ここに至るまでの間に、どうして引き返すことができなかったのだろうか。こみ上げる悪態を酒と一緒に飲み下し、ことさら乱暴に杯をテーブルに叩きつける。同時に正面のストックも酒を干し、やはり同じような勢いで、空になった杯をテーブルに置いていた。親友二人の視線が真っ向からぶつかりあい、空中に見えない火花を散らす。
「おおー、いいぞいいぞ!」
「まだまだ行けんだろ、次だ次!」
無責任にはやし立てる周囲の人々の手によって、彼らの杯が再び満たされた。最初はロッシュ達と一緒の隊の者達だけだったはずなのだが、いつの間にやらその人数は膨れ上がり、下手をすれば店中の客達が居るのではないかという勢いで彼らの周りに人が集まっている。高々一兵士の飲み比べに、随分と盛り上がっているものだと、ロッシュは皮肉げに片頬を持ち上げた。
「では……スタート!」
男のかけ声と共に、もう何杯目かも分からない酒を、己の喉に流し込む。度の強いそれが胃を満たし、ロッシュの目の前がぐるりと回った。体格の良さと飲みっぷりから、底なしの酒豪に見られることも多いロッシュだが、別段酔わない体質ということはない。弱いことはないが飲めばそれなりに酒は回る、泥酔しての失態程みっともないものは無いと思っているから、けして許容量以上に飲まないだけだ。際限無く勧められる酒は人あしらいの巧さで上手く退ける、面倒を避けるために軍に入る前から徹底していたことだが、今回ばかりはその手で切り抜けることが出来なかった。
「……どうだよ、ストック」
テーブル一つを隔てた親友の顔を、獰猛な笑みとともに睨み付ける。この男が安い挑発に乗ったりなどしなければ、馬鹿な勝負に挑む必要も無かったというのに。
そう、彼らが飲み比べなどを始めざるを得なかったのは、隊員達の執拗な煽りに、ストックが応じてしまったからだった。隊の中でも一際目立つ二人、お互いを認める親友同士で戦いの腕も互角とくれば、戦場以外でも張り合うことを強制されるのは仕方がない。だがはやし立てられるだけでは何も起こらない、双方が取り合いさえしなければ、ただ少しばかりの小煩さに耐えればすむ。実際ロッシュは笑って聞き流していた、何故同じことをストックもしてくれなかったのか。不器用な男ではある、だが黙って飲みに集中くらいのことは、出来てしかるべきだろうに。ロッシュとて、他の者に言われるだけならともかく、本人からの宣戦布告を正面切って無視するわけにはいかない。ロッシュ自身の矜持もあるし、何より部下達への示しが付かなかった。適当にあしらって宥められれば良かったのだが、残念ながら相手はストック、一度言い出したら聞かないことは誰よりロッシュがよく知っている。
本当に、どうしてこんなことになってしまったのか。元凶である目の前の男は、ロッシュの怒気も意に介さぬ様子で、むしろ鋭い眼光で勝負の相手を睨み返してきていた。
「そろそろ限界だろ? 諦めて降参しとけって」
挑発を続けても、捗々しい反応は返らず、ただひたすらにロッシュを見据えるばかりだ。その顔つきに不穏なものを感じて、ロッシュは眉を顰めた。戦意を示しているのは良い、が、どうにもそこに正気の気配が薄いのは気のせいだろうか。
「どうなんだよ、ストック」
「……そう、喚かずとも聞こえる。次だ」
低い声で言い捨てると、ストックは隣の男に、ぐいと杯を突きつけた。言葉も動きもしっかりしており、散々に酒を浴びた後だとはとても思えない様子だが、かえってそれが怪しい。偶に、動きばかりはまともなまま理性を失う酔い方をする奴が居るが、もしやストックもその類なのだろうか。だとすれば少々不味い、適当なところで示し合わせて止めるのが最も平和的なのだが、相手に正気が無ければそれは不可能だ。本気でどちらか片方が潰れるまでの勝負になってしまう、いや既に危うい状態ではあるのだが、それでも本当に倒れるのとその寸前で止まるのとでは全く始末が違うというのに――ぐるぐると回るロッシュの思考など、当然周りの誰にも理解されることはなく、欠片の容赦も無い勢いで杯に酒が注がれる。縁ぎりぎりまで至るそれを、ロッシュは忌々しげに見据えた。ストックに余裕があるようには見えないが、ロッシュとて限界が近いのは同じだ。潰れるまで飲んだのは軍に入る前が最後だが、その時の飲酒量は既に越えてしまっている。当時より随分体重も増えたから、同じだけ飲んで倒れることは無いだろうが、それでもどこまで堪えられるかは分からない。
「どうした? ……お前こそ、限界じゃないのか」
半眼で不敵に笑う男を、全力で殴り倒してやりたい衝動を覚え、手の中の杯を強く握りしめた。馬鹿力で締め付けられ、木製の杯がみしみしと鳴る。このまま握り潰してしまえば飲まずに済むか、そんな誘惑がふと脳裏を過った。くだらない飲み比べなど止めて、直接拳で決着をつけてしまった方が、よほど楽だし後にも残らない。
「では、スタート!」
しかし合図がかかってしまえば、ロッシュとて負けることを良しとはしない性格だ。ストックと先を争うように杯を持ち上げ、中身を胃の腑に流し込む。周囲から上がる歓声が、酒精に浸された脳を揺さぶり、痛みに似た感覚を生みだした。一体何人が集まっているのか、そろそろ知覚も怪しくなっているのか、はっきり認識することもできない。これで潰れろ、潰れてくれ、と祈るような思いでストックを凝視する。ストックも同じことを考えているのか、いや何も考えていない可能性のほうが遙かに高いが、とにかく彼もまたロッシュのことを全力で睨み付けてきていた。
相手は親友、だが親友だからこそ、負けられない。いっそ折れてしまえば楽なのだが、それをしたが最後何かを失ってしまう気がして、ロッシュはなけなしの気力で己を律する。身体は半ば以上普段の動きを失っており、立てば歩行すら束無いのは想像に難くないが、困ったことに思考だけは大して変わらぬ速度で回ってくれていた。どうせなら理性も消えてしまえば良かった、そうなればあれこれと思い悩むこともなかっただろうにと、ロッシュは誰にともなく愚痴る。
「……そろそろ、限界だろ?」
そう言った台詞は、挑発などではなく、切実な希望だ。相手が倒れてくれればこれ以上飲まないで済む、即座にこの場から飛び出し、腹の中を満たしたくだらない液体も吐き出してしまえる。これで終わってくれ、戦場でもそうは無い程の真剣さで捧げられた祈りは、当然ストックに届くはずもない。
「まだだ」
やたらとはっきりとした発音で言い切られ、ロッシュは頭を抱えたくなる衝動を堪えきれずに髪をかきむしった。鋭い目の中にもはや正気は残っていないように見えるのに、言動ばかりはきちりと揃っており、背筋などは酔っていない時より真っ直ぐな程だ。恐らくロッシュ以外、彼が酩酊していることに気付いている人間は居ないだろう。背後で囁かれる、ストック有利の評も、その推測を裏付けている。
もう負けても良いかな、とロッシュの心に諦めが兆した。どうせ酒の席での余興だ、そこそこ良い勝負はしてみせたことだし、ここで負けた程度のことで極端に評判が落ちることもない。諦めて意識を手放してしまえば、それで楽になれる。
「……次だ!」
だがそんな誘惑も、向けられる剣呑な視線を前にすれば、儚く消えてしまう。理屈ではない、この男にだけは負けてたまるかという完全な意地のみで、ロッシュは注がれた酒を手に取った。あるいはロッシュも、自分で思う程理性を残して居なかったのかもしれない。両者が闘志を示すと、観衆も喝采を上げ、審判役を担った無責任な男が、かけ声を掛けるべく両手を上げた。
「では……」
張り上げられた声と共に、その両手が打ち鳴らされる――その直前。
ぴしりと伸びていたストックの姿勢が、真っ直ぐな角度はそのまま、ぐらりと前に傾いだ。
「……おお!?」
反応の遅れた男たちの、間抜けなどよめきが響く。それを枕に、ストックはべしゃりと、机に突っ伏してしまった。
その姿勢が示す意味は、明白。
「おおおー!!」
ついに決した勝敗に、店を揺るがす程の大音声が響きわたった。誰かが、喜ぶ力も残っていないロッシュの右腕を、勝手に高々と掲げる。
「ロッシュの勝ちだ! ロッシュが勝ったぞ!」
「さすがです、ロッシュ少尉!」
「よくやってくれたロッシュ、これで飲み代が出せる!」
「あーあ、ストックも良い線行ってたんだがなあ……ほれ、持ってけよ」
周囲で喚き散らされる雑音を、ロッシュは首を振って振り払った。勝者であるにも関わらず、勝負中と変わらぬ渋い顔のまま、気力を振り絞って立ち上がる。
「お、どうした?」
途端にぐらりと視界が回る、そのまま倒れ込んでしまいそうになるのを、なけなしの力で踏ん張った。呼吸と筋肉の動きを意識することで辛うじて歩を進める、当然脳天気な呼び掛けになど、応える余裕は一切無い。ずるずると、常の十倍はかかっているような速度で歩き、向かったのはテーブルを回り込んだストックのところだ。
「おい、ストック……大丈夫か?」
呼び掛けて揺さぶる、そこで周囲もようやく、ストックが倒れたままぴくりとも動かないことに気付いたようだった。狂騒が一気に冷え、一瞬の沈黙の後、不安げなざわめきが生じ始める。
「ストック。聞こえてるか」
最後呼び掛けても、やはりストックから返答は無い。強引に上体を引き起こすと、顔は見事に白く、自律を失っているであろう口元が動きに従ってだらしなく開いた。意識を失っているのが明らかなその姿に、酔漢の群れもさすがに平静では居られなくなったのか、慌てた様子で何人かが駆け寄ってくる。ロッシュも、派手な音を立てて舌打ちすると、親友の体重を己の肩に移動させた。
「おい、ロッシュ」
「外で吐かせる。お前、厨房で水を貰ってきてくれ――バケツでな」
「あっ、ああ」
「俺も手伝うぜ。ストック、おい、大丈夫か?」
「大丈夫なわけあるか……ったく、無茶、しやがるから」
他の者の手も借りて、ずるずると足を引き摺りながら外に運び出す。夜更けのことで人通りなど殆ど無いが、それでも外聞を気にして、店の脇の路地へと転がり込んだ。
「水、ここに置くぜ」
「ああ。……後は俺がやっとくから、お前らもう中に戻ってろ」
後から付いてきた男が、言われた通り大きな桶に並々と注いだ水を置く。それを横目で確認すると、ロッシュは、乱暴に手を振り、他の者達を追い遣った。狭い路地は複数人が居るようなところでは無いし、ロッシュも、酔いつぶれたみっともない姿を晒したくなど無い。
心配そうではあるが、出来ることは無いと判断したのか、男達が店の中に戻ってゆく。それを見送ると、ロッシュはため息を吐いて、地面に転がるストックに視線を移した。相変わらず意識は戻らないが、強制的な移動によって少しは覚醒に近付いたのか、意味の通らない呻き声を発しながら周囲をまさぐっている。
「ストック、ちょっと我慢しろよ」
ロッシュはそんなストックの身体を、無造作に持ち上げ、膝を付き顔を突きだした形にさせた。
――そして、欠片程の容赦もせず、その口に指を突っ込む。
「っぐ……」
ストックが苦しげに呻いて拒む仕草を見せるが、ロッシュは構わず舌を押さえつけ、喉を指で押し広げる。噛みつかれる覚悟はしていたが、それだけの力も残っていなかったのか、舌で押し出す程度の緩い抵抗が返るばかりだ。内臓の入り口に異物を押し込まれ、生理的な拒絶反応としてストックの喉がぐうと鳴る、そして。
「が、げぅっ」
ごぼりと派手な水音を立て、胃の腑に収められていた液体が吐き出された。気配を感じてロッシュも指を引くが、さすがに避けきることは出来ず、それなりの量のものが袖にかかってしまう。汚れた衣服に舌打ちをし、洗わせるからな、と聞こえぬを承知で毒づいた。
「ごふっ、げふっ、……」
一度逆流の道を作ってしまえば、後はロッシュが指を引いても、嘔吐が止まることはない。度をすぎた酒など身体にとっては毒に等しい、吐き出そうとするのは生理的反応だから、当然だろう。背を撫でてやりながら少し待ち、胃の中のものを粗方吐き出してしまったのを見計らうと、ロッシュは再びストックの身体を抱き起こした。
「……ロッシュ?」
衝撃で多少は意識が戻ったのか、朦朧としてはいるが、一応ロッシュを認識したと思われるストックの声が発せられた。好都合だと頷きつつ、ロッシュは桶と共に持ち込まれた杯に水を汲み、ストックに持たせる。
「ほら、これ飲め。限界まで飲んで、そんでまた吐き出すんだ。吐いたらまた飲め、そんで吐く、二、三回は繰り返しとけよ」
「あー……」
「ストック、言ってること分かるか?」
甚だ頼りない様子であったが、それでもストックは杯を受け取り、覚束無い手つきで口に運んで飲み始める。それを見届けると、ロッシュはふらつく身体を地面に落とし、よろけるようにして身体を俯かせた。意思の力で持たせてきたが、ロッシュ自身も既に限界は超えてしまっている。指を突っ込むまでもない、筋肉を緩めるだけでせり出してきた胃の内容物を、堪えることなく路地裏の隅に吐き出した。醜く喉が鳴り、びしゃびしゃという重い水音が、直ぐ面前で響く。跳ね返った吐しゃ物が顔に掛かるのが不快だが、それを防ぐため体勢を立て直すだけの力も無い。
少し離れたところで、ストックもまた似たような物音を立てているのが聞こえた。取り敢えず言ったことは伝わっているようで、ロッシュはほっと胸をなで下ろす。ロッシュもストックも、身体の限界近く、あるいはそれ以上の酒を飲んでしまっているのだ。放置するのは危険だ、吸収してしまった分はともかく、胃の中にあるものくらいは吐き出してしまわねばならない。
「げふっ、はっ……」
食事を摂らないでもなかったのだが、それ以上に酒の分量が多かったのか、出てくるものは殆ど液体のみだ。勢いが付いたそれの一部が、口を通り越して鼻腔まで流れ込み、痛みでロッシュは顔を顰める。胃液と酒の混じった据えた臭いが鼻にこびりつくが、それに対して恨み言を発するだけの体力も無い。ただひたすらに嘔吐し、中身を全て出してしまうと、身体を引き摺って桶の元に戻る。ストックに指示したのと同じように、水で胃を膨らませて、再びそれを吐き出すのだ。身体に負担のかかる行為ではあるが、残った酒精を全て放り出してしまうには、これが一番確実だった。
「ロッシュ……」
ストックの呼びかけが聞こえるが、応えている余裕など全く無い。彼の世話をしている間に、ロッシュ自身の酔いはしっかりと回ってしまったようで、吐いても吐いても楽になる気配が無かった。水で薄められた胃液が、ばしゃばしゃと地面に叩きつけられる、その音ばかりがやたら耳に付く。
「ロッシュ、おい、大丈夫か」
ストックの声が何やら焦っているように聞こえて、ロッシュは内心苦笑した。吐き出したら楽になったのだろうか、それにしても変わり身が速い、先程までは死んでもおかしくない程真っ白な顔をしていたというのに。そう考える頭の脇では、妙にぐるぐると回る視界に危機感を覚える部分もあり、思考が一定していないのをロッシュは自覚した。
「ロッシュ? ロッシュ!」
いや、定まらないのは思考だけではない。視界が回る、錯覚ではなく物理的な移動を伴い、ぼやけた景色が横転する。重たいものが落ちる音がしたが、恐らくロッシュ自身が倒れたためのものだ。路地裏など綺麗な場所ではないのに、服が汚れてしまうなと諦念混じりに考える。吐しゃ物の上に倒れ込まなかっただけマシか、どちらにしてもストックに洗わせてやる、せめてそれくらいは許されるだろう。二日酔いで呻いていようが、容赦するものか。
「しっかりしろ、ロッシュ……くそっ」
ああ、でも随分と話し方はしっかりしているから、ストックの二日酔いはきっと軽い。羨ましい限りだ、ロッシュ自身はかなり酷い頭痛に悩まされる体質だから、心底そう思う。しかしまあ、落ち着いたようで良かった。先程は力なく、白目くらいは剥いてもおかしくない勢いだったのだ、そのまま死ななかっただけでも良しとしよう。気が抜けたのか身体に力が入らない、いや既に倒れてはいるのだが、立ち上がろうという気がどうしても沸かない。まあいい、さほど寒い季節ではないのだ、朝まで転がっていたところで風邪を引くでもないだろう。
「おい、誰か居ないか! 手伝ってくれ!」
だから大丈夫、そんなに焦らなくても、大丈夫だ。
声には出ない呼びかけを最後に、ぷつりと。
ロッシュの意識は途切れ、後には、据えた臭いの闇だけが残された。



――――――



意識が戻った瞬間、それを後悔したくなるような痛みを自覚し、ロッシュは息を詰めた。心臓が脈打つたびに、頭蓋を金槌で叩かれているような衝撃が襲う。頭に斧を食らって半ばまでかち割れているのだと、吹き込まれれば信じてしまいそうな痛みだ。戦場に出たわけではない、ただ限度以上に酒を飲んだだけでこの仕打ちは、少々理不尽なのではないかとロッシュは思う。
それでも、身体の下に柔らかな感触があるから、きっと路地裏で倒れたままでは居ないのだろう。そっと瞼を開くと見慣れた天井があったが、どうやら誰かが部屋まで運んでくれたようだ。ご丁寧に汚れた上着まで脱がせてくれている、おかげで汚物が発する臭気も、さほど強いわけではない。それだけでも身体が楽になった気がして、ロッシュは低く息を吐いた。昨日の記憶は、しっかりと全て残っている。全く馬鹿なことをしたものだと、正気になった今でこそ思うが、その悔恨で過去の決断を変えられるわけではない。
そもそも、こうなることは半ば分かっていて、それでもストックの挑発に乗ったのだ。ある意味自業自得とも言える、だがそもそもストックが――いや、そうだ、ストックだ。彼はどうしたのだろう、残った記憶の限りでは、死ぬ程の酩酊からは抜け出していたようだったが。
「……ロッシュ?」
そこまで考えたのを見計らったかのように、扉が開き、ストックが顔を出した。ロッシュは頭痛を堪えて首を回し、その姿を視界に入れる。顔色はまだ少し白いが、思っていたよりも遙かに元気な様子に、安堵の息を零した。
そして同時に怒りが沸き上がってくる、自分は身動きもままならない苦痛に耐えているというのに、暢気そうに歩き回って。
「目が覚めたのか。……大丈夫か、調子はどうだ?」
心配そうな問い掛けにも、声を出す気にはなれず、熊のような呻きを発して不調を示してやる。ストックは困ったような顔をして、足音を立てぬようにそっと寝台の傍らに歩み寄ってきた。
「酷そうだな。水を持ってきたが、飲めるか」
見ればその手には水差しと、ついでにいくつかの果物が乗せられている。気遣って持ってきてくれたのだと、勿論理解できているし感謝もしているのだが、やはり愛想を振りまくまでには至らない。無言のまま、あちこち痛む身体を騙しつて身体を持ち上げ、ストックが差し出してくれた杯を受け取る。
「……お前、大丈夫なのか?」
ようやくのこと絞り出した声は、乾きと酒焼けで随分と掠れてしまっていた。ストックがびくりと身を震わせ、ロッシュの様子を伺いながら、恐るおそるといった様子で口を開く。
「ああ……まあ、な」
「二日酔いとか、無いのかよ」
「……少しは」
「少しか……」
はあ、とロッシュが溜息を吐く。そういう人間もいるのだ、どれだけ酔っても翌日に影響しない、心底羨ましい体質の者が。しかもストックの場合、消えてしまっているのは、恐らく二日酔いだけではないだろう。
「昨日のこと、どれくらい覚えてる」
「いや……それなりには、まあ」
「じゃあ、どっから記憶がある」
「…………」
「……ストック」
掠れているせいで普段よりさらに凄みのある低音、そして不機嫌があからさまな半眼は、本気で殴り合った経験を持つ親友ですら恐ろしいものだったらしい。
「お前と、飲み比べになったあたりまでは」
肩を縮め、視線を外しながらぼそぼそと語るストックは、つまり一応の経緯は覚えていることになる。だからこそこうして小さくなっているのだろう、責任の所在まですっぱり忘れられたわけではないことを確認し、ロッシュは少しばかり怒りを収めて水を啜った。
「……食えるようなら、食え。回復が速まる」
誤魔化すように押しつけられた果物を、取り敢えずは大人しく受け取たしかし食べるだけの気力は沸かず、何をするでもなく、手の中で転がしている。
その様子に気付いたストックが、ひょいと果物を取り返すと、皮を剥き始めた。丁寧なことだと、ロッシュは半ば呆れてそれを見守る。
「そういや、服はどうしたんだ?」
「洗った。……汚れていたんだ」
汚れの原因を口に出さないのは、気遣いかそれとも、己の罪を表にしたくなかったのか。水や果物を態々用意してくれていたことといい、相当に罪悪感を感じているのは間違いないのだろうが。
「食え」
後は食べるばかりにされた果物を、ロッシュは今度は素直に、口の中に放り込んだ。広がる酸味が、疲れた身体に染み渡る。昨夜は殴らずに済ませられるかと思っていたが、心配そうに見守るストックを見ていると、そんな気持ちも萎えてしまう――ような気もしたが、脳内に居座る痛みの方は、残念ながら簡単に萎えてはくれない。
はぁ、と大きな溜息を吐くと、ストックがまた困った様子で眉を顰めた。
「潰れるまで飲んだの、初めてか」
「……ああ」
「そうか。じゃあ、これで分かっただろ……これからは、加減を間違えるんじゃねえぞ」
殴る気はもう無いが、二度目を許す気はもっと無い。もう一度繰り返したら、今度こそきっちり殴り倒すと、言外に込めた意思はどうやらきっちり伝わったようだ。かくかくと、必死さを感じる勢いでストックが頷き、反省の意を示してくる。
とはいえよく考えれば、挑発に乗ったロッシュにも、責任の一端はある筈なのだが。失念しているのか、それとも下手なことを言ってロッシュの怒りが爆発するのを恐れているのか、ストックがその事実に触れる様子は無い。
「……悪かった。次は気を付ける」
「ああ、二度目はねえからな」
「…………」
凝り固まった身体をのばし、大きく息を吸う。しょんぼりと肩を落とすストックを、そろそろ許してやってもいいかと、険しい眉を少しだけ緩めた。
「窓、開けてくれ。臭いが篭もっちまう」
だがもう少し、痛みが治まるまで、こうして甘えるくらいは許されるだろう。そう思ってごろりと寝台に寝転がり、窓際へと向かうストックを、ぼんやりと見送った。





セキゲツ作
2012.04.26 初出

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