マルコが顔を出したその時、ソニアは丁度負傷者の手当をしている最中だった。大きな戦闘から戻った部隊があった記憶は無いから、訓練中の怪我だろうか。支給の装備から鎧兜を取り去った兵が数人、ソニアが座る診療机の前に列を作り、順に治療を受けている。
マルコは一瞬躊躇った、彼は怪我をしたわけではなく、薬の補充を頼むために医療フロアへやってきただけなのだ。書類は既に整えてあり、後は目的の薬を出してもらうだけなので、ソニア以外の者に頼むこともできる。忙しい彼女に態々動いてもらう必要もないのだが、ただマルコが所属するロッシュ隊は、これから直ぐに出撃を控えていた。薬を都合してもらう度ちょっとした雑談をして、今では茶飲み友達のような関係にあるソニアに、出来れば一声かけてから出立したいという気持ちがある。迷いながらソニアの様子を窺うと、彼女の側でもマルコの存在に気付いたようで、兵達を飛び越えて視線を投げてきた。
「すいません、マルコさん。すぐ終わりますから、待っていてください」
そしてよく通る声で呼び止められる、慌ててマルコが手振りで構わぬようにと主張するが、ソニアはすまなさそうな微笑みを浮かべるばかりだ。あるいはロッシュ隊出撃の報は彼女にも伝わっているのかもしれない、戦いに赴くマルコを労いたいと思ってくれているならば、その気持ちはとても嬉しい。迷惑をかけたくないという思いと、少しでも言葉を交わしたいという思いが瞬時にぶつかり合い、結局申し訳ないと思いつつもその場で待たせてもらうことにする。直ぐに終わればそれでよし、しばらく待って片づかぬようであればまた出直すことにしようと、一人自分を納得させながら病室の隅に移動して腰を下ろした。
そうして改めて観察すると、治療されている者達の怪我の程度は、さほど重いものではないようだった。取り去った衣服には鮮やかな血が付着していたが、それも大した量には見えないし、自身の表情にも余裕がある。複数人が並んでいるにも関わらず、対応はソニア一人に任せられ、手当を受けていない者達は暢気に待っている程だ。それならば態々忙しい医療部の手を割かずとも、その隊の衛生兵で対処出来るのではないかと思うが、彼らにとってはここで治療されることこそに意味があるのだろう。分かりやすく緩んだ兵の顔をマルコは呆れて眺める、医師であるソニアに近づきたければ、怪我をするのが一番簡単だということか。
(ソニアさんも大変だなあ)
マルコは、聞こえぬ距離なのを確認し、低く嘆息した。真剣な表情で仕事に取り組み、時折柔らかく微笑むソニアは、確かに魅力的だ。何の他意も持たぬマルコですらふと気を抜くと見惚れてしまいそうになるのだから、例え既に恋人が居ようと恋情の気持ちを消せないのというのも分からない気持ちではない。しかしこうして仕事場に押し掛けたところで、彼女の目からは数多くいる患者の一人しか見てもらえないのは、容易に想像できる筈だが。それとも彼らは、恋愛だの何だのといった要素は全く考えず、ただ憧れの人の傍に行きたいという衝動のみで行動しているのだろうか。一見すると純粋にも聞こえる主張だが、やっていることは忙しい相手の手間を増やすという、単なる迷惑行為である。ソニアは不満をちらとも表さず献身的に治療に打ち込んでいるが、当の患者が何やかやと話しかけるために、中々次の者に移ることができない。優しげな微笑みの中に一筋浮かんだ困惑を見て取り、マルコはまたひとつ、息を吐く。
「人待ちかい、少年」
ぼんやりとそんなことを考えているところに突然かけられた声に、マルコは椅子から飛び上がった。彷徨わせていた視線を入り口に戻すと、そこには研究員の青年が立っている。確かミースという名の彼は、ソニアに差し入れでもしに来たところだったのか、両手に湯気の立つカップを持っていた。
「え、あの……」
「相変わらず忙しいようだね、ソニアは。さすが医療エリアの代表者だ――飲むかい?」
そしてその片方を、すっとマルコへと差し出す。マルコは戸惑いを浮かべ、カップとミースの顔を交互に見遣った。
「え、良いんですか? ソニアさんのじゃあ」
「この分だと、いつ彼女の口に入るか分からないからね。冷める前に飲んでもらって、彼女には新しく淹れ直した方が気が利いているってワケさ」
「そうですか、それじゃあお言葉に甘えて、頂きます」
ぺこりと頭を下げ、カップを受け取ると、満たされた熱い液体をそっと口元に運んだ。ミースもその横に腰を下ろし、診療の光景を眺めている。
「しかし、くだらない作業だ。誰がやっても変わらぬような仕事なら、彼女が行わずとも良いだろうに」
「……くだらないかどうかはともかく、忙しいのに細かい仕事が多くて、大変そうではありますよね」
「ああ、全くだ。彼女の頭脳は、本来あんな無駄なことに浪費されるべきでは無いんだがね」
研究員特有の他部署を見下した態度ではあるが、この場合においては一面の真実を突いているとも言える。手厳しい意見に苦笑しつつ、ようやく治療台から退いた兵を眺めると、実に満足そうな表情を浮かべていた。彼にとっては至福の時間だったのだろう、ソニアにとってどうかは分からないが。
「ソニアさんに憧れている兵は多いですから」
「君も含めて、かな?」
「僕は別に、そういうわけじゃ」
「ふふん、冗談さ。まあ、確かに彼女は魅力的だからね、最近は特に」
ちろりとマルコを見遣るミースの口元には、実に意地の悪い笑みが浮かんでいる。そもそも研究員というのは、狭い世界に閉じこもっているからかどうか、性格に問題のある者が多い。総責任者のフェンネルからして、アリステルで一二を争うと言われる有名な奇人なのだから、その元に集う部下達も推して知るべしといったところだ。
「少年、君はどうして彼女が美しいか、知っているかい?」
「……どうして、って言われても」
だからミースが投げたそんな質問に対しても、マルコは反射的に身構えて、そのまま警戒するような表情を返してしまった。あからさまに過ぎるマルコの反応だが、ミースは気にした様子もなく、笑みを保ったまま手元のカップを弄っている。
「思い浮かばないかい? よく聞く話だと思うんだがね――彼女は恋をしている、それが彼女が男達の目を奪う、一番の理由ってワケさ」
しかしその口から語られる説は、思ったより遙かに一般的、むしろ夢見がちな少女が囁くようなものだ。肩すかしをくらった気分でマルコは間抜けな声で、恋ですか、と発せられた単語そのままを繰り返す。
「ああ、君は知らないかな」
「ロッシュ隊長とのことですか? それは、その、噂で聞いていますけど」
実際は、彼らを結びつけた当人が直接の上司なのだから、知っているどころではないのだが。もっとも、当のストックが詳しくを語る性格ではないため、情報量としてはそこらの兵士と大差なかったりする。
「それなら話は速い。そう、彼女はつい先日ようやく、長年の片思いを叶えたってワケ」
「へえ! そうだったんですか」
マルコの目が丸くなる、てっきりロッシュの側から想いを向けて応えてもらったのだろうと思っていたが、ソニアの片恋から発展した関係だったとは。初めて知った意外な事実に驚きつつ、手にしたカップから一口、紅茶を含む――
「ああ。おかげで彼女は、今まさしく発情真っ最中ってワケだ」
「……ふぐっ!」
――その紅茶を勢いよく噴き出しそうになり、マルコの喉が妙な音を立てた。逆流した液体が気管に入り、ごほごほと涙目で咳込んでしまう。
「おや、どうしたね?」
「ど、ど、どうしたも何も……何言ってるんですか、一体」
「何も不思議なことは言っていないと思うがね、彼女も生き物だ、子孫繁栄の本能には逆らえないワケさ」
咳の余波と、それ以外の理由で顔を赤くするマルコを、ミースはからかっているのが丸分かりの表情で眺めている。人の悪い研究員を、マルコは丸い目で精一杯に睨み付けたが、その程度を気にするようなら最初からこんなことを言い出しはしない。
「受胎を迎える態勢に入っている彼女は、自分の種を残したい男の目には、これ以上無く魅力的に見えるんだろうな。それが唯一人に向けられたものだとも分からずに、いや分かっていても抗えないのかもしれないが……男なんて、哀れなものだと思わないかい?」
「…………」
下卑た単語は使わずとも、十二分に性的なことを連想させるミースの物言いに、マルコは耳まで真っ赤になった。彼とて傭兵団の出身だ、猥談への耐性が無いわけではないが、よく知った相手を対象としたそれには妙な忌避感がある。特にソニアは、浮き世離れした清らかさを感じさせる雰囲気を纏っているから、尚更のことだ。
ミースはそんなマルコの反応に至極満足したようで、楽しげな笑いを病室に響かせる。
「ははは、少年にはまだ早かったかな」
「そういう問題じゃありませんよ! ……ソニアさんに失礼です」
「おや、これは優しい。君も彼女の崇拝者ってワケかい?」
「……そんなことはありませんってば」
ミースのにやにや笑いから視線を逸らせ、マルコは不機嫌そうに口を噤んだ。その態度がまた相手を喜ばせることは分かっているが、真正面から相手をするだけの余裕は、さすがに持てない。
「すまなかったね、少々刺激の強い話になってしまった。もっと別の形容を考えた方が良いかな」
「いえ……その、もういいですから」
というか、正直もうこの話題は止めて欲しいのだが。そんなマルコの内心を知ってか知らずか、いや間違いなく気付いているのだろうが、ミースはひょいと肩を竦めてソニアを見遣った。
「そうだね、君に合わせた言い方をするなら、彼女は虫を引きつける花のようだ――と言ったところかい」
「……そうですね」
あくまでこの話を続けるつもりらしいミースに、マルコはこみ上げる溜息を堪えながら、カップを口に運ぶ。取り敢えず性的な流れからは離れたようだ、実際彼女は花のように美しい。発情だのなんだの、妙な例え方をされるよりは余程――
「ところで知っているかい? 花には受粉に必要な器官が備わっている、即ち花というのは植物にとって性器にあたるワケだが」
「…………ぶっ」
――今度こそ堪えきれずに、マルコの口から勢いよく紅茶が噴き出された。全力でむせるマルコの背を擦りながら、ミースが実に気持ちよさげな笑いを零した。
「花開くような美しさ、ね。全く、今の彼女に相応しい形容だ、君もそう思わないかい?」
「もう、帰ります!」
さすがにそれ以上は耐えきれず、がたりと音を立てて椅子から立ち上がる。物音にか動作にか、ソニアの視線が向けられたのを感じたが、それに向き合う自信はさすがに持てない。視線を壁に向けたまま、マルコは手にしたカップをミースに押しつける。意地の悪い研究員はそれを受け取り、残った茶をゆらりと揺らした。
「またおいで、少年。ソニアが忙しければ、僕が話し相手になろう」
「……結構です!」
険しく言い据えようとも、その程度で青年の笑みが崩れるはずもない。マルコは大きく息を吐くと、それ以上関わることを諦めて、とにかくこの場から立ち去ってしまおうと出口へ足を向けた。
しかし扉に辿り着く前には、否が応でもソニアと目が合ってしまう。話の内容は分からずとも状況は察しているのだろう、申し訳なさそうな苦笑を浮かべたソニアに、マルコは慌てて頭を下げた。
「また後で来ます」
早口でそれだけ言うと、彼女が返した反応を確かめぬまま、踵を返して病室から飛び出す。廊下に出て扉を閉めても、最後に目にしたソニアの優しげな表情が視界をちらつき、瞼を瞬かせた。それなのに耳にはミースの笑い声が残っており、二つの感覚から響いてくるそれらを、ぶんぶんと頭を振って必死で追い払う。
どうにも手酷く遊ばれてしまったようだ、やはり研究者には性格の悪い者が多いらしい、それとも頭の回転が良すぎると、空いた隙間で禄でもないことを考えてしまうのが人間というものなのだろうか。しかしソニアは、そんな研究所に所属していながら、奇跡的と言って良い程の優しさを保っている。どうして皆ああいう風になれないのか、マルコは溜息を吐いた。
あるいは研究員達も、擦れた者達の中で純粋な心を失わないソニアを、彼らなりに大切に思っているのかもしれない。そんな彼女を眩しげに見詰めていたからこそ、あんな風にからかわれてしまったのだった。もしその通りだとしたら、全く迷惑な話だ。
「だって、仕方がないじゃないか」
あれだけ美しい女性なら、男として視線を寄せずにはいられない。別段よからぬことを考えていたわけでなし、眺めることくらいは許して欲しいものである。そう、それこそ花を愛でるように――
「…………」
思考の中に浮かんだ単語からは、否応なしに先程のやりとりが連想されてしまい。マルコは一人で顔を赤らめると、余計な雑念を振り払うため、走るようにして仲間の元へと戻っていった。





セキゲツ作
2011.12.29 初出

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