「一体、何だっていうんでしょうか」
 すっかり立腹したマリーを宥めながら、エルーカは天幕の中を見回す。一帯にたてられた中で最も大きなそれは、中を臨時の貴賓室に仕立て上げられていた。野外なのだから限界はあるが、それでも随分と整えられた内装に、エルーカは感心して息を零す。女王ではあるが、それ以前には長い不遇をかこっていた彼女のことだ。通された先が城ではなく天幕であるという、その程度のことで動じたりはしない。侮蔑の証として成されたことなら別だが、この場所からは、相手に対する敬意が十分に伝わってきていた。
「他国の女王が訪問しているというのに、首都に入れもせずに足止めだなんて。こんなおかしな話はありません」
 しかし問題はそもそも、何故彼らアリステル城に招かれず、首都を目前にしたラズヴィル丘陵に留めおかれているのかということだ。今回の訪問は、第三国の絡んだものでこそないが、一応は公式に連絡を入れての表敬訪問である。小規模ではあるが護衛の一部隊も連れてきており、その全員がここで足止めされているというのは、確かに異様な状態と言えた。
「マリー、落ち着いて。アリステル側にも、何か事情があるのでしょう」
「当たり前です、事情も無しにエルーカ様を拘束するだなんて、絶対に許されませんよ」
「口が過ぎますよ、マリー。状況がはっきりしないうちから、友好を疑うような態度を取ってはいけません」
 激昂し、落ち着き無く歩き回るマリーを、エルーカは些か呆れながら諫める。長い間献身を尽くしてくれている彼女だが、それが故の結果として、家臣としての立場以上にエルーカとの距離は近かった。それがあるから、使用人が口にしては問題のある言葉も、気軽さ故に発してしまう。この場に他人が居なくて良かったと、エルーカは胸をなで下ろしながら、取り敢えず用意された椅子に腰掛けた。
 マリーもそれで、主君を立たせたまま話し込んでいたことに気付いたのだろう。大慌てで置かれたままの茶器を手に取り、紅茶の準備を始める。保温されているポットから茶葉の上に湯を注ぎ、しばし蒸らしてからカップに注ぐ、その仕草は堂に入ったものだ。
「この場に居るアリステルの人々は、皆随分とあわてているようでしたね」
 マリーが淹れてくれた紅茶を飲みながら、エルーカは考えを巡らせる。エルーカの訪問を知らせていたにも関わらず、迎えに出た者は全く不慣れな様子で、女王と従者をこの天幕に導くので精一杯のようだった。普段であれば当然、首相か将軍か、国でも地位の高いものが現れて女王への敬意を示すものだが。
「そうですね、案内してくださったのも外務の者では無いようでしたし」
「人員の配置にも気が配れぬ程、混乱が起こっているのかもしれませんね。城から離れてこの丘陵に陣を張っているのも、本来の予定に無いことなのかも」
 エルーカも全体像を把握しているわけではないが、アリステルの旗を掲げた天幕は、丘陵の一帯広くを埋めているように思われる。これだけの規模の人間が動くとなれば、十分な計画と共に成されなければおかしいのだが、女王を迎えた際の反応は明らかに混乱を孕んだものだった。
「彼らにとっても不測の事態が発生して、首都から離れた場所で待機せざるを得なくなっているのかもしれません」
「それはそうかもしれませんが、一体何が起こって……まさか、は、反乱軍が決起したとか」
 安定し切らぬ国を抱えているという面では、グランオルグもアリステルも大差無い。今まで幸いにして表に出ていなかったが、現在の政権を不満に思う者が行動を起こしたというのも、考えられない話ではなかった。だが、エルーカはそれを、首を振って否定する。
「それにしては、対応に緊張感が欠けています。ここに居るのも、軍人ばかりでは無いようですし」
「ああ、それは確かにその通りで御座いますね。案内してくださったのも、普通の女性でいらっしゃいました」
「だから、緊急と言っても軍事的なものでは無いのでしょう」
 恐らくは軍で使っているであろう天幕が密集し、しかしそこを闊歩するのは、軍人に限らぬ一般の市民達。立ち居振るまいから考えて、全くの民間人ではなく行政の関係者が多いようだったが、それにしても不可思議な光景であることに変わりは無い。
「一体、何が起こっているのでしょうか」
 二人が首を傾げていると、その耳にまた、新たな物音が飛び込んできた。歩行の音と、複数人の話し声。彼女らの居る天幕に近づいているのだと、気付いた瞬間には、入り口の布が開かれていた。
「では、申し訳ありませんが、こちらでお待ちください」
「はいなの。――あれ、エルーカ?」
 エルーカ達と同じく、案内に導かれて入ってきたのは、アトとエルムの二人組だ。予想外のところで出会った予想外の顔に、四人はそれぞれ目を丸くする。
「アトちゃん。どうしてここに」
「それはこっちの台詞なの! アトは、セレスティアに帰る途中なの」
「シグナスから戻るついでに、アリステルに顔を出しておきたいと、アト様がおっしゃられまして。それで足を向けたのですが、町に入る前に何故か、こうして拘束されてしまったわけです」
「エルム、アトは別に捕まったわけじゃないの」
 国は違えど、主従で自分達と似た発言を交わし合う二人に、エルーカがくすりと微笑を零す。
「私たちも、似たような事情です。視察のついでに表敬訪問を計画していたのですが、こちらの場所で足止めされてしまっているのです」
「お二人とも、よろしければ紅茶をお入れいたしますが」
「はいなの! エルムも、座るの」
「いえ、私はこちらで。アト様、どうぞお座りください」
 入り口付近に位置を定めたエルムに促され、アトが椅子に腰を下ろす。大人用のそれはアトにとって少しばかり大きく、足先は床に着かずに浮いてしまっていた。ぶらりと投げ出した脚の、蹄が打ち合わされ、妙に牧歌的な音が響く。それはサテュロス族にとって行儀の悪いことのようで、彼女の背後では、エルムが渋い顔をしてアトを睨んでいる。
「アトちゃんも通して貰えなかったのね。本当に、何があったのかしら」
「わかんないの。もうすぐビオラが来て、説明してくれるって言ってたの」
「ビオラ将軍が? こちらに駐屯していらっしゃるのですか」
「そのようですね。状況は分かりませんが、取り敢えずは連絡があるまで待っているのが無難でしょう」
 そう言うエルムの表情は、厳しくはあるが、過度に緊張したものでもない。以前は、人間自体に対して強い敵意と警戒を抱いていた彼女だが、国同士の交流が始まってしばらく経つ今、随分と悪感情は軽減してきているようだった。室内を見渡す視線はむしろ物珍しさを孕んですらいて、徐々に育ち始めた人間への興味を、それとなく示してくれている。
「そうですね。態々部屋も用意してくださったことですし、少しゆっくりさせて頂きましょうか」
 エルーカの寛いだ態度もまた、戦争中であれば絶対に考えられなかったものだ。それを自覚しているエルーカは、密かに嬉しげな微笑を浮かべ、マリーの淹れてくれた紅茶を口に含む。アトもそれに倣い、淹れたての紅茶を飲みつつ、供されている菓子を頬ばった。
 ――会話が途切れ、茶器の立てる微かな音が、室内に響く。相変わらず外からはが慌ただしい気配がするが、分厚い布に遮られて、耳を澄ませてもはっきりとした内容は分からない。マリーは少しばかり落ち着かなげに、何度も入り口の方を見遣っていたが、やがて諦めたのか視線をエルーカに固定させた。
「……退屈なの」
 菓子を食べ終わったアトが、口を尖らせてぼやく。と、それに応えたわけでもないだろうが、天幕の外からかけらっる声があった。
「大変お待たせ致しました。アリステル軍大将、ビオラです」
 凛とした響きに、知らず一同の背筋が伸びる。
「――お待ちしておりました。どうぞ、お入りください」
 一瞬視線を見交わし、エルーカが代表で言葉を発すると、直ぐに入り口の布が開かれる。入ってきたのはビオラともう一人、生真面目そうな年若い青年だった。ビオラと共に一礼し、彼女の後に付き従うようにして、少し後ろの位置で足を止める。妙に青ざめた顔を、緊張以外の何かで硬く強張らせた様子が妙で、エルーカは密かに首を傾げた。
「エルーカ女王にアト殿。この度は、ご説明も無くこのような場所に留まっていただき、誠に申し訳ありませんでした」
「いえ、お気になさらないでください」
 しかしビオラが話始めれば、エルーカの意識もそちらへと移る。開口一番、謝罪と共に頭を下げたビオラを、エルーカは立ち上がり穏やかに制した。
「皆さんのご様子を拝見していても、何か並々ならぬ事態が起こっているのは分かります。むしろそのような時にお手間を取らせてしまい、申し訳ありません」
 友好的で、怒りを見せることのないエルーカの態度に、ビオラは少し安堵したようだった。軍人として戦場を駆け抜け、男女を問わずに普通の人間ならば考えられない程の胆力を持つ彼女が、こうもあからさまに動揺を示しているのは珍しい。不思議そうに首を傾げるアトと、そこまで堂々と表には出さないが密かに疑問を浮かべるマリーとエルムに、ビオラはちらりと視線を投げる。
「おっしゃる通り、少し面倒な状況になっていましてね。今アリステル城は厳戒態勢にあり、限られた人間しか出入りを許されない状態なのです」
 厳戒態勢、という厳しい単語に、一同の目が丸くなった。アトが勢い良く立ち上がり、ビオラに詰め寄る。
「ビオラ、どういうことなの。また、戦争になっちゃうの?」
「いや、それは有り得ない。軍事的な問題が起こっているわけではないから、安心してくれ」
 ビオラがその頭を撫で、優しく微笑むと、アトはまだ不安げながらも取り敢えずは落ち着いたらしい。口を尖らせてはいるが、言葉は発せずビオラの説明を聞く体勢になっている。ビオラは、アトとエルーカを促して椅子に腰掛けさせると、自らも同じ卓についた。
「キール秘書官。説明を頼む」
 ビオラに声をかけられた青年が、頷いて一歩前に出る。名を聞いてエルーカも思い出した、彼はストックの親友であるロッシュの、秘書を務める男だ。国際会議の場において何度か、そしてその後の極個人的な集まりにおいても一、二度、目にしたことがあった。
 直ぐに気付かなかったのは、彼の纏う空気があまりにも暗澹としており、以前に見た姿と雰囲気が違いすぎたからだ。悲壮、とすら言って良い様子のキールに、大事の気配を感じてエルーカは身を硬くする。
「では、アリステル首都において現在発生している問題について、自分がご説明させて頂きます」
 キールも隣国の女王を前にして緊張しているのか、いささか口調は硬いが、その説明は淀み無い。場の意識が自分に集まったのを確認すると、少しだけ視線を彷徨わせながら言葉を続ける。
「先程ビオラ大将が申し上げました通り、現在のアリステル城は封鎖状態に、アリステル市街も城に近い区画に限って半封鎖状態にあります。理由は、城内において強力な伝染病が発生したためです」
「伝染病!?」
 予想もしていなかった単語に、思わずエルーカが声を上げる。キールは一瞬びくりと身体を震わせたが、直ぐに気を取り直してはっきりと頷き返した。
「はい。ビオラ大将を始めとした、罹患していない職員達は、拡大を防ぐためにここに移動して業務を執り行っています。勿論、エルーカ女王やアトさんのような、他国の方に入城していただくわけにはいかないため」
「ちょ、ちょっと待ってください」
 滑らかに続けられるキールの説明を、エルーカの制止が遮る。突然の発言に驚いた青年の、妙に幼げに見える丸い目が、エルーカに向けられた。そんな、暢気とも思える反応に対して、エルーカは酷く慌てた様子で首を振った。
「城を封鎖する程の疫病ですって? 大事ではありませんか!」
「セレスティアからの連絡でも、そんな話は聞いていない。どういうこと」
 エルーカに続いて、やはり焦った様子のエルムが抗議の声を上げる。セレスティアとアリステルは丘陵を挟んで直ぐの位置にある、アリステル城で疫病が発生したのならば、セレスティアまで伝播してしまう可能性も十分に有り得るのだ。彼女の焦りも、そして怒りも、もっともなものだと言える。
「城内の救護はどうなっているのです? 応援が必要なら、直ぐにでも我が国に連絡を」
「ああ、いや、落ち着いてください二人とも」
 早口にまくし立てる二人を制したのは、やはりビオラだった。落ち着いた表情だが、よく見ればその顔には、少しばかり疲れた色が浮かんでいる。ひとつ大きな溜息を零すと、緩やかに首を横に振った。
「彼の説明には、少しばかり語弊があります。そう大きくは間違っていないのですが」
「だから、結局どういうことなのだ? 危険はあるのか無いのか、まずそれを説明してくれ」
「安心してください、エルム殿。城内の人間にはともかく、セレスティアまで危険が及ぶことは有り得ません――伝染病といっても、ただの流感なのですから」
 そう言ってビオラは、また大きな溜息を吐く。流感ってなに、と問うアトの可愛らしい声が、静まり返った部屋の中で響いた。
「ビオラ、流感って何? 怖いお病気なの?」
「流感というのは、流行り風邪のことだ。アト殿のような子供がかかったら少し怖いが、大人になればそれほど危険なものでは無いよ」
「そうなの。でも、アトは子供じゃないの」
 ただ一人状況が理解できていないアトの発言によって場の空気が壊され、それでようやく、自失していたエルーカ達も正気を取り戻す。しかし言葉と動きが戻っても何を言って良いかは分からないままで、互いに目を見交わし合うばかりだ。ビオラはそんな反応の意味を察して、苦笑しつつ説明を再開する。
「ただ、流感といっても勢いの強いものなのは確かでしてね。城内に倒れる者が続出して、大きな混乱を招いていたんです」
「でも、そうは言ってもただの流行り風邪なのですよね。その程度――と言ってしまったら失礼かもしれませんが、それで城を封鎖してしまうだなんて」
「ただの流感ではありません! 極めて感染力が強く、危険性の高いものです、何しろ」
 エルーカの言葉に大きく反応したのは、何故かキールだった。悲壮な程思い詰めた表情と勢いに、エルーカは驚きに目を丸くしたが。
「ロッシュ将軍が倒れられるくらいなのですから! 普通の風邪と違うのは明らかです!」
 言い放たれた言葉で、その理由を納得する。ああ、と零して頷くエルーカに、ビオラも疲れたような苦笑を向けた。
「そういうことなんです。酷い風邪が流行ったところで、悪いことにロッシュ将軍が罹患してしまいまして」
「ロッシュ、倒れちゃったの? 大丈夫なの?」
「勿論大丈夫だ、命に関わるような病気ではないからな。医療部は全員城に残っているし、今頃治療を受けて回復に向かっているだろう」
「そうでなければ困ります。僕が城に居られれば、付きっきりで看病してさしあげられたのに」
 ビオラの後ろで拳を固めているキールは、本当に辛そうに見えて、エルムはまた微妙な表情になる。ちらりと他の者の様子を窺うが、そこに自分と同じ色が無いのを見て、さらに腑に落ちない顔で首を傾げた。
「そうなの、よかったの。でもロッシュを倒すなんて、怖い風邪なの」
 エルムの困惑など知らぬ様子で、アトが物知り顔で頷く。ロッシュは大きく逞しい身体を持っている、小柄なアトからすればそれはさらに顕著に感じられる筈だ。そんなロッシュが病で倒れるなど、とてつもない異常事態に感じられるのだろう。
「アト様、そんなことは別段、珍しいことでもありませんよ。体力に自信がある者程、病に対する警戒を怠ってしまい、ある時突然倒れてしまうものです」
「エルム殿のおっしゃる通りだな。自分だけは大丈夫だと思っているから、どうしても無理をしがちになってしまうんだよ。――だから本来、大騒ぎする程のことではないのですがね」
 ビオラの物言いからは、今回の騒ぎに対する呆れに近い感情が伝わってくる。その気配から、考えていた程の大事では無いというのを肌で理解して、エルーカは密かに胸を撫で下ろした。
「ともかく、医療部の判断と、それにやはり規模が大きいというのもありましてね。ロッシュ将軍の他にも何人か要職が倒れてしまっていて、これ以上被害が拡大すると業務に支障が出ない状況ではあったのです」
「それで、城から離れて?」
「そういうことです。私などは真っ先に放り出されましたが、他にも可能なものはここに来て、臨時の本陣としているのですよ」
「ストックも、ここに居るの?」
 しかし無邪気にも思えるアトの問いに、落ち着いたエルーカの心臓がまた大きく跳ねる。アリステルに籍を置く兄の安否は、この話題が始まってからずっと気になっていたことだった。エルーカはの立場を気にして口に出すことは出来なかったが、子供のアトに複雑な遠慮は存在しない。
「いや、彼は城に残っている、といっても健康ではあるから安心して良い」
 そんな切なる問いかけに対して、実にあっさりと返された答えに、エルーカとアトは揃って胸を撫で下ろした。少女達の健気な様子に、ビオラは微笑ましげな表情を浮かべている。
「いくら人員の一部を外に移したといっても、病人と医者だけを残しておくわけにもいけませんからね。親しい者達の看病もしたいということで、移動できない業務の管理のために、残ってもらっているんです」
「そうですか、良かった」
「本来ならば、自分もその補佐をしたいところなのですが……外出さえしていなければ、今も城の中に居られたのに」
 悔しげに小声で呻くキールが気になるのか、エルムはちらちらと視線を投げている。エルーカとアトは既に慣れてしまった様子で、意識を向けることさえしていないのだが。
「ストックに会いたかったの……」
「申し訳ないがアト殿、今回は我慢してくれ。またしばらく後に来てくれれば、封鎖も解けて城に入れるようになるから」
「そうですよ、セレスティアとアリステルは近いんですから。また直ぐに、会える機会があります」
「ええ、エルーカ女王も。女王がお心を残していらっしゃったこと、必ずストックに伝えましょう」
「……有り難う、御座います」
 エルーカの、微かに赤らんだ頬に、ビオラが朗らかな笑みを零す。マリーは、敬愛する女王の望みが叶わなかったことに不満げな様子だが、無理を知って横車を入れるような女性ではない。
「早くお城が開いて欲しいの。アトはストックに会いたかったの」
「ええ本当に、早く騒ぎが収まって欲しいです。もう一週間も、隊長――将軍とストックさんの顔を見ていないんですよ」
 エルーカと違い、素直に自分の感情を吐き出すアトとキールに、他の者達は微笑ましげな視線を向ける。いや、全員ではなく、エルムだけはなんともいえぬ微妙な顔をしていたのだが。マリーがその、一人困惑するエルムの気配に気づいて、ふと視線を向けた。
「エルムさん、どうかなさいましたか?」
「ん? ああいや、その」
 それにつられて他の者も、一斉にエルムを見る。唐突に集まった注目に、エルムは一瞬びくりと慄き、視線を宙に彷徨わせた。
「どう、というか。人間は皆、こうなのか?」
 躊躇いがちに投げられた問いかけは、しかし意味自体が、他の者達に伝わっていないようだった。エルーカとビオラが顔を見合わせ、不思議そうに首を傾げる。
「今回の騒ぎのことなら、さすがにこれは特殊な事例だが」
「いや、そうではない、いやそれもあるんだが。皆がこの――男のように」
 ちらりと、遠慮がちな視線を向けられ、キールが目を瞬かせた。
「自分の上司に対して、その、何と言ったら良いか分からないんだが」
「キールは、ロッシュとストックのことが大好きなの」
 言い淀むエルムの言葉を奪うようにして、アトがあっさりと口を開く。その内容はあまりに直截過ぎてはいたが、かといって否定することも出来ず、エルムは意味の取れぬ呻きを口の中で二、三吐き出した。
 だがそんな風に反応に困っているのは、やはりエルムのみだ。ビオラとエルーカは、得心した様子で頷き、揃って柔らかな笑みを浮かべている。
「ああ、彼の態度を不審に思っておられたのですか。ご心配無く、彼は上司が倒れて、少しばかり混乱しているだけですから」
「少し?」
「ええ、人間の間ではよくある話です。うちも、もし私が倒れたりしたら、護衛や部下達が恐慌を起こしかねません」
「エルーカ女王の場合、部下だけではなくて国民にも伝播しかねませんからね。その点我々は気楽です、直接の部下の暴走にだけ気を配っていればいいのですから」
 さらりと、理解できない範疇の会話が交わされるのを見て、エルムは増幅する混乱に頭を押さえつける。その様子がおかしかったのか、アトが少女らしい無邪気な笑い声を上げた。キールは、相変わらず何を指摘されたのかも分かっていないのだろう、一人ひたすらに困惑した様子で小さくなっている。
 己の感覚に同意してくれる者は誰も居ないのだと、察したエルムはひとつ深い息を吐き出し、独白じみた呟きを零した。
「人間を理解するのも、難しいものだな……」
 それに対して正しい反応を返してくれる者は、残念ながらこの空間に存在せず。楽しげに笑う女王と女神に、エルムはもう一度、大きな溜息を吐き出した。






セキゲツ作
2013.03.09 初出

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