「……ん? んー、あー……」
書類の山に取り組んでいたラウルの、困惑混じりの唸り声が耳に届いたのか、同じく机にかじりついていた秘書が顔を上げた。そしてラウルの手にした紙を見て、納得したように頷く。
「『二割』ですか」
「うん。久し振りにねえ」
呪文のようなやり取りと共に、ラウルは、手にしたそれを秘書に押し遣った。書いてあるのは、それこそ何らかの秘呪と言われても不自然でない程、のたくった文字の羅列だ。形式こそアリステル政府所定のものが用いられているが、それを構成する文章は、言語というのが危ぶまれる程に崩されてしまっている。あまりにも原型から懸け離れすぎたために、読まれることを防ぐ暗号として記されているようにも見えたが、さすがにそれは単なる錯覚だ。その最後に記されている署名は、本文よりは幾分まともな形状で書かれており、作成者がロッシュ将軍であることを見る者に知らしめていた。
「今回は随分無茶な日程でしたからね。出るとは思っていましたが」
公式に提出するにしてはあまりにも酷い内容の書類だが、受け取った二人はそれに戸惑うでも、まして憤るでもない。それもその筈で、ロッシュの字が汚いのは今に始まったことではなく、彼が将軍に就任した当初から幾度も出てきている問題だった。ロッシュはとにかく書類仕事が苦手だ、はっきりと聞いたことは無いが、受けた教育の程度がさほど良いものでは無かったらしい。文盲という程無知ではないが、文字の読み書き自体を苦手にしているのが、彼の言動からは見て取れる。それに加えて片腕が義手という制限もある、無知と障害の両方が邪魔をしていては、素早く精度の高い処理など期待できる筈もない。文書に関する仕事に対して、彼が非常な忌避感を持つのも、故の有ることと納得できた。
もっともロッシュとて、常にこんな代物を送り付けてくるわけではない。いくら苦手とはいえ、時間をかけて丁寧に書けば、一応読める程度の代物には仕上げられるのである。彼が書く大部分の書類は、悪筆ではあるが用は果たせる出来は保っており、何とか将軍としての責務を果たすことが出来ていた。普段はそれで問題ない、問題なのは、作成するための時間が十分に取れない場合だ。多くの書類が締め切り直近の時、遠征を控えて仕事が重なっている時、その他諸々の事情で一枚の書類に時間が割けない時――忙しい中、片腕のロッシュが殴り書きのような有様で作成した書類を解読するのは、常人にはまず不可能な作業だった。
そして彼は今、遠征中だ。つまりラウルの前に積まれた書類は、遠征前の多忙な時期、丁寧さを望むべくもない状況で作成されたものなのである。
「ああ、これはまた。随分急いだんでしょうね」
ラウルから回された書類を、秘書は目の高さと同じ位置にぺらりと持ち上げた。視界一杯に広がった紙には、遠目で感じる以上に乱れた、暗号どころか抽象画といっても通じそうな内容が記されている。
「読めるかい?」
「……いえ、無理そうです」
「『一割』だね。いや、ここまでのは本当に久し振りだよ」
「そうですね、最近随分少なくなってはきたんですが」
ロッシュの名誉のために補足するべきは、彼も己の悪筆を自覚し、改善の努力をし続けているという事実だ。就任当初提出される書類には、ラウルが読めないものが二割程度混じっていたのだが、時を重ねるにつれてその割合は徐々に減ってきている。特にストックが帰ってきて以来、彼から厳しい特訓を受けているようで、致命的なものの数は劇的に減少していた。
因みにラウルの秘書であれば、ラウル自身よりも読める確率は上がる。秘書でも読めないようなものの割合は、就任当時の実力で、全体の一割といったところだ。
「これと、これと、これもだな」
「多いですね。余程余裕が無かったようです」
「出発する時、彼、やたら僕に謝っていたんだよ。こういうことだったんだねえ」
予想はしていたけど、とラウルが苦笑を零す。季節外れの大雨で起こった土砂災害を受け、救援のため急遽組まれた遠征は、当然ながら本来の業務に対して完全に上乗せされる形で組み込まれてしまっている。ラウルや他の部署も目が回るような忙しさだが、当事者である軍の中枢がそれに倍する多忙だったことは想像に難くない。書類なども限界に近い速度で書かなければならなかったのだろう、その結果が目の前に並べられた、暗号文書数枚といったところだ。
だからラウルも怒る気はない、だが書類の内容が分からなければ、処理のしようがないのもまた事実だった。
「取り敢えず――これとこれは単なる報告書だと思うんだよね、形式から見て」
「そうですね、私もそう思います。後これは恐らく、何らかの備品を紛失した始末書ではないかと」
「どうして分かる?」
「表題の長さで。後、下部にリストのようなものが列記されています」
「購入申請の可能性は」
「値段が書いてありませんし、関連部署の数が合いません」
「成る程ね、一理ある。じゃあこの三枚は帰ってから処理しても問題ない、と」
ロッシュとて他の部署の忙しさは知っている、一応内容を考えて処理を行い、遅れても困らないようなものを選んで筆を走らせたようだ。その心遣いは有り難いのだが、それでも尚困ったことに、机の上には一組の書類が残ってしまっている。
「これは……」
一枚の表書きと共に提出された、各種の武器防具が列記された表。この表に関しては別の人間が作ったようで、普通に読める文字で書かれているが、表書きは例によって意味不明の模様の羅列だ。ちらりと秘書を見ても、困った様子で首を振るばかりで、どうやらこれも『一割』の範疇に入るもののようである。
「微妙なところだね。購入申請のようにも見えるし、保有量の確認報告にも見える」
「値段が書かれていませんから、備品の一覧では?」
「いや……それを報告するとしたら、保管状況と購入年数くらいは書くだろう」
「確かに。種類と個数だけで何をしようとしているんでしょうか、随分と片手落ちの書類です」
珍しく声に憤りが滲んでいるのは、忙しい中要らぬ手間を押しつけられた恨みもあるだろうか。それでもロッシュ自身に文句が行かないあたりが、普段の言動の大切さをよく示している。
「もし申請書だとしたら、急ぎの可能性もあるけど……帰りはいつになる予定だっけ」
「被害状況によりますが、各地を回りますので、二週間程度にはなるでしょうね。帰ってから改めるとなると、随分時間がかかってしまいます」
「そうだね。ストックを呼んでみようか?」
「いえ、これだけ乱れていては、恐らくストック内政官でも解読は難しいでしょう。試してみるのはご自由ですが」
「彼も忙しいからね、無駄と分かって時間を取らせたくはないな」
ロッシュの親友であり、彼の読み書きを鍛えているストックなら、ラウルや秘書よりもさらに高い精度での解読が可能だ。だがそれでも十割に至ることはなく、秘書が読めないうちの半分を読むことが出来るに過ぎない。ラウルなどはどの書類も一律に模様としか認識できないのだが、観察眼の鋭い秘書は、これがストックでも読めない『五分』の範疇だと見抜いているようだった。完全に正体不明となってしまった書類を前に、ラウルは腕を組み、低い唸り声を上げる。
「うーん……」
「回す先の部署すら分からないのでは、手の打ちようがありませんね。どうなさいますか」
「仕方がない、一度差し戻そう」
表書きに注記が記された様子は無い、もし極端に急ぐものであれば、至急を示す何らかの記載があってしかるべきだ。ならば急ぎであっても緊急ではない、確認を取る程度の時間は有る筈だと、ラウルは判断する。秘書の手から書類を受け取り、端に何事かを書き付けると、他部署行きの書類を収める箱の一番上に乗せた。
「リストを作った者を探し出せば詳細は分かるだろう、用件を確認して、もし急ぐなら代理の者に書類を再作成させれば良い」
「分かりました。キール秘書官に渡しておきましょう」
「ああ。彼も忙しいだろうけど、仕方ない」
処理の決まった安堵と疲れのない交ぜになった表情で、ラウルが溜息を吐き出す。――その上に被さるようにして、訪問を知らせる打音が響いた。
「失礼いたします、ロッシュ少将付秘書官のキールです」
そして聞こえてきた名乗りに、室内の二人は思わず顔を見合わせる。噂をすれば影とはこのことか、とはいえ都合がいいのも確かで、ラウルは置いたばかりの書類を手に戻しつつ声を張り上げた。
「どうぞ。鍵は開いてるよ」
「はい、失礼いたします」
はきはきとした元気のいい応答と共に扉が開き、キールが体を滑り込ませてくる。抱えているのは追加の書類だ、束といっても良いその量に、ラウルは反射的に表情を歪ませた。
「ああ、有り難う。ロッシュのかい?」
「半分はそうです、残りは庶務からになります。丁度そこで行き合ったもので、預かってきました」
ラウルのそれとは対照的に、キールは爽やかな笑顔を浮かべている。将軍秘書というそれなりの立場に居るにも関わらず、彼は仕事を他人に押しつけることはけしてせず、自ら動くことを厭わなかった。一般職員が持ってくる筈だったものを含めて、抱えた紙類をどさりと秘書の机に乗せると、ラウル達に向き直る。
「今回はこれを届けにきただけです。ご用事が無ければこれで」
「っと、待った待った。これ、すまないけど持ち帰ってくれないかな」
頭を下げかける彼を引き留めると、ラウルは件の文書をキールへと差し出した。顔を上げてそれを視界に収め、渡されたのが書類であることを認識すると、彼は大慌てでそれを受け取る。
「あ、はい、すいません! 不備がありましたか」
「いや、不備っていうかね」
「えーっと……ああ、用度品補充の希望調査の奴ですね」
キールはそれを受け取り、書類に存在する不備を見付けようと目を通している。その様子にラウルと秘書は、一瞬訳が分からないという様子で、言葉を失い目を瞬かせた。
「……あ、配布先の部署が足りませんでしたか。後は綴りの間違いと……」
「綴りまで!?」
「は、はいっ!? その、何か他にありましたのでしょうか!」
思わず発してしまったラウルの声に、キールは反射的に敬礼の体勢になる。今では実戦部隊を離れた一秘書官に過ぎないが、未だにふいを突かれると昔の習慣が出てしまうのだろう。びしりと背筋を伸ばしたキールに向かって、ようやく言葉を取り戻した秘書が、考えつつの様子で声をかけた。
「他に、と言いますか、キール秘書官……君はそれが、その、何の書類だか分かるんですか?」
「はい?」
しかしキールの側では、その問い自体が何のことだか分からない様子だった。内包した致命的な不備を指摘されたと思ったのか、難しい顔で書面を凝視し、書かれた内容を確認している。
「いや、そのね。それ、随分と読みづらいじゃないか」
「え、そうでしたか、申し訳ありません! 次からは指定の形式を確認の上、作成するようにいたしますので」
「いやいやいや、そうじゃなくてね!」
どうも根本的な認識が食い違っているらしい、ラウルは改めてキールの手にした紙を見遣り、自分の渡したものが間違っていないことを確認した。キールが見ているのは間違いなく彼らが頭を捻った、文字とは言えない文字で記された書類だ。暗号の如きあの文書を、彼は平然と解読し、内容を把握しているのだ。
「有り体に言えば、首相や私には、それが読めないんですよ」
同様の驚愕を覚えたのか、未だ呆然とした気配の抜け切らない秘書が、キールに声をかける。その直截な表現でようやくキールも状況に気付いたようで、書類と彼らの顔を交互に見て、丸い目を瞬かせた。
「……そうなんですか?」
「ええ。少々、その……字が乱れているもので」
ロッシュのことを誰より尊敬するキールを前に、その字の汚さを罵るのは躊躇われたのだろう、可能な限り濁した言葉で説明が加えられる。実際には乱れているなどという表現で追いつくものではない、汚いという言葉でもまだ足りないくらいの、一般人には解読不可能な代物なのだが。そこまでの感覚はさすがに通じなかっただろうが、それでもキールは彼らの訴えに納得してくれた様子で、ひとつ頷くと申し訳なさそうに頭を下げた。
「申し訳有りません、将軍も遠征前で、焦っていらっしゃったもので」
「いや大丈夫、それは分かっているよ」
「で、キール秘書官……あなたはこの書類、読めるんですか?」
「はい」
改めての問いに、別段誇るでもなく当然のような顔で、キールが頷く。
「因みに、こっちはどうだい? これもやっぱり、僕らには読めないんだけど」
「えっと……先日の演習の報告書と、ドアを壊しちゃった時の始末書ですね。あ、将軍、また綴りが間違っていらっしゃる」
直さないと、と呟くキールを、ラウルは改めての驚愕を込めて見詰めた。本当に彼はこれが読めているようだ、しかも綴りの間違いに気付く程の正確性で。
「どうして読めるんだい……ストックでも難しいっていうのに」
「え、そうなんですか?」
その呟きを聞いたキールの目が、一瞬歓喜に輝いたのは、取り敢えず見ないことにしておく。
「いえ、その、自分は将軍の秘書ですから。これくらい、当然のことです」
「私は首相の秘書ですが、さすがにこれを提出されたら、その場で書き直して頂きますね」
「出さないから大丈夫だよ。まあ、ともかく」
本来の形状とあれだけ離れた文字、恐らくは本人すら読めないであろうものを正確に解読できるのに、秘書かどうかはもはや関係ないと思うのだが。しかしどうやら本当であるらしいから仕方がない、その理由を探ったところで何の益にもならない、というか禄なことにならないのは目に見えている。
「君、読めるんだったらこの書類を訳してくれないか」
それよりも、その類稀な能力を活かして、目前の問題を解決してもらうべきだ。ロッシュに再提出させるよりも、彼の翻訳を付けて回してしまう方が、ラウルも関連部署も随分と楽になる。厳密に言えば将軍が作成した書類ではなくなってしまうかもしれないが、どれも大した内容のものではないし、首相である自分が認可すれば問題ない。
「訳、ですか?」
「うん、内容を纏め――いいや、そのまま君の手で書き写してくれ」
「はあ、構いませんが、その」
「何だい?」
「綴りが間違っているところは」「直して良いから」
しいかsこの書類の凄まじさも、それを普通に扱う己の稀少性も、キール当人は全く理解していないようだったが。ラウルのこみ上げる溜息を察したのか、秘書が後を引き取り、キールを応接用の椅子に座らせる。
「急ぎでなければ、こちらで済ませていってください。持ってきてくださった書類も今確認するので、追加で出たものがあったらそれもお願いします」
「はい、分かりました!」
「すまないが、頼んだよ。……しかし全く、凄いもんだ」
並べられた紙の内容を、素直に書き写していくキールの手際に、ラウルは感心して息を吐いた。優秀さには折り紙付きの自分の秘書でも、元最強の情報部員であるストックでも解読できなかった暗号を、苦もなく読んでしまうとは。ロッシュの悪筆に苦労させられていた日々が幻のように蘇り、己の仕事に戻りながらも、ラウルはひっそり首を振った。
「彼、良い秘書になりますよ」
「そうだね、あの能力は驚異的だ。一体どうやって身に付けたやら」
「あれだけ将軍のことを尊敬しているのだから、当然かもしれませんがね」
「いや、それを当然と言うのは、ちょっとどうかと思うけど……」
「そうでもありませんよ。優秀な秘書になる第一の条件は、上司を尊敬してることです」
応接机に書類を運び、自分の机に戻った秘書を、ラウルはちらりと見遣る。驚きが去った後のいつもの姿、それを眺めるラウルの口元に、ふと皮肉げな笑みが浮かんだ。
「それじゃあ、君が僕を尊敬してくれれば、君はもっと優秀になるわけだ」
その言葉に秘書は、微かに眉を上げ、口元を動かして何事かを言おうとする気配を見せる。
「――ではその為に、尊敬出来る仕事ぶりを見せて頂きましょうか」
そして発せられた言葉が、元々意図されていたものだったのかどうか。それは分からないが、机を叩いて仕事を促す仕草に、ラウルも肩を竦めて自らの仕事に取りかかるのだった。




セキゲツ作
2012.07.30 初出

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