最近のアリステル城には、名物がある。
毎日見られるわけではないが、奇跡と呼ばれる程稀なものでもない。何日か、あるいは十何日かに一回の割合で発生するその光景は、軍部を始めとしたアリステル城の人々の間で、密かに熱く語られる話題であった。
「おはようございます、ロッシュ将軍!」
その名物を形作る要因の一人、小柄な体躯ながらに装備一式を着こなしたマルコ隊長が、今朝もまたロッシュ将軍の執務室を訪れていた。数ヶ月前にロッシュが倒れて以来、毎朝上司の部屋を訪れるのが、彼の日課となっているのだ。つぶらな、優秀な軍人とは思えぬ可愛らしい目にじっと見詰められ、ロッシュは居心地悪げに顔を歪めた。
「おう、おはようさん。毎日飽きねえなあ、お前も」
「飽きる飽きないじゃないですよ、皆に頼まれてるんです。僕を信じて頼んでくれているんですから、その期待を裏切るわけにはいきません」
「期待ってな……仕事でもねえのに、そんなに気合い入れてどうすんだ」
「仕事にだって関係ありますよ、将軍がまた倒れられたら、困るどころの騒ぎじゃなくなるんですから」
指名感に燃えて拳を握りしめるマルコに、ロッシュは隠すこともせず溜息を吐き出す。彼がこうして始業時間前にロッシュの執務室を訪れるのは、二ヶ月程前に倒れた上司の体調を確かめるためだった。顔色は悪くないか、動きが鈍ってはいないか、その他病気に繋がる兆候はないか――薬学が趣味で、それに伴い医学の分野にも精通しているマルコの目によって、ロッシュは再び倒れるようなことは無いように厳重に監視されているのである。
「あのな、そりゃあの時は迷惑かけたが、あれ以来俺も随分仕事減らされてるんだよ」
「はい、それはもうよーく知ってます」
「それに家じゃあ、ソニアに見張られ――見てもらってるし」
「前からおっしゃってますよね、承知してます」
「……だから態々、お前にまで診てもらう必要は無いんだが」
「でも僕が確認するようにって、皆に頼まれてますから」
「いや、だがなあ」
「それに僕だって、将軍のこと心配ですし。もう直ぐ遠征でしょう」
「ん、俺はそれには出ない予定だぜ」
「当たり前です、倒れたばっかりの人を出せるわけないじゃないですか。でもしばらく僕も居なくなるし、事務処理で将軍も忙しくなっちゃいますから、居る間にしっかり診ておきたいんです」
「いやなあ、そうは言ってもよ」
「良いからほら、腕出してください。脈取りますから」
ロッシュの反論を頭から無視してマルコが睨み付けると、ロッシュは顔中で内心を表現しながらも、抵抗できずに右腕を投げ出した。不思議なことだが、体格にも勝り地位も上であるロッシュは、どうしてもマルコに逆らえないのだ。別段苦手にしているわけではない、どころか人材の少ない戦後の軍で互いに認め合い、信頼し合って人々を護っている者同士なのだが、何故かマルコが強く出るとロッシュの頭が下がってしまう。小さすぎて逆に力が振るえないのだとか、陰で弱みを握られているのだとか、好き勝手な噂が飛び交っているが実際は単なる相性の問題だろう。
そしてそれこそが、こうして彼がロッシュの身体を診ている理由だった。ロッシュという男は、こうと決めたら譲らない頑なな性質をもっていて、例えそれが医者であろうと指示に従わず突っ走ってしまうことがある。医者であるソニアが妻だというのに、その注意をかいくぐって倒れるまで疲労を溜めてしまったのだから、その頑固さといったら相当なものである。その男を強引に従わせる不思議な力を持つ者として、ロッシュの周囲の人間はマルコに監視の役目を頼んできていたのだ。
「……うん、大丈夫そうですね」
「そりゃな、昨日の今日で調子悪くなんてしねえって」
「そんなことありませんよ、病気になる時っていうのは、ガタッて崩れるものなんですから。体力を過信したら駄目だって、この間のことで分かったじゃないですか」
マルコの叱責に、ロッシュは不満げな顔をしつつも、小さく身を縮めている。こうして体調を確認され、もし異常に繋がりそうな症状が見付けられたら、その足で医療エリアまで連行されるのだ。アリステル城の誰もがその名を知る鉄腕将軍が、小柄なマルコに引き連れられて消沈しながら地下へ降りていく姿は、奇妙な見物として城の名物となっていた。
しかし今日はどうやら情けない姿を晒さずに済んだ様子で、取り敢えずロッシュは安堵の息を吐く。
「まあ、何も無いならよかったぜ。仕事が溜まってるからな、休んでられねえんだ」
「遠征の準備がありますからねえ。あんまり無理はしないで欲しいんですけど」
「ああ、勿論身体を壊さん程度に抑えてもらうさ。悪いな、心配かけて」
「いえ、分かってくれればそれで良いですから。じゃ、僕も仕事に戻りますね」
「ああ、お前も忙しいだろうが、無理すんな――」
と、そこでふとロッシュの言葉が途切れた。それまでの、抵抗し疲れて呆けた表情は消えて失せ、瞬時にして真剣な様子になる。敵意こそないものの、それと取り違えてもおかしくない程鋭い視線を受けて、マルコは目をぱちくりとさせた。
「な、何ですか?」
「いや……」
立ち去りかけた足を再び踏み出すこともできず、問いかけても曖昧な唸りを返されるのみだ。どうして良いか分からぬマルコを、ロッシュはじっと見詰めている。
「え、えっと、将軍?」
「よく見りゃお前も、随分顔色悪いな」
低い声音でそんなことを言われ、マルコは咄嗟に顔に手をやった。確かにここのところ、遠征の準備で忙しい日が続いていたが、顔に出る程体調を悪くしていたのだろうか。人の顔色を見ることはあっても、自分の顔など見はしないので、気付きもしなかった。
「そんな、気のせいですよ。体調悪い感じはしないし」
「あのなあ、人を散々医療エリアに放り込んでおいて、自分の時になったらそれか」
慌てて取り繕うマルコに、ロッシュは呆れた顔になる。
「無理して倒れたら駄目なんだろ、ちゃんと診てもらってこい。何なら遠征も、他の奴に担当してもらうから」
「そんな、駄目ですよそんなの! 大したことないんですから、代わってもらう程じゃありませんって」
軍の者は忙しい、隊長であるマルコの代役が務まる程実力のある者であれば尚更だ。自覚が無い程の不調で皆に迷惑をかけるわけにはいかない、マルコは必死でそう主張するが、上司は呆れの上に苦笑を重ねるだけだ。
「俺は毎日、今のお前と同じこと言ってたつもりだが、それで容赦したことあったか?」
居心地悪く視線を彷徨わせたマルコだが、ロッシュが席を立つ乱暴な音に、びくりと身体を震わせた。
「まあ、取り敢えずは診療だな。行くぞ」
「ええっと、その、行くって何処に」
「だから、医療エリアだって」
「……何で、ロッシュさんも立ち上がってるんですか?」
困惑のあまりか、呼び名が仕事を離れた時のものに変わってしまっているが、マルコ本人はそれに気付く余裕もない。小動物のように身を縮めるマルコの前に立ちはだかるロッシュは、その体格差もあり、子供を叱る親のようにも見える。つい数分前とはうって変わった迫力でマルコを見下ろすその顔が、強気な笑みの形に歪んだ。
「そりゃ、途中で仕事に逃げんように、見張ってやらんとな」
「何ですか見張りって! そんなことしなくても、ちゃんと行きますってば」
「まあ、遠慮するな。いつもしてもらってることを返すだけだ」
「ロッシュさん、忙しいって言ってたじゃないですか、僕は一人で大丈夫ですから自分の仕事をしてくださいよ」
「ったく、煩い奴だな……ほら、良いから行くぞ」
何だかんだと言って同行を拒否しようとするマルコの態度が、気に食わなかったのかどうか。ロッシュはひとつ舌打ちすると、マルコが絶対に逆らえない手段に出た、即ち――小柄なマルコの身体を捕まえ、右腕一本で小脇に抱えてしまった。
「う、うわあっ!?」
身体が浮き上がる感覚、そして足の付かない不安定さに、マルコが声を裏返らせる。不当な拘束への抗議を込めて短い手足をばたつかせるが、立派な体格をここぞとばかりに活用して完全に身体を固定するロッシュには、文字通り手も足も出ない。
「ちょ、ちょ、ちょっと離してくださいよ! 自分で歩けます!」
「良いから良いから、いつも世話かけてる礼だよ」
「礼って、それを言うなら下ろしてくださいってば……」
ぶら下げられた位置から必死で見上げるマルコの懇願を、ロッシュが気にかける様子は一切無い。むしろ楽しそうに笑いながら、義手で扉を開け、廊下に出ていってしまう。あるいは、普段首に縄を付けられるようにして医療エリアへと引き立てられるのを、彼なりに恨んでいたのかもしれない。
「ロッシュさんー!」
「まあまあ、気にすんなって」
マルコの叫びと、装備が擦れ合う耳障りな音が城の者たちの視線を引きつけているのだが、混乱の極まるマルコはそれすら気付いていないのだろう。
「うう……次は、覚悟しておいてくださいよ……」
「ん、何か言ったか?」
「……何でもありません! 良いから下ろしてくださいって!」
二人だけでも賑やかな声が、衆目を集めながら、暢気に廊下を下っていく。
話題の耐えないアリステル城に、もうひとつ新たな名物が生まれるのは、そう遠くないのかもしれない。





セキゲツ作
2012.01.09 初出

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