グランオルグに新女王が誕生してから、一年余りが経つ。長いとはいえない期間だが、その間さしたる問題も起こらず流れる平和な時間に、国民はかなりの満足を得ているようだった。
 直前まで在った戦争との差も含めて、人々は女王に対して大きな好感を抱いている。そもそもエルーカは、在らん限りの悪政を続けてグランオルグを崩壊まで追い込んだ前女王、プロテアから国を取り戻したという英雄的な経緯を経て即位したのだ。一般民衆がこれを支持しないわけがなく、加えて現在の堅実な施政もある。今のグランオルグで表だって反エルーカを叫べる者は、もはや殆ど存在しないだろう。
 そしてこの風潮を受け、様子見に徹していた貴族階級の者達も続々と立場を変えつつある。それを示す最も端的な証拠として、女王となった直後に相次いだ暗殺者が、今は殆ど現れなくなっていた。エルーカの死によって得られるのは、王座と膨大な利権などではなく、民衆の絶望と暴動のみ。それが、貴族たちにもようやく理解できてきたのだろう。
 勿論理由はそれだけではない。暗殺や謀反を企てた相手はことごとく処分し、またその様子を隠すことなく他の貴族に見せつけてきたことも、沈黙の一つの理由と思われた。軍部や護衛部の活躍もあり、国内に潜んでいた危険分子は、完全にとは言えないがかなりの割合を駆逐できたと言って良いだろう。勿論油断は禁物だが、王冠を頂いた直後に比べれば、彼女の身は随分と安全になったと言えた。


「――と、そんなわけなので」
 滔々と、あるいは長々と弁舌を振るうピエールの言葉がようやく途切れたのを察して、オットーは肩から力を抜いた。隣ではウィルも、似たような顔をして、分散しかけた意識を集中し直している。ピエールは頭も良く、実務にも長けている才人だが、話が妙に回りくどくなるのが欠点だ。それでも、語る内容が無意味であったことは殆ど無いので、オットーとウィルの二人は大人しく彼の話に耳を傾けている。
 彼ら二人はピエールに呼ばれ、いつもの酒場に集結していた。いつもの、といっても三人が顔を揃えるのは久方ぶりだ。戦後、内務と護衛任務に分かれてしまった彼らは、誰かが声を上げて集まらない限り、こうして飲む機会も無い。
 もっとも今日の召集は、単に旧交を暖めるための集まりというわけでも無いようだが。飲み物が来るなり語りだし、今やっと一区切りに辿り着いたピエールの話は、どうやらまだ続く様子だ。
「君達に、提案したいことがあるんです」
「提案?」
 言われたそのまま単語を繰り返す二人に視線を注ぎながら、ピエールが朗らかな笑顔を浮かべて頷いた。オットーは反射的に身構える、この男は反政府組織の軍師を勤めただけあり、時々容赦無い発案をするところがある。物凄く突飛ということは無いのだが、堅実であるが故に厳しい――オットーの脳裏を、レスタンス時代の記憶が巡った。
「はい。護衛の部隊を縮小しないか、という」
 得意げに提示された案は、その覚悟からすれば小粒なものと言える。話の流れを考えれば予測もさほど難しくは無く、実行にあたり極端な無茶をする必要もない。オットーとウィルの二人も、声を上げる程驚くことはせずに済み、ただ少しばかり眉を顰めるに留まっていた。
「いきなりだな」
「僕にとってはそうでも無いんですけどね。説明した通り、情勢は随分安定してきています。護衛に割いている人員を他のことに回せば、もっと効率よく事が動かせるんです」
「理屈は分かるがな、しかし油断しすぎじゃ無いか? 確かにここしばらくは何も起こってないが、それがずっと続く訳ないだろ」
 反発の強さは、オットーの方が少しだけ強い。女王が王女であった頃から運命を共にし、激しい戦いを潜り抜けてきた彼は、今の護衛職にも強い愛着を抱いているのだろう。だがピエールは、その反応も予想のうちと言いたげに、余裕の様子で首を横に振る。
「勿論、完全に無くす訳じゃありません、必要な人員は残します。ただ、今の規模じゃ現状に対して無駄が大き過ぎるんです、特に」
 レジスタンスの作戦立案を担当していた間、オットーには何度もこういった説得を繰り返してきたのだ。この程度は反論のうちにも入らないと、妙に芝居がかった手振りが言っている。
「あなた達二人が護衛隊に揃っている必要はありません。どちらかが軍部に移るべきです――まあ、ウィルさんが将軍に向くとは誰も思わないだろうから、オットーさんの方になるでしょうけど」
「軍部!?」
 そして語られた、さらに詳細な計画に、大きく反応したのはやはりオットーだった。ウィルは、少しばかり眉を上げはしたものの、何も言わずにピエールを見ている。
「おいおい、それはさすがに無茶ってもんだぜ。一応俺たちは女王の護衛の責任者だぜ、他の職に移るわけには」
「だから、もうそこまで神経質になる必要は無いんですよ。護衛に関してはどちらか一人で十分事足ります、今はそれよりも国内の整備に力を入れるべき時期です」
 長い戦乱と前女王の圧政で、崩壊寸前まで追い込まれたグランオルグ王国は、新女王の元で体勢を立て直している真っ最中である。大陸全土と友好を結び、さらにエルーカの絶大な支持を以てしても尚、それは簡単な仕事ではなかった。戦争と浪費の結果として物資も金銭も底を尽いた状態で、国力増強と同時に砂漠化防止の研究にも力を入れねばならないのだから、それも当然と言えるだろう。そして、何より大きいのが。
「今の女王には、信頼できる手駒が、一人でも多く必要なんです。勿論護衛にじゃなくて、国を動かすために」
 グランオルグは他の国と異なり、貴族制を執っている。王族と縁故のある一部の家系が国政を行う、戦後に至ってもその体制は変わっていない。
 女王プロテアを祭り上げ、この国を支配しようとしたセルバンもまた、貴族の一員だった。彼は戦争の終結と共に歴史から姿を消し、協力していた一部の貴族は処分されたが、それでも未だ多くの貴族が国民の上に君臨している。彼らは皆支配する立場に生まれついた者達で、そういった者が支配される側の民衆を本気で憂うことは、往々にして少ない。
「終戦を期に、民間からもかなりの数が国政に登用されていますが、それでも中心になっているのは貴族達です。彼らに頼りきったらどうなるか、簡単に想像がつくでしょう」
「――ああ、その通りだ」
 オットーもウィルも、顔を険しくして頷く。国の頂点たるエルーカは、世界と国民のことを第一に考えてくれる、清廉潔白な人物だ。だがそれに追随できる者は、貴族の中は殆ど居ない。いくら女王の理想が高くとも、国を動かす手足が腐っていれば、その意志が末端に届くことは無いのだ。誰もが彼女や彼女の兄のようには居られない。英雄として国民に支持され、自身も確かな能力を持つエルーカの、唯一の弱点がそこに在った。
 今の彼女には、駒が足りない。彼女の理想を共にし、国を動かしていく、信頼できる部下が。
「エルーカ女王を助けたかったら、やるべきは護衛じゃない。国の中枢で、国のために働くことです」
「ああ、その通りだ。それに異論は無い、だがな」
 納得した様子で頷いていたオットーだが、話が問題の点に戻るにあたり、別の険しさを顔に浮かべて首を振った。
「それを俺が出来るかっていうと、話は別だろ。軍隊の指揮なんて、今まで一度もやったこと無いんだぜ」
「軍自体の運営もだな」
「そうそう、大体、やって出来るんなら戦後直ぐにそっちに回ってるさ」
 付け加えられたウィルの言葉に、オットーは深く頷く。そもそもオットーとウィルが護衛部隊を率いることになったのは、勿論混乱した情勢から女王を守るためでもあるが、それ以前に他に出来ることが無いという事情もあった。レジスタンスとして戦いに関わっていた彼らだが、人員の少ない組織のこと、戦うときは情報と地の利を駆使したゲリラ戦が主だ。そもそも同志であり表の生活を持つ構成員と、国に仕官する職業軍人では、感覚が違うことは想像に難くない。レジスタンスリーダーの経験を、そのまま流用できる仕事では無いのだ。
 助けになればと軽い気持ちで飛び込み、余計に女王の負担を増やしてしまっては、目も当てられない。オットーのぼやきに愚痴に似た気配を感じて、ピエールは呆れた様子で片眉を上げた。
「自分の能力を正しく把握しているのは良いことですけど、それなら今までの間に、勉強するなり何なりしておいて欲しかったですよ」
「う、いやまあそれはその、一応やったんだけどさっぱり分からなかったっていうか」
「ともかく、問題点が分かっているなら話は速い。つまり、オットーさんが軍人として働けるようになれば、護衛から軍に移って女王の助けになれると」
「いや、ちょっと待てよ」
 妙に朗らかなピエールの声を、遮るようにしてオットーが叫んだ。座っていた椅子から立ち上がり、両手を広げて制止の意を示す。
「そう簡単に行くかって。ちょっと齧ってトップに立てるようなちょろい話なら、世の中軍人で溢れてるぜ」
「一から始めればそうでしょう、だけどオットーさんは違う。王女を助けて戦った救国の英雄――そして、エルーカ女王の懐刀だ」
 だがピエールも折れることはない、そして彼の主張は、理想を語るだけとも言えなかった。プロテアに追われるエルーカ王女を助けてきたレジスタンスの存在は、エルーカ自身と同様、民衆の心に色濃く印象を残している。その中心人物であったオットーならば、護衛から一足飛びに国を動かす立場に昇ったとしても、恐らく反発は少ない。
「信頼できる者は居るだろう」
 ピエールに続き、独白のようにウィルが言葉を紡ぐ。
「民間から登用された者達は、大抵が女王の理想に共感している。だがそういった者ばかりを重用していては、今度は貴族の側に不満が溜まり、エルーカ女王への非難が高まる」
「ちっ、面倒くせえなあ」
 舌打ちをして息を吐くオットーに、ウィルは一人、妙に冷静な声音で呟いた。
「それが政治というものだ、そしてエルーカ女王は今、そこに一人で立ち向かっている」
「いや、僕も居ますけどね」
「ともかく」
 ピエールの指摘はさらりと流して、ウィルがびしりとオットーを睨み付ける。
「女王のためを考えるなら、元リーダーのお前がすることは、はっきりしている。向いているのいないのと、我が儘を言っている場合では無いだろう」
 戦友の容赦ない指摘に、オットーはちらりと視線を泳がせた。彼とて二人の主張はよく理解して、そして概ねにおいて同意でもある。貴族階級の腐敗は戦争終結前からも問題になっていたことで、国を動かすにあたり、エルーカが最も苦労している部分であった。一般民衆の出身である旧レジスタンスリーダーが貴族と同等の立場になるのは、彼らを牽制する意味でも利点がある。可能ならば、戦後直ぐに将軍位に就き、右腕として働くべきだったろう。
 それをしなかったのは、ただひたすらにオットーの実力不足があってのことだ。だが、いつまでもそれを押し通すわけにもいかない。
「分かってるよ、エルーカ女王を一人にはしておけないもんな」
「いやいや、僕も居るんですって」
「その意気だ。女王も――王子も、喜ぶだろう」
「……まあ、ともかく。オットーさんには軍務に関してを勉強してもらって、ある程度実力が付いたところで異動してもらうと。それで構いませんね?」
「……ああ、了解」
 とはいえ、勉強したからといって直ぐに出来る気がしないのも、また確かなわけだが。不安げに肩を落とすオットーの肩を、ピエールが慰めるように叩いた。
「大丈夫ですって、オットーさんなら何とかなりますよ」
「そうなら良いんだがなあ。はぁ……こんなことなら、エルンストが居る間に、国政についても教わっておけば良かったぜ」
「確かにな。だが、今それを言っても始まらん」
 ようやく腰を椅子に戻しつつ、終始冷静な態度を崩さなかったウィルを、オットーは恨めしそうに見遣った。
「人事だと思って、気軽に言ってくれるぜ」
「そう言うな。自分もピエールも、お前のことを信じている。それだけだ」
「そうですよ。リーダーとして、レジスタンスを牽引してくれてきたオットーさんなんですから」
 にやりと笑うウィルと、それに乗るピエールの言葉は、確かに半ばまではオットーを持ち上げるためのものだったかもしれない。だがその内に、言葉通りの信頼の色を感じて、オットーの目が緩やかに光る。
「あー、分かったよ。そんなに煽てなくても、やってやるさ」
「さすがリーダー。頼りになります」
「だから、煽てるのは止めろって。それにもうリーダーじゃない、レジスタンスは解散したんだ」
 そして肩を竦め、相変わらず大仰な仕草で、鋭い笑みを浮かべてみせた。
「今の俺達は、エルーカ女王の忠実な配下だ。女王陛下のためなら、ちょっと無茶を通すくらい、当然のことだろ」
 その言葉は、強がりでも何でもなく、オットーの心からの信念だ。十六という若さでありながら、自分の幸せを捨てて国のため、そして世界のために身を捧げているエルーカ。そして――彼女の前を歩いていた、兄エルンスト。彼らの力になるためなら、己のこだわりなど何程のものでもないと。
「よし、そうと決まれば乾杯しようぜ! エルーカ女王のために!」
「ええ、グランオルグのために!」
「そして我らが友オットーの、新たな道のために!」
 気合いを入れて杯を打ち慣らす彼らの顔は、目指す理想と守るべき者を見据え、強い光で輝いている。その想いを以てすれば、不可能なことなど、何も無いように思われた。



――のだが、現実はやはり非常なもので。

「あー……くっそ、何だよこれ」
 城の図書室の中、机の上に広げられた軍の報告書を見て、オットーは見事に頭を抱えていた。向かい合って座るピエールも、難しい顔で首を捻っている。
「うーん、思ったよりも難解ですね。戦術書を読むよりは解りやすいかと思ったんですが」
 彼らが眺めているのは、軍で保管している過去の書類だ。まずは実例を以て軍隊の動きを理解しようと、保管庫から借り出してきたものである。一応は機密に属する情報で、戦時中は目を通すにも面倒な手続きが必要だったのだが、平和になった今ではさほどのこともない。勿論自由に閲覧できる筈も無いが、ピエールとオットーが揃って頼むことで、持ち出しまでは許可してもらうことが出来ていた。
 そうして教材は手に入れたのだが、それが理解できるかどうかは、残念ながら全く別の話だ。軍独特の書式で書かれたそれらの文書は、門外漢が見て理解出来るかなどは全く考慮されていない。ピエールも、忙しい間を縫って協力しに来ているのだが、彼とて本職は内政だ。戦術も昔、教養程度に勉強したことはあるのだが、その程度で理解できる内容では無かった。
「記号の意味が分からん。それと単語も、後は文法も」
「全部じゃないですか。やっぱり、最初は本でも読んで勉強した方が良かったですかね」
「いや、それはもうやってみた」
「結果は……聞くまでもありませんか」
 オットーのような人間には、教科書を与えるよりも、実戦に即した例で学んでもらう方が良い。そう思って選んだ方法だが、基礎知識が無い状態では、そもそも内容を読み解くことすら難しかった。戦術の入門書のような本があれば良いのだが、戦争が長かった割に、グランオルグには士官の教育環境などは整っていない。基本的には専門の職業教師や退役軍人などが教育役となるか、そうでなければ今彼らがやっているように戦術書や過去の事例を元に学んでいくのが、実戦を除けば唯一の勉強法と言えた。
「貴族の奴らは、それこそ家庭教師でも雇って、せっせと教育に励んでるんだろうがなあ」
「さすがにそこまでの予算はありませんからね、僕にもオットーさんにも。誰か詳しい人に手ほどきして貰えれば、少しは捗るんですけど」
「軍はな。信頼できないわけじゃないが……」
 ディアスがほぼ完全に掌握していたグランオルグ軍は、ある程度は戦犯として処分されたものの、大部分の軍人はかつてのままに残されている。彼らはかつて、オットー達と敵対していた相手だ。個人的な遺恨は無くとも、以前の敵をトップにするために力を貸せとは、中々言いづらいものがある。
「それこそ、エル――ストックに頼めればいいんだけどな。あいつ、今こっちに来てるんだし」
「現実味の無いことを言わないでくださいよ」
 オットーのぼやきに、ピエールが呆れた目を向けた。
「来ているといっても、アリステルの外交担当としてじゃないですか。僕達と旧交を温めている時間も、余裕も無い」
「そりゃあまあ、そうだけどな。でも、最初のちょっとでも教えて貰えりゃ、後は自分で進められるだろうし」
「それが我が儘だって言うんです。大体、女王だってストックに頼りたいのを我慢してらっしゃるだろうに、その気持ちを台無しにするんですか」
「う、まあ確かに、そうかもしれないけどな」
 ピエールの指摘は見事に急所を射抜いていたようで、オットーは気まずげに視線を泳がせる。
「だが、ストックだって、エルーカ女王を助けたいって気持ちは……」
「俺がどうかしたか」
 しかし、硬直しかけた場の空気は、割って入った声によって壊された。噂は当人を呼ぶというが、それにしても出来すぎたタイミングに、ピエールとオットーは目を見開いて顔を見合わせる。
「ストック! どうしたんだ、こんなところに」
「いや……案内を頼まれてな」
「おや、先客が居たのかい」
 そして声の側に顔を向けると、そこに居たのは話題の人物と、さらに他に二人。アリステルの首相であるラウルと、同様にアリステルの将軍を勤めるロッシュの姿が、ストックの後ろに続いていた。
「これは失礼した。出直した方が良いかな」
「いえ、こちらこそ失礼致しました。ご使用なさるのでしたら、僕達にはお構いなく」
 揃って現れた友好国のトップに、二人は慌てて立ち上がり、礼の姿勢を取る。ラウル首相もロッシュ将軍も、立場を気にせず接する人物だが、それに甘えるわけにはいかない。
「遠方からいらしている方が優先されてしかるべきです。お邪魔なようでしたら、直ぐに退散致しますので」
「いや、お気を使わずに。以前よりこちらの蔵書を拝見したいと思っておりまして、それでストックに案内を頼んだだけですから」
「そうですか、それでしたら……」
「書類――軍の記録か? 妙なものを広げているな」
 ピエールとラウルが会話している横で、自分のペースを崩さないストックが、机の上を見て呟く。オットーが慌てて片付けようとするが、それを制してストックは書類に目を通してしまった。
「おいおい、勝手に見るなよ。一応軍事機密だぜ」
「もう戦争は終わったんだ、この程度なら構わないだろう」
「まあ、確かに大した内容じゃ無いけどね……」
 初心者であるオットーのために選んだ書類は、数年前に起きた、極小規模の小競り合いに関する記録だ。戦時中でも価値は低い、まして戦争が終わった今となっては、意固地に隠す程のものではない。扱いとしては機密に属するが、見られたところで何ほどの問題が起こるとは考えられなかった。
「どうした、こんなものを引っ張りだして。何かあったのか」
「いや、別に何って程のことじゃあ」
「ひょっとして、戦術の勉強でもしていたのですかね?」
 言い触らすようなことではない、誤魔化してしまおうかと言葉を濁しかけたが、知略で知られるラウルに対して、それが通じる筈も無い。あっさりと真実を見抜かれて、それを否定することも出来ず、オットーは黙って書類を整える。その態度を肯定と見なしたのか、ラウルは人当たりの良い笑みを浮かべてみせた。
「いやあ、何処も事情は同じですね。アリステルも人材不足が深刻でして、上に昇れそうな者には積極的に教育を受けさせているんですよ。オットー殿も、率先して学ぶ姿勢を見せていらっしゃるとは、頭が下がります」
「あ、ああ……そうですよね。お互い、戦争の悪影響は大きいですか」
「成る程な。確かに、お前達がもっと中枢に入れれば、エルーカの負担も減るか」
 納得した様子で頷き、ストックはオットーの手から書類を奪い取った。ぱらぱらと目を通し、机の上に戻す。
「だが、いきなり実務書類から入って、上手くいくか? 大体の書式が統一されているとはいえ、書き手の癖も出る。正式に纏められた書物を使った方が、分かりやすいんじゃないか」
「いや、そういう本ってのは、やたら専門的に書かれてるもんだからな。それこそちゃんと教師について教わるんでもなけりゃ、余計混乱するだけだろう」
 その横に並び、いつの間にか一緒になって覗き込んでいたロッシュが、ぼそりと呟いた。城内ということでさすがに全身鎧は付けていないが、それ故に誇示されている鍛え上げた巨躯は、狭苦しい図書室の中において如何にも窮屈そうに見える。
「そういえばロッシュ、君はどうやってこういった書式を覚えたんだい? 専門に習ったわけじゃないのは知ってるけど」
「俺の場合は、隊長に教わったんですよ」
「――ああ、彼か。確かに、彼は随分と、君の教育に熱心だったからね」
「ええ、あの時は使う筈も無いのにと思っていましたが」
「ふむ……成る程、どなたか上司の方にでも教えて頂いたのですか。やはり、教師役が居ないと難しいものですかね」
 同じく、考えつつ言葉を紡ぐピエールの視線が、ちらりとストックに投げられた。それに気づいたオットーが、呆れてピエールを睨み付ける。
「おいピエール。さっきは、エルーカ女王の気持ちを考えたら、ストックには頼れないとか言ってたくせに」
「何ですか、僕は何も言っていませんよ」
「……俺も、物を教えられる程詳しいわけじゃない」
「ほら、ストックもこう言ってるぜ」
「オットーさんこそ、さっきと意見が真逆じゃないですか。何がしたいんですか、一体……」
 交わされるやり取りで大体の事情を察したのか、ラウルが密かに苦笑を浮かべている。と、何を考えたものか、その目が僅かに瞬いた。
「ロッシュ。どうせなら君も、オットー殿と一緒に勉強したらどうだい」
「は? 何ですか、いきなり」
 唐突に声をかけられたロッシュは、予想外の提案に目を剥く。それはオットーとピエールも同様で、突然そんなことを言い出したラウルの意図が読めず、目を見合わせて疑問符を交わしていた。周囲の反応に、ラウルは気づかぬ振りで、真意の読めない笑顔を浮かべている。
「君も書類仕事で苦労しているじゃないか。一度基礎から勉強してみたら、少しは楽になるんじゃないかな」
「いや、そりゃまあそうかもしれませんが、でもグランオルグの事に俺が首突っ込むわけには」
「そんな大仰にしないで、あくまで個人同士として勉強会を行うんだよ。双方が必要としていることを、効率的に学ぶためにね――どうでしょう、オットー殿?」
「や……こっちはまあ、その」
 唐突すぎる提案に驚きつつ、オットーは反射的に言葉を返した。同意にも取れる内容に、慌ててピエールを見るが、彼も反対の声を上げてはいない。何事かを考えているのは、ラウルの提案によって生じる、利益と不利益を計算してでもいるのだろう。すっかり政治的な考え方の身に付いた友人に、オットーは頭を抱えたくなる。
「ロッシュも、一通りの知識はありますから、それをお教えしつつ自分も勉強するということで。お一人で進めるよりは、随分捗ると思うのですが」
「や、それは勿論こちらとしては、願ったりなご提案ですが」
 慎重に言葉を紡ぐピエールを、オットーは横目で睨んだ。余計なことを言うなという意思は、果たしてどこまで通じたものか、残念ながらピエールは我関せずという態度で言葉を続けてしまう。
「しかし、将軍もお忙しいでしょう。特に今は遠征でいらっしゃっているのですから、余計な時間など無いんじゃありませんか」
「いやいや、大丈夫です。おっしゃる程忙しいわけじゃありませんよ、今だってこうしてストックに付き合っているくらいです」
「勝手に、人の予定を決めないでくださいよ……」
 困りきった表情のロッシュが、ちらりとオットーを見遣る。彼としては、面識の殆ど無い他国の人間に物を教えるなど、考えられない事態なのだろう。生真面目な性質と聞いているから尚更、様々な気苦労と不安を抱えるこの役目は、避けたいものだと推測できた。かといってあからさまな否定は、それはそれで失礼にあたると、己の意思を主張できずに居るに違いない。
「というか本当に、大したことは分からないんです。俺程度のもんじゃ、教えられる方も困ると思いますよ」
「それでも、独学よりは余程早いだろう。双方嫌じゃないなら、決まりということで良いね」
「いやっ……」
 それに加えて強引な上司――いや、今は元上司か――を前にすれば、押し切られてしまうのは仕方がないか。傍目で見ても明らかなほど困りきった様子に、オットーはむしろ同情の念を抱いた。
「そうだ、ストック! 俺よりお前のが良いんじゃねえか」
「俺はもう、軍人じゃない」
 唯一の救いにと水を向けた親友は、冷たいことにあっさりと首を横に振っている。
「以前に学んでいたのかもしれないが、その記憶は無い。教えて教えられる保証も無い以上、安請け合いは出来ない」
「そりゃ俺だって同じだ、大体お前の知り合いなわけだし」
「それに、お前の方が教えるのには向いている。何せ、従軍一年も経たない新兵部隊を率いて、一国に立ち向かえるくらいだからな」
「それはラウル首相が」
「ともかく」
 言い募ろうとするロッシュを遮り、ストックがロッシュをぐいと引き出した。
「やってみたら良いだろう。結果上手くいかずとも、何も出来ずに唸っている現状よりは良い」
 見た目より余程強いストックの力に、ロッシュが姿勢を崩した、その視線がオットーのそれとぶつかる。双方に驚き、そして直ぐ気まずげに逸らされた様子を見て居ない筈も無いだろうが、ラウルが殊更明るい調子で声を上げる。
「よし、じゃあそういうことで、オットー殿も構いませんね」
「ええ、勿論です」
「ってお前が答えるなよ!」
「いやいや、構わないじゃないですか。それとも、何か不満が?」
「不満っていうか、なあ」
 あるとするなら、不満というよりは不安と気後れなのだが。明らかに後込みしている相手を前に、乗り気で頼める人間は、恐らくあまり多くはない。ロッシュにとっての不幸は、少ないうちの二人が、ここに揃ってしまっていることだろう。当人たちの当惑を完全に無視して、ラウルは笑顔でロッシュを押し出し、ピエールは席を立ってロッシュのために差し出した。
「問題ないなら、話は早い方が良い。ロッシュ、今日はもう用事は無かったね? 今から少しでも始めておいたらどうだい」
「へ、今からって」
「ああ、それは有り難い! お忙しい中の貴重なお時間を申し訳有りませんが、是非お願いしたいです」
「いや待てよピエール、そんな勝手に」
「ウィルさんには伝えておきますから、こちらの時間は気にしなくて良いですよ。教わった内容、後で僕にも教えてくださいね」
「それは良い考えだ、人に教えるというのは、何より理解を深めますからねえ」
 完全に当人の意思を無視した話の展開に、オットーは呆然と周囲を眺めた。ふと見ればロッシュは、もはや抵抗を諦め、諦念に染まった目で事態を傍観している。この首相の下で働き続けてきた彼にとって、今のような状態は、さほど珍しいことではないのだろうか。目が合ったロッシュに、同情に満ちた苦笑を浮かべられ、オットーは目眩を覚えた。
「じゃ、そういうことで。やりづらいだろうから僕とストックは遠慮するよ」
「僕も一旦お暇します。ああ、でもストックはどうでしょう、一緒に教えてくれるならそれはそれで」
「いや……やめておく。俺も部屋に戻ろう」
 口々に好き勝手なことを言い、本人たちの同意も得ないまま予定を既定事項とする男達に、オットーの口から深い溜息が零れる。発するのは息よりも反対を述べる言葉であるべきだが、そこまでの余裕はオットーにも、そしてロッシュにも存在しない。
「それじゃあロッシュ、何かあったら使いを遣るよ。何もなければ、会食までに部屋に戻っていてくれればいい」
「オットーさんは、ここで夕飯を摂ってくれても全く構いませんから」
「いや、それはさすがに勘弁してくれ……」
 ラウルとストックに続いて、冗談めかした笑顔を浮かべ、ピエールが図書室を出て行く。残された二人は、もはや逃げることもできず、顔を見合わせて薄笑いを浮かべるばかりだった。



――――――



 ロッシュを図書室に残し、ピエールとも別れたラウルとストックは、仕事に戻るために自室を目指していた。しばらくは、考えごとでもしているのか、互いに無言で歩を進め続ける。
 やがて階段を上がり、周囲に人影が増えたころ、喧噪に紛れるようにしてストックが口を開いた。
「随分、気前が良いな」
 淡々とした口調からは殆ど何の感情も読み取れず、ラウルは軽く眉を上げる。
「ロッシュのことかい?」
「他に何がある」
 綺麗に磨かれた床を叩く靴音が、声に重なって響いた。一定のリズムで刻まれるそれが、広い天井に広がって消える。
「明確な予定が無くとも、仕事はいくらでもあるだろうに。余計なことに時間を使っていては、後々面倒になるんじゃないのか――ロッシュも、お前も」
「余計なこととは、中々手厳しいね」
 ラウルの側も、常の柔らかな物腰に変わりは無いが、それが故に与える印象を平面的にしていた。親しいもの同士にも関わらず生じている奇妙な空気は、そこに第三者が居たならば、首を傾げるものだっただろう。
「君の昔の仲間なんだろう? 少しくらいは助けてあげても良いじゃないか」
「その理屈でいくなら、教師役は俺であるべきだな」
「まあね」
 ふ、とラウルが笑顔を浮かべた。微かなその笑みは、形と同じように柔らかく、深い親愛を感じさせるものだ。ストックが持つ、怒りに似た曖昧な反発を理解して、それで尚笑っている。
「だけど、あの役目はロッシュであるべきなんだよ。彼のためにもなるし、長い目で見ればもっと大きな益もある」
 ストックもラウルの行動に不満があるわけではない、反対するつもりなら、先程話が決まる前にしている筈である。ただ彼は、ラウルに親友を利用する意図がないか、牽制も含めて確認したいだけなのだ。若い彼らの互いを思いやる想いは、例えそれが攻撃的な形を取ろうとも、ラウルにとっては好ましいものである。
「それに君も、一緒になってロッシュに押しつけていたじゃないか。それに関しては、どう説明してくれるのかな」
「押しつけたわけじゃない。俺はただ、これで書類仕事が得手になればと、そう思っただけだ」
「うん、僕と一緒だね」
 にこやかにラウルが言うが、ストックは表情を変えず、じっとラウルを見続けている。いつの間にか二人は迎賓用の区画に入り、後は互いの部屋に向かうだけというところまで来ていた。道が分かれる角で立ち止まったままの二人を、巡回中の兵が不思議そうに見遣りながら去っていく。
「まあ、勿論それだけってわけじゃないけど」
 ストックが、何某かの納得を得るまで立ち去らないつもりであることを察して、ラウルはまた口を開いた。
「オットー、彼は元レジスタンスのリーダーで、今もエルーカ女王に信を置かれている。順調にいけば、この後軍のトップに立つことも、さほど難しくはないだろう」
「……未来の将軍に、恩でも売っておきたかったか?」
「そういう言い方もできるけどね」
 ふ、とラウルが笑った。恩を売る、それは確かに最も適切な単語だろう。だが、彼が望んだ意図を全て語るには、もう少しばかり内容が足りない。
「それと、そう――これで、彼とロッシュに、個人的な繋がりができるだろう」
 付け加えた言葉に、ストックの視線に不思議そうな色が浮かんだ。
「君はオットー殿と親しいだろうが、ロッシュはそうじゃない。けど、こうして縁を作っておくことで、いずれ親しい仲になる可能性はある」
「……ああ」
「そうすれば、将来、軍の指導者同士が友人ということになる。あるいはそれが、諍いの種を潰す一因にもなるかもしれない」
 軍人といえど、人であることに変わりはない。親しい友人と殺し合うような事態は、誰しも避けたいと思うものだ。それを考えると、互いに負う責任の少ない今のうちに、気の置けない仲になっていてもらうのは重要なことである。
「今の世界は、君と君の働きを中心にして、ひとつに結びついたものだ。逆に言えば君の存在を失えば、その後に何が起こってもおかしくはない、繋がりはもっと強固にしておくべきかと思ってね」
 ラウルの言う内容を吟味するかのように、ストックは数度瞬きし、僅かな間目を伏せた。再び開いたその瞳は、先程よりももう少し柔らかな色が宿っている。
「随分、気の長い計画だ」
「それに不確かだしね。でも、これが僕の性分で、仕事なのさ」
 確実な一手ではない、将来起こりうる災いに対して、全く何の影響も及ぼさない可能性もある。だが、今打てる手は、全て打っておかなければならない。再度の争いがある時、ラウルがそこに居られる可能性は低いのだ。
「厄介なものだ」
「それは失礼。まあ、ロッシュのことも放りっぱなしにはしないよ、出来るだけ手助けはするつもりだ」
「そうしてやってくれ」
 ひょいと肩を竦めるストックに、ラウルは笑顔で返す。ストックの側も、それでどうにか納得を得てくれたのか、後は何を言い縋るでもなくドアノブに手をかけた。
「もう話は良いのかい?」
「……ああ。もう十分だ」
 そう言い置いて扉を開け、間に身体を滑り込ませる。と、その動きが途中で止まり、戻された視線が再びラウルを見た。
「何だい?」
「……いや。何でもない」
 しかしそこに在ったであろう言葉は、結局発されずに終わる。彼自身も、何を言うべきか理解していなかったのかもしれない。それも道理だ、己が一つにした世界が孕む問題を前にして、いったい何が言えるというのか。
「それじゃ、僕も部屋に戻るよ。何かあったら遠慮せずに呼んでくれ」
 ラウルもそれ以上を追求することはせず、己に割り当てられた貴賓室へと滑り込む。ストックももう、それを呼び止めることはしない。
 それぞれの思惑と希望を、無言の中に浮かべて、彼らは日常へと戻っていく。扉を閉じれば、破る者が現れるまで続く、しんとした静寂が残るのみだ。



――――――



「――悪いですね、突然妙なことになっちまって」
 他の者が出ていった後の図書室で、オットーとロッシュの二人は、諦めて書類の広がる机の前に腰を下ろしていた。一応の教師役に任命されたロッシュが、教材となる文書を手に取り、目を通していく。
「いや、オットー殿のせいじゃありませんから。むしろこっちが謝る側ですよ、うちの首相が無茶を言い出して」
「いや……ピエールの奴も、思い切り乗ってましたから」
 溜息を吐くオットーの前で、一通り見終わったロッシュが、片手で起用に書類を揃える。とん、という小気味の良い音が、静かな図書室に響いた。
「どうです?」
「あんまり、アリステルと変わりませんね。これならまあ、何とかなると思いますよ」
 ある程度の知識があるとはいえ、他国の軍の文書など、見て分かるものだろうか。そんな不安もあったのだが、どうやら杞憂だったらしい。
「アリステルは元々、グランオルグから独立した国ですから。その時に、文化だのあれやこれやも持ってきたから、結構グランオルグとは共通点があるそうですよ」
「へえ……成る程。詳しいんですね」
「受け売りですがね」
 オットーの賛辞に、ロッシュは少しばかり恥ずかしげな顔をして、言い訳のように呟きを零した。受け売りだというその知識は、彼が将としての知識を教わった上司から、同じように学んだものなのだろうか。武勇で知られる将軍の頭には、自身が謙遜するよりもはるかに深く、様々な情報が詰められているのかもしれない。
 実戦一辺倒、叩き上げの軍人だと聞いていたが、その裏には武力だけではない能力があるということか。今は別の名を持つ、かつての主君の姿を思い浮かべ、目の前の彼がその親友であるということをオットーは密かに納得する。確かにそれくらいの才が無ければ、誰より先を走り続けたあの王子に比肩するのは難しい。
「それじゃ、さっさとやっちいまいますか。オットーさんも忙しいでしょう」
「そりゃこっちの台詞ですよ。遠征中であれこれ忙しいでしょうに、余計なことに付き合わせてすいませんねえ」
「いや、お気になさらず。言い出したのは首相ですから」
 先程と同じ言葉で取りなすロッシュだが、それで素直に頷くことは出来ない。護衛部隊の責任者としてアリステル軍の動きは把握しているが、その際に得た情報だけでも、ロッシュの忙しさはよく理解できる。気にするなという言葉を額面通りに受け取って安心するのは、、ピエールならば可能かもしれないが、オットーには無理だ。
「何か、お返しできりゃあ良いんですがね」
 そもそもこの状況は、ロッシュに対して利が少なすぎる。共に学ぶことでロッシュ自身の勉強にもなると、それは確かに一理があるだろうが、オットーが得るものに対して随分と薄い理由である気がした。
「いや、本当にお気になさらず。……ああ、でももし良かったら」
 ロッシュの側では、オットー程にその事実を気にしているようには見えなかったが。しかしあまりにオットーの肩が落ちていたからか、ふと笑みを浮かべて言葉を続けた。
「今度、剣を教えてくださいよ」
「剣? 確か将軍の得物は、槍でしたよね」
「戦場では、そうなんですがね。建物の中で振り回すには、ありゃちょっとでかすぎまして」
 言われてオットーは頷く。彼の長身と同じ程度の長さを持つ突撃槍は、広い戦場においては比類無き威力を誇るが、狭い室内での取り回しは一切考えられていない。将軍として、自国でも他国でも室内の仕事が増えたであろうロッシュが、副武器として剣を選ぶのは納得できることだ。
「剣なら、軍服で持っててもそんなに不自然じゃありませんしね。素人相手ですいませんが、お暇な時にでもちょっと手ほどき頂けりゃあ有り難いです」
「ああ、そんならお安い御用です。本を睨みつけろって言われるよりゃ、よっぽど気が楽ですよ」
 しみじみと、吐き出すように頷くオットーに、ロッシュは朗らかな笑顔を浮かべる。冗談でも何でもなく、オットーの心底からの本音であったのだが、それでも空気が明るくなるのは良いことだ。オットーも釣られて笑うと、それを良しとしたのか、ロッシュが手にした書類を机に広げた。
「有り難うございます。それじゃ、遅くならんうちにこいつもやっつけちまいましょうか」
「……ああ、そうっすね」
 現実へと引き戻す一言に肩を落としつつ、オットーも改めて机に向き直る。ペンを取り、難解な文書に向き合う二人は、にわか仕立てにしては中々に息が合って見えた。

 既にラウルはここに居ない、だから、この光景が彼の意を叶えたものかは分からない。
 まして、将来これが平和を保つ礎に成り得るのか。
 
 ――それは、誰にも分からないことである。






セキゲツ作
2012.12.18 初出

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