砂の砦は、いつでも薄暗い。居住性よりも頑丈さを求められたその建物に、窓といえば必要な分の換気穴しか無く、外部からの採光は期待出来るものではない。生活に必要な光は専ら松明などの照明器具で作り出しており、その明るさは昼でも夜でも変化しない類のものだ。
 とはいえ実際に、昼夜問わず変わらぬ光度で室内が照らされているわけではない。長期に渡り任務に従事する兵士の時間感覚を保つために、完全に消灯こそしないものの、夜には照明の明るさを抑える慣例となっている。勿論、襲撃を警戒している間は別だが、現在は比較的平穏に近い。敵軍接近の知らせも受けぬまま、日が落ちた後の砂の砦は、薄らとだけ明かりの灯る微妙な闇に包まれていた。
 そんな空間に響く足音が、ふたつ。
 ひとつは大きい。一度聞けば誰のものだか直ぐに分かるようになる、叩きつけるのと引き摺るのを組み合わせたような音だ。さらに足音と同じくらい大きく、体格に見合って巨大な全身鎧と、鋼鉄の左腕が奏でる金属音が響く。
 もうひとつは小さい。重さの感じられない音からは、身体の大きさだけでなく、装備自体も軽装であることが推測できる。だが読みとれるのはそれが限界だ、他の音に紛れるようにして鳴るそれだけでは、誰がそこにいるのかを当てることは難しい。
 とはいえ勿論、それは足音のみを考える場合であって。
「隊長、そろそろ部屋に戻られては如何でしょう……」
 力弱く発せられた言葉を聞けば、それが誰のものなのか、直ぐに理解することが出来る。潜めるような小ささで囁かれたキールの声に、前を歩いていたロッシュは、振り返ることもせず首を横に振った。
「駄目だ。まだ目的は達して無えぞ」
「そうおっしゃられましても、もう砦の中は大体見てしまいましたし」
 その頑なな後ろ姿を追い、キールは溜息を吐きたくなるのを堪えて、必死で歩を進める。通り過ぎる扉の中には、彼の苦境など知らぬままの兵士達が、深い睡眠を貪っている筈だ。翌日も厳しい任務と訓練が待っていることを考えれば、それはむしろ必須の行為である。だがキールは、その一員に加わることなく、ロッシュの後を付いて深夜の砦を徘徊していた。敬愛する隊長と行動を共にするのは、熱意ある新兵として当然。そう主張するには、残念ながら、少しばかりその態度が及び腰だが。
「まだ一階が残ってる」
「うう、それはそうなんですが」
 そんな部下に対して、ロッシュの態度は常と変わらない。冷静な、本人の意図に関わらず威圧感を与える視線で、薄闇の向こうを睥睨している。
「でも、一階での目撃報告は殆どありませんよ」
「だからどうした。昨日出なかったからといって、今日もそこに出ないとは限らん、何しろ」
 しかしその厳しく鋭い目元が、ふと面白そうに揺れた。同時に、引き締められていた口角が、僅かに持ち上げられ。
「『幽霊』なんだからな――相手は」
 発せられた言葉に、キールは、情けないほど眉を下げて身体を震わせた。



――――――



 砂の砦に、幽霊が出るという。


 その噂がロッシュの耳に入ったのは、アリステルから帰還して直ぐのことだった。居ない間の報告を纏めて受けている中、混じっていた違和感のある単語を取りこぼしてしまう程、彼は無能な上官ではない。『見張りの最中に幽霊を見た』笑い話のようにして語られるその内容に、本人達が思う以上の真実の気配を、ロッシュは読みとっていた。その数が多いのも、気にかかる理由だっただろう。一人や二人ではない、相当に多くの報告に、幽霊の存在は記されていた。記すのを躊躇った可能性を考慮すれば、ロッシュが知ったよりもさらに多数の目撃者が居るのかもしれない。
 それがどうしても気になり、本腰を入れて情報を集め始めたのが、つい二日前。キールの助けも借りて隊員達に聞き込んでみれば、思った通り幽霊話は随分と隊に広まっているようだった。本気で信じている者もあれば、完全に冗談として笑い飛ばしている者もいたが、そんな反応の差は大したことではない。問題なのは、その噂によって隊の雰囲気が奇妙に浮き足立っているという事実だ。
 軍に長く居れば、似たような話を何処の戦場でも聞いており、一々騒ぎ立てる程のものにはならない。だが新兵のみで構成されるロッシュ隊にとっては、そんなよくある噂であっても十分に恐ろしい、あるいは面白いものになるのだろう。ひとつの話題として楽しむこと自体は否定しない、だが恐怖や狂騒によって集中力が殺がれ、戦力が落ちるのは避けなければならない。
 また、万が一とは思うが、幽霊話を隠れ蓑にした密偵が潜り込んでいる可能性もある。そうであれば隊全員、いやアリステルの帰趨にすら関わる大問題だ。杞憂である可能性も高いが、楽観して警戒を怠るわけにもいかない。無事を確認できればそれで良いが、ついでに隊員たちの恐怖が払拭できれば何よりだ。そんなわけでロッシュは夜の砦を歩き、健気にもキールはそれに付いてきているのだった。
 見張りの激励も兼ねての見回りだが、今のところ成果は無い。あからさまに帰りたがるキールを余所に、ロッシュは残された箇所を訪れるため、ゆっくりと扉を押し開けた。
「――ロッシュ隊長!」
 幽霊探しの最後に、二人が脚を向けたのは、裁きの断崖側の出口だった。警備の兵が振り向き、そこに己の隊長を確認すると、嬉しげに顔を輝かせる。
「お疲れ様です、見回りですか」
「ああ、お前等こそご苦労さん。異常は無いか」
「はっ。現在、ビオラ隊の方々が巡回に――ああ、戻っていらっしゃいました」
 崖の下にあたるこの扉は、自国側に向いて開かれているために、比較的警戒が薄い。現在警備に当たっているのは四人、ロッシュ隊からは二人が配置されていた。ロッシュがアリステルに戻っていた間に、警戒の様子もすっかり板に付いており、ロッシュは満足げに頷く。
「ロッシュ大尉、いや少佐。遅くに見回り、お疲れ様です」
「ああ、有り難う。こいつらはヘマやってねえか?」
「大丈夫です、彼ら、少佐がいらっしゃらない間も鍛錬に励んでいましたからね。っと、あまり本人達の前で褒めるわけにもいきませんが」
 和やかな会話だが、その間もロッシュは周囲の様子を探ることを怠らない。外部に向けての警戒が故だと、見張りの兵達は思っただろうが、そうではないことをキールは知っている。だがその鋭い目に留まる異常は、残念ながら存在しないようだった。砦の明かりも届かぬ、闇が広がるばかりの空間を見遣り、ロッシュは軽く息を吐く。
「ともあれ、こちらは問題ありません。どうぞご安心ください」
「ああ、ありがとよ。じゃ、交代までもう少し、頑張ってくれ」
 多少気を落とした気配と共に、ロッシュは話を切り上げる様子をみせた。その姿にキールが息を吐く、これは上司のものとは違い、安堵の意味を持っていたのだが。
「キール、戻るぞ」
「はいっ! では、失礼し」
 ――その明るい表情が、台詞が、かちりと凍り付いて中途で途切れた。察したロッシュが、問うよりも先に視線を動かし、そして口元に笑みを浮かべる。
「出たか」
 一拍遅れて振り返った兵士達が、キールと同様に硬直した。悲鳴を上げないのは上等だと、ロッシュは思考の片隅で考える。彼らの視線の先、砦から少しばかり離れた荒野の砂上には、一人の男が立っていた。闇にも関わらずはっきりと見える、透けた身体を薄く光らせた姿で。
「ゆ、ゆ、ゆうれい」
 震え過ぎて回らぬ口で呟くキールの、口と同じく震える肩を、ロッシュが強く叩いた。静寂の中でははっきりと響く打撃音に、キールのみならず、他の兵士達も正気を握りしめる。
「運が良いな、一日目で会えるとは」
「そそそんな、暢気なことを! あれ、だって、何なんですか」
「さあ、何と言われてもな。透けてるようにも見えるが」
「見えるじゃなくて、実際に透けてます! 噂通りだ、本当に幽霊だ……」
「落ち着け、まだ分からん」
 口々に、けして小さくは無い声で騒ぐ兵達だが、渦中の男は一切頓着した様子が無い。ぼんやりと立ち尽くし、かと思うと滑るような頼りない動きで歩き、また立ち止まる。何をしているのだろうかと、ロッシュはその姿を睨み付けた。危惧していたような、姿を誤魔化した情報員とは、実際に目にしてみればとても思えない。妙に光って目立つのは、幽霊の仮装だと考えれば納得できるが、そこに立ったまま何をする様子も無いのだ。敵兵の前に現れた挙げ句、棒杭のように砦の外で立っているだけの潜入操作など、無意味にも程がある。
 ならば、あれは本当に幽霊なのか。
「よし、お前等ここで待て。周囲の警戒を頼む」
 ロッシュはそう言い放つと、ビオラ隊からランプを奪い取り、一歩を踏み出した。兵達が上げた驚きの声を後目に、幽霊らしき男へと近づいていく。
「隊長っ!? 危ないです、お戻りください!」
「大丈夫だ、それより周りを見てろ」
 キールが着いて出てきたようだが、ロッシュは振り向かない。見失うことの無いように男を睨み付けたまま、一歩一歩その方向に歩いていく。手にしたランプが光を与えてはくれているが、届くのは僅かな距離だけだ。その空間に男が入る少し手前で足を止め、接近した相手をロッシュは観察した。
 数歩歩けば触れられる程度まで近付いても、男が消える気配は無かった。間近で光を手にして見ると、その身体が透けているのがよく分かる。身体は、光っているというよりも、視認するのに光を必要としないと言った方が近いだろうか。闇の中で浮かび上がるその姿は、直ぐ目の前に居るロッシュに構うこともなく、淡々と動いては止まる動作を繰り返している。
「ひい……」
 男がロッシュ達に気付く様子は無い、キールが情けない声を上げても、無反応のままだ。視線は地面に落とされ、首を下げて歩き回る姿は、何かを探しているようにも見える。意識があるのか、それとも自動的な動作に過ぎないのか。背筋に嫌な寒気を感じて、ロッシュは眉を顰めた。
 数秒、あるいは十数秒、もしかしたらもっとずっと長く。彼らは、その『幽霊』を見詰めていた。空気が硬直し、だがそれに囚われることなく、ロッシュがその手を掲げる。
「おい、お前」
 一瞬迷った後、ランプを持った右手を突き出し、男に向けて歩を踏み出した。男は止まらない、意識すら向けずに動きを続けている。
「お前だ、止まれ! 所属を」
 ロッシュもそのまま接近し、男に触れようと手を伸ばし。だがその手は、当然のようにその身体を突き抜けた。
 悲鳴のような激しい呼吸音のような、何とも言えない声をキールが上げる。ロッシュは声こそ上げないものの、険しい顔で、相手の身体に突き刺さった己の腕を睨んでいる。男は、それらの全てに何一つ注意を払わぬまま、また一歩を踏み出して――そして、そのまますうっと、溶けるように消えてしまった。
「消えたな」
 ロッシュが見たままの光景を呟き、キールに視線を遣る。自失していたキールだが、ロッシュの言葉が自分に向けられたものだと解すると、慌てて何度も大きく頷いた。
「きえ、消えました。確かです、自分も見ました、確かに」
「幽霊か。幽霊、な」
 ロッシュも頷き、ランプを高く掲げて辺りを見回す。闇ばかりが広がる光景に、男の名残を残すものは何もない。一つ息を吐くと、ロッシュはまた、大股で歩きだした。その方向が、砦の入り口から離れるものであるのに気付き、キールが悲鳴じみた声を上げる。
「何処へ行かれるんですか!」
「このへんを調べる」
「調べるって、何を」
「怪談なら、この辺に髑髏のひとつでも転がってるのが定番だろうが」
「…………じょ、じょじょ、じょう」
「落ち着け、冗談だ。あれが何かの手妻だってんなら、この辺に痕跡のひとつも残ってるだろ」
「の、残っていなかたら」
「ほんとに幽霊だってことになるんじゃねえか?」
 キールの顔が、ランプの明かりで分かる程白く染まった。ロッシュは肩を竦めると、それ以上部下には構わず、周囲の地面を調べ始める。
「怖いんならさっさと砦に戻ってろ」
「え、そ、駄目です! 隊長お一人をこんなところに残して、戻るわけにはいきません! 待ってください、今自分も明かりを持ってきますので」
 そう言って入り口に走り出すキールをちらりと見送り、ロッシュは溜息を吐いた。男が消えた場所をランプで照らすが、やはり何も残されていない。恐らく、捜索域を周辺一帯にまで広げても、結果は同じだろう。
 そう考えられるのは、ロッシュの本能が、男が本当に幽霊であることを強く訴えていたからだ。あれは人ではない、それに恐らく、幻の類とも違う。近くに寄り、そして触れた感覚で、ロッシュはそれを感じていた。だがそれは己の勘でしか無く、戦場ならばともかく軍の推移を決めるのに、そんなものに頼るのは愚かだ。
「戻りました、お手伝いします!」
 走って戻ってきたキールが捜索に加わる、もしあれがグランオルグの密偵、もしくはそれが仕掛けた何らかの罠なら、これで痕跡が見付かるだろう。見付からなければ――それはそれで面倒なことになる。ロッシュは、未だに青ざめたままのキールの顔を、気付かれぬようそっと眺めた。
「幽霊なんかじゃありませんよね……幽霊なんかじゃ」
 言い聞かせるように繰り返される呟きに、ロッシュは密かに息を吐く。そして、何かが見付かればいいと祈りながら、己もまた周囲を調べる作業に戻った。

 しかし、キールの切なる願いが叶うことはなく。
 周囲を探索した結果、分かったのは、何一つ異常が無いという事実のみだった。



――――――



「――それで、報告に来たと」
 ロッシュの報告を聞いたビオラは、話が終わると大きく溜息を吐いた。朝の軍議が終わった直後だが、人払いがされた室内に兵は殆ど残っていない。ロッシュと、証人として同行しているキール他数人が、ビオラの前に並ぶのみだ。
 生真面目に頷き、上司の判断を待つロッシュに、ビオラは困った表情で腕を組んでいる。准将の珍しい姿に、ロッシュもまた考えながら、ゆっくりと言葉を続けた。
「はい。幽霊かどうかは分かりませんが、異常があったのは確かです。あるいは」
「グランオルグの密偵かもしれない、な。実はその話は、既に何度か聞いているんだ」
 それに返された言葉に、ロッシュは軽く眉を上げる。ロッシュが耳に留めた幽霊話は、どうやらロッシュ隊だけのものではなく、ビオラ隊にも根深く浸透しているものだったらしい。その事実で、あれが昨日偶々出現しただけでなく、何度となくこの砦に現れているものなのが分かる。同時に、ロッシュ隊の面々が作り出した幻想でないということも。
「君達が来る少し前からだ、砦の中で妙なものを見たという者達が出始めた」
「妙なもの、ですか」
「一部の者は、それが幽霊だと主張していたがな。まさか、報告書にそんなことを書くわけにもいかない」
 ビオラの言葉に、ロッシュも頷いて同意を示す。上層部や他部署へと回す正式な報告書に幽霊が出たなどと大真面目に書いてしまっては、報告者のみならず、ビオラの正気までも疑われかねない。
「ビオラ准将は、幽霊を信じていらっしゃらないのですか?」
 場の雰囲気を読んでいるのかいないのか、間の抜けた問いを投げるキールに、ビオラは穏やかに笑って向き直る。
「個人的に信じるか否かは、この際問題にならない。私情に因った判断をしていては、隊を率いることは出来ないからな」
「はっ、そ、そうですね! 失礼致しました……」
「気にすることはない。ともかく、私も部下から話を聞いて色々と調べてみたんだが、侵入の痕跡は無かった」
「見付けられなかった可能性は? 現に俺達が到着した時、何者かが入り込んで、グランオルグ軍の侵入を手引きしていました」
「それを言われると痛いがな」
 上司に対して、手厳しいとも思えるロッシュの言葉に、しかしビオラは気にした様子も無く肩を竦めた。
「一度、幽霊騒ぎが起こった直後に、砦を封鎖して捜索を行ったことがある。その上で誰も見付からず、時限的な仕掛けも発見されなかったのだから、この件に関して砦外の人間が関わっていることは考えづらい」
「成る程……」
 考え込むロッシュの後ろでは、キールを始めとした兵達が、青くなりながら顔を見合わせている。やっぱり本物、という囁き声が、誰からともなく漏れた。
「ともかくそんなわけで、密偵の仕業だと断言するのは難しい。勿論警戒は強めるし、希望するならもう一度、ロッシュ隊も含めて再調査を行っても良いが」
「いえ、それは事が大きくなりすぎます。それに、何も見付からなかった時、うちの連中が大騒ぎしかねない」
 背後を意識しながらロッシュが呟くと、昨晩より十分に騒ぎ立てている自覚があるのだろう、ロッシュ隊の者達が恥ずかしげに身体を縮める。ビオラはそれを見遣りながら、軽く溜息を吐いた。
「私としても、この件は気になっていた。怪談など取り立てて騒ぐ程のものでは無いが、今回のこれは随分と息が長いし、規模も大きい」
 ロッシュ隊が配属されるよりも前から起こっていたのなら、もう一ヶ月近くは続いていることになる。娯楽の少ない最前線とはいえ、聞き飽た幽霊話を、誇張も歪曲もせずにいつまでも楽しめるわけではない。
「途中でうちの隊が混じったために、変に話がかき回されちまったってことは」
「有り得る話ではあるがな。ロッシュ隊長、君はその説明で納得して引き下がってくれるかな?」
「それが准将の見解だっていうんなら、反論する気はありません」
「ふむ、成る程そう来たか。見かけによらず、ずるい男だな」
 にやりと笑われたロッシュは、それがビオラの冗談だと分かっているだろうに、律儀に泡を食って狼狽えている。その反応が気に入ったのか、ひとしきり満足げに笑うと、ビオラはまた真剣なものに表情を戻した。
「ともかく、だ。錯覚や余他話で片付けるには、気になる点が多すぎる。君も、そう考えたから私のところに来たんだろう」
「……その通りです」
「うむ。だが、困ったことに、これ以上打つ手が無いのも確かだ。行動を起こすとしても、どうしても以前の調査の繰り返しになってしまう」
「それで効果が無かったら、騒ぎがもっと大きくなっちまいますね。かといって他の方法っていうのは……幽霊退治に乗り出すってのも、さすがに無理がありますし」
「ロッシュ少佐、やってみるか? 案外何とかなるかもしれないぞ」
「勘弁してください……」
 軽口に紛らわせてはいるが、ビオラもロッシュも、真剣な顔を崩してはいない。数ヶ月も放っておけば誰も覚えていないような小さな事件だが、それを種として何らかのトラブルが発生しないとも限らないのだ。何とか解決してしまいたい、しかしそのための手段が思い浮かばない、二人の名将がよく似た表情で息を吐き出す。
 部下達はその姿を、不安げな様子で見詰めていたが、ふとその中の一人が背後を振り返った。それとほぼ同時に、食堂の扉が開かれる音。
「失礼しまーす」
 飛び込むような勢いで、元気良く声を上げて入ってきたレイニーに、室内の視線が集中した。複数人に見詰められて硬直したレイニーの隣をすり抜け、彼女の同行者が入室してくる。
「見回り終わりました――っと、あれ、どうしたんですか」
「……どうした。何かあったのか」
 現れた男が、戸惑って歩を止めたのにも構わず、ロッシュは目を輝かせ。
「ストック!」
 そして、実に丁度良く現れた副隊長の腕を掴むが早いが、当人の意見も聞かずに部屋の真ん中へと引き摺りだしてしまった。



――――――



「ご存じか分かりませんが、こいつは元情報部なんですよ」
 ロッシュから簡単な説明を受けたストックは、親友が准将に語る言葉を聞きながら、ぐるりと思考を巡らせる。ロッシュ隊に広がった幽霊話は、当然ストックも耳にしていた。よくある怪談と思い態々ロッシュには報告していなかったのが、それがここまで大事になるとは。副隊長として明らかな失敗だが、それを一々悔やんでも居られない。
「ああ、そういえば聞いた覚えがあるな。成る程、この手の調査にかけては適任というわけか」
「さすがに情報部でも、幽霊退治まではやっちゃいないでしょうがね。それでも俺が頭捻るよりは、よっぽどまともなことを考えてくれるでしょう」
「勝手なことを言うな」
 仏頂面で答えつつも、脳内では情報を整理していく。ロッシュが自分で言う通り、彼の専門は戦略とそれに到るまでの隊の指揮であり、謎解きに向いた性質ではない。勿論ストックとて、幽霊相手の立ち回りなど全く経験が無いが、それでもこれが自分の役割であることは納得できる。
 聞かされた話を組み立てると、幽霊話が表に出始めたのは、ロッシュ隊が配属するしばらく前。その際一度、砦を封鎖して大規模な捜索を行ったが、人はおろか仕掛けのようなものも見付からなかった。そしてロッシュ隊がやってきて、彼らの間でも同様の怪談が流行り始める。その規模は徐々に大きくなり、ロッシュが危険視する程になり、解決しようと見回りを始めた彼の前に件の幽霊が現れた――
「既に打つ手無しとなりかけていたことだ。あまり気負わず、駄目で元々程度の気持ちで考えてくれ」
 ビオラが気遣う言葉に、ストックは素直に頷く。だが出来れば解決しておきたいという気持ちもあった、ロッシュが考えた通り、ここで結論を出しておかなければ兵達の安定を揺るがしかねない。最前線に送られた新兵部隊というのは、非常に不安定なものである。危険な要素は、出来る限り排除してしまいたかった。
「ロッシュ隊にこの話が広がったのは、何がきっかけだったんだろうな」
 ぽつりと呟かれた言葉に、その場に居たロッシュ隊の者達が、顔を見合わせる。
「実際に誰かが何かを見たのか、それともビオラ隊の誰かに吹き込まれたのか。あるいはもっと別の理由か」
「そ、その……それは無いと思います、いえ、ビオラ隊の皆さんに教えていただいたという話ですが」
 その中から一人、おずおずと挙手して口を開いた兵士に、ストックは顔を向けた。副隊長の鋭い視線に晒された隊員は、一瞬身体を慄かせたが、気を取り直して背筋を伸ばす。
「配属されたばかりの頃、自分と同じ小隊のものが、警備中に幽霊を見たと言い出しました。その時分にはビオラ隊の方々とはあまり交流がありませんでしたし、そいつが話を聞いていたってことは無いと思うんです」
「そうか、成る程。となると、事前に情報を与えられたために幻覚を見た――という可能性は、除外して良いな」
「ああ、ってことは」
「幽霊にしろ密偵にしろ、何かしらが実際にしていて、噂の源となっていると考えられる」
 ビオラとロッシュも、ストックの言葉に深く頷いた。だがそうして結論づけたは良いものの、実際にその源を探すとなると、難しさは一気に跳ね上がる。ビオラ隊が総出で捜索しても見付けられなかった何かを、軽く探して発見できるとは思えない。
「そして次にはっきりさせておきたいのが」
 ストックがさらに言葉を続ける、いつの間にか部屋の中の者達は一人残らず、語るストックに意識を向けていた。その表情は様々で、期待に目を輝かせている者も居れば、消せない恐怖に顔を強張らせる者も居る。ビオラとロッシュは、さすがに動揺の陰も見せなかったが、それでも真剣な目であることに変わりは無い。
「この現象の正体が、人かそれ以外か」
「待った、ストック」
 しかしそこでロッシュが、ストックの台詞を遮るようにして声を発した。
「そりゃその通りなんだが、それに関しちゃ今まで俺達が散々考えてきたんだ。今ここで結論が出せると思うか?」
「断言はできない、だが可能性を絞ることは出来るかもしれない。ともかく一度、情報を整理してみよう」
 ストックがそう諭すと、ロッシュも眉を顰めたまま、取り敢えずは口を閉じて聞く姿勢を示す。それを確認し、周囲も無いことを見て取ると、ストックは改めて口を開いた。
「まず、幽霊騒ぎが発生した際に、ビオラ隊が砦を封鎖して捜索を行っている点だ。ビオラ准将、繰り返しですまないが、この捜査の確かさについてはどの程度断言できる」
「封鎖後の捜査に関しては徹底して行ったと言えるな。ネズミの子一匹、とまでは言わないが、人間や怪しい装置があれば間違いなく気付いていただろう。ただし封鎖前に逃亡されていたとしたら、この限りでは無い」
「……幽霊が発生してから、実際に入り口が封鎖されるまでは、どれくらいの時間がかかっている」
「事前に通達を出しておいたからな。長く見積もっても、五分はかかっていないだろう」
「さすが、素早いですね」
 ロッシュが感心して呟くが、ビオラは気の無い様子で肩を竦める。
「グランオルグの密偵も、同じ事を考えてくれれば良いがな。発見して五分、包囲網から抜け出すのに十分かどうか、私には判断がつかない」
「……微妙なところだな。人が集まる中、気付かれずに外まで抜け出すとなると、難しいかもしれない」
「だが不可能とも断言できない、ってことか。ややこしいな……」
 溜息でも吐きかねない勢いで肩を落とすロッシュを、キールを始めとしたロッシュ隊の隊員達が、心配そうに見詰めた。
「ああ、だがこれで一つ、推測できることがある」
 ストックが語る言葉は、そんな親友を支えるように力強いものだ。
「脱出の時間は極短い、逃亡する際、持ち歩いている以外の道具を持ち出すような余裕は無かったと考えられる。勿論、放置して出ればビオラ隊が不審物として発見しただろう」
「それはその通りだな。つまり、仕掛けによって見せられた幻影ではなかったということか」
「その場に人間が居たってのか?」
「人間か幽霊か、そこまではまだ分からんがな。そう、それで聞きたいんだが、ロッシュ」
 考え込んでいた中で唐突に矢印を向けられ、ロッシュが目を瞬かせる。
「お前は直接、幽霊を見たと言ったな」
「そ、そうです! 確かに隊長、直接幽霊を見て、さ……触ってもいらっしゃいました!」
 勢いよく発せられたキールの言葉に、一同がどよめく。そういえば、とビオラ隊の一人が呟いた。彼らもあの場に居たのだが、キールと違って遠方から見張っていたため、彼ほどはっきりと認識できていなかったのだろう。ロッシュに、先刻までとは比較にならない程強い注目が集まる。
「幽霊に触った、と。それは中々得難い経験だな」
「っていうか幽霊って、そもそも触れるものなの?」
「で、ですから触れなかったんです! 隊長が手を伸ばされたら、それが身体を突き抜けて」
「落ち着け、キール」
 騒ぎの中央で、当のロッシュは興奮の兆しも見せず、むしろ不機嫌そうに眉を顰めたままだ。自分の代わりにしゃべり続ける部下を窘め、その口を閉じさせると、改めてストックへと視線を向ける。
「取り敢えず、キールの言ってることは確かだ。昨晩見付けた奴に限ってだが、灯りが無いとこに居ても遠くから視認出来て、近づいて触ろうとしたら腕が突き抜けた」
「ふむ。間違いなく幽霊だな」
「茶化さないでください、准将」
 苦い顔でぼやくロッシュは、それを経験した当人であるにも関わらず、邂逅した存在が幽霊だとは言い切れないようだった。
「……お前はどう思うんだ、ロッシュ」
 戦場以外では妙に遠慮深い親友に、ストックは発言を促す。ストックはロッシュの直感を信じている。書の力に目覚めた時も、そしてその後の困難も、ロッシュは何故か察してくれていた。それは戦いの中で培われた鋭い観察眼と、それを元にした判断力の賜である。瞬時における決断において、彼のそれは、ストックよりも余程正確なものだ。
「俺は」
 だが本人は、親友が評価する程の自信を、己に対して持っていない。特にこうした話し合いの時にはそれが顕著で、それは前線からの叩き上げであり、生粋の兵士であるという自覚に因るのだろう。
「直感で良い、聞かせてくれ」
「……そうだな」
 ストックが重ねて促すと、ロッシュは困惑した様子ながら、ゆっくりと口を開いた。
「俺は、あの時……こいつは本当に幽霊なんじゃないかと、そう思ったな」
「ええっ」
 そして発せられた言葉に、部下達が一斉にざわめく。こうなることを予測していたのだろう、申し訳なさそうに身体を縮めるロッシュに、気にするなという風にストックが目配せした。
「確かに、そうとしか思えないよね」
「身体を腕が突き抜ける、かあ……うう、不気味」
「だが、別に何が根拠ってわけじゃあ」
 すっかり幽霊だと確信している様子のレイニーとマルコに、往生際悪くロッシュは食い下がるが、もはやそれを聞くものは居ない。既に結論は出たという雰囲気の一同に、ロッシュは苦い顔で肩を落とす。ストックはそんな彼の背を、鎧越しに軽く叩いてやった。
「お前の勘はよく当たる。大丈夫だ」
「そりゃ、戦場での話だ。幽霊かどうかを見分ける勘なんざ、持っちゃいねえよ」
「しかし、真偽を見定めるのにこれ以上時間をかけるのも無意味だろう。まずはあれの正体が幽霊だったと仮定して、対策を取った方が建設的では無いかな」
 ビオラの冷静な指摘に、ロッシュもさすがにそれ以上は反論せず、頷いて背筋を正した。だが直ぐにまた、困った顔で首を傾げる。
「それは良いんですがね、結局幽霊対策なんぞ出来ますかね」
「うむ、先程の議論に戻ってしまったな。ストック中尉、何か案は無いだろうか」
 ビオラに問いかけられ、ストックもロッシュと同じように首を傾げた。室内の視線が集中するのを感じつつ、ストックは慎重に口を開く。
「――幽霊が何故出るか、その理由が問題なんじゃないか」
「理由? んなこと言ったってなあ、幽霊の考えてることなんざ分かるかよ」
「ロッシュさん、それを言っちゃったら何も始まらないよ」
 親友に対する気安さからか、盛大に眉を顰めたロッシュだが、マルコに窘められてバツの悪い顔で頭を掻いている。
「出現する理由を無くしてしまえば幽霊は出てこなくなる、確かに筋は通っているな」
「でも隊長さんの言う通りだよ、何で幽霊がうろついてるのかなんて、そんなことどうやって調べるのさ?」
 レイニーの問いかけに、ストックはまた一瞬口を閉じ、考えながら言葉を続けた。
「ロッシュの話では、そいつは何かを探しているようだったという」
「何となくそう思ったってだけだがな。単にふらふらしてただけかもしれん」
「あ、でも自分もそう思いました! 下を向いてきょろきょろしてたので」
 自信なさげなロッシュとは対照的に、キールの補足は妙に力強い。いや、むしろロッシュの態度が弱腰に過ぎるのか。
「心を残した遺品か何かを探しているというのは、よくある話だな」
「ああ、自分の骨とかも、怪談でよく聞くよね」
「レイニー!」
 骨、という言葉に再び恐怖を煽られて、キール以下隊員達が顔を青くする。レイニーの、時として無神経になる直截な発言に、ビオラも思わず苦笑を零した。
「レイニー君の言うことも、確かによくある話なのだがな。しかしさすがに遺骨が転がっていれば、捜索の時に気付くだろう」
「あ、それはそうですよね……すいません」
「やっぱり、何かの遺品って線が濃厚か」
 頷くロッシュに、ストックもまた首肯を返した。隣でレイニーが、考えつつ瞼を瞬かせる。
「ってことは、それを探して返してあげれば、もう出なくなるってこと?」
「推測が当たっていればだがな。しかし、試してみる価値はある」
「……でも」
 ビオラも納得顔で頷いているが、そこでふとマルコが首を傾げ、ぽつりと呟いた。
「砦内の捜索は、もうビオラ隊の皆さんが行っているんですよね。それで見付からなかったなら、もっと別の場所なんじゃないかなあ?」
 それこそグラン平原とか、続けられた言葉に、一同の表情が険しくなる。グランオルグとにらみ合いが続いており、もう直ぐ大規模な作戦の舞台となる平原に幽霊の発生原因があるとしたら、それを探すのは困難だ。しかしビオラは、懸念を振り払うかのように、首を横に振ってみせた。
「いや、探したといっても念頭にあったのは、工作員や装置のようなものだからな。大きなものでなければ、見逃した可能性は十分にある」
「それに、探した場所も問題だ。幽霊が出るのは一カ所じゃない、何かを探しながら移動している可能性がある。そうなると、モノがあるのが出現した近辺とは限らない」
 ビオラとストックの説明に、一同は納得した様子で頷く。
「それじゃあ、皆でその……何かを探せば良いんだね!」
「そうだな、しかし場所も物も分からんとなると、ちと厳しいな」
 砂の砦は、前線基地として拡張され続けた結果、酷く入り組んだ複雑な造りをしている。広さもそれなりのものがあり、一切の指標も無く探し回るのは、確かに大仕事と言えた。だがストックはまたも首を横に振り、ロッシュの危惧を否定した。
「探す物は分からないが、場所はある程度特定できるかもしれない。幽霊は砦の中を転々と移動している、目撃された記録を遡っていけば、大元の出現場所が分かるだろう」
「ふむ、そこを探すべきだと?」
「幽霊だって心当たりは真っ先に当たるだろう、ってことか。まあ、無目的にうろつくよりは、まだマシだな」
「あ、でしたら自分が、ロッシュ隊が目撃した情報をご提供できるかと思います!」
 諦めて息を吐くロッシュの背中越しに、出番を心得たキールが勢いよく手を挙げる。それに引き摺られるように、真剣な雰囲気が、妙に活気づいたものに変わり始めた。
「ビオラ隊の情報で、私が報告を受けていないものを調べられる者は居ないか? 探してくれ」
 ビオラの指示を受け、ビオラ隊の者達が走り出す。その横ではマルコが、自分の荷物の中から紙とペンを取り出し、机の上に広げていた。
「簡単な見取り図を作って、それに記録していけば良いかな。ストック、書ける?」
「……ああ、やってみよう」
 ここしばらくの間で叩き込んだ砦の間取りを、ストックは紙の上に書き込んでいく。そこにキールとビオラの記憶を元に目撃情報を記していけば、目的の図の完成だ。やがて、飛び出していったビオラ隊も戻ってきて、彼らの持ち帰った情報を図に加え。
 そして完成した図には、『彼』の辿った軌跡が描き出されていた。
「……これは」
 一目見て分かる、放射状の動き。幽霊の目撃談は、とある箇所を中心として、徐々に遠くへと広がっていく形で推移している。思った以上に明確に現れた形に、一同は奇妙な真剣さで顔を見合わせる。
「ってことは、問題は、ここか」
 ロッシュが頷き、放射の中心を指で押さえた。砦の三階、グラン平原に繋がる入り口。最も古い目撃情報があり、唯一複数の人間が幽霊を目撃している場所でもあり――恐らくは、この騒動の根元となる場所。
「調べよう。ロッシュ少佐、頼めるか」
 ビオラの指示に、ロッシュ達は是非も無く頷きを返す。
 そしてその場に居た部下達を連れて、問題の箇所へと足を向けた。



――――――



「――で、来たは良いが」
 砦の出口、閉ざされた扉の内側に立ち、ロッシュは辺りを見回す。見張りの兵は扉の外で警戒を続けており、こんな場所に好んで訪れたがる者もおらず、集っているのは先程部屋の中に居た者のみだ。
「結局、何を探せば良いのかは分かってないんだよな」
 三階の北側は、誰も片づけようとしない荷物がそこかしこに置かれ、他の場所に比べて随分と乱雑な印象を受ける。扉の直ぐ内側はさすがに片づいているが、その為一瞥すれば、目立つものが落ちていないのは直ぐに見て取れた。
「単純に考えれば、遺品か何かだろうな」
「それか、骨とか」
「さすがにそんなもんが転がってたら、今までに誰かが気付いてるだろうよ」
 冗談のようにレイニーが言う、ロッシュは一応否定を返しているが、付近の状態を考えればそれもけして有り得ない話ではない。
「逆に言えば、分からないくらい小さい物かもしれませんね。石の間に挟まってたりとか」
 既に捜索を始めているキールは、言葉通りに床に這いつくばり、丹念に隙間を確認している。真面目な彼らしい態度だが、ここを調べ終わるまでにもどれくらいかかることか。細かい動きには明らかに向かないロッシュが、うんざりした様子でため息を吐いた。
「ともかく、ここに有って違和感を感じるようなものを探してみよう」
「どうにもはっきりしないな。そもそも、ここで見付からなかったらどうすんだ」
「その時は、場所を移して探し直しだな」
 ストックの答えに、ロッシュは顔を引き攣らせて一歩後退る。
「……そうならないことを祈るぜ」
「ああ、そうだな。そうならないように、さっさと探すぞ」
「へいへい……ったく、こういうのは苦手なんだよ」
 ぼやくロッシュは、キールの真似は出来ないと自覚しているようで、荷物が置かれた区画へと歩いていった。ストックはその背を見送り、扉の付近に近づく。キールのように身体を沈めるでもなく、視線だけを落としたまま歩き回る動きは、傍から見れば幽霊の動きと大差ない雑なものだ。
 だが勿論、彼が一人労務を逃れ、適当に動いているわけではない。ストックにはひとつ考えていることがあった、マナの動きを感じ取り、隠されているものを見破る技術。これが意図的に隠されたものではなく、視覚で認識しづらいものを認識することもできるなら。意識を集中しながら歩を進め、周囲のマナを探っていく。やがて、頭の奥で鈴が擦れるような気配がして、ストックは足を止めた。
 見ただけで何もない箇所から訴えかける感覚を、身体が感じ取る。微かな煌めきで存在を主張する、何かが確かにそこに在った。ストックはその場に屈み込み、目を凝らす。壁際の、何の変哲もない床だ。一見して何もない、だがよく見ればマナの光りだけではなく、金属が反射する物理的な光が石の影から発せられている。
 ストックはナイフを取り出し、隙間に差し込んだ。滑らせると、石の引っかかりとは違う抵抗感が一瞬生じ、しかし直ぐに反発は抜けて刃が真っ直ぐに抜ける。それが押し出したもの、砂にまみれた指輪を、ストックはそっと摘み上げた。
「……これが」
 言葉が終わるよりも、振り向くよりも前。背後に気配を、とても冷たい気配を感じて、ストックは全身を硬直させた。
「っひ……!!」
 誰かの叫びが、薄い水を通したかのように歪んで聞こえる。背筋に氷を投げ込まれたかのような不快感に耐え、ストックはゆっくり、強張った身体を振り向かせた。

 幽霊。

 ストックは、その短い記憶にある限り、幽霊を見たことは無い。だがそれでも、触れられる程近くまで寄ったそれには、間違いなく幽霊であると感じられる何かがあった。
 それは、それ自体が薄らと光っているような、奇妙な姿のせいだったのかもしれない。或いは、極近くにあっても感じ取れない、完全に消失した体温と呼吸のせいなのかも。それとももっと何か、言葉に出来ない微妙な差異を、ストックの本能が感じ取っていたのかもしれない。
 どれが真実なのか分からないまま、ストックはただ、目の前の存在を見詰めていた。ほんの少し手を伸ばせば届く距離、だが触れようとすればきっと、指先は空を切ってそれを突き抜けてしまうのだろう。ロッシュがそうであったように――
「ス、ストック!」
 レイニーの声が聞こえる。それに促されるように、幽霊の腕が持ち上げられた。伸べられる方向を察して、ストックは目の前に掌を、そしてその上に乗せられた指輪を掲げる。幽霊の、白い――それとも発光するが故に白く見えるのか――指が、小さな金属の輪へと伸ばされた。
 そして。
「…………え、」
 幽霊の指が指輪に触れた瞬間。目の前の顔が、いや彼の全身がふわりと光り、そして散った。
 そう、散ったのだ。羽虫が飛び立つように、それを構成していた粒子が、虚空へと散って――消えた。
「何……何なの」
「ストック、大丈夫?」
 マルコに呼びかけられ、ストックは意識を現実へと戻し、仲間達の方を見る。レイニーもマルコも、そしてキール達も、呆然と幽霊が立っていた辺りを見ている。ストックも視線を動かし、目の前を見詰めた。もう何もない、幽霊も、死体も。
 ――いや。
「これは……」
 ただ一つ、残されていたものがあった。床の上に転がる、金属の輪。手にあるそれと同じ形状のそれを、ストックはそっと拾い上げた。掌の上に、銀色の輪が二つ並ぶ。
「ストック、どうした?」
 話し声を聞きつけてか、先を探していたロッシュが、入り口から顔を出した。立ち尽くす一同に首を傾げる親友に、ストックは掌を示してみせる。
「解決したぞ」
 金属が触れ合い、ほんの微かな音を立てた。きっとそれこそが、望まれていたものだ。
「幽霊は、もう、出ない」
 訳が分からない、という顔をするロッシュに、ストックは静かに笑みを浮かべる。そして、顛末を説明するために、ゆっくりと彼に歩み寄った。



――――――



「――ふむ。成る程」
 ストックの説明を聞き、提示された指輪を確認すると、ビオラはひとつ頷いた。白い指が銀色の輪を持ち上げ、くるりと回して外形を改める。
「頭文字が入っている。恋人にでも贈る品だったのだろうな」
 指輪が落ちていた砦の入り口は、侵入を試みるグランオルグ軍との間で、過去何度も苛烈な戦いが行われた場所だ。戦闘のどさくさで小さな装飾品が失われても、そしてその者がそのまま落命したとしても、おかしな話ではない。大切な品を手放したまま、死ぬに死に切れぬ魂が彷徨っていたと、そこまで言い切るのは流石に軍人として躊躇われるだろうが。
「名前の頭までが分かっていれば、該当者も探しやすい。調べて、遺族に届けさせよう」
「ああ、頼んだ」
 しばらく指輪を眺めていたビオラだが、やがてそれを机の上に戻すと、前に並ぶストック達を順に眺める。
「これで幽霊騒動が止まれば、万事解決だな。皆、よくやってくれた」
「有り難うございます。ストックのおかげですよ」
 生真面目に応えるロッシュだが、その表情はどこか悲しげなものがあった。ロッシュだけではない、隣に並ぶストックも、後に控えたレイニーとマルコも、同様の気配を纏っている。
 軍人である限り、周囲から死を排除することは出来ない。それをよく知る彼らであってもやはり、死した者の悲嘆に触れれば、胸が痛むのであろう。ビオラも同じだ、美しい顔に悲しげな笑みを浮かべると、机上の輪をそっと撫でた。
「……で、でもさ。ほんと凄かったよね、ストック」
 暗く沈んだ空気、それを壊すように、マルコの明るい声が響いた。大げさな手振り付きのそれは、些か上擦っていたのだが、他の者がそれを指摘することは無い。彼に対して遠慮の無いレイニーですら、小さく笑って、相棒の言葉に頷くだけだ。
「そうだね、皆が困ってた事件を、一発で解決しちゃったんだもんね。指輪だって、直ぐに見付けちゃうし」
「……そんなに、大したことじゃない」
「何言ってんだ、お前が来るまで打つ手無しで頭抱えてたんだぞ、こっちは」
 ロッシュもそれに追随し、ストックの背を小突く。軽くとはいえ、馬鹿力のロッシュに背を突かれて、ストックは照れのためだけではなく顔を顰めた。そのやり取りを見たビオラが、楽しげな笑い声を上げる。
「ロッシュ少佐の言う通りだ、さすが元情報部だな。君が軍に来てくれて、本当に良かった」
「ええ、本当に。こいつならきっと、軍以外でも欲しがるところはいくらでもあるでしょうから」
「……買い被りだ」
「もー、ストックったら、照れなくても良いのに」
 レイニーが言っても、ストックの仏頂面は酷くなるばかりだが、ここに居るのは生憎彼のことをよく知る者ばかりだ。険しい顔が怒り故のものではないと分かっているから、ストックがいくら黙り込んで眉を顰めても、彼を取り囲む笑いは深くなるばかりである。
「君なら戦争が終わっても、働く先には困らないだろうな。羨ましいことだ」
 だが、何気なく零されたビオラの一言に、ふとその表情が固まる。ストックだけではない、ロッシュも、そしてレイニーとマルコも。戦争が終わる、それを目指して戦ってきたが、実際にその時が来たらどうなるのか。戦いの無い世界で生きるというのがどういうことか、考えたことがない――考えることも出来ないのに、気付いたのだ。
「さあ、どうだろうな」
 だがそれはいずれやってくる、いや、招かねばならないものだ。その時ストックは、そして仲間達は、一体何をしているのか。分からない、だがきっと、どうにかして生きていくのだろう。そしてそこでは、悲しい別れも少ないのだ。視線の端で光った指輪を、ストックは一瞬だけ見た。
 これからも彼は戦わなければならない、歴史の影で、たった一人。だがその先にあるものを見た気がして、ストックは口を開かず、ただ静かな笑みを浮かべた。





セキゲツ作
2013.01.20 初出

RHTOP / TOP