金属音と湿った音を同時に立てて、アリステル兵が大地に崩れ落ちた。それを最後に戦いの音は完全に止み、辺りには痛いほどの静寂が戻ってくる。だが戻ったのは音の静けさだけだ、静謐であるはずの森は今、血と死肉に溢れた凄惨な有様に成り果てていた。緑が赤で塗り直された一角で、ただ一人荒い息を吐いていたパロミデスは、最後の力を振り絞って敵の身体から槍を引き抜く。戦いに次ぐ戦いの末、味方も敵も皆倒れ、残っているのはパロミデス一人だ。そして辛うじて生き延びた彼も、激戦の結果として、大きな傷を負ってしまっていた。鎧ですら防ぎきれなかった猛攻により、戦いはおろか歩くことすら阻害される程の深手が、彼の身体にはいくつも刻みつけられている。抉られ、裂かれた肉の狭間から溢れる血が、鎧の中でわだかまって濃い金属臭を漂わせていた。
だがそれでも、パロミデスは動きを止めようとしない。重厚な鎧に包まれた身体を引き摺って、先へ進もうと歩き続けている。進められる歩の先、森を出た平原には、グランオルグ軍の本陣があった。前線の禍が及ばぬそこは、アリステルの手が届かぬ安全地帯だ。辿り着けば彼は助かる、そして彼が防壁となり逃がしたディアスも、無事であればそこに戻っているだろう。
(あの方は、ご無事だろうか)
血を失い虚ろとなった頭で、パロミデスは考える。グラン平原の端でぶつかり合った両軍は、それぞれの司令官の元、完全に互角の戦いを繰り広げていた。互いに相手を切り崩すことが出来ず、かといって圧される程の隙も見せることはなく、ただひたすらに消耗戦が続いて。長い長い均衡の末、そのまま日暮れを迎えるかと思われた時、拮抗してた戦線が唐突に傾いた。グランオルグ側の大将であるディアスが、密やかに送り込まれた機動部隊によって、狙い討たれようとしたのだ。彼らの行動を卑怯と謗ることはできない、戦場においては奇襲も待ち伏せも、全て立派な戦略だ。罵るべきは大将に刃が届く程の懐深くまで進入を許した自軍の守りにある。完全に中央が折れる形で破られた戦線を立て直すことは難しく、グランオルグ軍は一旦の敗走を余儀なくされたのだった。
戦果としてアリステルは少しばかり前線を押し返すことになるだろう、だが決定したのは局地的な勝敗に過ぎず、この戦争全体の帰趨を決めるようなものではない。混乱の中でも発せられた速やかな撤退指令により、軍の被害も比較的少なく済んでいる筈だ。だから一度の敗北程度は何ほどの問題ではない、パロミデスが恐れているのはそんなことではない。彼にとって最大の恐怖は、敗戦そのものではなく、それによるディアスの戦死という可能性だった。僅かな勝ち負けなどどうでもいい、指揮官たるディアスが無事であれば次の、あるいはもっと先の戦いで取り戻せる。そう信じたのはパロミデスだけではない、確かな希望があったからこそ彼と他の兵士達は敵を足止めし、ディアスを本陣へと逃がしたのだ。
奮闘の甲斐もあり、ディアスを強襲したアリステル軍の部隊は、余さず全てが命を奪われていた。彼らは強行な作戦を実行した代償を自らの命で購うこととなり、その屍は累々と大地に倒れ伏している。敵陣深くに侵入する任務を帯びた部隊だ、それなりの精鋭が集められていたのだろうが、それでも死神とまで呼ばれたパロミデスには遙かに及ばなかったようだ。パロミデスにしてみれば当然の結末だが、しかし如何に彼といえど、手練の兵を複数相手取るのは簡単な話ではない。相応の報いは与えられ、壁となるべく残った兵達は皆打ち倒され、残ったのはパロミデスのみとなっていた。彼にしても与えられた傷は深く、自然の快癒を期待するのは難しいことが、目で見ずとも感じられる。
あるいは、今直ぐ適切な治療を受ければ、助かることもあったかもしれない。しかしパロミデスの感覚が働く限りにおいて、生きて動く人間は誰も残っていなかった。敵もいないが味方の姿も無い、新たな傷を負うことはないが、今ある傷が癒される見込みもまた存在しなかい。救いの希望は失われている、ならば彼が辿る運命は、ただ一つしか残されていなかった。
戦いを終えた森は静まり返り、響くのは風に騒ぐ梢の音と、パロミデス自身の立てる金属音ばかりだ。ディアスは既に近辺から去っているのだろうか、だから何の物音もせず静寂ばかりが耳に届くのか、そうであればいいとパロミデスは心底から願う。いや、願うまでもない、そうでない筈がない。ディアスとて一流の戦士であり指揮官、主力をパロミデスが止めてさえいれば、この程度の窮地を切り抜けられる筈も無い。ディアスは無事だ、だから己も帰らなければ、そう自らに言い聞かせてパロミデスは歩き続ける。重い身体を引き摺り、一歩ずつゆっくりと、歩を進めていく。
だが肉体の摂理は残酷だ、無理に動かされた筋肉は塞がれないままの傷口を変形させ、さらに大きくそれらを押し広げられていった。開いた肉の隙間からは血が、活力が、そして生命そのものが、だらだらと絶え間無く流れ出していく。既に鎧の内側は血にまみれており、粘性の水分を得て纏わりつく鎧下は、薄れ始めた皮膚感覚の中ですら不愉快に感じられた。金属臭が濃い、慣れ親しんだ筈のそれにすら頭痛を誘発され、パロミデスは奥歯をか噛みしめる。
帰らなければ、拡散しかける思考は、残された力で譲れぬただ一点に収束していく。だが同時に、彼が持つ戦士の本能は、己が纏った死の気配を感じ取っていた。酷い怪我なのだ、皮膚が破れて肉が裂け、血を運ぶ管が幾本も断ち切られている。そんな傷をいくつも負ったままで、人が長く生きることはできない。医療技術で、あるいは魔法でもってそれらを癒さなければ、さほど遠くない先に血を失い切って彼の生命は停止する。パロミデスも分かっている、分かっていてそれでも、未来を諦めることなく、歩を進め続ける。
鎧が重い。身体の一部のように着こなしていた分厚い金属だが、今となってはどんな枷よりも強く、パロミデスの身体を地に繋ぎ止めようと伸し掛かっていた。誇りと共に掲げられていた槍も、振るう力が消え失せた腕の中では、単なる杖として健気にパロミデスの体重を支えるのみだ。
かつて彼は死神と呼ばれていた、幾人もの敵兵を屠り、走る先には死のみが残る最強の戦士と恐れられていた。だがその賞賛も今は遠い、流れすぎた血に力を奪われ、彼はもはや走ることも戦うこともできない。死神パロミデス、その呼称は戦場での二つ名に過ぎず、当然ながら真に死と対等なわけではないのだ。死神も死ぬ、その事実が今、彼の身に実感となって降り懸かっている。
(帰らなければ)
流れる血に、視界は既に霞み始めていた。一歩、また一歩と動かしている足も、果たして本当に前に出ているものか分からない。指先は冷たいのを通り越して、感覚自体が失われていた。それでも彼は歩みを止めない、戻るために、主の元に戻り再び槍を捧げるために。
己が護る限り、ディアスに危害は加えさせない。どれだけの敵が現れようとも、最後のそして最大の障害となってその前に立ちはだかり、彼の身を守ってみせる。例え己の身が砕けようとも、ただ一人槍を捧げた彼だけは。
そうだ、だから帰らなくてはならない。これから先も続く戦乱の中、ディアスを護る大いなる鉄壁として、自分はまだ戦い続けなくてはならない。そのためにはここで死ぬわけにいかないと、パロミデスは足を動かし続ける。血を流し、命を零しながらも、前へ。
だがいかにその心が強くとも、人である以上肉体の枷を外すことは出来ず、いつかは果てが訪れるものだ。限界をとうに越え、精神の力のみで持ち上げられていた脚だが、ついに靴底が地面を擦った。衰えた身体には、下点に生じた抗力を修正するだけの筋力が残っているはずもなく、必然として重心は傾きその身体はゆっくりと大地に倒れ伏す。地響きと金属音が森の静寂を破って響いたが、パロミデス本人がそれを聞いていたかは分からない。
(帰らなければ)
地が引き寄せる力で縫い止められ、それでもパロミデスは、歩きだそうと足掻いた。触覚などとうに失われた腕に力を込め、無様に横たわった身体を持ち上げ、再び二本の足を直立せんとする。だが槍に縋って上半身を起こし、傾いだままで身体を安定させた時点で、パロミデスの動きは停止してしまった。
(かえらなければ)
動き方なら分かっている、抱えた槍を大地に突き立てて己の体重を押し込み、反動で身体を上昇させればいい。生じた隙間で脚を曲げ、空を向いていた足の裏を地に密着させ、筋力をばねとして身体全体を持ち上げて。そして最後に槍を抜き、胸を張って歩きだせば。
全て極自然な流れだ、今までは考えることすらせず成していたことだが、今はそれが困難だった。頭では自然に描けるのだが、哀しいことに四肢はそれに従ってくれない。彼の手足は血液の喪失に耐えきれず、これ以上の動作を拒んでいる。槍に手を置き座り込んだまま、再び倒れてしまわないのは、偏に鎧が彼を支えているからだ。極端な重量で、拘束と同時に奇妙な安定をもたらしている鎧に身体を預け、パロミデスはゆっくりと呼吸を繰り返す。繰り返すことしか、できない。
すこし前までは荒く乱れていた息も、今はすっかり静かになっていた。時間が経ち激戦の名残が去ったからか、いやそうではない、彼の身体に激しく肺を膨らませるだけの余力が無いからだ。ただゆっくりと吸い込み、そして吐き出す、その感覚は今も徐々に広くなり続けている。もう少し経てばそれは完全に停止するのだろう、呼吸だけではない、心臓の鼓動を含めた彼の生命そのものが。
(ディアス将軍)
死の間際には、それまで過ごした時間が回るように浮かぶものらしいが、それはどうやら半ばまで真実だったらしい。パロミデスの目には過去の情景が映っていた、ただしそれは自分の人生などではなく、彼が仕えた上司の姿だ。出会った頃から今まで、どれ一つとして忘れたことのない輝かしい時間が、霞んだ視界に重なって浮かんでいる。
死ぬのだな、とパロミデスは思った。本当に、自分は死ぬのだ。動くこともできず、誰も居ない戦場跡で、たった一人。
(申し訳ありません、将軍)
構わない、死は恐ろしいことではない、特に戦場での死は。だがもはやディアスの元で戦えない、彼を守ることができない、それだけがひたすら哀しかった。彼はパロミデスの死を哀しむだろうか、怒るだろうか、それとも使えぬ部下よと切り捨ててしまうのか。長く時間を共にした相手だ、性格などは知り尽くしていると思ったが、何故かその問いに対してだけは予想が浮かばなかった。
そして答えを知ることも、もう、出来ない。ゆっくりとぼやけ、暗くなっていく世界を、パロミデスはただ眺めた。俯いた上に兜で狭められた視界映るのは、下生えに包まれた大地ばかりだ。何ひとつとして特筆するところのないそれは、人生の終わりに見るにはあまりに貧相な光景だと、途切れかけた思考の端で嘲笑う。
――だがその中に、ふと。
揺れる草と木漏れ日以外の、はっきりと意志を持って動くものが、唐突に入り込んできた。
「死神パロミデス」
それは足だった。特徴の無い靴に包まれた足と、そこから伸びる脚が、光を失いかけたパロミデスの瞳に映り込む。さくりと、下生を踏み荒らす軽い音と共に、声が響いた。
「ディアス将軍の片腕、か」
男の声だ。もはや顔を上げる力もなく、それの姿を仰ぎ見ることは敵わないが、音の響きで相手が若くもない男だということは察せられた。不快なざらつきを持った声が、動かぬパロミデスに、無遠慮に振りかけられる。
「ディアス本人でないのは残念だが……まあ、悪くない手駒だ。雑兵よりは余程役立つだろう」
その男が何を言っているのか、パロミデスには分からない。思考を回すだけの余力が失われているからでもあり、理解するだけの知識が決定的に欠けているからでもある。パロミデスが応えを発することは無かったが、男にそれを気にする様子は無く、誰に聞かせるでもない虚ろな笑いを響かせていた。
と、その男の身体――正確には目に入らぬ上半身の辺りから、奇妙な気配が発せられていることに、パロミデスは気付いた。剥き出しの神経に息を吹きかけられるような、落ち着かないという程度では済まぬ程不愉快な、だが痛みと呼ぶには曖昧過ぎる何か。記憶の中にある如何なる感覚とも異なるそれが、見えぬにも関わらず、強烈に存在を主張している。そしてそれに気づくと同時に、パロミデスの視界が、黒い光のようなものに侵食され始めた。死の兆しだろうかと一瞬考える、だが恐らくそうではない、そのように分かりやすいものではない。今見えているこれは明らかに、目の前の男が招き寄せたものだ。
奇妙な光だった。生きているかのように蠢き、パロミデスを包み込み、その身体から僅かに残った力すら奪っていく。自分から何かが抜け出て、代わりとして禍々しい力が入り込んでくるのを、パロミデスははっきりと感じた。生を奪い取られ、存在を作り替えられるおぞましい感覚、この男は一体何者なのだ。人ではない、人にこんな力は無い、ならば目の前の男は。
「――悪魔か」
パロミデスがそう発言したことで、男は大層驚いたようだった。見えずともその気配が揺らぎ、それに伴うようにして黒い光が霧散する。
「ふん。まだ、生きていたとは」
じっとりと、観察の視線が自分に落とされているのを感じて、見えぬを承知で眉を歪ませる。男はパロミデスが既に死んでいたと思っていたのだろう、聞こえる声からは、強い警戒の念が伝わってきた。唯一視界に映っている足も、僅かにじわりと後退している。
だがそれらの警戒も一瞬のことで、直ぐにパロミデスが動けぬことに気付き、態度を元の尊大なそれに戻した。
「だが、もうすぐ死ぬ」
居丈高に言い放たれたそれを、パロミデスも否定はしない。立ち上がる力すら残されていないのだ、目の前の悪魔が彼の首を落とそうとも、抵抗など出来る筈がなかった。そしてそんな手間をかけずとも、ほんの数分も経てば間違いなく彼の命は消えて失せる。そして男が言った通り、今度こそ命の通わぬ骸と成り果てるばかりだ。
「悪魔よ」
完全に先の閉ざされた道に立ち、それでもパロミデスは、最後の力で男に呼びかけた。
「俺の魂を、食らうか」
この男が悪魔だと、本当に信じているのか、パロミデス自身にも分からない。人の魂を食らう悪魔など、おとぎ話の中にしか存在しないものだと思っていた。だが男が人ならば、姿は見えずとも感じられる、この底冷えするような恐ろしい力は何なのか。ただの人が持つには、あまりに異質な何かが、あの黒い光からは感じられた。
「……さあ、そうかもしれんな」
パロミデスの言葉を、男は果たしてどのように受け止めたものか。一拍の間を置いて返された応えからは、不思議と怒りは感じられず、むしろ面白がるような色合いが滲んでいる。
「わしを悪魔というなら、死神よ。ひとつ、取引をしよう」
笑みを含んだ声、だがそれと共に発せられたのは、あの黒い光だ。一度は退いたそれが、再び何処からともなく湧きだし、パロミデスの身体を包もうとしている。
「わしは貴様の魂を食らう。正しい生を、未来を、死の自由を奪う。その代わり――」
それは先ほどと同じように、パロミデスから生命の力を抜き取り、その代替として自らを染み込ませようとしていた。死に直面した身体にはもうほとんど力など残っていなかったが、名残のようにへばりついていた僅かな生すらこそぎとられ、パロミデスの視界が急速に暗くなっていく。
ああ、死ぬのだ。極自然にそう感じたのと同時に、終わりを予感させない異様な気配が、身の奥底に生じ始めてもいた。
「貴様に、新たな命を与えよう。魂を失い、一度目の死を向かえ、それでも尚立ち止まれぬ呪われた命を」
どくりと、身体の奥で何かが動いている。それは心臓ではない、血を巡らせ活力を与える動きとは、明らかに異なるものだ。ほとんど全ての命を流しきり、末端はおろか体幹の感覚すら失っている中ですら存在を主張する、パロミデス自身とは明確に異質な存在。ずるりと内臓を抜き出され、代わりに熱せられた氷を詰められるような錯覚を覚えた。本能的な恐怖が呼び起こされる、だが死を前にしたパロミデスに、抵抗する術など無い。
「死して再び蘇れ、死神よ。わしの駒となるため」
いや――例え力が残っていたとしても、彼は抵抗しなかっただろう。途切れる寸前まで薄まった意識の中で、それでもパロミデスは、男の言ったことを完全に理解していた。この光に身を任せれば、自分は再び立ち上がれる。主の、護るべき相手の楯となる資格を、手放さずに済む。
そのためならば、例え悪魔に魂を喰らわれようとも構わない。死して尚生きる化け物と成り果てようとも、何の問題があるものか。
「取引をしよう、死神よ。もっとも」
パロミデスの視界に、ほんの僅かな薄緑の光が、ちらついて消えた。男は笑っている、その言葉に応えるだけの力は、パロミデスには無い。声を発することも頷くことも出来ず、ただ目前の死をじっと見詰めるばかりだ。
「否と言っても、聞きはせんがな」
そう笑う男の声に、言うものか、と内心で応える――それが音を奏でなぬことなど、重々に承知した上で。敵を貫く時のように、終わりかけた意識を、ただ一点に集中して。
(もう一度)
それを最後に、パロミデスの生命は、霞んで消えて失せた。
後に残るのは、悪魔と呼ばれた黒い書を持つ男と、人ならぬ影となった死神のみ。
(もう一度、戦場へ)
魂の抜けた身体の中、願いの代わりに宿るのは、一体如何なる呪いなのか。
それは、彼自身にすら、分かることではなかった。





セキゲツ作
2012.07.21 初出

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