「あ、マルじゃない!」

街を歩く彼の名を呼んだのは、昔馴染みで今は人妻となっている友人の声だった。マルコが振り向くと、レイニーとその夫のストックが、並んで歩いてくる姿が目に映る。

「レイニー、それにストック。何だか珍しいね、街でばったりなんて」
「そうだね、家とかお城で会うのはしょっちゅうだけどさ」

明るく溌剌とした彼女の笑顔は、結婚して家庭に入った今も変わらなかった。ついでに落ち着きがなく騒がしいところも変わらないのだが、ストックにとってはそれも魅力のひとつという可能性もある。変化が無いのは良いことなのかもしれない、多分だが。

「マルは今日、仕事?」
「うん。見回りのついでに、ロッシュ将軍のところに書類を届けにいくんだ」

そう言って手にした鞄を叩く、先日ついに待望の第一子が産まれたロッシュは、以前に比べて随分頻繁に休みを取るようになっていた。もっとも比較対照である将軍就任直後は、数ヶ月休みを1日も取らず働くという、限界に挑戦するような労働環境だったのだ。それと比べて休みを増やしたといっても、人並みの頻度には未だ追い付かない。実際それだけの勤務が必要な業務量なのも確かだった、現在のアリステル軍には将校位の者が非常に少なく、結果として何か大きな問題があれば直ぐにロッシュに話が行くようになってしまっているのだ。今も、突発で発生した問題の処理を頼むため、関係書類を持ってマルコが家を訪ねるところだった。

「相変わらず、忙しい奴だな」
「まあね、とにかく人が足りないからさ。皆何かあると将軍さんに頼っちゃうし」
「そうなの? うーん、それは心配だねえ」
「ストックはどうなの、段々忙しくなってきたんじゃない?」
「……まあ、そこそこと言ったところか」

行方が知れなかったこの友人が戻り、アリステルで働くようになってから、しばらくの時間が経っていた。就任当初は様子を見ていた周囲も、最近では段々と遠慮を捨てて仕事を回すようになってきているらしい。家に帰る時間が遅くなってきたとレイニーがむくれていたのを、マルコは思い出す。
しかしとりあえずこうして休みを取り、夫婦二人で出かけられる程には時間があるのだから、まださほど忙しいわけではない筈である。そう考えてしまうのは、多忙な者が多すぎる軍に、マルコが毒されてしまっているからか。
そう、ロッシュほどではないが、マルコとて忙しいのに変わりはないのだ。正直言えばこんなところで雑談をしている余裕は全く無い、マルコは話を切り上げようと、鞄を持ち直した。

「じゃ、そんなわけで僕はもう行くから……」
「あ、待ってよマル!」
「何さ、レイニー?」
「ロッシュさんのところに行くなら、私たちも付いてく!」

娘時代と変わらない輝いた目で、レイニーが元気よく宣言する。
……あまりに唐突かつ堂々とした発言に、マルコは一瞬言葉を失ってしまった。

「……えええ? 何でさ、いきなり!」
「だって考えてみたら、赤ちゃんが産まれてからロッシュさんの家に遊びに行ったことないし」
「そりゃ、産まれたばっかりの赤ん坊が居る家に他人が上がり込んだら、迷惑だからでしょ」
「でもマルは行くんでしょ?」
「僕は仕事なの!」
「だから良いじゃない、仕事のついでってことで。ね?」

にっこり笑って小首を傾げるレイニーに、マルコは軽く目眩を覚えた。正論が効く気配はない、というかこうなったら自分の言うことは一切聞かないことが、経験上容易に推測される。彼女とマルコは付き合いが長すぎて、ある意味で互いの言葉が軽くなってしまっているのだ。救いを求めてストックを見るが、彼も黙ったままマルコを見ているだけで、止める気は無さそうだった。

(っていうかひょっとして、ストックも乗り気なのかも)

妻の行動を容認する、というよりはもう少し積極的に賛同する気配が、その姿からは漂ってくる。彼が親友夫婦に産まれた子供をことの他可愛がっていることを考えれば、その赤子に会えるならばと妻の提案を歓迎していてもおかしくはなかった。

「……はあ」

ストックとレイニーが2人がかりで主張しているとなると、マルコに止められるはずもない。せめてもの抵抗に大きく溜息を吐くと、大儀そうに肩を落としてやった。

「僕は止めたからね? レイニー達が勝手に付いてきたんだからね?」
「うんうん、分かってる。ロッシュさんにはストックが怒られてくれるよ」
「……俺なのか」
「あはは、冗談冗談! さ、行こっ!」

ぐいと2人の腕を引いて歩き出すレイニーに、危うく引きずられそうになりながら。マルコは一瞬ストックと視線を交わし、互いに苦笑すると、彼女の後に付いて歩きだした。



――――――




何度か訪れたことのある家に辿り着くと、幸いにして家主は在宅のようだった。明かりを点ける時間では無いのではっきりとは分からないが、軍人であるマルコの知覚は、建物内に居る人の気配を薄らと感じ取っている。

「良かった、居るみたいだね」

レイニーも同様に思ったのか、マルコの横でそんなことを呟いた。軍を退役して家庭に入った彼女だが、傭兵時代の感覚は未だ衰えていないらしい。
取り敢えず、仕事で訪れたマルコが、代表して呼び鈴を鳴らす。涼やかな金属音が奏でられてしばらく後、扉の向こうから微かな物音が聞こえてきた。その直後、扉が開き、家の主が顔をだす。

「おう。マルコ……に、ストックにレイニー?」

現れたロッシュは、休日らしく平服で、驚いたことにガントレットすらも外していた。当たり前だが軍に居る間は絶対に見られない姿に、妙な新鮮さを感じてしまう。
そんなことを考えられているとは知らないロッシュは、そこに居た組み合わせが意外だったのか、3人を前に目を丸くして首を傾げていた。そしてその腕の中では、つい先日誕生したばかりの小さな新しい命が、父親と同じような表情で突然の訪問者を見詰めている。何とも可愛らしい相似に、レイニーが甘い悲鳴を上げた。

「どうしたよ突然、雁首揃えて。つーかマルコ、お前今日は出だったよな」
「はい、僕は仕事です。休暇中に申し訳ないんですけど、急ぎで決裁して頂きたい問題がありまして」
「そうか、悪いな態々来させちまって。で、お前らは?」

問われて、レイニーとストックがちらりと視線を交わす。その一瞬で夫婦間の相談は纏まったのか、おずおずとレイニーが口を開いた。

「えーっと……街で偶然、マルと会ったんです」
「ははん、それで面白がってくっついてきたってわけか」

当たらずといえど遠からずな推論が瞬時に浮かぶあたり、彼も中々レイニーの性格が分かってきているようだ。苦笑しつつもロッシュは身を引き、3人を迎え入れる姿勢を見せる。

「まあいいや、とにかく入れよ」

思ったよりも好意的な対応に、レイニーもやや恐縮した空気を漂わせた……ここにきてようやく、と言えなくもないが。

「すいません、いきなり押し掛けちゃって」
「来てから気にしてどうする、そういうことは先に考えとくもんだ」

そんな彼女の今更ながらの気遣いを、全くの正論で笑い飛ばすと、ロッシュは家の中に引っ込んだ。3人もその後に付いて、家の中に上がり込む。子供が産まれる前に何度か招かれたこともあるし、マルコに限っては今日のように仕事で来ることも多いから、主の許可さえあれば妙な遠慮などをする必要はない。

「何か、前来た時と雰囲気変わったかな?」
「出産を終えて、子供が中心の生活になっているんだろう。全体的な空気が変わっていてもおかしくはない」

マルコの後ろでは、レイニーがきょろきょろと家の中を見回している。彼女は子供の誕生後初めて来ると言っていたから、頻繁に来ているマルコには分からない変化を感じ取っているのだろうか。

「すまんが今、ソニアは来客中でな。俺もこいつの世話があるから、もてなしは出来んぞ」
「勿論です、僕は仕事ですし」
「あたし達は勝手に押し掛けた立場ですしね。でも、赤ちゃんのお世話があるのに、お邪魔しちゃって良いんですか?」
「ああ、むしろ歓迎したいくらいだ」
「……歓迎?」
「つまり、手伝わせる気だな」

ストックが苦笑しつつ、ずばりと指摘した。ロッシュも悪びれずに正解、と笑い返す。さすがに付き合いが長いだけあって、妙なところで息の合ったやりとりだ。

「構わねえよな? どうせ予定も無いんだろうし」
「勝手に決めつけるな」
「人んちに思いつきで押し掛けてる時点で、忙しいってことはありえねえよ」
「あたしは良いですよ、手伝います!」

きらきらと目を輝かせて返事をするレイニーの顔には、赤子に対する興味がありありと示されている。彼ら夫婦にまだ子供は居ないが、ひょっとしたらいつかやってくる未来に向けての予行演習という気持ちもあるのかもしれない。

「ええ……将軍、僕は一応仕事中なんですけど」
「悪い、だがどっちにしろこいつが落ち着くまでは仕事に掛かれねえんだよ。忙しいとこすまんが、ちょっと待っててくれ」

すまなさそうに言われてしまえば、マルコとて休暇中に押し掛けている身だ、自分の都合を押し通すことは出来ない。諦めて首肯を返すと、彼の忙しさを知っているロッシュは一層申し訳なさそうな顔になり、すまんな、と繰り返した。

「んなわけでさっさと終わらせちまいたいからな、頼んだぜ」
「はーい。で、何をすれば良いんですか?」
「あ、ひょっとしてミルクをあげるところだったのかな」
「ああ。今作るところだったんだ」

案内された台所には、ほ乳器と乳幼児用の補助食品の材料が並べられていた。どうやら赤子に与える食事を準備している最中だったらしい、父親に抱えられた赤子が微妙に不機嫌そうに見えるのは、空腹が理由なのだろう。

「補助食を使っているのか。乳の出が悪いのか?」
「まあな。出産前後で家に引っ込んでたせいで、ちっと精神的に不安定になっててなあ」

その言葉に、全員が心配そうな表情を浮かべる。確かにソニアは、戦争中から仕事で高い地位を得ており、今は特に砂漠の緑化という世界的な研究の中心人物でもある。出産が理由とはいえ突然家に籠もり、する仕事も会う人間も激減したとあっては、調子が崩れて当然だ。

「大丈夫なんですか……?」
「ああ、最近研究にも戻るようになって、それで随分落ち着いたみたいだ」
「え、もう仕事してるんですか!? だってまだお産から何ヶ月も経ってないのに……!」
「仕事っつっても研究所に行ってるわけじゃなくて、逆にうちに来てもらってるんだよ。で、会議に参加したり、こいつの世話をしながらで出来る範囲のことを置いてってもらったりしてるんだ」
「ああ、ひょっとして今日の来客も」
「そういうことだ。今まさに仕事中ってわけさ」

父親の言葉の合間を縫うように、赤子が腕の中で声を上げた。まだ泣き声にまでは到っていないが、不機嫌をあからさまにしたその声色に、ロッシュは慌てて準備にかかる。

「分かった分かった、今作るからもうちょっと待ってろって」
「でも、大丈夫なんですか? いくら自宅に来てもらってるって言っても、産後すぐに仕事に戻っちゃって」
「まあ……心配は心配だが、本人の希望だしな。何もさせないほうが調子悪そうだし、無理ない範囲でやるってんなら仕方がないだろ」

苦い顔でロッシュが零す、やはり夫としては、産後の不安定な身体で働くなどという無茶はして欲しくないのだろう。とはいえ強引に止めれば精神面での負担がかかってしまう、現在の状態はロッシュにとって苦渋の決断だったに違いない。嘆息する父親を励ますように――あるいは単に食事を催促するように、再度赤子が声を上げる。

「分かったって、そう急かすなよ。じゃ、誰かこいつを抱いててくれねえか」
「え、抱っこするんですか! ミルク作るほうじゃなくて?」
「そっちは結構難しいからな、俺がやっちまった方が速いんだよ」
「でも大丈夫かなあ、慣れてない僕らで……」
「まだ小さいから暴れる力もねえし、最初にしっかり形取っときゃ大丈夫だ。レイニー、やってみるか?」
「……じゃ、じゃあ、挑戦してみます」

名指しされたレイニーが、覚悟を決めた様子で腕を伸ばす。ロッシュはその上に赤子を乗せ、安定するように体勢を整えてやった。

「こんな感じで、首を固定するように乗せとくんだ」
「うっわあ、柔らかい!」
「レイニーったら、赤ちゃんなんだから当たり前じゃないか」
「だってだってマル、何かぐにゃぐにゃしてるよ?」
「まだ全然筋肉が無いからな。首も据わってねえから、そこだけずらさないように注意してやってくれ」
「はいっ!」
「じゃ、こっちの準備が終わるまで、そのまま頼むぜ。で、渡してからで悪いんだが」
「え、何ですか?」
「今の状態だとな……まず間違いなく、泣く」

まだ首も据わらぬ赤子に、その言葉が分かったとも思えない。しかしまるで父親が宣言するのを待っていたかのようなタイミングで、レイニーの腕に収まった赤子が、盛大に泣き声を上げ始めた。

「えええええ、えっえっ、ほんとに泣いちゃった……!」
「すまんな、そのまま抱いててくれ」

赤子の泣き声というのは、人間……特に女性の精神状態を大きく乱す効果があるという。それは出産経験が無い者にとっても有効で、レイニーは見事にその影響を受けたのか、一瞬にして混乱状態に陥ってしまっていた。慣れているのかロッシュは落ち着いたものだが、それでレイニーの動揺が収まるものでもない。

「そのまま、って言ったって、どうしたら」
「あ、首だけは気をつけてな。泣いてても自分じゃ動けねえから、その体勢崩さなきゃ大丈夫だ」
「ははははいっ!」

それでも子を守ろうとする生物の本能は強いようで、ロッシュの言葉に忠実に従い、赤子を取り落とすことだけはしていない。その姿を確認すると、ロッシュは安心した様子でミルク作りを再開した。片手のみで器用に準備を進める手際に、ストックが感嘆の声を上げる。

「……上手いものだな」
「大分慣れたからな、これでも」
「うう、早くしてくださいよ……あたしじゃ無理ですよ、やっぱり」
「レイニーのせいじゃねえって、今だったら誰でも泣くからな。俺どころか、ソニアでも怪しいぜ」
「お母さんでも駄目なんですか、厳しいなあ」
「まだ我慢できる年じゃねえしな。そのうち堪え性も出てくるんだろうが」
「マル、何暢気に喋ってるの!」
「でも、僕たちには出来ること無いしねえ」

一人戦いの中に取り残されたレイニーが、マルコを恨めしそうに睨む。そのあまりに必死な様子を少々可哀想に思うのも事実だが、強引に付いてきたのも、手伝うと申し出たのも彼女自身なのだ。自ら招いた試練として割り切ってもらう他無い。

「もう、マルの馬鹿……ねえストック、助けてよ!」
「…………」

突如として矛先を向けられ、ストックの顔に僅かな動揺が走る。数瞬の間、彼は硬直した無表情の裏で何か思考を巡らせているようだったが、やがてそっと妻に語りかけた

「レイニー。……練習だと、思え」
「いやストック、それ絶対誤魔化してるでしょ」

間断なく繰り出されたマルコの指摘に、一瞬感動しかけたレイニーの顔が、また泣きそうに歪んでしまう。もはや抱いた赤子に近い表情になってしまった彼女に、ストックは珍しく困りきった様子を浮かべた。

「ロッシュ。寝かせておくわけにはいかないのか」
「誰も居なきゃそうするんだがな、抱き直す時が大変なんだよ。出来れば誰かに抱いといて欲しいんだ」
「そうか……まだ、準備は終わらないのか?」
「もうちょっとだ、よっと……出来たぜ。ほらレイニー、こっちこい」

補助食を満たしたほ乳器を、顎と肩で挟んで固定すると、ロッシュはレイニーを招き寄せた。その言葉を受けてレイニーが赤子を差し出すと、ロッシュはそれを右腕一本で受け取り、危なげなく安定した姿勢に持っていく。

「ほれ、待たせたな」

そして赤子に顔を寄せ、ほ乳器の吸口を口元に宛てがってやる。待望の食事を目の前にした赤子は、ぴたりと泣くのを止めて、乳首を模して作られたそれに吸い付いた。

「よしよし、たんと飲めよ」

不自然な体勢を物ともせず赤子とほ乳器の位置を維持したロッシュは、優しげな口調で赤子に声をかけてやる。一心不乱にほ乳器を吸う赤子の手元は、見れば父親の服をしっかりと握り締めていた。それを受け止め、護るように胸元に収めているロッシュの表情は、心底からの幸せに満ちていて――愛情という、不可視のはずの存在を体現したかのようなその姿には、見る者を自然と笑顔にさせる不思議な力が溢れていた。

「うわあ、可愛い……!」

先程までの苦労は全て忘れてしまったのか、レイニーは満面に笑みを浮かべて、乳を吸う赤子を見詰めている。そのあまりに無邪気な様子に、マルコはたまらず苦笑を零した。

「もう、レイニーったら。さっきまであんなにおろおろしてたのにさ」
「う、それはまあ……でもだって、可愛いじゃない。ね、ストック」
「……ああ、そうだな」

ストックもまた静かに微笑んで、レイニーの言葉に同意を示す。勿論マルコとてその意見に否があるわけではない、だからそれ以上は何も言わず、ただ可愛らしい赤子の姿を眺めるのに集中することにした。3人の大人から送られる視線など気にすることもなく、赤子は心行くまで補助食を吸い、やがて満足したのかほ乳器から口を離した。

「お、もう良いか?」

父の言葉に応を返すように、赤子が小さな右手をにぎにぎと動かす。そうかそりゃ良かった、などと適当なことを呟きながら、ロッシュは顎に挟んだほ乳器を机の上に戻した。

「よし、じゃあげっぷ出すぞー」

そして今度は、抱いた赤子の頭が肩の上に乗るように、腕の中で体勢を変えさせる。己の身体を傾けて二の腕と肘で赤子の体を支えるようにし、右手を小さな背に回すと、その中心あたりをとんとんと叩き始めた。

「……何をしているんだ?」
「げっぷを出させてんだよ。これをやらんと、飲んだもんを吐き戻すことがあるんだ」
「あたし聞いたことあります! ミルクと一緒に空気を飲んじゃうから、それを出してあげないといけないんですよね」
「成る程。レイニー、よく知っているな」
「えへへ、聞き齧りだけどね」
「っと、出たか。今日は速えな」

げふ、と乳臭い息を吐き出した赤子を、ロッシュは改めて胸に抱え直す。再び胸元に収まる位置にきた赤子は、それを待っていたかのように、うとうとと目を閉じて微睡み始めた。

「わ、もう寝ちゃってるよ!」
「あはは、早い! わー、寝顔も可愛いなあ……」
「寝てるときは大人しいんだよ。これがもう少し長く続きゃあ良いんだけどな」

抱えた腕を揺り籠のように揺らしながらロッシュが苦笑する、しかしその表情に、本気の不満などがあるはずもない。赤子の寝顔に愛おしげな視線を送る様子からは、親として当然の労苦を、胸を張って受け止めているのを見て取ることができた。

「しかし、それにしても良い手際だったな。全く危なげが無い」
「はは、ありがとよ。まあ、単なる慣れだけどな」

ロッシュは笑いながら返すが、隻腕にも関わらず育児をこなすというのは、贔屓目を抜きにしても感嘆に値することだ。戦時中には絶対にあり得なかったであろう親友の姿を目の当たりにし、ストックの目に感慨深い色が浮かぶ。

「謙遜する必要は無い。両腕揃っていても大変なのに、右腕一本でそこまで出来るのは見事なことだ」
「本当ですよ! あたしなんて、抱っこするだけでも精一杯だったのに」
「レイニーはちょっと慌てすぎだったけどね。でも凄いのは本当ですよ、ストックも言ったけど片腕だけでこれだけやってるんですから」
「おいおい、何だよ急に。おだてても何も出ねえぜ?」

口々に賛辞を寄せられ、ロッシュは戸惑いと照れの混じった苦笑を零す。しかしふと、その表情が寂しげな色を帯びた。

「まあ、今はチビだから、片腕で持ち上げるのも軽いもんだけどな」

そう言って赤子を収めた右腕をゆらゆらと揺らす、その中に収まった赤子は心地よさげに眠り続けている。

「そのうちこいつもでかくなって、腕一本じゃあ抱けなくなる日が来るんだろうなあ……」

しみじみと呟かれたその言葉に、一瞬何とも言えない沈黙が生まれ。ロッシュを除いた3人が互いに顔を見合わせ、そして同時に首を横に振った。

「いえ、それ相当先の未来だと思いますよ? むしろ何年経っても来ないかも……」
「ロッシュさん、自分の腕力忘れてるでしょ! 5歳でも10歳でも腕一本で抱き上げられますよ、絶対問題ないです」
「10が15でも変わらん気がするな。というかお前、本気を出せば俺でも持ち上げられるんじゃないか?」
「な、何だよお前ら、そんな全員揃って全力で否定しなくたって良いだろ! 後ストック、さすがにお前を持ち上げるのは無理だ、多分!」

3人がかりでぎっちりと反論され、ロッシュの顔が朱に染まる。照れたような拗ねたような表情で、代表とばかりにストックを睨み付けた。ストックも負けじと睨み返し、何故か親友同士が全力で視線をぶつけあう図式が出来上がってしまう。

「事実を言っただけだろう。というか、多分なのか」
「まあ、やってみねえと分からんからな。……良いじゃねえか、ちょっとくらいそれっぽいこと言ってみたってよ」
「その気持ちは分からんでもないが、内容を選べと言っているんだ。どうせなら、もう少し現実味のあることを言え」
「煩え、細かいこと気にしてんじゃねえ!」
「細かくは無いだろう、明らかに無理があったぞ」

時ならぬ口論に発展してしまった2人に、マルコとレイニーはどうしたものかという視線を向けた。親友同士が本気になってじゃれあい始めてしまえば、そこに割って入るのは例え妻や友人であっても難しいものだ。諦めて見守る他に道は無いが、ロッシュに抱えられたままの赤子だけはどうしても心配で、そっと様子を伺う、と。

「……あらら、これはすっかり」
「熟睡しちゃってるね」

親が頭上で大騒ぎしているというのに、腕の中の赤子は安心した様子で眠りを満喫しており。我関せずと言わんばかりのその態度に、マルコとレイニーは顔を合わせて密やかな笑いを交わす。

「よっぽど肝が据わってるんだね。どっちに似たのかな」
「意外とソニアさんだったりして? でもどっちにしろ、大物になりそうだよ」
「ほんとにね。将来が楽しみって感じ」

笑い合う2人の前で、ストックとロッシュの争いは収まる様子を見せない。双方家庭人であるとは思えない姿に、レイニーとマルコは、今度は揃って溜息を吐く。
やがて、仕事に入れないことに焦れたマルコが強制的に2人を落ち着かせるまで、口論はひたすら続いたのだった。




――――――




「あー、やっと仕事に戻れる!」

あの後、正気に戻したロッシュに書類を決裁してもらい、ようやく家を辞することが出来た。ストックとレイニーも共に暇を告げることにして、城に戻るマルコを送るため、今は3人並んで道を歩いている。

「何だかんだで時間かかっちゃったね」
「そんな、人事みたいな言い方して……誰のせいだと思ってるのさ」
「う、それは御免ってば。でも、マルだって一緒になって赤ちゃん見てたじゃない」
「それは勿論、目の前に居たら見るに決まってるよ」

あんなに可愛いんだから、と開き直って頷くマルに、レイニーも笑みを零した。

「だよね、ほんっと可愛かったよね!」
「……そうだな」
「ね、ね、ストック。うちも赤ちゃん欲しいと思わない?」
「ちょっとレイニー、そういう話は2人だけの時にしてよ」

唐突に夫婦の会話を始めそうになるレイニーを、マルコは慌てて制止した。ごめん、と一応謝ったレイニーだが、あまり反省した様子は見られない。マルコは諦めて肩を竦めると、仕返しとばかりに目を光らせた。

「でもさ、ほんとに子供が産まれたら、ちゃんと世話できる?」
「うっ、それは……」
「抱っこくらいで慌てちゃいられないよ。今からちゃんと心構えしておかないとね」

マルコの言葉に、一瞬レイニーは黙り込み。しかし女の強さか、直ぐにその目に決意を漲らせて、ぐっと拳を握りしめた。

「大丈夫。そしたら、ソニアさんに教えてもらうから」
「お、偉いなあ、前向きだ!」
「心がけは良いが、ソニアは厳しいぞ? 覚悟しておけ」
「わっ、分かってる。覚悟の上だよ」

ストックの言葉に僅かに怯むが、それでも気丈に胸を張る姿を、ストックもマルコも微笑ましく見守っている。そんな夫に、レイニーは悪戯っぽく微笑んで、ひょいと攻撃の矛先を向けた。

「でもさ、そしたらストックはロッシュさんに教えを請わないとね」
「あ、それはそうだね! 将軍、すっごい手際良かったし、きっと良い先生になってくれるよ」
「…………」

ストックは黙り込み、親友に子育てのコツを教わっている自分の姿を想像しているようだったが。しばしの沈黙の後、無言のままその眉が渋く顰められた。

「えー、何でそんなに嫌そうな顔するの!」
「……嫌、というわけではないが」
「嘘ばっかり、すっごい顔顰めてたじゃないか。まあ、ちょっと気恥ずかしいって気持ちは分かるけど」
「でも、教えてもらうならロッシュさんが一番だと思うよ? ストックの性格も良く分かってるし」
「それは……まあ、な」

怒ったような困ったような微妙な顔で呟くストックの内心を満たす感情が、単なる照れであることを知っている2人は、その無愛想にも全く臆することはなく話を振り続ける。
賑やかに、幸せな未来についての談義を続ける3人の姿を、傾き始めた太陽が照らし出していた。





セキゲツ作
2011.08.16 初出

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