砂の砦に配属されてしばらく経ち、砦での生活もすっかり慣れてきた、そんなある日のこと。

ロッシュとストックが食堂に現れたその時、まさに戦いは佳境に入ったところだった。

「いいぞ、そのままいけ!」
「まだ盛り返せるぞ、ふんばれ! 耐えろ!」
賑やかに声援を上げる隊員達が囲んでいるのは、向かい合って着席した2人の男達だ。彼らの右手は丁度互いの中央あたりで握り合わされ、肘をテーブルの天板に付けた状態で、相手の甲を地に押し付けんと力をぶつけ合っている。もう少し簡潔に言ってしまえば、腕相撲をしている。周りの隊員達は、その対決を大騒ぎと共に見物しているのだった。
「おおーっ!」
突如響いた大歓声は、奥にあるもう一山の人だかりから発せられたものだ。そちらでも目の前のそれと同じように腕相撲の試合が行われているはずだが、恐らくその決着が付いたのだろう。騒ぎ声に煽られるように、目の前で試合をしている男達の筋肉が一層に膨れ上がる。こちらも決着は遠くなさそうだった。
「あ、隊長に副隊長、お疲れ様です!」
「……後、何回戦だ?」
二人の存在に気付いたキールが試合の見物を止めて駆け寄ってくる、その彼にロッシュは、多少疲れた様子で問いかけた。
「今、準決勝が終わるところです! 後一回で終わるので、少しお待ちください!」
「おう、手早く頼むぜ」
その言葉にかぶせるようにして一際大きな歓声が上がった、どうやら決着が付いたようだ。ちらりと確認してみれば、勝ったのはロッシュから見て奥側に座っている男である。確か元は炭鉱夫だったとかで、中々立派な体格をしているから、まあ順当というところだろう。負けた隊員は悔しそうな表情を浮べながらも、大人しくその席を立つ。変わって座ったのは奥側のテーブルから移動してきた隊員だ、とすると彼が向こうの試合の勝者か。
決勝戦の選手二人が着席し――そこで、他の者達もロッシュとストックに気付いたようだった。
「隊長! 副隊長!」
「会議、お疲れ様でした!」
口々に声をかけてくる隊員達に軽く手を上げて応える、向けられるどの顔も笑顔なのは、信頼されている証ということで素直に嬉しい。嬉しいのだが、目の前の状況を考えると、どうしても一抹の割り切れなさが残ってしまうのが悲しい。
「隊長、俺今から決勝なんス! 頑張りますから!」
「おう、しっかりやれよ」
「隊長! 俺も頑張ります!」
死闘を勝ち抜き、今まさに決勝に挑まんとしている選手二人が競うように拳を握ってみせる、情熱的なアピールだがロッシュは苦笑する他返す術が無い。そんな適当な対応ではあっても嬉しそうにしている隊員達は、健気なのかそれとも単に試合の興奮に酔っているだけか。
「よーし、それじゃあ始めるぞー」
審判役の隊員が声をかけると、二人はもう一度ロッシュに手を振り、真剣な面持ちで手を組み合わせた。休息時間などは与えられないようだ、腹を減らしたロッシュにとっては実に有難いことである。何とも言えない気分で試合に挑む隊員達を眺める、そのロッシュに傍らのキールは、心の底から楽しそうな笑顔を向けた。
「今日は誰に決まりますかねー、ロッシュ隊長にお食事をお渡しする権利!」
そして、顔と同じく大変明るく発せられたキールの言葉に、ロッシュは改めて頭を抱えたくなる衝動を覚える。そう、昼時の食堂で繰り広げられている隊員達の腕相撲は、単なる暇つぶしで行われているわけではない。『ロッシュに食事を盛り、持っていく権利』を賭けて開催されているである。初めて開催されたのは砂の砦に配置された数日後、それから瞬く間に規模が膨れ上がり、今やロッシュ隊の殆どが参加するという大規模な大会となっていた。隊員達の間では、日々の鍛錬に続く重要事と見做されているとか何とか。
そんな大会の栄誉ある商品として据えられているロッシュは、深く深く、床にめり込みそうなほどに重い溜息を吐いた。
「……誰でも良い、つーか自分で取りてえんだが……」
「駄目ですそんなの、皆ががっかりするじゃないですか!」
力説するキールの言葉は、困ったことに彼一人の暴走ではなく、隊全体の総意であるらしい。飯が遅れるからという理由で抗議をしたこともあるのだが、数の力でロッシュの意見は封殺されてしまった。今では諦めと共に大会の推移を見守っている、しかし時折なんとも言えない遣る瀬無さを感じることばかりは、どうしても避けることができない。
「隊長にお食事を渡して、『大盛りにしておきましたから!』と言うのは、非常な名誉なんですよ!」
そんなロッシュの様子を無視してキールが熱く語る。正直ロッシュには全く理解できない世界である、だが大会の盛り上がりを見るに、隊員達の間ではロッシュの方こそが非常識な感覚であるらしい。
ふとロッシュは不安に駆られ、隣に立つ男に問いかけてみた。
「……ストック、お前分かるか?」
「いや……さっぱりだ」
表情を変えずに、だがきっぱりと否定してくれた親友は、この空間の中で唯一ロッシュにとって安心できる存在だった。自分の知らない間に世界の価値観が変わってしまったというわけでは無いと、その言葉で確認できる。いや、確認できたからといってどうなるわけでもないのだが。
勿論、待機中とはいえ作戦行動下にあるのだから、上官命令で強制的に止めさせることは可能だ。しかし隊長であるロッシュは、その方針として、できるだけ命令や規律を押しつけずに隊員達の好きにやらせてやりたいと考えていた。戦場という特殊な環境下において生じる抑圧は、本人たちの想像以上に強く精神を蝕むものだ。ましてロッシュ隊はほんの数ヶ月前まで一市民だった新兵の集まりであり、連続する緊張感を受け流す方法を知らない。何がしかの息抜きが無ければ容易に爆発してしまう状況なのだが、不味いことに赴任しているのは砂の砦、戦局の要である激戦地の周囲には、当然街どころか村のひとつも無い。外から娯楽を得るのが難しい状態、その中で熱中できる楽しみを作り出そうというのは人間の心理として自然な働きである。それを禁止してしまえば、抑圧に耐えかねた精神が様々な形で悪影響を及ぼす、名指揮官ならずとも容易に想像ができることだった。
実際、軍の中で兵同士の腕比べが流行するのは、よくある話だ。ロッシュが一兵卒の頃にもこのような大会が行われていた記憶がある、その時は結果に、飯だのちょっとした嗜好品だのを賭けて楽しんでいたものだった。だから大会自体を禁止するつもりは全くない、しかしそれにしても、ロッシュが理解できないのは。
(何で賭けの対象が、俺に飯を盛る権利になるんだ?)
そう、分からないのはただひたすらにその一点だった。これがビオラ准将のような女性将校であればまだ納得できる、男所帯の中の女性というのは非常な価値を伴うもので、それに近づく役割を奪い合うのは男の本能と言ってもいい。しかしロッシュは同性、しかも隊員の誰より体格が良い、言葉を飾らなければゴツくて厳つい大男である。そんな相手に競って飯を盛りたがる心理というのは、果たしていかなるものか。ロッシュには理解できない、しかし理解できないからといって頭ごなしに否定できるような性格でもない。そしてそれが自分一人のことなら、まだしも隊長の責務と思って耐えられる。
――何より心に刺さるのは、向かいに座るストックが、何処か遠い目をしていることだった。ロッシュに対して行われている給仕係争奪戦だが、副隊長であるくストックを対象とした大会も、同じく開催されているのだ。ロッシュのそれよりも参加者は少ないが、毎回かならず一定以上の人数が競い合い、隠れた名勝負が繰り広げられている(らしい)。
止められなくてすまない、と声に出さずに謝罪すると、目線で気にするなという応えが返ってきた。二人の間に、しばし暖かくも物悲しい空気が流れる。
「ストック副隊長の担当は決まっているんですが……隊長の担当が決まるまで、申し訳無いですが少しお待ちください!」
それを空腹の訴えと解釈したのか、キールがすまなさそうにストックに頭を下げた。ストックの表情が微妙にひきつる、しかしそれを悟らせずにいるのはさすがに常から無表情を貫いている男の底力だろうか。そんな底力が今ここで必要だったのかどうかはともかくとして。
「ああ……構わない、気にするな」
「はい、有難うございます! 自分も今日はストック副隊長の担当に志願したのですが、負けてしまったんですよね」
「そ、そうか……そりゃ、残念だったな」
「ええ、やっぱり力比べの時は中々勝ち抜けません。速駆けなら、自信があるんですが」
因みに大会の種目は日替わりだ。今日行われているような腕相撲や重量挙げのような腕力系、速駆けや遠駆けのような脚力系、あるいはもっと直接的に模擬戦の結果が採用されることもある。毎日、その時々の訓練の内容や、時間の余裕によって決められているらしい。大会が始まった直後はジャンケンの勝ち抜き戦で勝者がで決められていたが、「せめて訓練に関係のあることにしろ」というストックの一声により、今のような形に落ち着いたという経緯がある。あれは副隊長として実に立派な行動だった、しかしできれば大会自体を止めさせてくれればもっと――いや、それを言う権利はロッシュには無い。本来それはロッシュの仕事で、完遂できない自分を責めるべきことだ。
だが、正直止める理由が無いというのも事実なのである。これが軍規に触れるか士気を落とすような内容のものなら、隊長として中止を命じる必要がある。しかし私闘にもならない単なる腕の競い合いを禁ずるような規律は無く、争うといっても真剣にいがみ合っているわけではないから士気に影響することもない。さらに言えば大会での勝利を目指して訓練に励む者が増えたため、練度など新兵部隊とは思えない程度に達しつつある。
止める理由は何も無い、どころか良い影響のほうが遥かに多い。残る問題はロッシュとストックの心の整理が付くかどうかだけなのだ。
「あ、決着が付いたみたいですよ!」
わあっ、と食堂に歓声が満ちた、それを聞いたキールがまた嬉しそうに笑う。栄誉ある勝者となった隊員が誇らしげに腕を掲げ、ロッシュに向かって思いっきり手を振っているのが、視界の端に見えた。その誇らしげな、それはもう無駄としか言えない程に誇らしげな笑顔を見たら、その喜びに水を差すことなどロッシュに出来るはずもない。
皆の興奮冷めやらぬ視線を浴びながら、今日の配膳係はいそいそと配膳場に赴く、ついでに後ろに続いたのはストックに配膳する係りの者だろう。彼らは実に幸せそうに飯を盛りつけると、真直ぐにロッシュ達が座る席に向かい、そして胸を張ってその皿を差し出した。
「どうぞ、大盛りにしておきましたから!」
「…………おう、ありがとよ」
眩しいほどの笑顔を向けながら言われてしまったロッシュに、もはや逃げ道は無く。やや引きつりながら皿を受取ると、食堂が暖かな拍手で満たされ――その日の大会は、無事閉幕した。
そして漸く隊員達は各々自分の飯を取りに行き、砂の砦に日常の喧騒が戻ってくる。他愛無い会話や笑い声を後ろに、ロッシュはたっぷりと盛りつけられた飯を口に運び。
「……何が怖いって、段々慣れてきてるのがなあ……」
「………………そうだな」
そして、目の前の親友と顔を見合わせると。同時に、盛大な溜息を吐いたのだった。






――そんな騒ぎを、扉の外で眺めていた影が何人か。

「ビオラ准将、我々も……」
「却下」
「……ですよねー」




セキゲツ作
2011.04.02 初出

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