水辺で小刀を持ち、右手一本で髭を当たっているロッシュの姿を、レイニーとアトが面白そうに見守っている。ロッシュはその視線に居心地の悪さを感じたのか、眉を顰めて女性二人を見返した。
「何だよ?」
「いえ、何でもないです!」
睨むという程ではないが、普段より多少は険しい視線に、レイニーが慌てて首を振る。それの真似をしてアトもまた頭をふるふるとさせる、その可愛らしい姿に、ロッシュは表情を緩めて苦笑を漏らした。
ラズヴィル丘陵を抜けて裁きの断崖を前にした、緑が荒野に変わる直前に存在する水場。一行はここで、一晩の野営を行っていた。セレスティアの、そして世界の命運を背負ってフォルガに向かう旅は、急ぐと同時に確実に遂行せねばならぬものである。不慮の事態を防ぐためにも、水が少なく魔物も凶暴な荒野に入る前に、しっかり休んで全員の調子を整えておく必要があった。大きな事件もなく存分に身体を休めることが出来、今は意気込みも新たに出立の準備をしている最中だったのだが。
「ロッシュのお顔、面白いの」
にこにこと笑いながら、レイニーが言いよどんだことをさらりとアトが口にする。子供ならではの直截な言葉に、ロッシュは目を丸くした。
「何がだ? 別に普段と変わりゃしねえと思うが」
「そんなことないの、さっきから変な顔してるの。面白いの」
「えーっとその、髭を剃ってるのが珍しいみたいで」
「髭? んなもん、誰だってやってるだろうが」
「でも、おじいちゃまはそんなことしないの」
「……ああ」
アトの言葉にロッシュはようやく合点がいった様子で、軽く頷く。
「そういや、見事な顎髭だったな。確かにあれじゃあ、髭剃りなんぞ必要ないか」
「そうなの! だから面白いの」
「そうか、そりゃ良かったぜ」
向けられていた珍奇の目が、素直な好奇心の発露だったことを納得し、ロッシュは浮かべていた苦笑をにこやかな笑顔に変えた。大柄で厳つい容姿に似合わず――といっては本人に怒られるだろうが、ともかく彼は中々子供に優しいのだ。
アトが見守る前で、ロッシュはすっきりとした顎を撫で、使い終わった小刀から水気を拭き取る。それを片付けようとして、ふと思い付いた表情を浮かべ、やはり隣で身支度をしていた親友に声をかけた。
「それならストック、お前も見せてやったらどうだ」
「…………」
急に声を掛けられ、ストックは一瞬驚いた顔を見せたが、直ぐに不機嫌とも困惑とも取れる微妙な表情を浮かべる。
「見て楽しむようなものじゃないだろう」
「アトは楽しいらしいぜ」
「そうなの、楽しいの! ストックのお髭も剃るの?」
「いや、俺は……」
「いいから剃っとけよ、アトに見せるのはともかく、そろそろ伸びてきてるだろ」
言いながら投げられた小刀を、ストックは器用に受け止める。その顔には、見れば確かに、まばらな無精ひげが目立ち始めていた。
「あ、ほんとだ、ストック髭生えてる!」
「……当たり前だ」
男性であれば当然発生する生理を殊更に驚かれ、ストックの不機嫌が僅かに強くなった。ロッシュはそれを気にすることなく、豪快に笑い声を飛ばす。
「そりゃこいつだって、一応髭くらい生えるさ。色が色だから伸びるまでは目立たないがな」
「そうか、隊長もストックも、金髪ですもんね」
顔と手を清め終わり、水気を布で拭っていたマルコが、横からひょいと顔を出す。彼が言う通り、ストックの髭は髪と同じく柔らかな金色の毛質をしており、ある程度の長さに至らなくては認識するのは難しそうだった。ストックは眉を顰めたまま己の顎に手を遣り、伸びた体毛の長さを確認する。それがある程度の存在感を主張していることを確認すると、ようやくロッシュの言葉に一理を認めたのか、渡された小刀を手に水辺へ向かった。
「ストック、お髭剃るの?」
「……ああ」
「何だ、剃っちゃうんだ。伸びたらどうなるのか、ちょっと見てみたかったのに」
マルコの言葉にストックは、また少し困ったような、微妙な仏頂面を浮かべる。ロッシュは身支度を続けながらも、その反応に笑いを零した。
「こいつの髭面は、そりゃもう似合わんぞ。ある意味一見の価値はあるぜ」
「へえ、そうなんですか!」
「ってことは、隊長さんは見たことあるんですか?」
「ああ、昔一緒の隊だった時にな」
「……ロッシュ!」
咎める意図を乗せた親友の呼びかけに、しかしロッシュは動じる様子を見せない。むしろ楽しげにすら見える様子で、好奇心で目を輝かせる部下と少女に向き直った。
「しばらく強行軍が続いて、顔を洗う余裕も無かったことがあったんだ。当然、皆の髭も伸び放題でな、ストックも例に漏れず……ってわけだ」
「えええ、凄い!」
「……凄いか?」
「凄いの、見たかったの!」
「アト……今は危ない」
はしゃぐアトに纏わりつかれ、ストックが小刀を上に上げる。その隙に、マルコが慌ててアトをストックから引き離した。
「ほらアトちゃん、刃物を持ってる時に近付いたら駄目だよ」
「むー……」
「くっつくんなら終わってからにしようよ、ね?」
「はいなの……でも、剃っちゃうのも勿体ないの。お髭のストックも見てみたいの」
「…………」
無邪気故に残酷な願いをぶつけられ、ストックの顔に物凄く困りきった表情が浮かぶ。そのあまりに情けない姿に、たまらず他の者達が笑い出した。
「やめとけ、アト。見たら幻滅しちまうぞ」
「そんなにおかしいんですか? うー、アタシも気になってきちゃった」
「ただの髭だから、そんなに期待されても困るがな。変にまばらで、しかも顔の作りに似合わんというだけだ」
「ロッシュ」
「何だよ、事実だろ?」
「…………」
「っと……俺に当たったって仕方ねえだろ、ほれ」
興味を示す者達の求めるまま情報を与えてしまう親友に、ストックは抗議の意味を込めた視線と共に、持っていた小刀を投げつける。相手によっては危険極まりない行為だが、ロッシュは全く危なげ無くそれを受け止め、ひょいと方向を返してストックに投擲し返す。
「見られるのが嫌なら、さっさと剃ってこいよ」
「……ああ」
「やっぱり剃っちゃうんだ。残念だなあ」
「…………」
マルコの声に言葉を返すことはせず、ストックは受け取った小刀を手に、今度こそ髭を当たり始めた。それを見るとはなしに眺めながら、ふとレイニーが首を傾げる。
「あれ、でもストックがそうってことは、隊長さんの髭も伸びてたんですよね」
「ロッシュもお髭だったの?」
「ああ、そりゃまあな」
「隊長の髭かあ、似合いそうですよね。今度、伸ばしてみたらどうですか?」
ストックから移ってきた注目を浴びて、ロッシュは口元を苦笑の形に歪めた。
「あー、俺は駄目だ。伸ばすと繋がるんだよ」
「繋がる?」
「もみあげとな」
「……ああ!」
言われて、3人の視線がロッシュのこめかみあたりに集中する。確かに彼のもみあげはかなり長く、顎髭があればそれと繋がってしまうのも自然なことと思われた。
「でも、それが問題なんですか? 別に構わない気がするんですけど」
「そうですよねえ、ストックはすっごく面白いことになりそうですけど、隊長さんだったら男らしくて格好良いですよ」
レイニーのさりげなく酷い言葉に、小刀を手にしたストックが盛大に顔を顰めるが、ロッシュに注目している者たちはそれに気付かない。
「そりゃありがとよ。だがなあ……」
「……こいつの通り名を、思い出してみろ」
そのお返しというわけではないだろうが、言葉を濁そうとするロッシュの横から、ストックが手がかりを投げてやる。ロッシュが慌てて睨み付けるが、堪えもしない涼しい顔でやり過ごした。
「通り名って、えーっとアリステルの若獅子?」
「それが何か関係……あ、ひょっとして」
「え、何さマル?」
「えーっとほら、もし隊長に髭があって、それがもみあげと繋がってるとしたら、見た目が……」
「……あ!」
マルコが何かに気付いた様子で、口に手を当てた。そして、彼の言葉でレイニーも同じ考えに至ったのか、思い切りよく吹き出してしまう。
「レイニー! 失礼だよ!」
「ご、ごめんなさい……でも、何か想像しちゃって……」
「レイニー、マルコ、どうしたの? ロッシュの何がおかしいの?」
しかしアトは未だ分かっていないようだった、レイニーにしがみついて説明を強請るアトに、ロッシュは仕方なく解説を加えてやる。
「獅子ってのは、たてがみがあるだろ?」
「で、隊長がお髭を生やしたらもみあげと繋がって、顔の周りをぐるっと回っちゃうから」
つまり髭を伸ばすと、獅子のたてがみのように毛が顔を覆ってしまい、あまりにも『名は体を表す』状態になってしまうのだと。そのことを大人達から少し遅れて理解したアトが、嬉しそうにぴょんと飛び上がった。
「ほんとだ! 獅子なの!」
「まあ、そういうことだ。それもちっと作り過ぎって気がしてな、伸ばす気になれねえんだよ」
楽しげに身体を揺らすアトの様子を見てしまえば、それ以上怒りを持続することも出来なかったようだ。ロッシュは苦笑しながら、それでも取り敢えず、お返しとばかりにストックの頭を軽く叩いておいた。刃物を扱っている最中に小突かれたストックは、一瞬咎める視線をロッシュに向けたが、それ以上の言及はせず髭をあたることに集中する。アトはそれを興味深そうに見ていたが、ふと傍らのマルコを見遣り、首を傾げた。
「マルコは、お髭剃らないの?」
顎をじっと見ながら問いかけられ、マルコは困惑混じりの笑顔を浮かべた。
「僕は、そんなに髭が濃くないからねえ」
「そういえばアタシも、マルが髭剃ってるところ見たことないかも」
「うん、放っておいても目立たないから、移動中なんかはそのままにしちゃうんだ」
アトがマルコの顎を撫でる、そこには産毛より僅かに濃いかという体毛が生えている程度だ。
「残念なの、マルコのお髭も見てみたかったの」
「はは……ごめんね、期待に添えなくて」
「マルが髭なんか生やしたら、それこそ似合わなそうだけどね」
少しばかり無神経な笑いを零すレイニーに、マルコは諦めた笑いで応える。傭兵団時代からの友人である彼女が、男心の微妙な機微を理解できるような性質を持たないことは、既に分かってしまっているのだろう。同性であり、多少はマルコの感情を解したと思われるロッシュが、元気づけるように彼の肩を叩いた。
「まあ、若いうちはちょっとした拍子で体質が変わったりするからな。そのうち濃くなるかもしれんぞ」
「有り難うございます……でも、僕の顔で髭が濃くても、レイニーの言う通り変な感じになるだけって気もしますから」
「剃る手間が無いなら、楽で良いだろう。羨ましいことだ」
ストックの発言は、慰めになるのかどうか微妙なところではあったが、それでも彼の優しさではあるのだろう。マルコが感謝を込めてにこりと笑うと、つられてアトもにこにこと笑顔を浮かべる。そして今度は、傍らで作業をしつつ彼らのやり取りを見守っていたガフカに、ひょいと矛先を向けた。
「ガフカはいつもお髭なの。剃らないの?」
「む、ワシか」
唐突に話を振られて驚いたのか、荷物を纏める手を止め、ガフカが目を見開く。
「ワシは剃らんぞ、そのままだ。……人間は大変だな、毎日面倒なことをせねばならんとは」
「多分、ブルート族の方がやるほど大変じゃあ無いと思いますけどね。その髭だと、濃いし硬いしで、剃るのも大変そうですよねえ」
「うむ、そうだな」
ガフカが頷き、それこそたてがみの如く顔を覆った己の髭を摘んで捻る。アトは彼に駆け寄り、逞しい脚にしがみついた。
「ガフカはお髭剃ったことないの? どうして」
「む、どうしてと言われてもな」
むしろガフカからすれば、他の者たちが一々髭を当たる、そちらの方が不思議な光景なのだろうが。しかし幼いアトには種族的な常識の違いなど分からない、不思議そうに見上げる少女にどう説明をしたものか、ガフカは困惑して首を捻った。
「ガフカも剃ってみるの、きっと似合うの!」
「ワシがか? う、うーむ……それはなあ」
「アト、それくらいにしておけ。ガフカが困っている」
仲間の窮地に、ようやく髭を当たり終わったストックが、助けの手を述べる。最も懐いている相手の制止に、しかしそれでも不満げな表情を浮かべるアトの身体を、ロッシュが強引に引きはがした。
「ほら、そろそろ出発だぞ。アトもちゃんと準備しとけ。な?」
「……アト」
「むー……分かったの」
ストックに優しく頭を撫でられ、それでようやく諦めがついたのか、不承不承と言った様子でアトが頷く。
「よし、じゃあ私たちも支度しよう!」
「そうだね、今日はいよいよ裁きの断崖越えだから、早めに出発しないと」
「ああ、魔物も凶暴になるからな、気合い入れていこうぜ」
「はいなの! がんばるの!」
口々に言い交わしながら、旅の支度を整えるために散っていく仲間達と共に、アトも荷物の元へと向かう。しかし立ち去る直前、くるりとガフカの方を振り向いて。
「……でも、旅が終わったら、お髭を剃ったガフカも見てみたいの!」
とても無邪気に、そんな無茶を強請るものだから。そしてその答えも待たぬまま、再び向き直って走り出すものだから、ガフカもどう反応して良いやらさっぱり分からずに。
「…………うーむ」
いずれに危機に晒されるかもしれない己の髭に手を遣り、どうしたものかとひたすら唸り声を上げるのであった。
セキゲツ作
2011.09.25 初出
RHTOP / TOP