長く続いた宴も、そろそろ終盤に差し掛かかってきている。盛り上がりも徐々に収束へと向かい、室内には穏やかな空気が漂っていた。この日の為に貸し切られた店内は、参加する人数に対して、贅沢に広い。それを良いことに皆、席を崩して思い思いの場所に陣取り、小さな輪を作ってそれぞれの会話を楽しんでいた。
 今日開かれているのは、ストックの帰還を祝う宴だ。世界の命運を賭けた戦いで、ニエとして儀式の間に消えたストックだったが、時を経た今こうしてこうして皆の元に帰ってきてくれていた。あの光の中での出来事を、彼は話そうとしなかったから、世界に命を捧げた身で戻ってこられた理由はわからない。だが詳細が語られずとも、ストックと再び時を重ねることができる、その歓喜は誰にとっても間違いのない真実だった。
 その証を示すかのように、今夜は彼の親しい者達によって、帰還を祝う宴が開かれている。アリステルの城下町にひっそりと設けられたこの席には、公式の場ではないにも関わらず、各国の要人が顔を揃えていた。エルーカ女王に、ガーランド王、アリステルからはラウル首相とビオラ大将。セレスティアとフォルガの重要人物となったアトとガフカも、この日のためにアリステルを訪れ、かつての仲間と共にストックを囲んでいる。ヴァンクール大陸に在る国全てから中心人物が集うなど、国同士が交流を始めた今であっても、大きな会議でもなければ見られる光景では無いというのにだ。
 皆、ストックのことが好きなのだ。レイニーとマルコは、人が見れば驚くような顔ぶれを見ながら、我が事のように誇らしげに笑う。食事が粗方終わってから、彼らは二人で部屋の片隅に陣取り、皆が騒ぐのをのんびりと眺めていた。ストックは彼らと離れ、出席者皆と話すためにそれぞれの卓を転々としている。主賓の義務というだけではない、ここに居る皆がストックと話したがっている、その気持ちに応えてのことだ。姿を消した彼の帰りを誰もが待ちわびていた、それが叶った今この時に、募った思いを伝えたくない者は居ない。そしてストックの側でも、その気持ちは同じなのだろう。大切な者達と言葉を交わす彼の顔には、常に穏やかな笑みが浮かんでいた。
 レイニーとマルコも、ストックと共に居たい気持ちに変わりはない、だがそれは今でなくとも構わないと思っていた。これから先も時間はあるのだ、彼はもう何処かに行ったりしない、今はそれだけで十分だった。
 と、ストックが腰を上げ、席を離れた。話の区切りがついたところで席を動くつもりなのだろう、杯を交わしていたガフカとその膝に抱えられたアトが、名残惜しげに手を振っている。これで大体の参加者と話し終わった筈だが次は何処へ行くのか、そう考える二人の座る卓に、ストックが近付いてきた。
「ストック。お疲れさま」
「もう挨拶はいいの?」
 マルコとレイニーが口々に声をかけると、ストックは微かに笑って応えながら、マルコの隣に腰掛けた。どうやら次は、いよいよ彼らの番らしい。二人は一瞬視線を交わすと、嬉しげに笑って、ストックを受け入れる。
 ストックの手にした杯は半ばまで干されていたが、それを満たそうとするレイニーの動きは、彼自身によってやんわりと制止された。あちこちで酒を勧められたのか、色の白い顔には、珍しく朱が上っている。
「ああ。二人とも、すまなかったな」
「何言ってるのさ、僕たち何もしてないよ」
「そうそう、場所を用意してくれたのは首相さんだし。一緒になって騒いでただけじゃない」
 酒の代わりに水を満たした杯を渡すと、そちらは大人しく受け取ってくれた。直ぐに煽られ中身を減じたそれに、水差しを傾け再度水を満たしておくと、有り難うと言葉が帰ってくる。素直で真っ直ぐな礼を向けられて、レイニーは驚きつつもくすぐったそうに微笑んだ。
「どういたしまして。でも、ストックがそんなに酔ってるのなんて、初めてかも」
 レイニーの知るストックは、いつでも冷静な上司であり、どんな危機でも乗り越える頼もしい仲間だった。こうして親しい人々に囲まれ、勧められるままに酒を過ごして酔う姿など、出会ってから今までで初めて見る。レイニーの呟きにマルコも同意し、丸い目を見開いて頷いていた。
「そういえばそうだね。一緒にお酒飲んだこともなかったっけ?」
「……どうだったか」
「前にシグナスで、ガーランド王が宴会を開いてくれたことはあったよ。でもストック、あんまり飲んでなかったけど」
「ああ……あの時は、戦いの最中だったからな」
 ストックの言う通り、以前彼らが旅をしている間は、常に戦いが傍らに在った。敵中では勿論、味方を約束してくれた陣営にあっても、気を抜いて酔いつぶれるなどということは出来るはずもない。かつて見上げた厳しい横顔を思い出し、レイニーはふと胸に痛みを覚える。だがそれも一瞬だ、その光景はもはや過去のもので、これからはそんな顔を見ることも少なくなるに違いない。マルコの考えを読みとったかのように、マルコも明るい笑顔を浮かべ、手にした杯を持ち上げた。
「今はもう、戦争は終わったからね」
「ああ」
 朗らかなその声に、ストックも笑って頷いてくれている。微かではあるが、確かな歓喜を湛えたそれが嬉しくて、レイニーも持ち前の明るさを遠慮することなく振りまき、にこりと全開の笑顔を浮かべている。
「そうだね、だからストックも酔っぱらって大丈夫! ほら、もっと飲んで!」
「ちょっと、レイニー!」
「いや……もう散々飲まされたんだ。勘弁してくれ」
 苦笑しながら杯を後ろに逃がすストックだが、その顔に本気の嫌悪は無く、むしろ楽しげな色ばかりが浮かんでいる。だからマルコも、止めはするがレイニーを怒ったりはしない――止めるのは、本気であったが。
 そうしてひとしきり笑って、それが収まるとストックはふと表情を引き締め、二人に向き直った。
「レイニー、マルコ。二人とも、有り難う」
 そして改まった様子で告げたのは、素直な感謝の言葉だ。数瞬前との落差に、マルコは丸い目を瞬かせ、レイニーは微かに頬を赤くする。
「な、何よ急に、改まって」
「有り難うなんて……そんなの、こっちが言うことじゃないか。僕たちがこうしていられるのはストック、君のおかげなんだよ」
「そんなことはない」
 ストックも、酒気の赤みは残っているが、そこに酔いの無いことははっきりしていた。真剣な目でかつての部下、そして仲間であった二人を、見詰めている。
「お前達が居なかったら、俺はあそこまで辿り着くことは出来なかった。きっと、何処かで足を止めてしまっていただろう」
「そんなことないって! あたし達、ストックについていくのがやっとで」
「いや、お前達の力で、あの戦いを生き延びて帰れたんだ。ずっと、俺と共に来てくれて――感謝している」
 ありがとう、という言葉と共に頭を下げられて、レイニーは何を言っていいか分からずただ目を瞬かせた。マルコもまた、相棒と同様に黙り込んでしまっている。ストックが戻ってきたことへの実感が一気に吹き出して、彼らから言葉を奪ってしまっていた。嵐のように吹き荒れたあの戦いは、確かに終わっていたのだと、今更にも思える慨が湧いてくる。三人の間に、声にならない思いを乗せた沈黙が流れた。
「――あははっ。なんか、照れちゃうな」
 そしてそれを破ったのは、レイニーの明るい声だった。上気した頬を誤魔化すようにして、顔を上げたストックに笑いかける。
「でも嬉しいよ、ストック。あたし達もちゃんと、ストックの力になれてたんだね」
「そうだね、僕も安心したよ。ストックはいつも僕達の前を走ってる気がしたからさ、仲間って言ってもちゃんと助けられてるのかって、そう思ってたんだ」
「……そんなことを考えていたのか」
 苦笑に近い表情になったストックが、二人に優しい視線を向けた。こんな話が出来るのも、平和な時が訪れ、そしてストックが戻ってきたからだ。旅の最中は静かに話すこともできなかった、背を合わせての戦いでは語るよりも密な絆を築いてきたが、こうして改めて会話を交わすのは随分と新鮮な心地がする。
「むしろ、お前達には、助けてもらってばかりだった。いくら礼を言っても足りない」
「もう、そんなのお互い様だって。僕達だって、ストックが居なかったらどうなってたか分からないんだから」
「そうそう、だからこれからもよろしくね?」
 だがそれも、これからは日常的な光景に出来るのだ。時間も機会もいくらでもある、その事実が互いの顔に、明るい笑顔を生じさせてくれている。
「――ああ。また、よろしく頼む」
 ストックが笑う、表情の動きこそ僅かだが、そこには確かな幸福が滲んでいた。そして勿論、レイニーとマルコのそれにも。
 穏やかに笑い合う中で、ふとマルコとストックの目が合い、視線が交わされた。何かを心得たようにマルコの口角が上がる、その意味をレイニーが問うよりも先に、マルコが杯を手にして、自らの席を立った。
「じゃ、僕はちょっと外させてもらうよ。レイニー、後はよろしく」
「え? ちょっと、どうしたのよマル」
 戸惑うレイニーには構わず、マルコはストックに向けて、ちらりと目を瞑ってみせる。ストックの瞳に、言葉にしない感謝の色が浮かぶが、相棒を見送るレイニーはそれに気付かない。呆れた様子で溜息を吐き、申し訳なさそうに首を捻りながらストックへと身体を向けた。
「ごめんねストック、マルったらいきなり」
「いや、気にするな」
「仕事のことでも思い出したのかな。折角ストックと飲んでるのに、融通が利かないんだから」
 先程までの上機嫌は一転、口を尖らせて憤慨するレイニーを、ストックは苦笑しつつ見詰めている。旅をしていた頃と変わらない、真っ直ぐな気質が愛おしいと、その目線は雄弁に語っていた。
「俺は構わない、お前に話したいこともあったしな」
「え、そうなの? マルも一緒じゃなくて大丈夫?」
「ああ」
 だが傍目には明白なその感情を、当のレイニーだけは分かっておらず、ストックからの誘いにも首を傾げるばかりだ。ストックはそんなレイニーに視線を置いたまま、手にした水で軽く喉を湿らせた。
「感謝を、伝えたかったんだ」
「え? そんな、それはもう良いじゃない! 何度言ったら気が済んでくれるの、もう」
 そして切り出された話は、確かに冒頭のみでは先程の話題を蒸し返したものではなく、レイニーは一瞬目を丸くする。彼なりの冗談だとでも思ったのか、若干照れを交えながら笑って、ストックを叩く真似をしてきた。そんな反応にストックも笑いながら、首を横に振って否定の意を示す。
「いや、さっきまでの話とは違う」
「へ?」
「共に旅をした間のことじゃない、旅が終わってから、今までの話だ。お前は、俺を待っていてくれた」
 穏やかに、そして真剣にそんなことを語られて、レイニーはただ純粋に驚いている。ぽかんと口を開けたまま、照れることも忘れて凝視する彼女に、ストックは優しく真っ直ぐに応えていた。揺るぎない様子は、それが至極本気の感情であることを表しており、レイニーの心に羞恥と喜びと困惑を同時に引き起こしてくる。
「そんなの、当たり前だよ。皆ストックのこと待ってたんだから、ロッシュ将軍もエルーカ女王も、アトちゃんも」
「お前も、だろう」
「勿論! あたしもマルも、待ってた……」
 約束をしていたわけではない、確証があったわけでもない、それでも皆は信じて待っていた。必ずストックは帰ってくると、希望を捨てることなく、ずっと。勿論レイニーもその一人で、逆に言えばいくら気持ちを込めていても待ち続けた大勢のうち一人でしか無くて。一瞬のうちにレイニーの脳裏に巡った、そんな考えを分かっていてかどうか、ストックはレイニーを見詰め続けている。
「ああ、お前は待っていてくれた。レイニー、だから俺はここに帰ってこられたんだ」
「へ? え、いやでもそんなこと」
「あの酒場の前にお前が居てくれたから、俺は迷わずに帰ってこられた。お前が、俺のことを待っていてくれたからなんだ」
 そう語るストックの顔に、一瞥して分かる程に真摯な表情が浮かんでいる。整った顔立ちに浮かぶそれには、見る者の心を落ちつかなくさせる何かがあって、レイニーも例に漏れずに真っ赤になって視線を逸らしてしまった。
「あ、あはは、そうだったの。良かった、あたしもいつもあそこに居たわけじゃないからさ、たまたま居る時で良かった。うん、ストックがちゃんと気付いてくれて、ほんと良かったよ」
「ああ、そうだな、本当に。――レイニー」
 その反応に気付いていないわけはないだろうが、ストックは凝視に近い視線を逸らそうとはしない。耳まで赤く染まったレイニーの顔を見詰めて、口を開いて。
「俺は帰ってこられた」
「う、うん」
「先のことは分からない、だが少なくとも俺は、このままお前達の居るここに居たい。何があろうと、何処へも行かず、ここで時を過ごしたいんだ」
 語りながら、杯に添えられていたレイニーの手を握りしめた。唐突な感触にレイニーがびくりと身を縮めるが、ストックは構わず手に力を込める。
「戦争は終わったし、砂漠化も解決に向けて動き出している。お前も俺も、戦う必要は無くなった、だから」
 その間もレイニーから視線は外さない、戦いに向かう以上の集中力で相手に向き合っていることが、その姿からは見て取れる。きっと周囲のことはストックの脳裏から消えて失せているのだろう、同じ部屋に何人もの知り合いが居ることも、自分がこの場の中心であり皆彼の言動を気にかけていることも。全て失念してしまっていることが明らかな、抑える気配も無いよく通る美声で。
「結婚しよう、レイニー」
 言い放たれた言葉は、声量以上の大きさで以て、部屋中に響きわたった。

――息が詰まるような静寂が、室内に満ちる。

 席から離れたマルコも、まさかこんな展開になるとは考えてすらいなかったようで、丸い目と口を同じようにぽかんと開いて二人の仲間を見ている。彼と話していたガフカも大同小異の表情だ、人からは表情の読みづらいブルート族だが、今の彼が浮かべた感情を見間違える者は居ないだろう。
 いや、驚きで言ったら最も大きいのは、ストックの妹であるエルーカだ。大きすぎる驚愕に、声も出せずに固まったまま目だけを何度も瞬かせ、唐突に始まった兄の求婚を見詰めている。彼女と共にテーブルを囲んでいたソニアとビオラも、やはり驚きに支配されて動くこともできず、ただ互いに視線を見交わして今の言葉が幻聴でないことを確かめていた。
 その隣のテーブルで、アトとキールの相手をしていたロッシュも、妻と同じような顔をして奇行に出た親友を見詰めている。持ち上げた状態で動きを止めていた杯が、手から滑り落ちて天板の上を転がったことにも、おそらくは気づいていない。
 場の誰もが驚いている中で、最も冷静だったのは、ガーランドとラウルの二人だった。さすがに年の功と言うべきか、勿論盛大に驚きはしているものの、自失して身動きが出来なくなる程の驚愕では無い。むしろ明らかな興味を示しながら、無遠慮にストック達二人を眺めている。
「レイニー、俺と結婚してくれ」
 部屋に居る人間は、店の者も含め、残らず彼ら二人を注視している。そんな状況に気付いてすらいないストックは、硬直したレイニーを見詰めたまま、さらに情熱的に言葉を重ねた。レイニーは答えない、いや応えられない、あまりにも唐突な求婚に思考が停止してしまっている。手を握られ、上気した頬で目を見開いたまま、彼女の動きは完全に停止していた。
「え、ええむぐっ」
 彼女よりも早く動き出したのは、むしろ聴衆となってしまった周囲の仲間達だ。衝撃による硬直が解け、驚愕の叫びを口にしかけたキールを、傍らに居たロッシュが慌てて押さえ込む。同時にガフカが走り、同じく動きを取り戻して騒ぎ出しかけたアトを、怪我をしない程度の強さで捕まえた。口を塞がれ、声にならない声で叫び暴れる二人だが、自分よりも遙かに体格の良い相手に拘束されてはさすがに動くことも出来ない。
 それでも気持ちは抑えられなかったのか、キールはむぐむぐと訳のわからない叫びを続け、無駄にもがき続けている。ロッシュはすっかり興奮してしまった元部下に溜息を吐くと、険しい顔で何かを耳打ちした。低く囁かれた中身を他の者が聞き取ることが出来なかったが、言われた当人であるキールの脳にはしっかりと届いていたようで、暴れていた動きがぴたりと止まる。そーっと動かされた視線の先に見えたのは、訓練の時もそうは見られない程厳しい、というよりも恐ろしい表情だ。敵に対する殺気とさほど変わらない気配を間近から浴びせられ、キールの顔が一気に青くなり、動きもぴたりと停止した。縮こまったキールを一瞥し、ロッシュが腕を放すが、自由になった筈の身体は暴れるどころか身じろぎ一つしない。余程の恐怖を味わったのだろう、哀れをもよおす姿ではあったが、ともあれ彼がストックの行動を邪魔する可能性はこれで無くなった。
 ガフカの側はもう少しばかり苦労しているようだった、何しろ相手はアトだ。子供らしく我が儘で頑固な少女は、ガフカが少しばかり言葉で宥めたところで、聞く筈も無い。かといって自分より小柄な少女に対して、弟子を扱うように拳を降らせるわけにもいかず、ガフカは困り果てた様子でひたすらアトを抱えている。打つ手が無いようにも思える状況だが、実際のところはあまりに大きな体格差のため、それで十分にこの場は凌げてしまっていた。少女の想いがいくら強くとも、鍛えぬいたブルート族を凌駕出来る程の、物理的な力が出せる訳がない。ひたすらに手足をばたつかせるアトだが、抱き上げる形で腕の中に納められた状態は変えられず、そのまま壁際に下がられてしまう。掌の下で何やら怒鳴っているアトから、諸々が終わった後でぶつけられるであろう癇癪を予想して、ガフカは密かに溜息を吐いた。
 そんなガフカの困惑になど一切気付かないのは、当事者の次に興奮してしまっているエルーカだ。世界の礎になった筈の兄が帰ってきた、それだけでも心は浮き立っていたのに、戻って早々に起こったのがその兄による求婚騒ぎである。女王といってもまだ十六、七の少女に変わりは無く、色恋に関して興味を持たないわけがないのだ。目の前で繰り広げられる告白は、それが実の兄のものであるという事実も相まって、彼女の冷静を奪うに十分な衝撃を持ったものだった。
 声も無く、白い頬を真っ赤に染めているエルーカの横では、やはり驚きに声を失っているソニアの姿がある。彼女にすればストックは、長く付き合いを共にした親友だ。浮いた話などちらとも聞かなかった彼による、あまりにも唐突な話に、さすがの彼女も平静を保ってはいられないようだった。真っ赤になった顔で、何故かエルーカと二人手を握り合っているのは、どちらもすっかり興奮してしまっているからだろう。悲鳴が上がらないのが不思議な程頭に血を上らせている二人だが、それに対して彼女らと席を並べるビオラは、さすがにそこまでの動揺を見せていない。ストック達と隣の二人を交互に見遣る目の中には、驚きの底に面白がる光があることが、はっきりと見て取れる。
 そしてビオラの同様の無責任な興味を、ラウルとガーランドは、さらに顕著な強さで抱いていた。ほんの数瞬で驚きから立ち直った彼らの顔は、双方共に完全に野次馬のものとなってしまっている。お互いに視線を見交わして浮かべた笑みは、祝福するというよりも、もう少し意地の悪い印象を受けるものだ。さすがにストックの邪魔はしていないが、事が終わったその時には遠慮無く彼を弄ってやろうという意思が、彼らの表情からは感じられた。
 部屋に居るそれぞれがそれぞれに驚きを示し、誰一人逸らすことなくストックとレイニーを見詰めている。己を取り巻く全ての方向から凝視を注がれて、そこでようやく状況に気付いたのか、ストックがレイニーから視線を外して周囲を見回した。
「……何を、見ている」
「いやいやいやいや」
 そして発せられた牽制に、即座に反応したのはロッシュとマルコだった、重ねるようにして声を上げて否定の意を示す。いや正確に言えば彼らだけではない、声にこそ出していないがエルーカとソニアも、男二人と同じような顔で何かを言いたげにしていた。綺麗に揃った表情に、耐えきれなかったガーランドが、妙な音を立てて吹き出す。
 そんな反応もストックには気に入らなかったのか、邪魔をするなと言わんばかりに眉間に派手な皺を刻んで、親友と元部下を睨みつけてきた。無言ながらも強烈な抗議だったが、周りの者達は視線を交わし、中途半端な笑いを浮かべるばかりだ。
「……どうする?」
「どうしましょう?」
「えーっと、それじゃあ僕が代表して」
「ああ、頼めるか」
「お願いします、マルコさん」
 皆に譲られたマルコは、頷いて一歩踏み出すと、軽く咳払いをして。
「――見られたくないなら、こんなところでプロポーズしないの!」
 全員の意見を代表した言葉を、ストックに叩きつけた。
 マルコの後ろでは、他の三人も深く頷いている。年長の三人も、積極的な同意はしないが、反対意見を持っていないのは明らかだ。楽しげに笑うラウル達と、呆れた様子の親友を見て、さすがのストックも少しばかりの動揺を露わにしている。
「だが、聞かずとも」
「無理を言わないでくださいストック、一緒の部屋に居るんですよ、聞こえてくる話を聞くなというのは横暴です」
 彼らの居る部屋は、人の数に対して広いとはいえ、それでも二、三十人が入ればもう一杯という程度の大きさだ。余程小声で話すのでもないかぎり、部屋の中でされている会話なら、意識せずとも聞こえてくる。潜めることもせず普通の声で求婚をして、それを聞いたといって文句を言うなど、言いがかりといっても大げさではない。
「ほんとお前は、偶にとんでもないことをやらかすよな」
「……お前に言われたくはない」
「俺だって、求婚くらいは二人の時にしたぞ。今からでも遅くねえから、別の部屋に行けよ」
 手厳しい言葉と共に、現実的な提案を示すロッシュだったが、ストックはそれにすら渋い顔をしている。
「だが、まだ返事が」
「んなもん、今直ぐ聞かんでも良いだろうが。レイニーだってこんな大勢の前じゃ答えづらいだろうし、そもそも直ぐ返事したくないかもしれんぞ」
 急に名を呼ばれて、レイニーはびくりと肩を震わせた。衝撃のあまり完全に自失していたようで、真っ赤な顔でされるがままに手を握られていたのだが、自分の名を呼ばれて少しは正気に戻ったのだろう。何処まで状況を理解しているかは分からないが、困惑した様子で周囲を見回した後、ストックを見詰める。その視線に何を感じたか、ストックは一層強くレイニーの手を握り締め、じっと見詰め返した。
「おうおう、熱烈だな」
「若いねえ、見ていて微笑ましいよ」
「……ストック! いい加減にしろ!」
 背後から聞こえてくる野次馬の話し声に、ロッシュは慌てて親友を止める。本来ならば当人が自分で気付くべき状況だが、今のストックにそれだけの余裕は無い。普段であればロッシュ以上に細かい観察眼を持つ男なのだが、人生の一大事を前にして、それもすっかり曇ってしまっている。ロッシュや他の者達の心からの忠告も、彼の耳を素通りするばかりだ。
「ストック」
 しかし、そんなストックでも、どうしても聞き流せない声がひとつ。それまで黙っていたソニアが、エルーカの手を取ったまま、淡々と声を上げた。
「別の部屋に移ってください、ストック。プロポーズは人前でするものじゃありませんよ」
「……だが」
「だがじゃありません」
 決して怒鳴るでもない、むしろ穏やかとも言える声音だが、ストックの反応はロッシュに対するものと目に見えて異なる。怯えた、とまではいかないがそれに近い動揺を浮かべ、レイニーからソニアへと視線を移した。敗色濃厚な状態で、それでもレイニーの手を離さなかったのは、見上げた根性だと言えるだろうが。
「良いですか、女にとってプロポーズは一生一度の大切な思い出なんです。それをこんな、大勢に見られて笑われながらされるなんて」
「いや、笑っているつもりは無いんだけどねえ」
「見守っているだけなんだがなあ」
「お二人とも、少し黙っていてください」
 ぼそぼそと言葉を交わす年長者二人を、ビオラがぴしりと一撃する。頼もしい戦女神に、ソニアの微笑みと一礼が送られた。美しく優雅なその仕草は、当然ながらストックに向く際には完全にかき消えてしまう。
「ストック、今からでも構いません。別室をお借りして、二人だけでやり直してあげてください」
「ソニアさん……」
「ソニア、しかし」
「ロッシュだって、プロポーズだけは二人の時にしてくれたんですよ? あのロッシュですら、ですよ」
「……あー、うん、悪いないつも」
 妻のぽろりと漏れた本音に、今は責められる相手では無いはずのロッシュが小さく身体を縮めて妻に頭を下げた。ストックも、朴念仁で知られるロッシュよりもさらに酷いと言われたのが応えたのか、今までとは違う真剣さで考え込んでいる。その姿に、ロッシュが何事か文句を言っているが、それを聞く者は誰も居ない。
「分かった……」
 そして、ついに覚悟を決めて頷いたストックに、ソニアは華やかな笑顔になった。レイニーも、俯いたままではあるが、どこか安堵の気配を漂わせている。やはり彼女も、衆目を集めたままの求婚では応えづらいものがあったのだろう、それを見て取ったエルーカとマルコもほっとした表情を浮かべた。
「成る程、彼女が力関係の頂点か」
ガーランドが懲りずに呟き、ビオラに鋭い視線を向けられている。ストックはそんなやり取りには構わず、ついに最後まで離さなかった手を引いてレイニーと共に立ち上がった。
「レイニー、行くぞ」
「う、うん」
「頑張ってくださいね、ストック。最初からちゃんとやり直すんですよ」
「今更最初から?」
「ストック」
「それはさすがに間が抜けて」
「最初からです、ストック」
「…………」
 穏やかではあるが、強烈な強制力を持った笑顔と言葉に、ストックは大きく溜息を吐いた。彼女に逆らえないのは何も夫だけではない、三人が共に親友であった昔から、ストックもまたソニアに敵わない一人なのだ。
「分かった……最初からだな」
そう言って頷くストックに、ラウルが感心して嘆息し。
「やっぱり、ソニア君が一番強いね」
 懲りずにそう呟いてビオラに睨みつけられていたが、それを気にする者は、やはり誰も居なかった。



――――――



 店の者に頼んで別室を用意してもらい、そこにストック達を押し込んだ皆は、そのまま元の部屋でテーブルを囲み直していた。時刻は大分遅くなっていたが、予想外の出来事で場は再び暖まっており、帰ると言い出す者は誰も居ない。一部の者は酒を、それ以外は各々好みの飲み物を手に、一塊になって時間を過ごしている。
「彼ら、上手くやっているかねえ」
「大丈夫ですよ、邪魔者も居ないことですし」
 先程までストックと対峙していた名残が残っているのか、首相に対しても辛辣な言葉を放ちながら、ソニアが微笑む。だが台詞はともかく、その表情はとても満たされたもので、求婚劇の行く末が幸せなものであることを確信しているように思えた。それはソニアだけのことではない、この場に居る誰もが、彼らの結婚を疑っていない。帰るかも分からないストックを待ち続けたレイニーの姿は、皆の記憶に強く残っている。妹であるエルーカですら、戻ってきたばかりの兄を奪われる寂しさは無く、純粋な喜びに顔を輝かせていた。
「……ガフカのばか。ばか。ストックが行っちゃったの」
 だがアトだけは、その輪に加わることが出来ず、未だ止まらない涙をぽろぽろと零してしまっている。拗ねたままガフカを何度も叩いているのは、肝心な場面で拘束されていたことへの仕返しだろう。ガフカがああしてアトの身体を抑えていなければ、アトはストックにその想いをぶつけて、レイニーへの求婚を阻止しようとした筈だ。
 ガフカは眉を情けなく下げて困った表情を作っているが、それでもアトを止めることはせず、小さな拳で叩かれるままになっていた。彼も彼なりに、仲間の幸せのためにアトの気持ちを犠牲にしてしまったことを、少しばかり気にしてしまっているのかもしれない。
「うー……ストック」
「アトちゃん、その、元気を出してください」
「嫌なの。エルーカはどうして平気なの、ストックが行っちゃうのに」
「そんな、行ってしまうだなんて」
 おずおずと声をかけたエルーカも、アトの気持ちを開くことは出来ない。反対に噛み付かれそうになり、困った顔で目を伏せてしまう。
「ストックは何処にも行ったりしません、だからこそ、レイニーさんにあんな……」
 語っているうちに思い出してしまったのか、エルーカの目元がぱっと赤く染まった。アトはその反応も気に入らなかったようで、憤慨して拳を振り上げている。
「裏切り者なの! エルーカはストックのことが大好きだと思ってたのに」
「それは勿論、大好きに決まっています。だからこそ、幸せになってくれるのが嬉しいのです」
「アトは嫌なの、幸せになるならアトと一緒がよかったの」
 鼻を鳴らすアトの目から、涙がまたひとつ零れ落ちた。無骨な手でガフカが頭を撫でてやるが、拗ねたまま機嫌を直そうとしないアトに、ぺしりと叩かれてしまう。むう、と唸るガフカがさすがに哀れになったのか、ビオラがアトを引き取って己の隣に座らせた。
「それくらいにしておきなさい、アト殿」
「ビオラは黙ってるの!」
 アリステルの誇る戦女神に手ずから招かれ、直ぐ隣に座らせられるという栄誉だが、怒れる少女にはそのありがたさが分からなかったようだ。ガフカに対するのと同じように八つ当たりをされて、ビオラの口元に笑みが浮かぶ。それが苦笑ではなく、本気の楽しげな笑顔であることに、ビオラの器がよく表れていた。
「ストックが結婚して残念なことは分かる。しかし、そういつまでも泣いていては、可愛い顔が台無しだ」
「……可愛くなくていいの。ストックはもうアトのこと見てくれないの、可愛くても関係無いの」
 彼女のそれは少女の恋であったかもしれない、しかし確かに本物の愛でもあった。それが分かっているから、ビオラもけして笑い飛ばすことはせず、話を聞いては頷いている。
「そう言ったものではない、なにもストックだけが男では無いぞ。一人に失恋したくらいで全てを投げ出していてば、あまりにも勿体無い」
「でも、アトはストックが好きだったの」
「気持ちは分かる、確かに彼は良い男だからな」
 ラウルやロッシュが驚いた顔で彼女らの会話を見詰めている、戦女神の恋愛話は、戦場での彼女しか知らない男達にとってはあまりに意外性のある光景だったようだ。呆然と無遠慮に視線を送る二人に、ビオラはちらりと笑いかけると、アトの頭を撫でる。
「だが、世界で一番という程ではない。彼よりも良い男などいくらでも居るさ」
「……嘘なの。ストックより格好良い人なんて居ないの」
「嘘なものか、私が軍で何人の男を見てきたと思う?」
 命令による硬直から解放されたキールもまた、ビオラの語りに真剣に耳を傾けている一人だ。軍に入る前から憧れていた英雄が、少女のためとはいえ幼い恋愛話に興じているのを、羞恥と驚きの混じった目で見ている。良い男、という単語で一瞬己の身体を見たのは、もしかしたらという気持ちがあったからだろうか。そして直ぐにその視線は逸らされ、代わりに悲しげな溜息を吐いたのは、それが有り得ないことだとあっさり自覚が出来たからか。
「私が見てきた限りで言っても、ストックが一番とは、まあ言えないな。二番目かどうかも怪しい、三番目で何とか妥当と言ったところか」
「凄いなあ、ストックさんより格好良い人がいらっしゃるんですか。どんな人でしょうね、僕の知ってる人かなあ」
「黙って聞いとけ、話が拗れる」
 ロッシュの一瞥でキールが口を閉じたから、というわけでも無いだろうが、アトはようやく涙を抑えて顔を上げた。本当なの、と小さく呟かれ、ビオラは大きく頷く。
「ああ、本当だとも。アト殿に相応しい良い男など、これから先いくらでも見付かるさ」
「うー……」
 相変わらず顔を顰めるアトだが、ビオラの言葉に心を動かされているのは確かなようで、拗ねる勢いも随分と弱いものになってきていた。失った恋の痛手が癒えるにはもう少しの時間が必要だろうが、少なくとも今のまま立ち止まることは、これで無くなっただろう。余計なことが言えずに黙っていたガフカも、心配げに見守っていた女性陣も、安心して息を吐き出した。
「よし、取り敢えずはこれで一件落着だな」
「そうですね。後は、プロポーズが上手く行くのを祈るばかりです」
 ガーランドとエルーカが、顔を見合わせて微笑んだ。キールもまた、気持ちを抑えられない様子で笑顔を浮かべ、ロッシュの様子を窺いながら口を開く。
「でも、きっと大丈夫ですよね、隊長!」
「当たり前だ。しかしあいつも、いざとなったらやる奴だったんだな」
「そうですね、ほんとびっくりしましたよ。何か言いたそうではあったし、何となく察しはついてたと思ったんだけど、まさかプロポーズまで飛んじゃうなんて」
 酒を酌み交わしながら、ロッシュとマルコがしみじみと頷いた。ロッシュが妙に感心した様子なのは、彼自身が親友に背を押してもらってようやく、告白に足を踏み出せたという前科があったからか。
「びっくりしたけど格好良かったなあ、ストックさん。僕もああいう風に男らしくなりたいです!」
「あれは男らしいっつーか……まあ、憧れるのは自由だがな。本当にやって顔ひっぱたかれても、俺は知らんぞ」
「何をおっしゃっるんですか! ストックさんはそんなことされませんでしたよ」
「そりゃストックだからだ、俺やお前が同じことやって上手く行くか」
「あら……あなたは、皆の前でプロポーズしていたら、私が断ったと思っているんですか?」
 からかい混じりの口調でソニアに言われ、言葉を詰まらせたロッシュの頬は、分かりやすく赤くなっている。どう答えたら正解かも分からない様子で、意味の取れない呻きを漏らすロッシュを、キールはきょとんとした顔で見詰めた。
「やれやれ、あんな夫婦が二組になるのか。独り身には辛くなるぜ」
「そうですねえ、ストックも淡泊そうに見えて、あの有様ですから。結婚したらさぞかし盛大に惚気てくれるでしょう」
 ガーランドとラウルも、ロッシュ夫婦の仲睦まじい様子に、祝福半分遊び半分の揶揄を交わし合っていた。国家元首が二人揃って話すには下世話過ぎる内容だ、当人達に言わせれば、政治家といえどただの人とでも言うのだろうか。
 それぞれが皆、好き勝手に言葉を交わし合い、待つ時間を楽しんでいる。眠気で船を漕ぎ始めたアトを、ガフカがそっと抱き上げ、並べた椅子の上に横たえた。ストックが来たら教えて、と囁く少女に、ガフカは頷いて頭を撫でてやる。場はまだ開かない、言葉にはしないが、皆何時まででもストックのことを待つつもりだ。ストック達を祝福で出迎えるためなら、明日の予定を押してでも、この場に留まろうという者ばかりだった。
「――あっ」
 そして、どれくらいが経過しただろうか。木の軋む音を響かせながら、部屋の扉が、そっと開かれた。ほんの微かな音と風の動きだったが、全員がそれに気付いて視線を向け、待ち望んでいた二人を出迎える。
「ストック、レイニーさん!」
「お帰り、二人とも。それでえーっと、その」
「結果はどうだ? っと、まあ聞くまでも無いか」
「そうだね。まさかその手、ずっと繋ぎっぱなしだったのかい?」
 ストックの仏頂面はともかくとして、先程よりもさらに赤くなったレイニーの顔、そしてそこに浮かんだ笑顔。何より、堅く握り合った手を見れば、別室での首尾がどうであったのかは一目瞭然だった。
 皆の顔にも、心の底からの笑みが浮かんでいく。あれ程拗ねていたアトですら、不服の気配は消えていないものの、文句を言うことなく二人を見詰めていた。おめでとう、と誰かが口にし、それは連鎖的に他の者にも広がっていく。
「おめでとう」
「おめでとう、ストック」
「おめでとう、レイニー」
「……おめでとうなの」
 自然と、拍手が沸き起こった。部屋の中に満ちる、祝福の言葉と音。それを受けて二人は、照れくさそうな顔をしながら、それでも互いの手だけは離さずに握り続けていた。


――――――


「さて、それじゃ随分遅くなったことだし、この場はお開きにしようか」
 色々あった宴も、いよいよ終わりの時が訪れる。ラウルの言葉を契機として、皆は帰り支度を始めたが、その顔は満足ながらもどこか寂しそうなものだった。この夜が終われば皆、それぞれの生活に戻り、こうして集うことも滅多にはできなくなってしまうのだ。それは悲しいことだったが、同時に喜ばしいことでもある。複雑な気持ちを抱えて、それでも笑いながら、仲間達が別れを告げ合おうという時。
「ストック、今夜はどうするんだ?」
 ふと零されたガーランドの言葉により、今夜最後の大きな問題が、全力で目の前にぶら下がってきた。問いの意味が分からず首を傾げるストックに、ガーランドはからりと笑って、レイニーに視線を遣る。
「お前達も、晴れて正式な婚約者だろう。どうせまだ家も無いんだ、レイニーの部屋に泊めてもらっても良いんじゃないか」
 あっさりと何気なく言われた言葉は、しかし残念ながら、口調程に穏当なものではない。ロッシュが吹き出す音と、キールとマルコの叫び声が重なって響く中で、ストックは目を開いて硬直する。
「ああ、そうだね、これは気付かなかった。今夜は随分騒がしくなってしまったし、二人で落ち着いて時間を過ごすのも良いんじゃないか」
「いや、ちょっと待ってくださいガーランド王、首相も」
 固まったストックが口を開くより先に、慌てて割って入ったロッシュの、その反応も彼らの予想通りだったらしい。白々しい表情を浮かべて、ラウルがロッシュに視線を向ける。
「ん、どうしたんだい、ロッシュ」
「どうしたもこうしたも! その……今日の今日でそれは、さすがに早いんじゃあないかと」
「そうですよ、お二人とも、無責任なことをおっしゃらないでください!」
 ロッシュに続いてエルーカからも抗議が入る、彼女はまだ十七の少女だ、結婚を祝福する気持ちはあってもそれ以上のことを考えるのは抵抗があるのだろう。無責任、と真っ向から詰られて、さすがにガーランドも苦笑を浮かべた。
「別段適当に煽っているわけじゃ無いぜ。レイニーだってずっと待ってたんだ、気持ちが通じ合った以上少しでも長く傍に居たい、それが恋人同士ってもんだろう」
「あ、あたし!? あたしは、その」
 呆然としていたレイニーは、話を振られても答えることが出来ない、立て続けの出来事で思考が浮ついたままなのだ。救いを求めるようにストックを見るが、こちらもやはり困惑して硬直したまま、動くことができずに居る。
「おっしゃっている事は分かりますが、それにしたって順序ってもんがありますよ」
「順序か、君がそれを言うとは中々面白いね。君達だって、まだ式は挙げていないんだろう」
「そ、それはまあ……俺の時はその、戦争中でしたから」
 気持ちこそ伝え合っていたものの、正式に式を挙げて夫婦となる前にソニアの懐妊が発覚したことを揶揄されて、ロッシュは言葉を詰まらせてしまった。
「当事者同士が納得しているのなら、形式になど拘らなくても良いんじゃないかな。君の時もそうだったんだろう?」
「それは極論です、戦時中と同じ感覚でおっしゃられては困ります」
「まあ、周りがあれこれ言っても仕方がないだろう、本人の意思が一番優先だ。で、どうするんだ、ストック?」
 ガーランドの声に、考え込んでいたストックが顔を上げて、レイニーを見た。今日でもう何度目か、緊張して思考が停止してしまっている未来の妻の姿に、言葉を発さないまましばらくの間考え込む。次いで周りの者達の顔を順繰りに見て、さらに考えを巡らせた後、ようやくゆるゆると口を開いた。
「……ロッシュ、どう思う」
「俺かよ!」
 ロッシュの、反射的に出てしまった叫びにも怯まず、ストックは真っ向から親友を見据えている。その視線は真剣、というよりもむしろ切羽詰まったものだが、それにしてもロッシュとしては受け入れがたい問いかけだ。
「俺に聞くなよ、んなこと」
「冷たいことを言うな、親友だろう!」
「そりゃ親友だが! それにしたって限度があるだろ、いくら親友同士だって、踏み込める範囲ってもんがあるぞ。お前が自分で考えて、どうするか決めろよ」
「考えた。考えてどうしても結論が出ないから、お前の意見が聞きたいと言っているんだ」
 そう言って詰め寄るストックの表情が、酷く追いつめられたように感じられて、ロッシュは眉を潜めた。ロッシュが知る限り、ストックは色恋沙汰に慣れていない。軍に居る間も職を離れてからも、恋愛方面に関わった話は、一度たりとて聞いたことが無かった。あの顔と能力なのだから女性から好かれない筈は無いのだが、持ち前の無愛想さで、それらを全て跳ね退けてしまっていたのである。そんなストックが、初めて女性に想いを打ち明けるとあって、相当に緊張していたことは想像に難くない。周囲から何やかやと言われてしまうのは、そうなって当然の場所を選んで実行したのだから当然と言ってやれるが、それだけで片付けて全て見捨ててしまうのはさすがに薄情に想われる。
「……だからって、何で俺だよ。向いてないの、お前も知ってるだろ」
 しかしそこまで考えて、まだロッシュの心から躊躇いは消えない。何しろ彼は、自他共に認める筋金入りの朴念仁なのだ。男女の機微に疎いことには定評がある、そんな自分に相談したところで禄なことにならない、そう考えるのは仕方のないことだろう。
 だがストックも退くことは出来ない。一層の気迫でロッシュを睨みつけ、手で周囲を示してみせた。
「お前しか聞ける相手が居ないんだ! この中で、他に誰に相談出来ると思う」
 言われてロッシュも視線を巡らせる、ここに居る男はロッシュの他に五人。
「……キールとガフカは、まあ確かに、無いな」
 真っ先に目に入った部下だが、これはロッシュの側でも取り下げたい選択肢だった。先程からの興奮した態度が、色恋沙汰に関する経験のなさを露呈してしまっている。そしてそういう意味では、ガフカもまた同様だと推測できた。ブルート族の恋愛感がどのようなものか、人間には分からないが、武の道に生きる彼が女心に精通していると考えづらい。ガフカ自身も、いつの間にか壁際に下がって、話題は加われないとばかりに己の立ち位置を主張していた。
「マルコはどうだよ、あいつはレイニーと仲も良いし」
 となれば、とばかりに思い浮かんだのは、元ストックの部下でレイニーの友人でもある青年である。彼が思慮深く、鋭い観察眼持つ男であることは、現在の上司であるロッシュもよく知っていた。加えてレイニーとストック双方に親しいのだから適任だ、そう主張するロッシュに、ストックは無言で首を振って視線を動かした。つられて見た先には、いつの間にか隅に固まってレイニーを囲んでいる女性陣と、それに巻き込まれたらしいマルコの姿があった。目を丸くするロッシュとマルコの視線が合い、すまなさそうに頭を下げられる。どうやら女性は女性で、レイニーに向けての助言を行っているらしい。それにマルコが巻き込まれているのは理解に苦しむが、ともかくこれでマルコと、ついでに女性陣の誰かに助けてもらうことは出来なくなった。
 となると、残るはラウルかガーランドということになるのだが。
「ストック、ロッシュが嫌がっているなら、僕が相談に乗っても構わないけど?」
「そうだな、格好ばかりで煮えきらん男よりは、ちゃんと答えてやれると思うぜ」
 そう言って笑う中年二人に相談するのは致命的だと、ロッシュの本能が訴えている。確かにどちらも頭の良い人間だ、妻帯はしていないが、人生経験も豊富だろう。参考になる忠告をしてくれるのは疑いないが、彼らの場合その後が問題だ。確実にしばらくの間、悪くすれば向こう数年は、その話でからかわれることを覚悟しなくてはならないだろう。
「頼む、お前しか相手が居ないんだ」
 ラウル達の言葉を無視してそう訴えるストックを、お門違いだとはねつける事は、もはやロッシュには出来なかった。レイニーに何かを話していたソニアが、ロッシュの視線に気づいたのか、振り向いてちらりと微笑みかけてくる。妙なことを言ったら許しませんよ、そんな声が聞こえた気がして、ロッシュは微かに身を震わせた。
「ロッシュ」
「……分かった、分かった。だがあくまで俺の意見だからな、それを忘れるなよ」
 もはや逃げられないことを覚悟して、嘆息しながらストックを引っ張り、部屋の隅に移動する。他の者、というかラウルとガーランドに聞こえないように声を潜めれば、ストックも顔を寄せて聞く体勢を整えた。真剣な表情で睨みつけてくる親友に、ひとつ溜息を吐くと、諦めて唇を開く。
「今日は止めとけ。焦って動いても良いことはねえ」
 その言葉を予想していたのかどうか、ストックは表情を動かさず、ただ僅かに眉を持ち上げてロッシュを見詰めた。
「……やはり、早いと思うか?」
「ああ、気持ちは分かるがな」
 ロッシュとて男なのだから、想いを通じさせた恋人に少しでも早く触れたいという衝動は、十分理解できる。だがそれを考えても今夜レイニーを誘うのはまずいと、そう主張するだけの根拠が、彼にはあった。
「考えてみろ、今レイニーと一緒に帰ったら、何するか周りに丸分かりなんだぞ」
 下世話な話ではあるが、付き合い始めた恋人同士が一つ部屋の中で夜を過ごすとなれば、想像する内容は誰もが同じだ。勿論、そう考えるのが礼儀に反することは皆分かっているし、そうならないように思考を制御する者も居るだろう。だが目の前で成立を見せつけられた直後では、つい考えが向いてしまうのは仕方がないことだし、そもそも誰もがそんな優しさを持っているとも限らない。
「首相とガーランド王の様子、お前も見ただろ。お前等が部屋に言ったら、絶対に何か言い始める、賭けたっていいぜ」
 ストックが求婚を始めた直後から、驚きよりも興味が勝っていた彼らのことだ。部屋へと消えた二人に対して、さらに口さがない話が展開されるのは、実に分かり易く想像できる未来だった。
「何かひでえことを言われている気がするな」
「奇遇ですね、僕も同じことを考えていましたよ」
「だな。今度、思い切りしごいてやろうか」
「業務に支障が出ない範囲なら、是非宜しくお願いします」
 背後から嫌な気配を感じるが、取り敢えずそれは無視することに決めて、ロッシュはストックを睨みつける。考え込むストックだが、ロッシュの言葉には一理を認めているのか、若干顔色が悪くなってきていた。
「悪いことは言わん、今夜は止めとけ。おっさん二人の肴にされながら、レイニーを抱く気か?」
 そして、ロッシュが放った一言に、ストックは頷いた。ロッシュの目を真っ直ぐにのぞき込み、もう一度深く頷く。
 と、同じタイミングで、部屋の反対側から人の動く気配がする。女性陣も相談が終わったのだろう、振り返ればエルーカ達を後にして、レイニーがおずおずと近づいてきている。ストックも、彼女を迎える形で動き、二人は部屋の中央で向き合うこととなった。
「ストック、あの、えーっとね」
 先に声を発したが、顔を赤くしたまま上手く喋れず、困ったように視線を彷徨わせている。ストックはそんなレイニーを真っ直ぐに見詰めて、そっとその手を取った。
「っ、いやうん、そのね。ストックのこと大好きだよ、大好きなんだけど」
「レイニー」
 耳、いやそれどころか首まで真っ赤にした恋人に、ストックは可能な限り優しく微笑む。そして、しどろもどろだったレイニーの言葉を遮ると、己の意志を伝えるために、口を開いた。
「明日、また迎えに行く」
「あ、明日?」
「ああ、明日だ。……待って、いてくれ」
「…………うん! 約束だからね!」
 ぱあ、と明るく輝いたレイニーに、ストックも柔らかな微笑みを返す。二人の気持ちは一致し、最後に残った問題も見事片づいたのだった。ようやく全て落ち着いた、そんな穏やかな安心が室内に漂う。ふと視線を感じてロッシュが顔を上げると、ソニアが笑顔で自分を見詰めていた。どうやら選択肢は間違っていなかったらしいと、ロッシュは密かに胸をなで下ろす。
「ふん、成る程。鉄腕将軍も、鎧を脱げばただの恐妻家か」
「ですねえ。ストック、君もあまりロッシュに頼らない方が良いんじゃないかな? 家族仲が良いのはともかく、奥さんに弱いところまで似てしまうよ」
 これで大団円、の場に余計な一言を付け加えるラウルとガーランドを、ビオラが鋭く睨んで黙らせる。その流れにまた笑いが起きて――そうして、幸せな宴は、今度こそ終焉を迎えたのだった。



――――――



 そして、夜もすっかり更けた帰り道。
 街灯の明かりも疎らな闇の中で、ロッシュとストック、そしてソニアの三人は、連れ立って家路を辿っていた。酔いの抜けない頬を冷ます風が心地よいのか、ストックは目を細めて大きく伸びをする。
「随分疲れたみたいだな」
「ああ、まあな」
「自業自得って気もするが……まあ、レイニーに免じて、追求はしないでおいてやるよ」
 暢気な様子に、呆れた息を零すロッシュだが、口調や顔は言葉ほど嫌がってはいない。ソニアもそれが分かっているから、穏やかに微笑むのみで口は出さず、男二人を見守っている。
「しかしまあ、上手くいってよかったぜ。部屋のど真ん中でおっぱじめた時には、どうしたもんかと思ったが」
「……ど真ん中か? 隅の方だったと思うが」
「位置の問題じゃねえって。あんだけ人が見てる前でってのがまずいんだよ」
「そうだな、どの位置でも関係無い。見る方が悪いんだ」
「んなわけあるか、馬鹿」
 不満げなストックの肩を、ロッシュが身体で押す。右腕が開いていれば小突いていたかもしれない、そして不毛な殴り合いに発展していたかもしれないが、幸いなことに彼の腕はソニアと組むために使われてしまっていた。ストックも、妊娠中の親友を支えている人間が相手では、容赦なく殴り倒すわけにもいかない。行える最大の抗議として、笑うロッシュに向けて不機嫌な視線を送るが、そんな程度で怯む程肝の小さな相手ではなかった。物理的な抵抗が来ないのを良いことに、意地の悪い笑みも、揶揄の言葉も止めずに浴びせかけてくる。
「見られるのは当たり前だろ、皆、お前のことが気になって仕方ないんだ。少し考えて行動しろって」
「気にされるような、大それたことをした覚えは無いが」
「あのなあ、そもそもあれが何の席だと思ってたんだ。主賓の言動が見られてないわけないだろ」
「だが、もう皆それぞれで話していたし」
「ストック。だからといって、皆が見ている前でして良いことではありませんでしたよ」
 ソニアの穏やかな、しかし反論を許さないきっぱりとした声音に、男二人は揃って口を閉じる。ストックのこめかみに冷や汗が伝ったのを、ロッシュは見ないふりで視線を逸らした。
「……悪かった」
「あら、私に謝っても仕方がないじゃないですか。頭を下げるなら、他に相手が居ますよね?」
「レイニーにも、ちゃんと謝った。……勘弁してくれ」
 肩を落として溜息を吐くストックがさすがに哀れだったのか、ソニアはにこりと微笑み、まあ良いでしょうと許しを与える。あるいは、ビオラによって送り届けられたレイニーが別れ際に見せていた、実に幸せな様子を思い出したのかもしれない。結局のところ、当人達が幸福ならば、他の者が大声を出すこともないのだ。妻の発する気配が和らいだのを感じて、ロッシュも硬直を解いて咳払いをし、改めて口を開く。
「まあ、ともかくだな。覚えが無くても注目されるのがお前なんだよ、諦めて今度から気をつけろ」
「気軽に言ってくれるな。意味もなく観察される側の気持ちにもなってみろ、落ちつかないことこの上無い」
「ストック、あなた見られるのは苦手でしたっけ」
 ソニアが首を傾げつつつ零した呟きに、ストックはまた眉を顰めた。
「あまり得意ではない。……むしろ、大勢に見られるのが得意な人間の方が、少ないと思うが」
 あの人数、といってにもあの場にいたのは極親しい仲間のみ、数で言え十を下回る程度なのだ。同意するにも出来ず、ソニアは苦笑して隣の夫を仰ぎ見る。
「お前なあ、そんなこと言ってたら、結婚式の時どうするんだ? 今日の比じゃねえ人数に、ずーっと見られてることになるんだぞ」
 それに応えてか、ロッシュが後を引き取って言葉を続けた。結婚式、と口にした瞬間、ストックの顔が驚きに染まる。
「ん、どうした」
「いや……そうだな。結婚式か、挙げるんだよな」
「当たり前ですよ、まさか式は無しとかそんなことは言いませんよね?」
「いや、そんなつもりは無い、大丈夫だ。だが」
 不機嫌もどこへやら、何やら真剣に考え込むストックを、ソニアとロッシュは不思議そうに見詰めた。二人の視線を受けながら、ストックの瞼が数度瞬き、そっと伏せられる。
「あまり、考えていなかった。ただ結婚を了承してもらうのが精一杯で」
 その顔は、酒のせいだけではなく上気していたのだが、暗い中のことでロッシュもソニアも気付かない。それでも何かを感じたのか二人とも、何かとても幸せなものを見るような暖かい目で、ストックを見詰めている。
「そうか。それじゃあ、おいおい考えてかないとな」
 ロッシュが発したその声も、明るく力強いものであったが、同時に高揚が滲んでもいた。彼ら夫婦にとって、ストックの幸せは何より望んでいたことなのだ。義務を背負って消えたはずの親友が帰ってきて、さらにこんなにも幸福な問題に悩んでいる姿を見せてくれるなど、嬉しくない筈が無い。その思いにストックが気付いたかは分からない、普段ならば必ず察するような変化でも、今のストックならば目の前を通り過ぎてしまっただろうから。
「よし、帰ったら飲み直しだ! これからのこと、色々教えてやるよ」
「まだ飲むのか? ソニアに叱られても知らんぞ」
「構いませんよ、たまのことですから。ストックも、ちゃんと話を聞いておいた方が良いんじゃありませんか?」
「そうだぜ、いざって時にレイニーを困らせたら情けないだろ」
「勝手を言うな。まあ、話すというなら、参考程度に聞かせてもらうが」
「憎まれ口叩くなよ、先輩相手に。求婚して終わりじゃねえぞ、決めることは山ほどあるんだから、覚悟しとけ」
 現在の、そして未来の幸福に盲目になっている、今のストックはそんな状態なのだ。普通の男性なら誰しも通る道を、その出自も経緯も関係なく、彼は歩んでいる。
「……ああ、そうだな」
 それは喜ばしいことだった、親友達にとっても仲間達にとっても、きっと今はここに居ない誰かにとっても。ストック本人には分からないかもしれない、だが彼の選んだその道は、間違いなく希望そのものであったのだ。
「覚悟しておく。……色々と、な」
 そう言って空を見上げたストックの目に、映っていたのは何だったのか。
 あるいは、もう直ぐに現実となる、鮮やかな未来の光景だったのかもしれない。





セキゲツ作
2012.11.03 初出

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