、話し合いの席に姿を現してはいない。
 ふと、誰かの声が聞こえた気がして、ラウルは足を止めた。周囲を見渡し、そこがいくつかの道が交わる分岐点であることに気付く。進むべきか戻るべきか、一瞬の思考が頭を満たす。だがそれが答えを出すよりも早く、ラウルの耳と目に、新しい情報が飛び込んできた。
「ラウル中将」
 呼びかけてきたのは、女性の声だった。それが発せられた方向に目を向けると、複数ある道の一本から、見知った姿が歩み出てくる。ソニアだ。ストックとロッシュと共に姿を消した彼女は、やはりこのセレスティアに身を寄せていた。変わらぬ可憐な笑顔は、しかし少しばかりやつれているようにも感じられる。彼らの辿った道程を考えれば、それも当然ではあるのだが。
「ソニア君。久し振りだね」
「はい。中将も、ご無事で何よりです」
 背筋を伸ばし、真っ直ぐにラウルを見詰める姿を見ていると、ここが未だアリステルの研究所であるかのようにも感じられる。ラウルは、固まっていた表情を笑みに変えて、彼女に向けた。
「それはこちらの台詞だよ。君たちが揃って姿を消した時には、本当に肝を潰したものだ」
「申し訳ありません、お声をかけて行くことができればよかったのですけど。あの時は余裕が無かったんです、私もストックに連れ出されるまで、アリステルを出るなんて考えてもいなかったものですから」
「それはそうだろうね。意識も戻らない怪我人を連れて逃げ出そうなんて、考えるのはストックくらいしか居ないだろう」
 本音混じりの軽口に、ソニアが微笑む。その笑顔は、何処か硬さを残しているように感じられた。
「まあ、それをやり通してしまうのも彼なんだけど。とにかく、無事で良かったよ」
「運も良かったんです、危ないところでここの住人に見付けてもらって。あの時ガフカさん達と会わなければと思うと、今になって冷や汗が出ますわ」
「そうだね、本当に無茶だったよ。けど、その無茶をさせたのは僕だからね……今更謝っても仕方ないけど、本当にすまないと思っている」
「そんな。中将が謝られることではありません」
 そう言いながら、ソニアはやはりラウルを見詰めている。その瞳に宿る光の意味を計りかねて、ラウルは僅かに視線を逸らした。
「そんなことはない、ロッシュがあれだけの怪我を負った責任の一端は、間違いなく僕にある。僕は、ヒューゴが危険だと分かっていながら、彼の暴走を止められなかった」
 ラウルに気をつけろと、かつて彼はストック達に伝えた。だが伝える以上のことは出来なかった、部下に向けて張り巡らされた陰謀を、看破すべきは彼の役目だったのに。
「ラウル中将」
「すまない。本当に」
 率直に頭を下げる、その気持ちの九割までは本音だが、何処かにソニアの視線を恐れる気持ちもあった。その衝動をソニアが理解しているかは分からないが、発せられる彼女の声は、やはり静かで落ち着いたものだ。
「中将だけのせいではありません。それに――もう、終わったことです」
「けれど」
「ロッシュは生きて帰ってくれました。部下の方々は可哀想なことになってしまいましたが、少なくともロッシュだけは。私には、それで十分です」
 ひどい女ですね、とソニアが自嘲した。ラウルはそれに同意する気にはなれない、彼女がロッシュを愛していることは、関わりの薄い彼であっても知っている。勿論、ロッシュがそれと同じ気持ちを持っていることも。ラウルが顔を上げると、静かに微笑むソニアと目が合った。
「ロッシュは、もう戦えないでしょう。あれ程の怪我を負ったんですから」
「ということは、後遺症が?」
 ラウルの問いに、ソニアは首を横に振りかけ、思い直したようにそれを首肯に変える。曖昧なその動きに、ラウルは疑問を浮かべた。
「どうなんだい、確かにあれだけの無茶をしたんだ、何かがあってもおかしくは無いけど」
「……ロッシュは、この先に居ます」
 指し示されたのは、ソニアが歩み出てきた道だ。里の深部へと続いているようで、見える範囲ですら、濃い緑が一層濃く茂っている。
「結界樹と呼ばれる、サテュロス族の聖地に通じています。ロッシュはよく、そこに居るんです」
 言われて、ラウルは道の先を見詰める。だがいくら見ても、木々が塞いだ視界を透かせる筈も無く、見慣れた大きな姿を見付けることはできない。この道を進み、彼の元に辿り着かない限りは。
「行ってあげてください。そして、ロッシュに会ってください」
 重ねて促されても、ラウルは動けずに立ち尽くしたままだ。そんなラウルを、ソニアは微笑んで見詰めている。
「ラウル中将」
「いや……だが、怪我をしているのなら、負担をかけるわけには」
「大丈夫です、体力の方は戻っていますから、人と話すくらいは問題ありません。レイニーさんもマルコさんも会いに来てくれましたし、今もストックと話をしていると思います」
「ストックが行っているのかい? それなら尚更だ、僕が邪魔をしない方がいいんじゃないか」
「そんなことは、気にしないでください。ロッシュはラウル中将のことを心配していました、お顔を見れば安心できます」
 ソニアに言われずともラウルには分かっていた、ロッシュは優しい男だ、上司の顔を見て嫌な顔はすまい。例えそれが、自分と自分の部下を守れなかった人物であろうとも。だが、だからこそ、会うのが辛い。
 ソニアはやはり、そんなラウルの葛藤を理解しているのだろう。微笑みを崩さぬまま、会ってください、と繰り返す。
「ロッシュに会ってください。あなたは、ロッシュに会うべきです」
「勿論会うさ、だが、今でなくとも」
「どうしてですか?」
「今は、まだ状況が落ち着いていない。族長との話し合いも終わっていないしね、とにかくそれが終わってからでも」
 ソニアは黙って、ラウルを見続けている。その表情はずっと笑みの形に固定されていたが、瞳には底冷えのする光が宿っていた。それは怒りにも似た、強烈な感情を示している。
 あるいは本当に怒りなのかもしれない、そうラウルは考えた。ロッシュはきっと自分を責めない、だがソニアはどうだろうか。愛するものを死の淵に追いやり、彼女の言が正しければ二度と戦えない程の痛手を与えた、そんな相手を憎んだとしても不思議ではない。
「そうしてまた、ロッシュを戦わせるんですか」
 ラウルの考えを裏付けるように、彼女の声は、笑顔と裏腹に冷たい。行けと言ったのは彼女なのに、ロッシュへと至る道を塞いでいるのもソニア自身であるように、ラウルは感じる。二人が並んで十分歩ける程の広さの道だが、彼女がそこに立っている限り先には進めないように、ラウルには思えた。
 全て、錯覚だ。あるいは言い訳だ、ロッシュに会いたくないラウルの脳が発する否定が見せる、虚構の感覚に過ぎない。
「セレスティアも、戦場になるんですよね」
「それはまだ分からないよ」
「いいえ、なります。もう既に、アリステルはこの里を見付けてしまっています」
 それはラウルも知っている、彼らが到着した時に、自警団と交戦していたアリステルの部隊が居た。そしてほんの少し前に、その事実を以て族長に参戦を迫ったのは、他ならぬラウル自身だ。いやそれが無くとも、ラウルやストック達がここに居ることだけで、開戦の口実になる。サテュロス族達が望むか否かに関わらず、戦争への端緒は開けてしまっている。
「だからあなたは、ロッシュに会うべきです。あの人に、もう一度戦えと命じる前に」
 ソニアはそれを理解している、そしてその先のことも。殆どの戦力を失ったラウルが、僅かに残った手駒としてロッシュを動かそうとすることを、彼女は分かっているのだ。
「会って、その目で見てください。あなたの導いた敗戦で、ロッシュがどれだけ傷ついたか」
 ラウルの拳が、強く握り締められた。ソニアの言葉は正しい、ロッシュを死の縁に追いやったのは、間違いなくラウルだ。だからこそラウルは、ロッシュに会うことを拒んでいる。
「それをしないで、ロッシュを戦わせることは許さない。例え貴方であろうとも」
 既視感を覚えて、ラウルは目を瞬かせた。これで二度目だ、と心の一部が呟く。ロッシュを殺し掛けたのも、それを誰かに詰られるのも、これで二度目のことだ。ソニアの強い視線が、懐かしい記憶と重なった。よく似た兄妹だ、感慨が場違いに脳を焼く。
 一度目と違うのは、ロッシュを戦わせるなと主張していたのが、ラウルの側だったことだ。
「もう、これ以上ロッシュを利用しないでください。お願いだから、あの人をそっとしておいて」
 悔恨がラウルの胸に兆す、あの時何と言われようとも、彼を止めるべきだったではと。そうすれば、ロッシュがもう一度死を覗くことはなかったし、こうしてソニアが苦しむこともなかった。だが時は巻き戻せない、あの時の選択をやり直すことはできないのだ――ラウルにも、彼にも。
 そして今の状況は、あの時とは違う。これから始まる戦いの帰趨は、アリステルだけでなく、世界の運命にすら関わってくる。傷ついた男を安らかにさせておくような、甘えた余裕は存在しない。ラウルは息を吸い込み、吐き出した。
「彼に戦ってもらうかどうかは、まだ分からない」
 そして口から零れたのは、考えていたのとは全く異なる言葉だ。逃げ出すような物言いに、ソニアの目が厳しい光を帯びる。
「セレスティアが戦力を提供してくれるかどうかも、まだ未確定だ。さすがに僕も、率いる部隊が無いのに戦うことはできない」
 実際それは逃げだった、決断を先送りにするだけの、単なる言い訳だ。ロッシュを戦わせるべきだと思っている、だがそれを命令するだけの強さを持っていない。まして会ってしまえば、己が導いた彼の苦しみを目の当たりにすれば、三度目の命を捧げろと彼に言えるわけがない。ラウルの言葉に、ソニアはなにも言わなかった。ただ黙って、親程に歳の離れた男を見詰めている。
「その時が来たら。その時が来たら、僕は彼に」
 会いに行く、と言いたかったのか。それとも、戦いを命じるつもりなのか。それのどちらも本音ではない気がして、ラウルは中途で口を閉ざす。眠ることは止めたつもりだ、多くの大切なものを奪ったヒューゴと対決する覚悟で、彼はここに居る。だがその為に、既に大きな犠牲を払ったロッシュに、戦えと言えるのか。チェスの駒を動かすように、大儀を果たすために死地に赴けと、命じることができるのだろうか。
 ラウルは息を吸い、視界を覆う緑の中に、視線を泳がせた。
「そろそろ、時間だ。ベロニカ殿の心も決まったことだろう」
 そうラウルが言っても、やはりソニアから返る言葉は無かった。責めるでもない、淡々とした強い光から、ラウルは顔を背ける。
「僕は行かないと。アリステルのために」
 そして、世界を救うために。間違った力に支配され、本来の姿を撓められた祖国と世界を救うために、戦えるのは今のところラウルのみだ。盾のように掲げたその事実に隠れ、ラウルは辛うじて笑顔を浮かべる。
「ロッシュによろしく言っておいてくれ。会談が終わったら、会いにいくから」
「――ええ」
 その態度に、ソニアが好意的な感情を持った筈も無いが、それを明らかにする程無分別ではない。変わらぬ調子で静かに微笑み、小さく頭を下げる。
「お待ちしています。ロッシュも、待っていると思います」
「ああ。僕も、彼に会えるのを楽しみにしているよ」
 あまりに虚ろなその響きに、ラウルの口元に自嘲が浮かんだ。それを隠すように踵を帰し、元来た道を戻って行く。ソニアの視線が追いかけてくるのを感じながら、ラウルは振り返らずに歩き続けた。彼女に言える言葉は、今はもう何も無い。己の弱さを自覚しつつ、ラウルは足を止めることが出来ない。進まなければならないのだ、例え不適格であろうとも、今ここに居るのはラウルのみなのだから。誰を苦しめても、非道を貫いても、大儀を遂げなければならない。それが、彼に許された唯一の道だ。
(けれど僕は、本当に)
 言い聞かせる一方で、密かに呟く声がある。本当にそれが出来るのか、全ての情を捨て去り、ロッシュを再び戦わせることが出来るというのか。幻のように、懐かしい顔が過った。彼ならば一体どうするだろう、あの時最後までロッシュを諦めなかった彼は。彼が一言戦えと言えば、きっとロッシュは立ち上がるのだろうが。
 人の声も無い静かな森の中、ラウルは繰り返し問い続けていた。
 答えの見付からぬまま、足を止めることも出来ず、ただ繰り返し。

 繰り返し――






セキゲツ作
2013.06.29 初出

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