背後から金属音が近づいてくるのに気付き、ラウルは歩みを止めて振り向いた。思った通りそこには、重厚な全身鎧を身に纏ったこの国の将軍の姿がある。向こうも当然ラウルには気付いているようで、遠距離のまま一度礼をすると、足を速めてラウルの傍に近づいてきた。

「お早う御座います、首相」
「お早う、ロッシュ。もう解散したのかい?」
「はい、後は各部隊の隊長に任せてあります」

ロッシュと彼に率いられたアリステル軍の遠征隊は、今朝シグナスから帰還したばかりのところだった。定例となったシグナスでの魔物討伐は、今回も問題なく終了したと、今朝早く出勤した直後に報告を受けている。

「そう、お疲れ様。今日はこの後休みかい?」
「有り難う御座います、これから報告書を出して、その後は上がらせてもらう予定です」
「戻った当日にもう仕事かい、大変だなあ。少しくらい身体を休めた方が良いと思うけど」

到着したのが早朝ということは、今回は夜を徹して移動してきたのだろう。そのような夜間行軍は、訓練の一環として、遠征からの帰りなどに時折行っていることだ。当然昨夜は全く睡眠が取れていない筈で、その直後から早速仕事にかかるという勤勉さには頭が下がるばかりだが、同時に彼の身体が心配になるのも事実だ。眉を顰めるラウルに対して、ロッシュの厳つい顔には苦笑が浮かんでいる。

「勿論休ませてもらいますよ、ただ先に報告書を出しちまわないと、総務が煩いんです。特に今は期末が近いですしねえ」
「大変だねえ、本当に。平和になったのは素晴らしいことだけど、面倒も増えてしまったな」
「仕方ないっちゃあ仕方ないんですがね」

戦時中、軍の動きは何よりも迅速を重んじられ、報告や費用の精算は多少遅れても構わないという風習がまかり通っていた。しかし戦争が終わり、軍の仕事が魔物退治や治安維持を主とするようになってから、過去の悪習も変えられつつある。緊急時の出撃はともかくとして、予定に従っての遠征や派遣において、関係書類の提出は可能な限り早く行うのが最近になって徹底されるようになっていた。まあ、正常な組織であれば当然のことではあるので、それに対して嘆くのは完全に逆恨みというものかもしれないが。
ともあれそんな流れに従い、ロッシュも遠征から帰ってきたばかりの身でありながら、執務室を目指して歩いているのだろう。ラウルも丁度自分の部屋に戻るところだ、2人はどちらが言い出すでもなく、横に並んで歩き始めた。

「でも、終わったらきちんと休むんだよ? 何だか顔色も良くないように見えるし」

言いながらラウルは隣に立つロッシュを見上げる、ラウルより遙かに高い位置にある顔は、普段より大分血色が悪いように見えた。しかしロッシュ本人は気にした様子もなく、ただ少しばかり申し訳なさそうに眉を下げているのみである。

「そうですか? ご心配かけてすいません、遠征中にちっと怪我しちまったんですよ」
「怪我? それは不味いじゃないか、程度は?」
「大したことはありません、治療も終わってます」
「そう、それなら良いけど。でもそれなら尚のこと、しっかり休まないと……」

呆れ混じりの息を吐きつつ、ラウルはまた正面に向き直った。喋りながら歩き続ける、その視界の端で、ふっと赤い色が動いた。――それが何か理解する間も無く、凄まじいまでの金属音が、執務棟の廊下に響き渡る。

「…………え?」

あまりの轟音に、一瞬脳の動きが止まった。思考より早く、危険を把握しようとする習性が働き、ラウルの首が音の源……己の真横に向けられる。そこには有る筈のものが無かった、いや正確に言えば有りはしたが正しい状態におかれていなかった。つい先程まで自分の隣を歩いていたロッシュの姿はそこに無く、視界に飛び込んだのは床に倒れ伏した彼の身体。
それを目にした瞬間、停止した思考が動き出すより速く、ラウルの軍人としての本能が身体を動かしていた。

「誰かっ、誰か居ないか! 直ぐに来てくれ!」

叫ぶと同時にその場に屈み込み、ロッシュの首筋に手を触れる。その時になってようやく理性の認識が追いついた、つまりロッシュは倒れたのだ、しかも全く何の前触れも無く唐突に。状態を確かめるため頸部に指を押し当て、神経を集中させる。重ねられた分厚い筋肉の奥から、弱々しくはあるが、指を押し返す圧力があることを感じ取れた。取り敢えず心臓は動いている、確認できたその事実に身体の力が抜けそうになるが、それが無事の証左になるわけではない。ラウルは己を叱咤し、ロッシュの鎧に手をかけると、俯せの身体を反転させようと試みた。

「はっ…………!」

しかし重量級の鎧を着込み、自身も非常に鍛えられた肉体を有しているロッシュのこと、一部を持ち上げるだけでも相当な力が必要になる。ラウルの腕が震える、一瞬諦めが思考の片隅を過ったが、それが具現化する前に何とか鎧を床から離すことができた。その勢いのままロッシュの身体を仰向かせると、廊下に再び、金属と金属がぶつかり合う耳障りな音が響く。
乱れた息を整えていると、廊下の角から、複数の足音が近づいてくるのが聞こえてきた。

「どうした、何がっ……な、ロッシュ!?」
「こっ、これは……」

現れたのは、衛兵ひとりを引き連れた、ストック内政官だった。ラウルの叫びから間者の存在を連想したのだろう、それぞれ手には武器を構えている。しかし目の前の光景が予想とは大きく離れていたからだろう、2人とも言葉を失い、その場に立ち尽くしてしまっていた。そんな彼らに向けてラウルは口速に状況を説明し、理解を待つことはせず命令を下す。

「ストック、見れば分かるだろうけどロッシュが倒れた。後ろの君、そう君だ、今直ぐ医務室に走って医者を呼んできてくれ」
「は、はっ……了解致しました!」

硬直していた衛兵もラウルの声に正気を取り戻したようで、動揺した様子はそのままだが、直ぐに踵を返して走り出した。その気配に振り向くこともせず、ストックは己も顔を青ざめさせながら、倒れたロッシュの傍らにしゃがみ込む。

「一体何があったんだ?」
「分からない、話していたら突然倒れたんだ。取り敢えず脈は確認したんだけど、それ以上のことは」

ラウルの話を聞きながら、ストックは自分でも首筋と口元に手をやり、基本的な生命活動の有無を確認した。そしてそのまま、撫でるように掌を頭部に滑らせる。

「……頭は打っていないようだな」
「鎧が支えになって床に当たらなかったんだろうね、不幸中の幸いと言うべきかな。ストック、彼の鎧の脱がせ方は分かるかい?」
「ああ」

同じ型の鎧を着用してはいなくとも、戦場を共にしてきた親友の装備ということで、着脱の方法を覚えていたのだろう。ロッシュの鎧に手をかけ、肩当て、籠手、手甲、胸当てと、手際よくそれぞれの部位を取り外していく。
それを手伝いながらラウルは改めてロッシュの様子を観察した、意識は完全に喪失しているようで、装備に手をかけられても僅かな身じろぎすらしない。寝顔にも似た静かな無表情を浮かべる顔は、その穏やかさに反して、ぞっとするほど白かった。先ほど話していた時には顔色こそ悪いと感じたものの、ここまでの病的な白さでは無かったはずだ。しかし思い返してみれば、あの時既にこの状態に到っていたのかもしれない。赤色の鎧からの反射を受けて、血色が増しているように見えただけで。考えながらも手甲を取り外すために生身の右手を取ると、本来人が持つべき熱量を大きく下回った温度が伝わってくる。否が応でも死の気配を連想させる冷たさに、背筋に氷柱を入れられたような恐怖を覚えた。

「ああもう、どうしてこんなになるまで我慢するんだい!」

耐えきれずにラウルの口から叱責が飛び出す、しかし対象であるロッシュに意識が無い以上、それは完全に八つ当たりでしかない。ストックは、そんな戯れ言には反応すら返さず、黙々と作業を進めていたが。やがて主なパーツの固定を外した鎧の中から、ロッシュの身体を引きずり出すことに成功した。

「っ……ふう」

元軍人として鍛えられた彼にとっても、それはかなりの重労働だったのだろう。鎧下一枚となったロッシュを床に横たえると、疲労を含んだ低い息を吐き出す。だがストックは動きを止めず、寝かせたロッシュの手足に触れ、その状態を確認し始めした。骨や関節の異常がないかをみているのだろう、金属の鎧を纏った状態で無防備に倒れ込んだのだから、衝撃で身体が大きく傷付いた可能性も十分にある。

「どうだい?」
「骨折や脱臼は無さそうだ。普段から身体を解しているのが幸いしたな」
「そう、それは良かった」

ひとつ懸念は解消されたが、それで不安が失せたわけではない。何しろ実際に倒れた原因が分からないのだから、安心とは遙かにかけ離れた状態にある。容態が悪化している様子は無いが、目に見えぬところで何が進行しているとも限らないのだ。ストックもそれが不安なのだろう、骨の無事を見た後も、身体の具合を調べることを止めようとしない。
しかし、医療に関して素人であるラウルやストックがいくら見たところで、体内に潜んだ問題を見抜くことは出来ないだろう。それに例え不調の理由が判明したとしても、今この場で処置することが出来るとは限らないのだ。これ以上ラウルが出来ることは何もない、そう判断すると、ラウルはすっとその場に立ち上がった。

「ストック、医療部が到着するまで、ここを頼めるかい?」
「ああ。……あんたはどうする」
「倒れた原因がどうあれ、しばらく休ませる必要があるのは間違いないだろう。業務の調整を取って、軍の動きが滞らないようにしておかないと」

現在のアリステル軍において、数少ない将軍であるロッシュが負う役割は非常に大きい。最高指令官のビオラが病身であることも、彼の業務量に拍車をかけている。そのロッシュが、期間も分からぬまま仕事から離れるとあっては、軍全体の運営が停止してしまいかねない。それを防ぐために出来るだけ早く調整を行う必要がある、今自分が成すべきは役にも立たぬまま横に付いているのではなく、様々な関係部門を動かしてロッシュが抜けた穴を埋めることだ。

「君にも色々頼むことがあるだろう。医療部への引き渡しが終わったら、直ぐに来てくれ」
「……分かった」

ストックが頷いたのを確認すると、ラウルはその場を離れ、自分の執務室を目指す。頭の中で連絡すべき相手を並べ上げながら、こみ上げる嘆息を飲み込んだ――しばらくは、嵐の如き忙しさになるだろう。

(意識が戻ったら、思い切り文句を言ってやらないと)

そう考えることで、目に焼き付いたロッシュの白い顔を思考から追いやる。背後では、騒ぎを聞きつけた者達がやってっきたのか、足音と人の声が響き始めていた。




――――――




軍靴と床がぶつかり合う高い音が、通路に響いていた。現在のアリステル軍最高指令官であるビオラが奏でるその足音は、普段に比べて随分と早い。殆ど走るのと変わらない速度で歩く彼女が目指すのは、地階にある医療部だった。遠征から戻った直後に倒れたというロッシュの様子を見るため、仕事を抜けて降りてきたのだ。
とはいえ、今は報告を受けてから大分時間が経っている。本来ならば直ぐにでも駆けつけたかったのだが、ロッシュが倒れた現在、動ける将校はビオラのみだ。急激に増えた業務の中をそう簡単に抜け出せる訳が無く、会議の休憩に入ってようやく、僅かな時間を取ることが出来たのだった。

「……は、大丈夫なんですか!」
「具合を……だけでも」
「駄目です! 面会謝絶だと言っているでしょう!」

そして目的の場所に近づくにつれ、ビオラの耳に何やら野太い喧噪が届いてくる。複数の男達が大声で交わしているやりとりが、本来静かであるべきはずの病室の前を、騒がしく満たしていた。ビオラはひとつ溜息を吐くと、速度を緩めぬまま騒動の中心に近づいていく。

「お前達、何を騒いでいる!」
「ビオラ大将!」

ビオラのよく通る声が彼らの耳に届いた瞬間、その場に居た全員が、殆ど脊椎反射に近い反応速度で敬礼の姿勢を取った。並んだ男達をビオラが一瞥する、並んでいるのは8人、うち1人はロッシュの秘書を勤めるキールである。耳に届いた内容から判断するに、彼は押し掛けたのではなく、進入を止める側のようだった。残りの者は全員軍人であり、最高指令官であるビオラに対し、驚きと畏怖と、こんな時にも関わらず浮かんでくる憧憬の入り交じった複雑な視線を向けている。
ビオラは彼らの様子に構うことは無く、自らもたらした強制的な沈黙の中、ゆっくりと兵達を見渡した。そして場の緊張が最も高まった瞬間を見計らい、口を開く。

「こんなところで何をしている? 自分の仕事はどうした」
「はっ、今は休憩中で……」
「そんな問題では無いだろう!」

叩きつけるビオラの声は、大きくはあるがけして乱暴なものではない。しかし何故かそれは、聞いた者を従わせる、魔法にも似た威力を持っていた。たった数語と投げつけた視線ひとつで、屈強な軍人達を、指ひとつ動かせない恐怖の中に投げ込んでしまう。
硬直しきった彼らに対して、ビオラは口調を平生に近い静かなものに変え、言葉を続けた。

「ロッシュ将軍が倒れたという話は聞いている。君達は彼の様子を見にきたんだな?」

兵達が一瞬視線を見交わし、無言のままそれぞれに首肯を返す。キールはそれを怒ったような困ったような微妙な表情で見遣っていた、自分の上司が好かれているのは良いこととして、病人や医療部の都合も考えず押し掛ける彼らに怒りも感じているのだろう。

「分かった、心配する者達のあったこと、私が必ずロッシュ将軍に伝えておこう。君達は自らの職務に戻りなさい」
「はっ、有り難う御座います。……ですが」

何某かの反論を口にしかけた兵を、ビオラの鋭い視線が刺し貫いた。

「君達の階級は? 士官ではあるな?」
「はっ、はい」

装備の種類や、何より将軍に面会を求めて病室までやってくるという態度から、ある程度の階級を持つ者達であることは容易に推測できる。指揮階級という責任ある立場に在りながら軽挙妄動に走るのは、本来ならば許されないことだ。彼ら自身もそれは分かっているのだろう、ビオラの厳しい態度を当然のことと受け止めている節がある――にも関わらずこのような行動に出ている、しかも一人だけではなく複数人がだ。つまりそれだけ、ロッシュが倒れたという知らせがもたらす衝撃が大きかったということだろう。そして恐らくそれは、彼ら個人にとってだけではなく、彼らが指揮する隊全体においての話なのだ。部下達の動揺を鎮めるため、そして自分自身が納得するために、ロッシュの無事を確かめたかったに違いない。
とはいえ、それが賢い行為でないという事実は変わらないのだが。

「では、ロッシュ将軍が居ない今、軍がどのような状態にあるかは分かるだろう。今すべきことは、ここに押し掛けて騒ぐことか?」
「…………」
「将軍のことなら心配は無い、命に関わる病状では無いと聞いている。そうだろう?」
「はっ、はい! お身体に障るので面会は制限されていますが、休息さえ取れば直ぐに回復されるとのことです」

突然話を振られたキールが、慌てて説明を述べる。ビオラはそれに頷くと、また全員を見渡した。

「任務に戻るんだ、休憩時間だとしても出来ることはいくらでもある。身体を休めてこれからに備えるだけでも、無意味に騒ぐよりは有用だ」
「はっ……」
「君達の部下にも伝えなさい、将軍のことを考えるなら、彼が落ち着いて休めるように自分の職務を果たすようにと。良いな?」
「はっ、了解致しました!」

ビオラの言葉で随分と落ち着きを取り戻した様子で、兵達は改めて敬礼を返す。そしてようやく、病室の前から去っていった。

「……有り難う御座います、ビオラ大将。助かりました」

それを見送り、キールが大きく溜息を吐きながら、ビオラに向けて頭を下げる。彼らを止めることは出来ても追い返すことは難しかったのだろう、その顔には心からの安堵が浮かんでいた。

「気にするな、それよりロッシュ将軍の容態はどうなんだ? 報告では、倒れたということだけしか聞いていないが」

兵達に向かって大事無いと言い切った舌の根も乾かぬうちに、ビオラがそんなことを問いかける。キールもそれは予想していたのだろう、驚いた様子も無くビオラに向き直った。

「自分も詳しくは伺っておりませんが、少なくとも大きな病気ではないようです。お怪我をなさったそうなので、その影響ではないかということですが」
「そうか……」

ビオラが息を吐く、残る病でなかったのは幸いだ。アリステル軍の人材不足は相当に深刻で、倒れたロッシュに対してしばらくの休みを作り出すのにも四苦八苦しているというのに、完全に休職などということになっていたら今度はラウルあたりが倒れてしまいかねない。

「中にソニア先生がいらっしゃいますので、詳しいことは直接お願いします」
「分かった、伺わせてもらおう」
「はい。では、自分はこれで、業務に戻らせて頂きます」
「ああ、君もこれから大変だろうが、頑張ってくれ」
「……はい! お気遣い頂き、有り難う御座います……!」

ビオラの言葉に、一瞬キールの表情が嬉しげに輝く。しかしそれも直ぐに真剣なものに戻り、ぺこりと頭を下げると、上階に向かって歩きだしていった。彼も、ロッシュが抱える業務の整理や引継で、これから目が回るほど多忙になることだろう。ビオラが口にしたのは形ばかりの励ましではなく、心底からの激励だった。

「……さて」

遠ざかるキールの背を一瞥すると、ビオラは改めて背後の扉に向き合い、そっとそれを開いた。

「ビオラ大将」

中から聞こえてきたのは、ビオラの主治医でもあるソニアの声だ。ビオラが部屋の中に滑り込むと、彼女が椅子から立ち上がり、出迎えてくれる。

「有り難う御座います、皆さんを説得してくださって」
「いや、それが私の仕事だからな」
「でも助かりました、キール君の言うことでは聞いてくれなかったんですよ。あまり騒ぎが大きくなっては困りますし、どうしようかと思っていたところです」

そう言ってソニアは疲れた様子で息を吐く。彼女も忙しい身であり、さらに今は夫が倒れたという緊急事態でもあるというのに、先の騒ぎで余計な心労を加えてしまったようだ。ビオラが申し訳なさそうに目元を歪める。

「軍の者達が、迷惑をかけてしまったな」
「いえ、それだけ皆さんが心配してくださっているということですから、有り難くはあるのですけれど」
「それはそうかもしれない、しかし軍人として褒められた行為ではないのは確かだ。念のため聞いておくが、押し掛けたのは彼らだけか?」
「いえ、これで3組目です。交代の度に休息時間に入った方々がいらっしゃいましたから……勿論全員引き取って頂きましたけど」
「そんなに居たのか。やれやれ……」

ビオラが大きく息を吐いた。自分達を統括する人間が倒れたのだから、動揺するのは仕方がないことだが、それにしてももう少し分別をもって行動するように教育しなくてはならない。軍の総責任者であるビオラとしては、非常に問題意識をかきたてられる出来事である。
しかしそれは、今考えるべき事項ではない。ビオラは真剣な表情に戻ると、ソニアに向き合った。

「それで、ロッシュ将軍は一体? 倒れた、ということしか聞いていないんだが、原因は判明したのか?」
「はい。一言でいえば、貧血、です」
「貧血……彼が?」

あまりに単純、且つロッシュのイメージとはかけ離れた単語に、虚を突かれて驚きをそのまま顔に出してしまう。しかしそれもソニアにとっては予想していた反応だったのだろう、こちらは表情を変えぬまま、淡々と説明を続けた。

「遠征中に怪我を負って出血した後、禄に休みもせず行軍に入って、昨日は夜を徹しての移動。造血が追いつかず、最終的に倒れてしまったと考えられます」
「……城に戻って気が緩んだ、ということか」
「そうでしょうね、隊を率いている最中は、気力で持たせていたんでしょう。倒れた直接の理由は貧血ですけれど、過労が原因、と言った方が正確かもしれません。普段からの疲れが溜まって、回復力が落ちていたのが大きな要因でしょうから」
「成る程な……」

ソニアがまたひとつ溜息を吐く、ビオラはそんな彼女の姿に、強い罪悪感を覚えた。あの、体力の塊のようなロッシュが過労で倒れる程の激務、それが発生した原因のひとつは、確実に自分の病なのだ。本来ならば組織の長であるビオラが立たねばならない局面でも、療養中の身体にかかる負担を考慮し、ロッシュに代役を頼んでしまうことが多い。それによって彼の業務量は激増し、溜まった疲労を回復する暇も無く働き続ける状況を強いてしまっている。そしてその結果が、今回の騒ぎだ。

「……すまなかった」

そう言ってビオラは、ソニアに向かって深く頭を下げた。謝って済む問題ではない、しかし無意味な行為であっても、行わなくては気が収まらなかった。
そんなビオラを、ソニアは無言で見詰めている。数秒の間沈黙が流れ、そしてそれを破ったのは、やはりソニアの声だった。

「謝って頂くことではありません、ビオラ大将。顔を上げてください」
「いや、そんなことは無い。ロッシュ将軍に倒れる程の負担が掛けてしまったのは、大将である私が職務を果たせていないせいだ」
「…………」
「本当にすまない。将軍には勿論、ソニア殿にも非常な苦労をかけてしまって……」
「……ふふ」

診察室の中に、柔らかな笑い声が響く。そっとビオラの肩に手がかけられ、優しい力で上向くことを促された。それに従い顔を上げると、声色そのままに静かな微笑を浮かべたソニアの顔が目に映る。

「おかしいですね」
「……何がだろうか?」
「皆さん同じことをおっしゃるんですよ、ラウル首相も、キール君も。自分が悪かった、あの人が倒れたのは自分のせいだ、仕事で負担をかけてしまっていたから……と」

屈託無く笑うソニアの表情からは、不思議な強さが伝わってくる。穏やかな瞳で見詰められ、ビオラの心を苛んでいた重く暗いわだかまりが、すっと軽くなるのを感じた。

「それを引き受けているのは、あの人自身なんですけどね」
「いや、それは違う、軍人として命じられればそれを受けるのは当然のことだ。こんな事になる前に、もっと周囲が気を付けてやるべきだった」
「……有り難うございます」

ふ、とソニアの目が伏せられる。ビオラに向かって小さく礼をすると、その笑顔に僅かだけ沈んだ色が含まれた。

「仕方がない人です、これだけ皆さんに大事にして頂いていて、それを全然分かっていないんですから。勝手に無理をして、こんなことになって」

そう言って寂しげな光を浮かべる瞳には、夫に対する深い愛情と気遣いが滲んでいて。お門違いと分かってはいても、彼女にそんな顔をさせるロッシュという男に、嫉妬に近い感情を抱いてしまう。

「ね、お願いだから気になさらないでください。あの人が倒れてしまったのは、自分で自分を大事にしなさすぎるからなんです。悪いのはあの人自身ですわ」
「……そうだな」

つられたように、ビオラの整った顔にも、笑みが浮かんだ。部下を前にした時とは違う自然な笑顔で、ソニアと向かい合う。

「確かに彼は、何でも一人で背負い込むきらいがある。これを期に、もっと周囲を頼るということを覚えてもらうべきかもしれない」
「ええ、その通りです。何でも自分で出来ると思ったら、大間違いなんですから」
「全くだ、目が覚めたらしっかり叱ってやらないといけないな。将軍の意識は、まだ戻らないのか?」
「一度目を覚ましましたが、今はまた眠っています。意識があると動きだそうとするので、鎮静剤を投与して眠らせてしまいました」
「そ、そうか……」
「本当に、自分の身体を何だと思っているんだか」

呆れた顔で零すソニアの言葉に、ビオラの笑みが苦笑に変わる。やっていることは乱暴にも思われるが、ロッシュが彼女にかけた気苦労を考えれば、それくらいの実力行使は許されるはずだろう。

「分かった、それなら今の所は一旦引き取ろう。話せる状態になったら、私のところに連絡を寄越してくれ」
「はい、勿論です。今日の夜か、遅くとも明日の朝には、面会の許可が出せると思います」
「ああ、ではそれまでに、説教の文句でも考えておくことにしようか」
「よろしくお願いします……でも」

そこで一度言葉を切り、ソニアはおかしそうに、抑えた笑い声を立てた。

「ふふ、病室の前に、お小言を言うための列が出来そうですね。ラウル首相もおっしゃっていましたし、ストックも、マルコさんも、勿論私も怒ってやるつもりなんですから」
「……それは、病み上がりには中々辛そうだな」

一瞬にしてその光景が脳裏に浮かび上がり、ビオラも思わず吹き出してしまう。周囲の人間に揃って叱りつけられ、大きな身体を小さく縮めるロッシュの姿は、実に容易に想像することが出来た。

「まあ仕方ないな、自業自得と思って耐えてもらう他あるまい」
「当たり前です、この機会にしっかり反省してもらわないといけませんからね」
「ああ、その通りだ。よし、それでは仕事に戻ることにしよう、将軍が目覚めてた時にやるべき業務が無いようにしておかないとな」
「……有り難うございます」
「礼を言われる必要は無い。今まで随分楽をさせて貰った、それを返すだけさ」

ビオラの言葉に、ソニアはにこりと柔らかな微笑を返す。――その笑顔を護るためにも、ロッシュが身体を休める時間を作ってやらなくてはならない。ビオラはそう心に刻み込むと、彼女を安心させるように、力強い笑みを浮かべてみせた。




 ――――――




出来るだけ音を立てぬよう気をつけて、ストックはそっと病室の扉を開いた。しかし既に目を覚ましていたのだろう、ロッシュが閉じていた目を開き、こちらへと顔を向ける。

「ストック」

呼ばれた名には応えず、ストックは黙って寝台の傍らに置かれた椅子に腰掛けた。病室の中は魔動の灯りによって照らし出されている、地階だけ特例で使用が許されているそれは、ランプの頼りない光に比べて格段に明るい。その下で見るロッシュの顔色は、昨日倒れた直後のそれより、随分と良くなっているように思われた。上半身を起こそうとするロッシュを、ストックは手振りで制止する。

「おう、んじゃあ悪いが、寝たままにさせてもらうぜ。……忙しいんだろうに、態々顔出してくれてありがとよ」

寝台に身を戻しながらロッシュが言う。確かに、彼が倒れた直後から、ストックは凄まじい多忙の中にあった。ロッシュが受け持っていた業務の一部を受け持ち、彼自身が出来ないことは部下や他の部門に割り振る。それらを本来の仕事と共に行っているのだから、さすがのストックでも平生と同じ顔はしていられない。緊急度の高い案件がひと段落するまでは動くことも出来ず、今朝方ロッシュが目覚めたという連絡は受けていたものの、夜になるまで見舞いにくることも出来なかったのだ。

「お前にも随分苦労させちまったみたいだな。倒れた時も、色々手間かけたって聞いたぜ」
「…………」
「よりにもよって鎧着てる時に倒れちまったからなあ。怪我人が居なくて良かったが、目が覚めてから肝が冷えたよ」
「…………」
「……あー、その、何だ」

困惑した様子で目を逸らすロッシュの顔を、ストックはじっと見詰めた。強い意志を込めた視線に、ロッシュの表情が微妙に歪む。

「……悪かった。反省してるから、んな睨むなよ」

溜息を吐くとロッシュは右手を挙げ、降参の意を示した。ストックはそれを受けて、ようやく硬く閉ざしていた口を開く。

「何に対して、反省しているというんだ」
「そりゃ、お前や他の奴らにも、迷惑かけまくっちまったからな。ただでさえ皆忙しいってのに、余計な仕事増やしちまって……」

ストックの目付きがどんどん険しくなるのに気付き、ロッシュは言葉の中途で口を閉じた。

「……何も分かっていないな」

嘆息混じりにストックが零すと、ロッシュの表情が憮然としたものに変わる。

「何が分かってねえってんだよ」
「何処に問題があるのか、だ。……誰も、何も、お前に言わなかったのか? 見舞いに来たのは俺が初めというわけじゃないだろう」
「…………」
「周りの人間がどれだけお前のことを心配していたか、他の奴から聞かされたんじゃないのか。……仕事がどうのと、そんなことは問題じゃないんだ」

じっと、動かぬ表情の中からでも伝わる程の強い思いを込めて、ストックはロッシュを睨み付ける。それは怒りであると同時に、あまりにも自らの身を省みない親友に対する危惧でもあった。倒れる程の激務に曝されながらそれを全く異常と思っていない、自分自身を使い潰してしまいかねない態度には、明確な危機感を覚える。
ストックの視線を受けて、ロッシュはしばらくの間黙り込んでいたが。やがて小さく息を吐いて、悪かった、と呟いた。

「心配かけたってのは知ってるよ。お前以外にも、散々色んな相手から言われたからな」
「……そうだろうな」
「ああ、ラウル首相にビオラ大将、それにマルコにキールに……ソニアにも叱られちまった」

どうやらストックが訪れる前に、既に関わりの深い人間殆ど全てから叱責を受けていたようだ。立て続けに説教をされ、悄然とするロッシュの姿がストックの脳裏に浮かび、一瞬怒りも忘れて苦笑してしまう。それにつられたのか、ロッシュも複雑な笑みを浮かべたが、しかしそれは僅かな間のことで。直後にそれは、深く考え込む表情に切り替わり、そしてぽつりと呟きを零した。

「だが、不思議なんだがな」
「何だ?」
「皆、最後は謝ってくるんだよ」

その言葉にストックは、声を失ってロッシュを見る。ロッシュは視線を天井に向け、独白のような調子で言葉を続けた。

「倒れるほど無理をさせて悪かった、ってな。……全員が、だぜ」

真剣な顔で語るロッシュの様子を見るに、恐らく本当に理由を解していないのだろう。どこまでも無自覚な彼に対して、一体何と言ってやれば周りの心が伝わるものか。

「全員、か」
「ああ……いや、そういやキールは違ったな」
「ほう?」
「あいつは頭っからだ。半分泣いてたな、ありゃ」
「……成る程、よく分かった」
「何でだろうなあ……」

多くの者に強く訴えられ、伝えられた想いがあったということは理解したようだが、それが何なのかというのがロッシュにはどうしても分からないのだろう。この男は、頭が悪いわけでもないのに、ある一点においてのみどうしようもなく愚かになる。今再び言って聞かせたところで伝わるかどうかは分からない、それでも構わずストックは口を開いた。

「つまりそれだけ、お前が皆に頼られていたということだ」
「……」
「お前に任せれば安心だと、皆が考えて仕事を回していた。その結果としてお前の仕事量が増えて、過労に追い込んでしまったと、お前に謝った者たちはそう思っているのだろう」
「……信頼してもらえるってのは、有り難いことだぜ?」
「普通はな、だが倒れる程の負担が集まってしまうのは真っ当な範囲を超えている」
「だがなあ、他の皆だって忙しいのには変わりないだろう」

困った顔で、ロッシュが眉根に皺を寄せる。やはり分かっていない様子の親友に向かい、ストックはさらに話を続けた。

「確かに、今この国を動かしている人間で、暇な者など居ないさ。だがその中でも、お前だけが限度を超えて倒れてしまったのは事実だ」
「だから、そりゃ反省してるって言ってんだろ……」
「それなら今後は、もう少し無理を控えろ。お前は、自分の身体を蔑ろにしすぎる」
「分かってるって、もうこんな情けねえ真似はしねえよ」
「…………」
「だから、睨むなって……」

発言以上に雄弁に語るストックの視線を受けて、ロッシュはしばらく黙り込み、緩やかに目を泳がせていたが。やがてひとつ息を吐くと、右手を額の上に乗せた。

「本当に、反省してるよ。どんだけ周りに心配かけたか、思い知らされたからな」
「……随分、皆に絞られたようだな」
「ああ、まあな。……それに」

ふ、とロッシュの目が、痛みを堪える形に歪められる。見守るストックの前で、口元が逡巡と共に何度か開閉すると、意を決したかのように声を発した。

「ソニアに、泣かれちまってな」

その内容に、ストックの目が大きく見開かれる。ロッシュはストックの方を見ず、あらぬ方向に視線をさまよわせたまま、額に乗せていた手で目元を覆った。

「あいつが泣くのなんざ、何年ぶりに見たかな……」
「…………」
「色んなもんを護るつもりで戦ってたが、それで一番大事な相手を悲しませてちゃあ世話ねえぜ、ったく」

かけるべき言葉が見付からず、ストックは黙ってロッシュを見詰めた。広い掌で隠された表情に何を宿しているか、外から見て取ることはできない。ただその声音の静かさは、普段の彼を知るストックにとって、何かを感じるのに十分なものだった。

「だからな、もう無理はしねえよ。これ以上、あいつにあんな顔させるわけにはいかねえからな」
「……そうだな」

その静寂を乱さぬよう、ストックもまた穏やかな調子で言葉を返す。しかしその表情が、つと面白がるような色を帯びた。

「まあどのみち、しばらくまともに仕事は出来ないだろうがな。皆が、お前を休ませようと待ちかまえているぞ」
「……へ、何だよそれ」

意味が分からず戸惑った声を上げるロッシュの、顔を塞いだ手のひらを、ストックはひょいと退ける。そして笑いを含んだ視線を、ロッシュの目に直接投げてやった。

「お前の仕事は残っていないということだ。今執務室に戻っても何もすることは無いだろうな、しようと思っても取り上げられると思っておいたほうがいい」
「いやいや、それじゃあ仕事になんねえだろ!」
「だから、出来ないと言っている。残業などもっての他だろうな、定時が来たら部屋から……いや、城から追い出されるぞ」
「んな、いくら何でも極端な」
「それだけ皆、心配しているんだ」
「だからってなあ、限度があるだろ!」
「俺に言われても困る」

喉を鳴らすようにして笑うストックを、ロッシュは思い切り睨み付ける。しかしそれでも言葉自体を否定できないのは、それが十分起こりうる未来だと分かっているからだろうか。

「まあ、良い機会と思って、ゆっくり休めばいい」
「そりゃ休むがな、それにしたって……」
「言っておくが、今のお前に味方が居ると思うなよ? 何か訴えても、誰も聞きはしないだろうな」
「…………」
「自業自得だ、諦めろ」

溜息を吐いて頭を抱えるロッシュの肩を、ストックが叩く。話す内容は厳しいくせに力加減は宥めるように優しく、その柔らかな矛盾にロッシュは微妙に釈然としない顔を浮かべるのだった。





セキゲツ作
2011.08.21 初出

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