月が天の高くに昇り、星々が輝く夜。いや、時刻を考えれば深夜といっても良い頃に、ロッシュはそっと家の扉を開いた。普段ならばこの時刻に家に帰ることはない、二人目の赤子を世話するソニアの睡眠を邪魔しないため、城近くの仮眠室に泊まってしまうことが普通である。だが今日は、長く続いた遠征からようやく帰還したところだ。事務処理を終わらせていたらこの時間になってしまったが、明日以降は三日程、連続した休みを貰えている。滅多にない連休だ、仕事人間のロッシュといえど、さすがに妻子との時間を最優先にしたい。仮眠室に泊まってしまえば朝の時間を共に過ごせなくなってしまう、そのため迷惑を承知で、普段は有り得ない時間の帰宅を選んだのだった。
「――お帰りなさい、あなた」
そしてその音を聞きつけ、当然のように、ソニアが奥から顔を出す。さすがに寝間着姿で化粧を落としてはいるが、眠そうな様子も見せず、仮眠をとっ取っていた気配も無い。
「ただいま。寝てて良いって言っただろ」
「大丈夫ですよ、さっきまでお乳をあげていたんです。今はもう寝てしまいましたけど」
疲れている筈の妻を待たせてしまったことに、分かりやすく申し訳なさそうな顔をするロッシュに、ソニアは優しい笑みを向けた。彼らの二人目の子供はまだ産まれて一年に満たない、数カ月を経る間少しずつ睡眠時間は長くなってきたが、一晩眠り続けるには遙かに月齢が足りない。当たり前のように語るソニアだが、親の都合など構わず乳をねだる子供を相手し続け、睡眠時間は随分と削られている筈だった。
「すまんな、任せっきりで」
「何言ってるんですか、母親ですよ? これが私の仕事なんですから」
それでもロッシュが居れば何某かの手伝いはできる、少しはソニアが休む時間も増えるのだが、遠征となればそれも出来なくなってしまう。ソニアの答えも笑顔も力強いが、一人目の子の時に子育ての過酷さを知ってしまったロッシュとしては、気にするなと言われても難しいものがあった。
「まあ、ともかく明日からの休みは無事取れそうだ。ガキの世話は俺に任せて、少しゆっくりしろよ」
「有り難うございます、でもあなたも疲れているのに」
「いいから。たまには構ってやらんと、顔を忘れられかねんしな」
「それはまあ、その。もう忘れてしまっているかもしれませんけど」
「……だよなあ」
ロッシュの言葉は自虐混じりの冗談、と見えて、実はかなり切実な危惧だったりする。赤子の脳は成長が早い、常に与えられる刺激を受けて成長するのに精一杯で、一ヶ月近く顔を合わせない人間など例え親でも覚えては居られないものだ。一人目の時に十分学習してはいるのだが、ロッシュも国の要職に就く身として、子供のために執務を疎かにするわけにはいかない。嘆き半分諦め半分で出立した遠征からの帰還を、迎えてくれるのはやはり、見知らぬ大人と判断されての号泣となりそうだった。
「まあ、だったら尚更だ。しっかり顔を覚えさせないと、不安で仕事に出られん」
「そうおっしゃるんでしたら、ふふ、お願いします。でも、無理はなさらないでくださいね」
抑えた声量で話しながら、ロッシュは用意されていた部屋着に着替える。完璧に固定されていた軍靴を外し、堅苦しい軍服を脱ぐと、久々に全ての責務から解放された感があった。表面上は常の顔を保っていても、大きく吐き出された息には、蓄積された深い疲労がにじみ出てしまう。それを察したのか、彼を見詰めるソニアが、ひっそりと心配げな表情を浮かべた。
「あなた、暖かいものでも飲まれますか?」
だが直接口に出すことを、彼女は選ばない。ロッシュが忙しいのはこの数年を通してのことだ、今ここで少しばかりの心配を訴えたところで、今後の状況を変えられることは無いだろう。それよりは少しでも、疲れた夫に安らいで欲しいと、にこりと笑って優しい提案をしてみせる。
「ああ……そうだな、頼む」
「はい」
そしてその気遣いは、ロッシュも間違いなく伝わっていた。少しだけ申し訳なさそうな顔をして、だがやはり言葉に出すことはなく、ただ有り難く妻の申し出を受け入れる。ソニアは柔らかく微笑んで応えると、茶の支度をするために水を汲み、竈の火を再燃させた。
ロッシュは食卓につき、その背を眺めながら、心地よい脱力に身を委ねる。こうして台所に立つ妻を見るのが、ロッシュは好きだった。彼女と家庭を持ったからこそ見られる姿、それを眺めていると、今の幸せな生活が実感となって心に満たされてくる。
「そういえば」
と、ふいにソニアが振り返り、二人の視線が合った。彼女の顔と声が妙に沈んだものに感じられて、ロッシュは眉を顰める。それはロッシュの思い過ごしというわけでも無かったようで、ソニアはさらに、ロッシュの顔を見ながらひとつ溜息を吐いた。
「ごめんなさい、あなたの誕生日のことなんですけど」
「あ? ああ、それがどうかしたか」
言われてから数瞬考え、それでようやく、ロッシュは自分の誕生日が一週間程前であったことを思い出した。何もなければ忘れ去ってしまうのは間違いないが、彼の誕生日と妻のそれは近い。結婚する前、もっと言えば付き合い出す前から彼らは、互いの誕生日に贈り物を交換していた。だからロッシュも、普通ならば覚えている筈も無い記念日を記憶に残しているのだ。しかし具体的な日付は言われなければ忘れてしまう、己の誕生日など、彼にとってその程度には軽い存在だった。
「贈り物を買いにいく暇が無くて、まだ用意できて居ないんです」
しかしソニアは、そんなロッシュの気持ちを知ってか知らずか、心底申し訳なさそうな表情で俯いてしまった。誕生日という話題で、そんな顔をさせるとは全く考えていなかったロッシュは、驚いて失った言葉が戻るよりも先に首を横に振る。
「いやいや、気にすんなってそんなん。忙しかったんだろ、当たり前だ」
それは妻への気遣いというだけではなく、純粋にロッシュの本音だった。彼女は二児の母であると同時に、世界を救う研究の要となる人物でもある。子育て真っ最中の今ですらも仕事を完全に止めたわけではなく、可能な限りの時間を取って研究に助力していることを、ロッシュはよく知っていた。乳飲み子を抱えて仕事にも従事してでは、暢気に買い物などしている暇が無いことくらい、考えずとも分かる。
「……でも」
「覚えててくれただけで十分だ。ありがとな」
しかしソニアの側では、大切な夫の誕生日を祝えないのに、非常な悔恨を持っているらしい。ロッシュがそう言って微笑んでも、美しい顔に浮かべた暗い色を消すことは出来なかった。ロッシュにとってはたかが誕生日のこと、ソニアが何をそこまで気にするのかが分からず、困惑して首を傾げる。戸惑いながらも何か言葉を繋げようと、口を開いたところで、計ったかのように火にかけた湯が沸騰する音が響いた。
「ああ、すいません、少し待っていてくださいね」
ソニアの意識がそちらに移り、中断していた準備の続きに取りかかる。中途で途切れた会話を無理に続ける気にはなれず、暖かな紅茶を淹れる妻の手つきを、ロッシュはまたぼんやりと眺めた。妻がどうしてそんなに贈り物のことを気にするのか、ロッシュには分からない。確かに結婚前から繰り返してきた大切な日ではあるが、それはソニアという相手があっての大切さであって、それが無くとも妻が居てくれればロッシュは構わないのだ。彼にとって一番の贈り物は、妻と子供が出迎えてくれるこの家庭であり、それ以上に重要な何かなど存在しない。だがソニアにそれを言っても伝わらないのだろう、女心というのはあまりにも複雑で、ずっと男社会で生きてきたロッシュにはとても理解できるものではなかった。
「はい、どうぞ」
そうしているうちに紅茶も入り、カップに注がれた液体をを持ったソニアが、ロッシュの傍らに歩み寄る。立ち上る湯気と、それ以上に暖かな妻の気遣いが染み渡り、ロッシュの胸を柔らかな幸福が満たしていった。
「ああ、態々すまんな。……誕生日プレゼント、これでいいぜ」
「何言ってるんですか」
ソニアは笑って一蹴したが、ロッシュの気持ちは限りなく本気に近い。共感こそ出来ないが、ソニアが本当に気にしているのを分かっているからこそ、それを取り除いてやりたかった。
「明日、子供達と一緒に渡せたら良かったんですけどねえ」
「いいって、ほんとに。――ああ、じゃあ」
陶磁器が触れ合う微かな音を立てて、カップがロッシュの前に置かれた。後は飲まれるばかりになった紅茶に、ロッシュは手を伸ばさず、代わりに下がろうとしたソニアの手をそっと掴む。予想外の行動にソニアの顔が驚きに染まるが、構わずロッシュは立ち上がり、彼女の身体を抱き締めた。
「え、え」
抵抗は無い、いや驚きすぎて反応も出来ていないようで、ロッシュの肩口からはソニアが発する意味を成さない声が響いている。その感触と、夜着を通して伝わる体温に、口元に幸福な笑みが浮かんだ。そして数秒の間、愛しいそれらを堪能すると、ロッシュは一度身体を離す。
眼下に広がるのは、上気した頬と、灯りに煌めく瞳。ロッシュはそれらをじっと見詰め、そこに拒絶の意が無いことを確認し。そして、ついと顔を近づけると、彼女の唇に自らのそれを触れさせた。
「……っ」
触れ合う寸前に閉じた瞼が視界を遮り、訪れた闇の中で、柔らかな感触が広がる。腕の中の身体は、驚きにか硬直してはいるが、抵抗の徴は全く感じられない。拘束されていない右手が、ロッシュの服を強く握り締める感触が、見えぬ部分から伝わってきた。その手はやがて、服の端から腹部、躊躇いがちに位置を動かしていく。そしてそれが背に回り、完全に抱き合う形になるまで、ロッシュは口づけを止めようとしなかった。
「――これで、十分だ」
やがて顔を離すと、至近距離でソニアと見詰め合い、にこりと微笑んでみせる。焦点が合う限界の近さで見る妻の頬には、先程よりもはっきりと朱が上り、目は薄らと涙の膜で覆われていた。
「あなた……もう!」
そして見ている間に、眼前の顔が可愛らしく顰められ、自由な右手でロッシュを軽く叩く。
「何てことするんですか、いきなり! もう、もう……驚いたじゃないですか!」
頬を真っ赤に染めて夫を叩く姿は、それは大層可愛らしく、ロッシュの顔にまた新たな笑顔が浮かぶ。それを見たソニアはさらに頬を膨らませ、ぽかりとロッシュに拳を見舞った。
「悪かったって、んな叩くなよ」
「知りません!」
「ってて、何だよ、嫌だったか」
「……何を言ってるんですか! そんなこと、あるわけないでしょう!」
真っ赤に、と言って良い程顔に血を上らせたソニアが、ひとつ大きくロッシュを叩く。さらに拳を振り上げ、しかしそれは振り下ろされることなく、ロッシュの肩に添えられた。俯いて身を寄せる妻の、赤く染まった耳を見下ろしながら、ロッシュはそっと彼女の身体を抱き締める。
「あー……すまん」
「何で謝るんですか、もう」
返る言葉に憤りの色が無いことに、ロッシュはひっそりと安堵の息を吐いた。先程の拳が怒りのそれであると、本気で思っていたわけではないが、自らが女性の心理に遠いことは自覚がある。
「いや、驚かせるつもりは無かったんだが」
「でも驚きました」
「……すまん。ほんとに気にするなと、そう言うつもりでだな」
「分かってます。有り難うございます、あなた」
その気配を感じ取ったのかどうか、拗ねたようなソニアの口調も、徐々に平静なものに戻っていく。そしてふっと顔を上げると、ロッシュを見て、花開くような笑顔を浮かべた。未だ頬の朱は残っていたが、むしろそれ故添えられた色香に、ロッシュの視線は真っ直ぐに吸い寄せられる。
「ああ、その。こっちこそ、ありがとな」
本当に、物としての贈り物など何も要らないのだ。ただそこに彼女が居て、笑いかけてくれさえすれば。
「まだ早いですよ、何も出来ていないじゃないですか」
「そうか? 今貰っただろ」
「……そんなの、いつもしていることです。お祝いになんてなりません」
「俺はこれで十分だがなあ。それより、お前の誕生日も祝わないとな、今度買い物にでも行くか」
「もう! あなたはいつもそうやって……!」
「な、何だよ」
「私だってもう、貰ってるんですから! どうして分からないんですか、もう!」
笑顔も照れた顔も、再び叩かれる甘い痛みも。全てが幸福に感じられて、やはりこの瞬間こそが最高の贈り物だと、ロッシュは心の中で納得する。
「だから、叩かんでくれって」
深夜の家の中、邪魔する者など何もない中で、二人は幸福にじゃれあっている。
テーブルの上に置かれたまま、すっかり忘れられたティーカップだけが、その様子を見守っていた。
セキゲツ作
2012.08.15 初出
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