たいした音量で発せられているわけではないのに、彼の声はとても良く通る。それは軍人として、そして政治家として活動するうちに培われた技術なのかもしれないし、あるいは生来の才能なのかもしれない。ともかく、体型に見合わず真っ直ぐに通るその声が、食事に勤しむストックの耳朶を遠慮なく叩いた。
「やあ、珍しいところで会うね」
気さくな笑いを浮かべてストックの元に歩み寄るラウルは、一応現在、この国のトップを勤めている男だ。しかし本人にそんな気負いは無く、また何故か周りも指摘するような者は居らず、極普通に食堂の光景に溶け込んでいた。
いや、実際はラウル本人の態度がそうであるというだけで、周囲の方はしっかりと意識を向けているのだが。国の中枢に位置するストックであればまだしも、城で働いているというだけの一般人にとって、首相という肩書きは相当に大きな影響力を持つ。食事を取る者はその手を緩やかにし、立ち上がろうとしていた者は浮いた腰をもう一度沈めて、恐るおそるといった態度でラウルの挙動を伺っていた。
しかしラウルは、人々の戸惑いなどなど、気にした風も無い。自らが耳目を集めていることに気付かぬわけもないだろうが、それらへの反応は一切返さず、料理の皿を抱えてストックの向かいに腰掛けた。
「どうしたんだい、いつもは可愛らしい奥さんが愛妻弁当を持たせてくれているのに」
「……打ち合わせがあったから、他の奴に付き合っていただけだ」
ラウルらしい軽口に眉を顰めながらも、ストックは手元の包みを指し示してみせる。少し前まで愛情と栄養の詰まった昼飯が入っていたのだが、今はすっかり空だ。食事を食べながらの打ち合わせは既に終わっていたが、休憩がてらに情報収集でもしようかとその後も腰を落ち着けていたところである。しかしどうやらそれが仇になってしまったらしい――いや、仇などという言い方をするのは、話しかけてきたラウルに対して失礼極まりないのだが。
自らの思考を誤魔化すようにして、ストックはちらりと首を傾げる。
「あんたこそ、どうした」
「いやあ、普通に食事だよ。僕は君達みたいに弁当を作ってくれる人も居ないからね、専ら、食堂にお世話になっているのさ」
「そうなのか? ……だが、それにしては」
言葉を切って周りに視線を遣る、ラウルが普段から食堂を使っているにしては、周りの反応が大きい気がする。いくら国家元首とはいえ、日常的に見かけていれば、もう少し驚きは少ないと思うのだが。
ストックの当然とも言える疑問に、ラウルは苦笑を浮かべて応えた。
「うん、まあ、こっちまで降りてくることは少ないからね。大体は業務が詰まってて、執務室まで持ってきてもらうことになるから」
そう言う笑うラウルの目が、一瞬虚ろに光ったようにに感じられたのは、多分ストックの気のせいでは無い。はあ、と笑い声に続いて溜息を吐きだしたラウルに、ストックはひっそりと同情の念を寄せる。
ストックとて別段、ラウルを嫌っているわけではない。ただ、世間話が得手ではないストックにとっては、口数の多い彼と話すのが些か負担が大きいというだけのことだ。ロッシュが居れば話を任せることも出来るが、一対一ではラウルの話全てを自分が受けねばならない。間が持たないという心配は一度の邂逅で消し飛んだが、それとは別種の労が、彼との対話には存在した。普通であれば誰もがやっていることだし、ストックとて能力的に出来ないというわけでは無いのだが、苦手なものは苦手なのである。
だが、それとラウル個人への好悪は別問題だ。戦後の混乱を立て直す大役を引き受けてくれたという尊敬もあるし、その有能さに対する信頼もある。彼がストック達若者への責任を強く感じてくれていることも分かっている、だからこそ大量の業務に疲弊しているのを見ると、感謝と同時に申し訳なさも覚えるのだ。
「……大変だな」
「まあね、でも戦争の時みたいに殺伐としてるわけじゃないから、まだマシかな」
その言葉が強がりなのか、それとも本気でこの程度は大丈夫だと思っているのか、それは分からないが。ともかくラウルは、疲れた空気を漂わせながらも軽く笑って、目の前の料理に手を付け始めた。
「でも、せめて食事くらいはゆっくり取りたいんだけどねえ。部屋で掻き込むんじゃ、食べた気がしなくて」
「それは、そうだろう」
「うん、それにこういう所の噂は、良い情報源になるし」
出来れば定期的に仕入れておきたいんだけど、とラウルは再度溜息を吐く。ゆっくりと言った舌の根も乾かぬうちの発言に、ストックは苦笑を浮かべた。
「……随分、仕事熱心になったじゃないか」
「いやあ、仕事を楽にするための努力っていうのもあるからね。世間の流れを知らないと、どんな業務も順調にいかないじゃないか」
頼りなげに笑うその姿は、眠れる獅子と噂された頃から変わってはいない――そしてその内に秘められた鋭い頭脳も。彼はけして己を高く見せようとはしない、むしろ実状を知らぬ相手には軽んじられかねない程の腰の低さだが、それすら彼の計算なのかもしれなかった。高過ぎる能力は敵意を呼ぶ、人々を取り纏める立場において、時に致命的な反感を呼びかねない危険な特性だ。
「でも、打ち合わせをしながら食事っていうのは良いね。機密性の低いものに限るけど」
ストックの考えを知ってか知らずか、ラウルは相変わらず気の抜けた様子で、食事を口に運んでいる。ストックも、巡る思考の流れなどおくびにも出さぬ涼しい顔で、茶を啜った。
「そうだな、首相の持つ中では難しいだろう」
「そんなことは無いよ、仕事は色々あるものさ」
そう言ってラウルはパンを千切った、全く彼は、働くこと好きなのだか嫌いなのだか分からない。いつでも情けなく弱音を吐いているように見えて、その実誰よりも精力的に仕事に取り組んでいるようにも感じられる。ストックがヒストリアから戻る際、激務に晒された彼が逃げ出して居眠りでもしているのではないかと思ったものだが、実状はこの通りだ。
読めない男だ、ストックは思う。
「今度使わせてもらうよ、少しは効率が上がると良いんだけどね」
「……そうだな」
「君が言っていたことなら、うちの秘書も許してくれるだろうし」
悪戯っぽく笑われ、ストックの顔に渋面が浮かんだ。それを見たラウルが、楽しげに笑い声を立てる。
「はは、そう嫌そうな顔をしないでくれよ。大丈夫、妙なことは言わないさ」
「……ああ、そうしてくれ」
「勿論。君に機嫌を損ねられでもしたら、総務と外務にこっぴどく怒られてしまうよ。どれだけ仕事が滞ると思っているんだ、ってね」
妙に持ち上げるその態度が、おべっかなのか何なのか、常と変わらぬ調子からは分からない。何かを企んでいるのかと様子を伺えば、逆に心底を見透かされるような目で見返され、ストックは視線を逸らして溜息を吐いた。
それをが理由かどうかは分からないが、ラウルの眉が軽く持ち上がる。
「まあ、休憩時間まで仕事の話でもないか。君も疲れているだろうし」
「……いや」
「そうでもないかい? いやあ、それは頼もしい、流石皆が付いていくだけのことはある」
何と答えていいか分からず無言を返すが、よく喋る男は気にした様子も無い。二人だからといって間が持たぬなどということは一切無い、その弁舌はある意味賞賛に値するが、今のストックにとっては仕事よりも余程疲れを生み出すものだ。
「けど、君が倒れたりしたら、色々な人に怒られるからね。一応気をつけておいてくれよ」
「……首相を怒れる奴が居るのか?」
「何を言っているんだい、僕の立場なんて弱いものさ」
態とらしく肩を落として息を吐く、しかしストックの視線が変わらないのを見ると、直ぐに体勢を戻した。
「君を内政官に任命する時も、奥さんが随分と噛みついてくれたじゃないか。無理をさせたら、また執務室に乗り込まれてしまう」
からかい混じり、というよりは明確にからかう意図で発せられた言葉に、ストックはまた渋面を浮かべる。秀麗な顔立ちの中央に深く刻まれた皺を、ラウルは面白そうに眺めながら、手にした匙を行儀悪く振った。
「君も男なら、きちんと手綱を取っておかないと。最初が肝心だからね、尻に敷かれてからじゃ遅いんだよ」
「……大きなお世話だ」
不機嫌極まりない低い声で発せられる言葉だが、しかしそれは単なる悪態に止まり、反論や否定の態を成していない。帰るかも分からぬ身を待ち続けてくれた健気な妻に対しては、普段の頑固は何処へやら、どこまでも甘い態度になってしまう。
そんな、眉間の皺からすら幸せが滲み出ている若人の姿を、年長者たるラウルは笑いながら見守っていた。そしてその目がふと、楽しげな光できらりとなる。
「まあ、彼女も今は専業主婦だからね、気合いと情熱が全て君に注がれてるんだろう」
「…………」
「何なら、今からでも軍に」「断る」
ストックの睥睨にも構わず、台詞を途中で遮られたことも一切気にする様子はなく。というか、恐らくそれらの反応すらもラウルの期待した通りなのだろうが、残念ながらストックにそれ以外の反応を返す余地は無い。にやにやという擬音語がぴったりくるラウルの笑みに、さらなる攻撃を仕掛ける気力も奪われ、ストックは大きく溜息を吐いた。
「まあ、それが嫌なら、早く子供を作ったらどうだい?」
しかし続けられたその言葉に、吐き出した息がそのまま、噴き出すようなものに変わってしまう。ぶ、と普段の彼らしからぬ不格好な音が発せられ、ラウルの目が丸くなった。
「……どうして、そうなる」
「いやあ、そうしたらレイニー君も子供に掛かりきりになって、君に構う余裕なんて無くなるだろう。平和的に解決できるじゃないか」
うんそれがいい、などと暢気に頷くラウルを、ストックは懲りもせず半眼で睨んだ。堪えもしないと分かっていても、正直他に意志を主張する手段が無いのである。親友相手であればそろそろ手が出ている領域だが、さすがに自分より二十歳以上も年上の人間を殴るわけにもいかない、勢いが付きすぎて後遺症でも残ったら後が面倒だ。
「ほら、ロッシュのところだって可愛い赤ん坊が居るじゃないか。ああいうの、羨ましく思ったりしないのかい」
「…………」
「君、子供嫌いだっけ?」
「……いや」
レイニーは女性らしく、子供に対して深い愛情を示している。ストックとてか弱く幼い子が嫌いなわけは無い、それが愛する女性との間に出来た自らの子であれば尚更だ。だが、それと今交わされている会話についての感想は、全く話が別である。
「いいじゃないか、小さい子が増えると僕も楽しいし」
「……どうして、あんたが楽しいんだ」
「そりゃ、親と違って無責任に可愛がれる立場なんだから、楽しいに決まってるだろう」
しれっと言い放つラウルに、ストックは飲み込んだ溜息が逆流しそうになるのを、ぐっと堪えた。我が子を玩具にされてたまるかと、産まれても居ない子に対して、保護欲に近い感情を覚えてしまう。全くロッシュは、よくこの面倒な男相手に普通の付き合いを保てるものだ。
「そうなったら、君達の家の近くに引っ越そうかな。直ぐに遊びに行けるようにね」
「……断る」
きっぱりと言い切ったストックは、それがきっかけとばかりに、がたりと勢い良く席を立った。飲み干したコップと弁当の包みを手に、食堂を出ようと足を踏み出す。
「おや、もう行くのかい」
「ああ。……仕事がある」
「そうだね、頑張ってくれよ、ただし無理はしないように」
乱暴な挙動だが、ラウルは気にした様子も無く、にこやかに笑って見送る姿勢を見せた。
「きついようなら言ってくれ、調整するから。冗談は抜きで、一人だけにに負担を被せるわけにはいかないからね」
その言葉にストックは、ちらりと眉を上げた。先程までのふざけた態度と表層だけは変わらない、しかし込められているのが真剣なものだと、ストックには理解できる。
彼は本当に、この国に対して深い責任を負ってくれている。それは単に国力を上げるというだけではない、ストックやロッシュのような若者、そしてそれらが担う未来を守るという意味においてもだ。くだらぬ話で人を煙に巻く姿と、アリステルのためひたすら真摯に働く姿。一見重ならぬそれらは、きっとどちらもラウルの真実なのだろう。
「……ああ」
だからストックも、険しくしていた眦を、少しだけ緩めることにする。口元に微かな笑みを浮かべると、ラウルもまた機嫌よく笑顔を返してきた。
「それと、懐妊の報告も待ってるからね。真っ先に、僕のところにくるように」
「…………」
しかしそれはそれとして、苦手な相手であるのも確かであって。
ストックは大きく、それはそれは態とらしい程大きく溜息を吐くと、答えを返さずその場を立ち去った。
今後は必ず、誰か他の人間を同席させての会話にしようと、心に決めながら。




セキゲツ作
2012.02.18 初出

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