その日、グランオルグの城下町にはざわめきが満ちていた。戸惑いと、緊張と、それらを上回る期待と――様々な感情が入り交じった喧噪は、街の門から城に続く道を囲む人だかりから、最も強く発せられている。
彼らは今、グランオルグを訪問するアリステル軍、そしてそれを率いるアリステル首脳陣を迎えようとしているところだった。
数ヶ月前、グランオルグとアリステルの双方で大規模な革命が発生し、殆ど同時にその支配者が入れ替った。それをきっかけとして、長い間続いていた両国の戦争は。ついに終結することとなったのだ。急激な情勢の変化に混乱はあったものの、今のところ平和な時代は歓迎される傾向にある。人々も先の見えない戦いに倦んでいたのだろう、昨日まで敵だった相手と手を組むという事態も、予想しいていたより遙かに穏やかに受け入れられつつあった。
そしてもうすぐ、ヴァンクール大陸に存在する5ヶ国の間で、正式に和平条約が結ばれる。歴史に残る調印式を数日後に控えた今日には、先行してやってくるアリステルの首脳が、グランオルグに入城する予定となっていた。戦乱が終わった直後から何度か少数のやりとりはあったが、国家元首を含めての公式的な訪問はこれが初めてである。戦争の終わりを象徴するこの時を前に、グランオルグの民は希望の中にも僅かに警戒の残った、複雑な気持ちで一行の到着を待っているのだった。

――やがて彼らの耳に、規則正しい行軍の足音が届いてくる。

「あっ……」

誰かが漏らした叫び声は、瞬きする間に全体に飛び火し、喧噪が一気に高まる。そしてそれは、先頭に立つアリステルの首相が姿を現した瞬間、最高潮に達した。元敵国の国家元首が自国の首都に現れている、それも侵略ではなく正式な条約を締結するために。その事実が人々の心を揺らしているのか、群衆の反応は劇的で、中には涙ぐむ者さえ散見された。そんな歓声の中、ラウル首相とロッシュ将軍に率いられたアリステル軍の部隊は、グランオルグ城に向けて行進を続ける。厳粛な雰囲気ではあるが、群がる人々に配慮したものか、歩む速度は常より遅めだ。それが余裕を生むのだろう、見れば隊列を組む兵の一部は、時折感慨深げな表情で周囲を見渡している――彼らも元敵国の首都に足を踏み入れるという状況に、何かしら感じるものがあるのかもしれない。見る者と歩む者の想いが渦巻く市街で、その中心となるアリステルの首相は、しかし普段と変わらぬ涼しげな様子を保っていた。勿論真剣な面もちではあるのだが、不要な感情の動きは見せず、落ち着いた様子で歩を進めていく。首相であるラウルとても追い求め続けた和平を目前としているのだ、心動かないわけがない筈である。しかし彼は長い経験を積んできた政治家で、心情を表に出さない術は心得ているようだった。
それに比して、ラウルの斜め後ろに続いて進むロッシュは、もう少し正直な表情をしている。勿論極端な動揺を見せているわけではない、しかし静かな無表情の中からは、隠し切れぬ緊張が滲み出ているのが見て取れた。だがそれは、単に大舞台に臨んでいるからというよりは、少し前まで敵として認識し合っていた民の直中に乗り込んでいる状況を考えての反応なのだろう。待ち望んだ平和、それに酔う民衆の熱狂を素直に受け取るには、彼の経歴は血に彩られすぎていた。大部分の者が和平を歓迎しているとしても、そこに不満分子が潜んでいないとは言い切れないのだ。存在するかもしれない反和平勢力にとって、少人数で不特定多数の前に現れるこの時は、絶好の襲撃機会となる。ロッシュが見せる緊張の色はそれに対する警戒の現れなのだ、狙われるとすれば間違いなく首相のラウルであり、それを守るのは最も側に居る自分の役割だと考えているのだろう。
城に向けて進む間も、ロッシュは周囲に気を配り続けていた。それが証拠に、彼が沿道に注意を向けたのは、実際に声や動きが発せられるより前だったのだ。

「っ…………」

そこに生じた、敵意と悪意。それを感じ取ったロッシュは、素早く視線を走らせる。その場所は他と同じく、行進に向けて歓声を送る人々が壁を作っているだけ、そう見えたのだが。
次の瞬間、熱い喧噪を切り裂くようにして、悲鳴じみた叫びが発せられた。

「止まれ、人殺し!」

それは確かに、発した本人からすれば、可能な限りの大音声だったのだろう。しかし周囲全てが声を上げている状態では、殆ど誰の耳にも届かず掻き消されてしまう程度のものでしかない。それのみであれば、混乱を引き起こす種となることもなく、何事も起こらないまま行進は続いていただろう。
だが、その者が起こした行動は叫ぶのみに止まらなかった。小さく白い影が行進するロッシュに向けて飛来する、過たず真っ直ぐに投げつけられたそれに、ロッシュは正確に反応した。避けるべきか受けるべきかを考慮したのか、一瞬身体の動きが止まったが、直ぐに己の身体を左のガントレットで庇う。恐らく自分が身を反らせば傍らのラウルや周囲の兵に危害が及びかねないと判断したのだろう、衝撃を受け止めるために身に力を込めて。
――ぺしょり。
次の瞬間響いた音は、身構えた力に比べて、随分と気の抜けたものだった。そして同時に異臭が漂う、見ればガントレットには、砕けた卵の殻と流れ出した中身がへばりついていた。投げつけられたのは腐った卵だったらしい、ロッシュがそれを認識したあたりで、周囲の兵が異常に気付く。

「なっ、何事だ……将軍!」
「落ち着け、害はねえ」

落ち着かせようとロッシュが声をかけるが、しかし住民の狂騒に当てられて気が昂っている兵達が、それで鎮まるものではなかった。ざわめきが広がり、行進が中断する。その動きに人々も何事かと目を向き、歓迎の声を潜めて様子を伺い始めてしまった。

「ちっ、落ち着けと言ってるだろう! 行進を……」
「人殺しの悪魔め、グランオルグから出ていけ!」

場の喧噪が低くなった、その一瞬の隙を突いて、再び声が響く。ロッシュは舌打ちをしてそちらを見遣った、何層にもなった人垣の再前列、立ち尽くしロッシュを睨み付けている姿が目に入る。おそらくあれが犯人だろう、小柄な女性、いや老婆と言っていい年齢だ。大きな籠を抱えていたが、それに手を入れると新たな卵を取り出し、ロッシュに向かって投げつけた。

「人殺し、息子の仇! 誤魔化されちゃ駄目だ、私の息子はあの悪魔に殺されたんだ!」

先ほどまでとは真逆の、嫌な温度を持つ沈黙が広がる中、老婆は次々と卵を投げる。ロッシュは、それを避けようと僅かに身じろぎしたが、あまり大きく動いては周囲の者に卵が当たってしまう。仕方なく、自分に命中しそうな分は右手で受け止めたが、そちらも今は金属の篭手に覆われている状態だ。脆い卵を器用に受け止めるのは難しい、篭手に当たる度卵はぐしゃりと壊れ、硫黄めいた刺激臭が濃くなった。

「おい貴様、止めるんだ!」

警備に当たっていた兵が、ようやく老婆を止めようと駆け寄ってくる。尚も卵を手にしようとしていた腕を掴み、痩せた細い身体を押さえつけた。

「離せ、あんたら皆騙されてる! 鬼め、機械の腕の悪魔……!」

衛兵に連行されながらも、尚喚き続ける老婆を中心として、沈黙が広がっていく。事態が伝わらぬ遠方から届いてくる賑やかな歓声が、うそ寒く響いていた。

「何で止めるんだ、あんた達の仲間だって何人あいつに殺されたか! 何が和平だ、何が英雄だ、息子を返せ! 私達の同胞を返せ! 悪魔め、グランオルグから出ていけ!」

足早に衛兵が立ち去るにつれ、叫び声は小さくなっていく。それに従い、人々の間に密やかなざわめきが生まれ始めていた。大きく声を上げるものが居ないのは、住民達の複雑な心情を表してのことだろうか。老婆の叫びは、彼ら全員の何処かに存在するしこりと同一のものだった。平和を望む声で押し隠してはいても、息子を、夫を、あるいは親兄弟を――戦場で失った者達の悲しみは、そう簡単に消せるものではない。だが目前にした和平が立ち消えてはと思うと、同意の声を上げることも出来ないいのだろう。彼らに出来るのは、ただ抑えた声で、戸惑いと悲しみを込めた囁きを交わすことだけだった。
しかし人々の様子に構うことはなく、ロッシュは乱れた隊列を睥睨する。

「総員、配置に戻れ! 行進を再開するぞ!」

沈黙の中に野太い声が響きわたった、それが混乱しかけていたアリステル軍に規律を与え、瞬く間に整然とした動きを取り戻す。場に漂う何とも言えぬ雰囲気を余所に、再び粛々とした歩みを開始した。
グランオルグの民は、歓声を取り戻すこともできず、さりとて罵声を浴びせることはさらに難しく。ただ黙って、城に進むアリステルの民を見送ることしか出来なかった。




――――――




城下町で起こった騒動、その報告が届けられた時、エルーカは謁見の間で彼らの到着を待ちわびているところだった。勿論、和平の調印を前にして何度と無く顔を合わせて打ち合わせを行ってはいるが、公式のものとして首都へ迎え入れるのはこれが始めてのことだ。国民はもとより、城に詰める者達も浮き足立つと言って良いほど落ち着きを無くしており、さらにエルーカとて高揚していないと言えば完全に嘘になる。高まる感情を抑えて彼らの訪れを待っていたのだが、街の前に到着したとの報告を受けてから、30分以上も動きが無い。何某かの事件があったのかと心配になってきたところで、ようやく伝令の兵が駆け込み、事の次第を知らせてくれたのだった。

(動きが遅すぎます。もっと、迅速を徹底しないと)

元敵国の公式訪問という歴史的な事態、さらにそこで騒動が起こったとあっては、混乱するのも無理はない。しかしそこで冷静に動くのが国を守る者、エルーカのような統率者やその手足となって動く騎士や兵の義務というものなのだ。国が大きく動いた直後の混迷を実感しながら、エルーカは内心密かに嘆息を零す。
とはいえそれは今この時に云々することではない、それより問題なのは、報告内容そのものだ。他国の首脳に対する自国民の狼藉、国を治める者なら誰もが頭を抱えたくなるであろう事件である。幸いにして大きな騒動にはならず、アリステル側にもグランオルグの住人にも怪我を負った者は居なかったようだが、それでも事態の重要性は変わらない。伝令の言葉が終わるか終わらないかのうちに、エルーカは玉座を立ち、早足で迎賓の間に向かった。殆ど走るような勢いで廊下を抜けるエルーカに、護衛のオットーとウィルが慌てて付いてくる。

「貴方達は、ここで待っていてください」

しかし客人へと用意していた部屋まで来ると、エルーカは背後の二人を振り返り、それ異常の随行を制した。護衛を付けての入室は、相手への不信を示すことになってしまうのではないかと危惧したのだ。国に属する者が無礼を働いた後のこと、配慮はどれだけしても過ぎるということはない。エルーカの思慮を付き従う2人も解したのだろう、それに異を唱えることはせず、同時に頷いて同意を示す。エルーカはそれを確認すると、そっと扉をノックし、室内の者達に来訪を知らせた。

「はい」
「エルーカです。入室しても宜しいでしょうか?」
「……エルーカ女王! 失礼、今お開け致します」

答えから間を置かず部屋の扉が開かれる、その先には、事件の当事者であるロッシュが立っていた。室内では椅子から立ち上がり、エルーカを迎えようとしているラウルの姿が見られる。
開いた扉の前から身を引き、エルーカを中へと招き入れるロッシュは、未だ鎧を着用したままであった。しかし完全な姿ではない、右腕の篭手は外され、常に彼が身につけているガントレットも、肘から先を取り外した状態で室内の机に置かれている。

「申し訳有りません、態々女王にお越し頂きまして」

ラウルが言う、その言葉に合わせてロッシュも礼をする。しかしエルーカはそれを制し、室内に入った。

「こちらこそ、遅くなりまして申し訳有りません。本来ならば、事が起こってすぐに伺わなければならないところを」

そして、ラウルとロッシュを共に正面に出来る位置へと移動すると、2人に向かって深く頭を下げる。一国の女王に低頭され、ロッシュが狼狽える気配を見せた。

「我が国の民が、大変なご無礼を致しました。女王として、心より謝罪させて頂きます」
「そんな、女王に謝って頂くようなことじゃありませんよ」
「いえ、国民の非礼は国の長たるわたくしの罪です。和平条約の締結も目前だというのに、お詫びの言葉もありません……」
「エルーカ女王、顔をお上げください」

慌てるロッシュとは違い、落ち着いた声音でラウルがエルーカに話しかける。エルーカはそれに従い、謝罪の姿勢を解いた。正面を向いたエルーカの顔に、ラウルの、声と同じくらい静かで柔らかな視線が注がれている。

「ロッシュ将軍が申し上げている通りです、これは女王の責任ではありません。元々戦争を行っていた国同士、国民感情にしこりが残っているのは当然でしょう」

ラウルの言葉に、ロッシュも首肯した。しかしエルーカは納得しない、表情も厳しく引き締められたままで、真っ直ぐに2人を見据えている。

「しかし、上の者が国民感情を抑えられていれば、このようなことは起こらなかったはずです。わたくしの力が足りていないばかりに、お2人……いえ、アリステルの方々に危害が及んでしまって」
「――それは違います」

唇を噛みしめるエルーカに、ラウルが優しく諭すように語りかけた。その目は和平を待つ国の首相というよりも、高潔な理想を掲げて戦う若者を見守る、年長者としての色が強くなっている。女性に対する礼を考えたのか、近寄って手をかけることこそしなかったが、纏う空気はそれをしてもおかしくない優しさを持っていた。

「人の心というのは、それほど単純ではありません。国王一人がどれほど力を注いだところで、そう簡単に積年の恨みが消えるものではない……何故なら例え現在と未来を素晴らしいものに出来たとしても、失ったものは戻らないからです」
「それは分かります、ですが」
「大切な家族を戦争で失った、その悲しみが争ってきた相手への怒りとして発露するのは、極自然なことです。正常な形で昇華させるためにも、無理に抑えつけるものではありませんよ」
「……そうかもしれません。しかし、それで皆さんに危険があっては」

そして、グランオルグの民がアリステルの代表を傷つけることで、折角和らぎつつある両国の関係が再び緊張状態に陥っては。エルーカが最も恐れるその事態を、ロッシュが否定した。

「大丈夫です、一人が暴れた程度でやばくなるほど、アリステル軍も弛んじゃいません。被害が出なければ問題にはならんでしょう、和平を望んでいるのは国民も同じなんです。下手に騒いでそれをふいにしたがる奴なんて、そう多くは居ませんよ」
「まあ、組織立っての抵抗になれば話は別ですが――そうなれば今度は、事前の動きを察知することが容易になります。国内の反勢力は、把握しておいでですか?」
「……ええ、ただ全てかは分かりません。アリステルのような情報部が今までありませんでしたから、正確に調べられていると明言出来ないのです」

正直に実状を晒すエルーカの言葉に、ラウルは真剣な表情で頷きを返す。

「アリステルの情報部も、ハイスの私設部隊に等しかったですからね。現在は再編の途中で、情報収集能力に関しては残念ながらグランオルグと大差無い」
「だもんで、失礼とは思いましたが警備には万全の注意を払っています。例え襲撃されても防げる程度には、戦力を連れてきてますから」
「いずれは情報網を整備して、危険な動きは事前に阻止出来るようになれば良いのですけどね」
「そうですか……有り難うございます」

代わる代わるかけられる言葉に、少しだけ胸の支えが取れて、エルーカは胸を押さえて息を吐いた。その様子をラウルは、見守るように見詰めている。

「まあ、どのような形であれ、アリステルという存在に対して不満や憎しみが出てくるのは避けられないでしょう。これは時間をかけて、少しずつ解決するべき問題です」
「ええ、分かります。……焦ってはいけませんね、力尽くでどうにかなることでは無いのですから」
「そうですよ、それにそう悲観したものでもありません。さっきちっと顔合わせしましたが、兵士同士なんかは思ったより悪い雰囲気じゃありませんでした」

ロッシュの言葉にエルーカは視線を向けた、それを受けて、アリステル軍を率いる若き将軍は力強く頷いてみせる。

「家に居る時と同じってわけにゃいきませんが、敵意よりは警戒の方が強い感じでしたね。それこそ、戦場かってくらいに反目し合う覚悟はしてたんで、それに比べりゃ穏やかなもんでしたよ」
「前線で命を晒して戦ってきた兵達がそれなら、普通の住民はもう少し簡単にいくかもしれませんね。油断は禁物ですが、あまり後ろ向きになるのもよくないでしょう」
「……はい!」

ようやく明るくなり始めたエルーカの声を聞き、ロッシュの顔に安堵の色が浮かんだ。彼にとってエルーカは、ただ他国の女王というだけでなく、今は姿を消している親友の妹でもあるのだ。彼女を見詰める目の奥に、どこか遠くを見るような色合いが混じっているのは、恐らく気のせいではないだろう。
だが、ロッシュの感慨に配慮することもなく、ラウルは柔らかだった視線を引き締めて彼へと向き直る。

「しかし、君個人に対しての悪感情は少々心配だね。国自体にぶつけられない分の鬱屈が、代表としての君に集中してしまっている気がする」
「まあ……それは、仕方ないですよ」

気遣わしげなラウルに対して、しかし当のロッシュはさほど気にした風も無い。むしろ当然と言いたげな表情で、ひょいと肩を竦めた。

「逆恨みってわけじゃありません、先頭切って戦ってきたのは事実ですからね。それに、何人居るか分からない国民全体より、俺一人の方が恨むのは楽でしょう」
「楽って、君ね……さらっと何を言っているんだい」
「国だの軍だのでかいもんが相手じゃあ、何もしようがありませんからね。目に見える人間の方が、良いもんも悪いもんも向けやすいってもんです」
「人事のようにおっしゃらないでください。今回は大きな事件にはなりませんでしたが、今後身に危険が及ぶような事態に到らないとは言い切れないのですよ」

エルーカも、折角取り戻しかけていた笑顔を再び真面目なものに戻して、ロッシュを睨み付ける。ロッシュは彼女を安心させるように微笑んでみせたが、残念ながらそれに効果があるようには思えなかった。

「大丈夫ですよ、戦争が終わったからって戦いの勘は鈍らせちゃいません。そう簡単にどうこうされることはありませんよ、だから俺を恨んですっきりするなら、それが一番安全だし平和ってもんです」
「…………」

軍人らしいというべきか、個の安全や感情というものを頭から無視した効率論に、エルーカは眉根を寄せた。見ればラウルも似たような表情をして、ついでに大きく溜息まで吐いている。どうやら彼は常からこんな様子らしい、上司であるラウルも苦労しているのだろう、エルーカは同じ人の上に立つ者として少々の同情を抱いた。
2人が険しい表情になる理由が、しかしロッシュには分かっていないようで、表情には戸惑った色が浮かんでいる。そんな彼に向かってエルーカは、ぴしりと厳しい視線を投げた。

「ロッシュ将軍、あなたは兄の……ストックの親友だそうですが」

唐突に発せられた名に、ロッシュが驚いて目を剥く。その口が開く前に、エルーカは言葉を続けた。

「分かる気がします。あなたとストックは、とても似ている」
「そうですか? あんまり言われたことねえですがね」
「そっくりです……自分一人で全てを引き受けて、それで全てを済ませようとするところなど、本当に」

エルーカの言葉に、ロッシュは声を飲み込み、言を途切れさせる。隣ではラウルも、読みづらい表情の中に、それでも明らかな驚きがあった。エルーカは彼らの顔を交互に見渡し、再びロッシュの目を見据える。エルーカよりも遙か上方にある顔には、様々な感情が入り交じって浮かんでいた。

「ストックは、世界全てを一人で背負って、儀式にその身を投げ出しました。かつての兄も同じです、王子としてこの国を立て直すため、一人で戦い続けていた」

そこには何人もの仲間、同士、協力者の存在があったのは確かだ。しかし指導者として先頭に立ち、皆を導き続けていた兄の隣に立つ者は、誰も居なかった。彼は国の、世界の命運を正すため、たった一人で走り続けていたのだ。妹であるエルーカでさえ、彼に追いつくことは出来なかった。
その背が、目の前の男に重なる。兄、いやストックの親友、同じ性質を持つが故にお互い惹かれるところがあったのだろうか。彼らが共に立つ光景を見たことのないエルーカには分からない。だが彼女の記憶にある兄、そして儀式の光へと消えていったストックの姿は、確かに今のロッシュと似た気配を宿していたのだ。
それはけして喜ばしい記憶ではない、だからこそ。

「わたくしは、そんな必要のない国を、世界を作るために女王となったのです。誰か一人に問題を押しつけて、他の者が何も知らずに安穏としているような、悲しい歪みを正すために」
「エルーカ女王」
「だから、自分が恨まれれば良いなどと、わたくしの前でおっしゃらないでください。そのようなことは、もう二度と許してはいけないのです」

エルーカはまだ若い、将軍としては異例の若さであるロッシュから見てすらさらに年少だ。しかしその言葉は、けして軽んじられるものではなく、聞く者の心に強く伸し掛かる重みを持っていた。それは彼女が経験した悲嘆と、抱いた決意の重さなのかもしれない。そして、その悲しみを共有するロッシュが、彼女の言葉に反論できるはずもなかった。
黙り込んでしまった将軍の代わりに、隣で静かに耳を傾けていたラウルが、その口を開く。

「エルーカ女王の言う通りだ、ロッシュ。君が過去のしがらみを引き受けたとしても、それで解決にはならない……これは両国の国民全員が、一人ひとり考えていかなければならないことなんだ」
「ええ、その通りです。一人だけに押しつけてしまえば、例え問題が解決したとしても本質は理解されぬまま、また同じことが繰り返されてしまいます」

昔話のように全ての罪を引き受け、悲しみを打ち砕いてくれる王子は、もう居ない――いや、要らない。そんな存在が必要無い世界を作る、それが兄を送ったエルーカの、そして兄に救われた人々全ての義務なのだ。強い決意の宿ったエルーカの視線を受け、ロッシュは何も言えぬまま、深く頷きを返す。それを見て、エルーカはようやく少しだけ表情を緩め、秀麗な顔に笑みを浮かべてみせた。その笑顔に向けて、ロッシュは真っ直ぐに頭を下げる。

「失礼しました、女王のお気持ちも考えず」
「いえ、わたくしこそ、感情的になってしまって。申し訳ありません、将軍にも色々お考えがお有りでしょうに」
「いえいえ、お気になさらないでください。彼もあまり考えて発言したわけではありませんから」

何故か横から割って入ったラウルの発言に、エルーカもロッシュも溜まらず苦笑を零す。ロッシュから訂正が入らないのは、その指摘が当たっているのか、それとも言っても仕方がないとあきらめているからなのか。彼の微妙な笑い顔に対して、しれっとした表情を浮かべていたラウルは、しかしふと真剣な様子に戻ってエルーカに視線を向けた。

「ですがエルーカ女王、貴女も同じと心がけてください。お一人で全ての問題を背負うことの無いように」

その言葉にエルーカは、つと胸を打たれたような感覚を覚えた。表情を引き締めた彼女に、ラウルは言葉を続ける。

「貴女もストックや将軍と同じく、色々な事を自分で抱き込んでしまう傾向があるように思えます。どうか周りを信頼して、何かあれば他の者と分け合うことを忘れないでください」
「……ええ。有り難うございます」

エルーカは一瞬言葉を失い、そして生じた動揺を気取られぬよう、そっと礼をした。年若い女王として立つ、その気負いは遙か年長の彼から見れば、彼女の態度から明白に浮き上がって見えているのだろう。侮られてはいけない、国を治める器を示して臣下を、そして国民を安心させなくてはいけない――確かに、そんな心がエルーカの中に消しがたくあり、それが本来の能力以上の問題を背負わせようとしてしまう。しかしそれではいけないのだ、誰か一人が全てを背負ってはいけないと、それはずっと考えていたことではないか。
焦りで曇っていた目が、少しだけ晴れた気がして、エルーカは微笑んだ。若い、いやラウルから見れば幼いとすら言える少女の笑顔。女王であり、国民全ての統率者にしては柔らかに過ぎるそれを、しかし年長者2人は咎めることもせず見守っている。それが彼女に、そしてこの国に必要なものだと、分かっているかのように。

「一歩一歩、進んでいけばいいのですね。そうすればきっと、道が拓けるはずです」

自らに言い聞かせるため発せられたエルーカの言葉に、ラウルも静かに頷き返した。

「その通りです、道を急いでも、かえって悪い結果に繋がる可能性が高い。確実に少しずつ、地盤を固めていくのが一番です」
「はい。まずは調印式を無事に終わらせて、正式に和平を成立させること、ですね」
「ええ、宜しくお願い致します。貴国との和平は、アリステルにとっても長年の夢でしたからね……」
「それは、グランオルグにとっても同じです。勿論条約の締結だけでなく、その後の国交も含めて、ですが」

ふと感慨深い色を浮かべたラウルに、エルーカはにこりと微笑みを向けた。待ち望んだ平和な世界、それを願っていたのは国民だけではない、エルーカ自身や今はここに居ない兄の追い求めたものでもあった。兄が為そうとしていた理想は、少しずつでも実現されていく――いや、実現してみせる。そしていつか兄が帰ってきた時、王子として、あるいは王として生きる必要のない世界を作るのだ。グランオルグに王子は要らない、もし彼が戻ることがあれば、それはただ一人の男であるストックとして在れるように。
エルーカの瞳に宿る決意を読み取ったのかどうか、ラウルもロッシュも、真剣な表情で頷きを返す。新たな世界を作るべく残された者達は、各々の想いを抱え、求めるべき未来を見据えているのだった。





セキゲツ作
2011.09.12 初出

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