「っふう……」
城の正面広間へと足を踏み入れた瞬間、身を包む刺すような寒気が少しは和らいだのを感じて、ラウルは息を吐いた。それでもまだ、口から吐き出す息は、外気に触れた途端白い煙となって立ち上っている。一瞬にして消えるそれの発生は、室内であるにも関わらず低い気温を如実に示しており、ラウルはうんざりして眉を顰めた。
「寒いねえ、本当に」
「冬ですから。むしろ、寒気が訪れなければ異常と言えるでしょう」
「まあ、そりゃそうなんだけどね。それにしても今年は一段と冷え込んでいるじゃないか」
「気温は例年とさほど変わりません。変わったとすれば、首相の年齢くらいしかないのですがね」
相変わらず口の減らない秘書による、人によっては悪意を感じ取りかねない厳しい一言に、ラウルの口元が苦笑の形に変わる。普段ならば皮肉の一言や二言を返してやるところだが、この寒さでは余計なことで口を開く気にもなれない。何も言い返さないラウルに拍子抜けしたのか、秘書もそれ以上の減らず口を重ねることはなく、黙って上司につき従う気配を見せる。
と、そこで。
「――おや?」
広間の片隅、階段へと続く道に立つ二人組に気付いて、ラウルは目を細めた。この寒い中、部屋にも行かずに立ち話をしているのは、アリステル軍の現大将とその片腕である少将だ。二人とも鎧を着ておらず、代わりとばかりに身を覆った外套が、身につけている筈の軍服をすっかり覆い隠してしまっている。今日の寒さを格好自体で主張している二人に、ラウルは面白そうな笑みを浮かべると、足早に近付いて声をかけた。
「やあ、二人とも。こんなところで立ち話かい?」
「首相!」
「お早うございます、首相」
口々に挨拶を返してくる元部下達に、ラウルはにこりと笑いかける。戦争は終わってラウルが軍を抜け、彼らの上司という立場から外れている筈なのだが、律儀な彼らは今でもこうして深い敬意を払ってくれていた。立ち話に加わる体勢に入ってしまったラウルだが、軍の一位と二位が相手となればさすがの秘書も小煩いことは言わないようで、黙ってラウルの後ろに控えている。
「首相は、今ご登城ですか?」
「うん、何だか急に寒くなったからね。外套を引っ張り出すのに、手間取ってしまったよ」
「そうですね。昨日まではそれほどでもなかったのですが」
ビオラが秀麗な眉をしかめ、ほうと息を吐いた。外気に触れたそれは、やはり一瞬だけ白い煙の形を取るが、見る間に溶けて消えてしまう。
「今も、その話をしてたんですよ。今年は寒さが厳しそうですから、凍死者が出ないように気をつけないとって」
ロッシュが続けた内容に、ラウルは一瞬考えを巡らせた後、軽く頷いた。
「――ああ、路上生活者のね」
「それと、酔っぱらいもですね。魔動機械が止まって街全体が冷えてますから、去年までより警戒を厳しくしとかないと」
アリステルに貧富の差はさほどないが、住民の全員が一人も零れることなく暖かい家を持てる程の豊かさは、さすがに持ち合わせていない。特にアリステル首都は魔動機械を中心に発展した街だ、都市としての恩恵を受けられる面積は限られてしまう。その範囲内においては住居の値段も高くなる傾向にあり、必然、正式な家を持たずに路上生活を送る者達も出てきてしまうのだ。戦中から発生していた問題ではあったが、戦争の終結に伴う混乱によって、その数は以前よりかなり増加してきていた。
今まではそれらに対する住人の苦情や治安の悪化が主な問題であったが、これからの季節はさらに、彼ら自身の生命の危機も考えなければならなくなってくる。比熱の低い金属は温度を奪う名人だ、そんな上で無防備に眠るなど自殺に等しいということを、何とかして彼らに知らしめてやらねばならない。
「見回りを強化して、危険な者が居たら保護するようにしましょう。それで随分改善できるはずです」
ビオラの提案に、ロッシュは一応の同意を示してはいるが、その表情は完全に納得したものではない。
「ある程度は何とかなるでしょうが、そういう奴らってのは軍だの何だのとは相性が悪いもんです。こっちが保護だと思っても、そいつらにとっちゃ強制退去の口実にしか感じられないでしょうよ」
「ふむ……」
「抵抗されるか、最悪見回りの時間だけ魔法みたいに姿を消しかねません。それはそれで実行するとして、他の手も考えといた方が良いでしょうね」
「……成る程な」
ロッシュの言葉を、ビオラは真剣に聞き入り、深く頷きを返している。彼女は今まで前線での戦いばかり経験してきた、戦後軍は治安維持の仕事を主にするようになったが、新たな任務に関して戸惑うことも多いのだろう。しかしこうして素直に周囲の声を聞き入れることで、自らに足りぬ部分を補っている。彼女が人の上に立つ理由が、戦の才だけでは無いという、何よりの証左だった。
「では、詳しいことは他の者も集めて、改めて打ち合わせの場を設けることにしよう。有り難う、ロッシュ将軍」
「いやいや、大したことじゃありませんや。お役に立てたら何よりです」
一礼するロッシュに、ビオラはにこりと微笑みを向ける。そのやり取りを満足げに眺めていたラウルだが、ふと溜息を吐き、肩を落とした。
「それにしても、去年までは冬といっても、ここまで大騒ぎするほどの寒さにはならなかったんだけどね。魔動機械が止まったってだけで、こうも違うものかな」
その発言に、ビオラとロッシュも顔を見合わせ、神妙な顔つきになる。アリステルが建国以来その発展を魔動技術に頼ってきたという事実は、それが使えなくなって初めて、様々な騒動という形で彼らの眼前に突きつけられてきた。魔動機械が使われるのは戦争だけではない、住人達の暮らしを豊かにするためにあらゆるな面で活用されていたのだ。それらの使用が悉く禁止されたとあっては、問題が頻発して当然なのだが、世界の現状を考えれば文句を言うことは許されない。
「あー、そういや今年は、グランオルグ製の暖房器具が人気みたいですね。薪とか使うストーブらしいんですが」
――暗くなりかけた空気を打破するためか、ロッシュが明るい声でそんなことを言い出した。ラウルとビオラも、部下の心遣いに感謝しつつ、それに乗ることにする。真剣にならねばならない時はいくらでもあるが、何もない時から常に気を張り詰めていては、心身の消耗を招くばかりだ。
「ああ、そういえば街で聞くね。それ、城でも導入されるんじゃなかったっけ?」
「ええ、執務室や一部の施設に置かれるそうですね。さすがに、何の暖房も無しでは辛いでしょうから」
アリステル城は鉄の城だ、床などの一部は木材を上に張られてはいるが、基本的には金属の固まりと言っていい。暖房を全て停止した状態で冬を越すなど、想像するだに恐ろしいことである。下手をすれば、酔漢の心配をするより先に、城内で凍死者が出る可能性すら――いやさすがにそれは有り得ないだろうが、骨身に染みる寒さが業務の効率を落とすのは確実だ。
「それは助かるな、早く使えるようになると良いんだけどねえ」
「そうですね、ですが……」
上機嫌のラウルに対して、ビオラは思慮深げに考え込んでいる。上司の憂いに気付いたロッシュが、視線を落として彼女の様子を伺った。
「どうかなさいましたか、大将?」
「いや、薪式のストーブは、使用条件によっては事故の可能性があるんだ。魔動機械と同じ感覚で使うと、大変なことになる」
深刻な顔つきで言われたその言葉に、ラウルは目を丸くした。
「事故? そりゃ穏やかじゃないね」
「あー……そういや、ソニアが言ってたような気もしますが、何でしたっけ」
ロッシュは一瞬視線を宙に浮かせて、細君から聞いたという情報を探る。
「そうだ、確か密室で使うと、人が死ぬんだそうです」
「…………」
「…………」
そして導き出された結果は、あまりに大雑把過ぎており、それ単体で聞けば殺人兵器の説明としか思えないもので。ラウルの目が丸を通り越して点になり、ビオラなどは情け容赦なく噴き出してしまっている。
「た、確かに……結果と、それが発生する条件としては、何も間違っていないな」
一応上司の威厳を保とうとしてか、笑い出すことだけは肩を震わせて堪えながら、ビオラが説明を追加した。二人のあからさまな反応に、ロッシュは憮然と口を閉じていたが、ラウルから見れば正直自業自得である。
「正確に言うと、締め切った部屋で使うと燃焼に必要な空気が足りなくなり、結果として致死性のガスが発生するんです」
「ああ、成る程ね」
その説明でようやく真実を理解したラウルが、納得の表情を浮かべて頷く。魔動工学の分野では素人であっても、物が燃えるのに新鮮な空気が必要なことくらいは、一般常識として知っていた。ロッシュは果たして理解したのかどうか、何となく曖昧な表情で頷いている。
「ロッシュ少将、分かったかな?」
「はあ……いや、まあ何となくは」
「何だ、頼りない返事だな」
「いやあ、ソニアの話とあんまり違うもんで、どっちが正しいやら分からなくなっちまって」
そう言って頭を掻く彼は、一体妻からどのような説明を受けたのだろうか。医者であり研究者でもある彼女が間違った情報を伝える筈も無く、それとビオラの話が異なるなど有り得ないのだが、あるいは専門性が高過ぎて門外漢を弾きとばしてしまうような説明だったのかもしれない。そうならばロッシュの理解が全く及ばず、結果として凄まじく曖昧な知識を得てしまったのも、仕方がないことである。
「しかし、それにしても君の説明じゃ、混乱を招きかねないね。ロッシュ、君はこの話題になったら、口を閉じているように」
「……どういう意味ですかそりゃ」
「あんな中途半端な情報が流布して、薪ストーブが危険な代物だという誤解が広まったらどうする。換気さえしっかりしておけば普通に使えるものだ、無意味な脅しは控えておきなさい」
「別に、脅してるつもりじゃ無かったんですがね……」
ぶつぶつと文句を言ってはいるが、それでも彼は忠実で誠実な男だ、ラウルとビオラが二人して命じたことを蔑ろにはしないだろう。取り敢えず、市民から反薪ストーブの動きが出ないことを祈って、ラウルは窓を見遣った。
「しかし、空気を入れ換えないと使えないんじゃあ、暖房としては効率が悪いね。折角暖まってるのに、窓を開ける度それが逃げてしまう」
「仕方がありませんよ、物を燃やして暖をとっているんですから、そこは目を瞑るべきところです。……とはいえ、きっと市民達も同じことを考えるでしょうね」
「うん、危険性と使用時の換気は、しっかり徹底しておかないといけないな。全く、面倒なことが多いよ」
「そうおっしゃらずに、しっかり働いてください。軍部も、可能な限りは手をお貸ししますから……そうそう、それに」
苦笑を浮かべていたビオラの表情が、ふと厳しいものに変わる。
「首相にも同じことが言えますからね。ストーブをご使用になる時は、換気を徹底なさるように」
「は?」
きっぱりとそんな注意、いや指示、もしくは命令を告げられ、ラウルは目を白黒させた。
「え、いや、何を言っているんだい、ビオラ大将」
「何をも何もありませんよ、寒さに折れて換気を怠るようなことのないようにしてください、ということです」
言っていることは確かにその通りだが、その口調がおかしい。今話題に出たばかりなのだから、ラウルとて換気を行わないことの危険性は承知している、それを態々命令に近い語調で言い含める必要など無いではないか。
「あのねえ、そんなことは、言われなくても分かっているよ」
「本当ですか? 寒いからといってギリギリまで換気を拒否して、うっかり倒れてしまわれるなどということが絶対にないと言い切れますか?」
溜息と共に抗議をすれば、帰ってきたのはそんな言葉と冷たい視線で、ラウルは答えの代わりに大きく息を吐いた。そんなことをする程分別が無いと思われているのか、確かに寒いのは苦手だし、今まで40数年頼ってきた魔動機械が無い状態で冬を越すのは不安だが、必要とあれば寒風吹きすさぶ外へと続く窓を開けるくらい――いや、出来ればしたくはないが――出来る限り換気の頻度を少なくしようとはするかもしれないが――
「首相!」
思考の内を読み取りでもしたのか、絶妙とも言えるタイミングでビオラの怒声が飛び、ラウルはひゅっと首を竦めた。
「分かった、分かった。ちゃんと気をつけるとするよ」
そんなに信用が無いのかな、と態とらしく肩を落とすラウルを、ビオラは全く厳しさを減じない顔つきで睨みつけている。その勢いといったら、無関係に横でみているだけの筈のロッシュまで凍り付く程に苛烈なものだ。しかしラウルの側にはまだ余裕がある、大人しい振りばかりで飄々とした笑いを消そうとしないラウルに、ビオラは斬りつけるに等しい鋭い視線を投げた。
「本当に、大丈夫でしょうね? もし、万が一首相の部屋で事故が起こりなどしたら……」
「なんだい、怒鳴りでもするのかい?」
からかいを含んだラウルの言葉に、しかしビオラは怒りを消さぬまま、きっぱりと首を横に振り。
「いいえ、笑います」
――そして放たれた予想外過ぎる言葉に、ラウルとロッシュはかちりと硬直した。数瞬間の沈黙の後、ゆっくりと首を回し、意味もなく互いに顔を見合わせる。
「ええっと……どういう意味かな」
「意味も何も、笑います。もし首相が、換気を怠ったが末に倒れでもなさったら、指をさして大笑いさせていただきます」
「いや、大将、そんな」
「君もだ、ロッシュ少将。万が一そのような醜態を晒したら、全力で笑い飛ばしてやろう」
口を挟んだ途端、瞬時の間すら置かずに向けられた矛先に、ロッシュも何も言えずに再び凍り付いた。
ラウルの脳裏、そしておそらくはロッシュのそれにも今、予告された光景がそのまま再生されている。不完全燃焼による毒で医療エリアに運ばれ、病室の寝台に横たわった自分を、指を指して大笑いするビオラ――
「…………申し訳、ありません」
まだ何もしていない、怒られる謂われなど何も無いというのに、ロッシュの口から謝罪の言葉が零れる。しかしラウルに彼を責めることは出来ない、何故ならラウルもまた、うっかり勢いだけで謝ってしまいそうになっていたからだ。彼が先に頭を下げなければ、間違いなくラウルの頭が下がっていたことだろう。
それほど、ビオラの迫力は凄かった。
戦女神のと呼ばれるのも納得の、素晴らしい気迫を有していた。
「分かってくれたのなら、それで構わない。……首相もです、重々気をつけて、もしものことなど無いようにしてください」
「あ、ああ……気をつけるよ」
かくかくと不器用に頷くラウルに、女神もようやく目的を達したのか、臨戦態勢を解いて普段の柔らかな空気を取り戻してくれた。ラウルとロッシュのどちらからともなく息が零れる、ビオラはそんな男達を前にして、満足げに微笑んだ。
「では、私は予定がありますので、そろそろ行かせて頂きます。ロッシュ将軍も、遅くなって秘書殿に迷惑をかけないようにな」
「は、はいっ……」
柔らかな笑みとともに去っていったビオラの背を、残された男二人は、呆然と見送った。しばらくは彼女の靴音が規則正しく響いていたが、それもやがて消えて、残るのは徐々に大きくなってきた朝の喧噪のみになる。一日が始まる活気が満ち始めた中で、ラウルは何を言う気にもなれず、何となく隣のロッシュを見上げた。厳つい顔に引き攣った笑みを浮かべた彼は、視線に気付くとラウルの方へと顔を向けてくる。彼の目に映るラウルの表情も、恐らく彼本人と同じ、力無い笑い顔になってしまっているのだろう。
「……いや、中々面白い論でしたね」
唐突に後ろから声がして、ラウルはびくりと飛び上がった。ぐるりと首を回せば、存在を完全に忘れていた秘書が、何故か満足げに頷いている姿が視界に入ってくる。
「確かに、あそこまで言われてしまえば、下手なことは出来ませんね。そう思いませんか、首相」
「……そうだね」
完全に傍観者の態度で語る秘書に腹が立つことは間違いないが、残念ながら反論するにも皮肉を返すにも、今は気力が足りない。力無く笑うのが精一杯という、そんなラウルに対して、秘書は珍しく笑顔を向ける。
「しかし、戦女神の大笑いですか。それほど珍しいもの、少し見てみたい気もしますが」
そして視線が、ラウルとロッシュの間を交互に行き来した。それと目を合わせぬよう、焦点を宙に浮かせて、ラウルは低く溜息を吐いた。つられたようにロッシュも深く息を吐き、そして計ったように声を重ねて。
「「勘弁してくれ」」
しみじみと発せられたその答えに、秘書はにやりと笑って、残念です、と呟いた。





セキゲツ作
2011.12.18 初出

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