キールは扉の前で、ひとつ大きく呼吸をした。別段初めて来る場所ではない、書類を届けたり逆に受け取ったり、部屋の主の予定を聞き出したりするために、これまでに何度となく訪れたことのある部屋である。しかし、仕事と関係の無い全くの個人的な用事で訪れたのはこれが初めてで、そのことにキールは僅かならぬ緊張を覚えていた。
とはいえ、立ち尽くしたままでは始まらない。改めて呼吸を整えると、控えめな強さで扉を叩き、来訪を主張した。

「キールです。ストック内政官、いらっしゃいますか」

一瞬の沈黙の後、開いている、という短い返答が室内から帰ってきた。無愛想にも聞こえる素っ気ない応答だが、それが彼の常であると知っているキールは、気にすることなく扉を開いて入室する。

「失礼します、お昼の最中すいません」
「ああ……構わないが」

ストックは執務机に座り、紅茶を飲みながら書類を読んでいるようだった。食事はもう終えたのだろう、換気のためにか窓が開かれており、流れ込む微かな風がストックの髪を揺らしている。城の中だというのに何やら妙に優雅な空気を感じて、キールは目を瞬かせた。

「何かあったのか?」
「えーっと、その、仕事の話では無いんです。お忙しいところ、個人的な用事で申し訳ないのですが」
「ああ」

言葉を切ってストックの様子を伺う、問いかけるような表情の中に、不快の色は見あたらない。その事実を確認すると、キールはほっと息を吐いた。
内政官という役職名ながら外交も担当し、同時に国内の細々とした政務も任されているストックは、軍務以外の総合担当として扱われている。当然業務も相当の量に上り、忙しさは国内でも5本の指に入るのではと言われていた。その彼の貴重な休み時間を潰すことには申し訳なさを感じる、しかしそれでも他に聞ける相手を思いつかなかったのだから仕方がない。キールは息を吸うと、改めて話を切りだした。

「実は、ストック内政官に、お伺いしたいことがありまして」
「……何だ?」
「その……ロッシュ将軍がお好きなものって、何でしょうか」

投げかけた質問は相手の予想を随分と外れていたものだったらしい、無表情で知られるストックが珍しく驚きを顔に出し、キールを見詰めている。無言の中から視線で追加の説明を要求され、キールは言葉を続けた。

「ええと、ご存知だと思いますが、もうすぐロッシュ将軍の誕生日ですよね」
「……ああ、そうだな」

キールもその情報を本人から得たわけではない、ただ彼は夫人であるソニアと誕生日が近く、友人関係である時から互いに贈り物を交換していたという逸話がある。それはロッシュがキール達新兵を率いていた時期にも続けられており、その絡みからキールや部隊の者は彼の誕生日を知ることが出来たのだ。以前は戦いの最中ということもあり、満足に祝うこともできなかったが、今は仕事こそ忙がしいものの生活を楽しむ程度の余裕はある。

「それで、普段お世話になっている御礼も兼ねまして、何かお祝いをと思ったんですが」
「ああ」
「……何を贈れば喜んで頂けるか、思いつかないんです」

がくりとキールが肩を落とす、その姿を見たストックは、不思議そうに首を傾げた。

「……何でも良いだろう、そんなもの」
「いえっ、それは勿論将軍の性格でしたら、何を贈っても気持ちを汲み取って喜んでくださるとは思いますが! ……今の、そういう意味ですよね?」

キールの解説にストックは首肯を返した、どうやら読みとった行間の内容は間違って居なかったらしい。足りなさ過ぎる言葉からきちんと意図を読み取れたことに一瞬勝利感を覚えかけるが、それは今現在の本題ではないと、思考の方向を元に戻す。

「ともかく、折角ですから、貰って良かったと思って頂ける品をお贈りしたいんです」
「……そうか。良いことだ」
「はい、有り難うございます! そんなわけで、将軍のお好きなものをご存知でしたら、教えて頂けませんか? 秘書として情けない限りですが、仕事以外で将軍の好みというのが分からなくて」
「……」
「好きな食べ物や嗜好品でも良いですし、趣味などがお有りでしたらそれでも……関係した品をお贈りできますから」

その言葉にストックは、しばしの間考え込む様子を見せた。見守るキールの前で、僅かに眉を顰め、唇を開く。

「……それは、俺よりもソニアの方が詳しいと思うが」
「ソニア先生には既にお伺いしました! でも、ちゃんとした答えが頂けなかったんですよ」

そう、問題に行き当たったキールが最初に頼ったのは、やはりロッシュの妻であるソニアだった。夫婦として生活を共にし、実際に贈り物を交換し合っているソニアに聞けば、答えが貰えると思ったのだが……しかし結果として、その目算は見事に外れてしまったことになる。

「お好きな食べ物を尋ねれば何でも好きだと、趣味はと聞けば子供と遊ぶことだと答えられてしまって」
「……成る程、確かにそれでは役に立たないな」
「はい。以前に何を贈られたのかも伺ってみたのですが、それは照れていらっしゃるのか、はぐらかされてしまいました」

キールの質問に恥じらいを浮かべるソニアは大変美しく、かつて抱いていた淡い憧れがキールの胸に甘く蘇ったものだったが、それはそれとして今抱えている疑問の答えにはならない。それで次善の策として、ストックの元へとやってきたのだ。
しかし今度は大丈夫と思った相手も、あまり捗々しい反応を返してはくれないようだった。難しい顔を崩さぬまま、困ったような気配を漂わせて考え込むばかりである。

「……趣味に関しては、全く見当が付かないな」
「ストック内政官でも、ですか」
「大体が戦いの中でしか時間を過ごしていなかったからな。身体を動かすのは好んだと思うが、それは趣味とは言えないだろう」
「そうですね……鍛錬は仕事のうちですから、趣味というのは違いますよね」
「ああ」
「それなら、お好きな酒の銘柄などはご存知ですか? たまにご一緒に飲んだりなさっていますよね」
「…………」

キールの問いにストックはまた眉を顰め、しばらくの間沈黙を保っていたが。やがて溜息をひとつ吐き出し、分からない、と呟いた。

「……何でも飲む、としか言えない。銘柄どころか、酒の種類にも拘りなど無いように思える」
「うう、そうですか……」
「そもそもあいつは、酒自体さほど好きでは無いはずだ」
「え、そうなんですか? でも宴会などでは普通に飲んでいらっしゃいますよ」
「場に合わせているだけだ。一人で飲んでいるのを見たことがあるか?」
「……ありませんね、確かに」
「…………」
「た、食べ物に関しては」
「同じだな、出されたものを食べるという態度だ。特定の料理や食材を好んだ覚えは無い」
「…………」
「…………」

手詰まり感の漂う沈黙が、2人の間に落ちる。

「……ストック内政官もご存知ないですか……」

キールの言葉に、ストックの表情が微かに悔しげな色を帯びた。しかし知らないのは事実なのだろう、言い返すことはせず、無言のまま眉を顰める。

「いっそ、本人に聞いてみたらどうだ?」
「それは駄目です! こっそり用意して驚かせて差し上げたいんですから」
「そうか……」
「はい! ……でも、ストック内政官で無理なら、分かる人なんて居ないですよね……」

キールが力無く視線を落とす、私事で最も親しい相手であるストックと、仕事で最も深く関わっているキールが知らないことなど、他の人間に聞いたところで判明するとは思えない。しかしストックは何かを思いついた様子で、ふっと顔を上げた。

「……いや、まだだ」
「え?」
「まだ聞くべき相手は残っている」

そう言って執務机から立ち上がると、キールの横をすり抜けて扉に向かった。

「え、あの、ストック内政官?」
「……どうした」
「いえ、どうしたと言われても」
「行くんだろう?」
「何処に……ってそうか、ロッシュ将軍のことをご存知そうな相手のところにですか?」

何故態々確かめるのかと言いたげな表情で、ストックが首肯を返す。

「あの、ご一緒していただけるんでか?」
「当たり前だろう。……俺も、気になる」

その言葉にキールは納得して頷いた、成る程確かに、先程ストックは悔しそうな表情を浮かべていた。動きは僅かだが、無表情が常の男が表に出す程なのだから、実際は随分と強い感情だったに違いない。キールが抱える悩みは別として、自分もロッシュの好みを探ってみたくなったのだろう。

「でも、もう昼の休みは終わってしまいますが……」
「構わない」
「…………」

迷い無く言い切られてしまえば、キールも自分の上司というわけでは無いのだから、それ以上口出しをすることはできない。彼の秘書には、同じ職に就く者として同情を覚えないこともないが、今のストックを止める原動力になるほどの感情では無かった。心の中でストックの秘書に謝りながら、部屋を出たストックの後を追って歩き始める。

「お忙しいところなのに、申し訳ありませんっ! ところで一体、どなたを訪ねるおつもりなんですか?」

それは純粋な疑問だった、ロッシュは人当たりが良いから誰とでも親しい雰囲気にはなるが、その実滅多なことで他人に懐を明け渡したりしない。仕事上の知り合いはそれこそ掃いて捨てるほど居る、しかし親しい友人と言えるのは、目の前のストックくらいしか居なかったと思うのだが。首を傾げるキールに、ストックは振り向かぬまま、少ない言葉で説明を投げてくる。

「付き合いの長い相手ならば、もう少し情報を持っているかもしれない」
「それは確かにそうですね。ということは、ご一緒の隊だった方ですか?」
「ああ、いや正確には違うか。上官だからな」
「上官……ですか?」
「出会った経緯は知らないが、俺と会うより以前からの知り合いであることは間違いないはずだ」

喋りながらも、ストックは迷いのない足取りで階段を上り、3階の奥へと進んでいく。その方向とストックの言葉から、ふとある者を思いだし、キールの顔色が一気に悪くなった。

「え、その相手って、ひょっとして……」
「着いたぞ」
「……やっぱり、首相のお部屋じゃないですか……!」

ストックが立ち止まったのは、首相であるラウルが使っている執務室の前だった。

「ああ、そうだが」
「いやそんな、当然だろうみたいな顔で言わないでください、一応国家元首ですよ!」

その業務量と言ったらストックを簡単に越える、間違いなく現在のアリステルで最も多忙な人間の一人だ。そんな相手を自分の私的な質問で煩わせるわけにはいかない、キールは慌てて引き返すことを訴えるが、ストックにそれを聞き入れる様子は全く無かった。むしろキールの焦りが理解できないのか、不思議そうな表情を浮かべているくらいだ。

「気にするな、そんなことに煩い相手じゃない」
「そうかもしれませんが、でも……」
「……大丈夫だ、何かあったら責任は俺が取る」
「そういう問題ではなく、ってああ、ストック内政官!」

それ以上の議論を交わすのが面倒になったのか、ストックはキールの言葉に応えず、扉を叩いた。そして中からの応えを待たずして扉を開いてしまう。

「どうぞ……って、随分とせっかちだね」
「邪魔するぞ」
「ああ、何だか騒がしいと思ったら、ストックだったのかい。それにキールも」

幸いにもと言うべきか、ラウルは会議に出ることもなく、在室で業務を片づけている最中だった。ちらりと訪問……あるいは侵入してきた2人に目を遣ったが、一瞬後にそれは手元の書類に戻されている。その表情は珍しく厳しく、言葉を発している間も、ペンを止めることはない。

「で、何の件かな? ラズヴィル丘陵の橋の修繕なら、もう書類は回したよ。止まっているとしたら経理か人事じゃないかな」
「いや、そうじゃない」
「それなら裁きの断崖以西の街道警備の件かい? あれはシグナス側と軍との調整が必要だから、少し待ってくれと伝えたはずだけど」
「それも違う」
「となると……他にあったかな、君関係で急ぎなのはそれくらいだったと思うんだけどね」
「……仕事の話で来たわけじゃないんだが」

ストックの言葉に、ラウルがふっと顔を上げた。なんだ、という呟きが口から零れる。

「それならそうと、早く言ってくれよ。てっきり何か急ぎの案件を持ち込まれるのかと思ったじゃないか」

そう言いながらいそいそ立ち上がると、室内に置かれた応接用のソファセットへと移動した。先程まで厳しかった表情も、見ればすっかり柔らかく緩んでいる。

「じゃ、こっちへおいで。紅茶くらいは出すよ」
「え、えーっとあの……」
「…………」

だから言っただろう、と言いたげな表情で、ストックが肩を竦めた。余裕たっぷりの仕草だが、キールの方はそういうわけにもいかない。横から投げられる秘書の厳しい視線を、否が応でも感じてしまい、恐怖と緊張で身を堅くするばかりだ。

「首相」
「何だい、休憩だよ休憩。昼休みも取らずに仕事していたんだから、少しくらい良いじゃないか」
「しかし、休んでいる間は業務は進みませんよ」
「分かっているよ、でも少し休んだほうが能率が上がるさ。そろそろ集中力の限界だ」
「まあ……そうおっしゃるなら、止めはいたしませんが」

相変わらず話の節々に冷気と棘を潜ませた2人の会話は、キールの背にうそ寒い感覚を走らせる。これで互いに深い信頼で結ばれているというのだから、頭の良い人間というのは複雑なものだ。根性と忍耐力に自信はあっても、頭の程度に関しては並としか言えないキールにとっては、理解し難い世界である。
ともかく業務を中断して話に入る許可は出たようで、ラウルは改めて、2人を応接セットに招いた。

「…………」
「すいません……失礼します」

ストックは遠慮する様子も無く堂々と招きに応じているが、キールの方はさすがにそこまで厚顔になれない。しかしここまできて引くこともむしろ難しく、恐るおそるストックに続いて、ソファに腰を下ろした。

「で、何の話で来たんだい? 珍しい組み合わせなだけに、用件の見当が付かないんだけど」
「ロッシュの好みを知っているか?」

前置きの説明を完全に省いて繰り出された本題に、ラウルは一瞬目を見開いた。それだけではさすがに情報が不足していると感じたのか、ストックが説明を付け加える。

「キールが、ロッシュの誕生日に贈り物を用意したいらしい」
「ちょ、ちょっとストック内政官!」
「本人に知られなければ良いんだろう?」
「それはそうなんですけど……」
「成る程、そういうことか」

ラウルが納得した様子で頷く、さすがに明晰な頭脳を持つだけあり、これだけの説明で大体事情を察したらしい。焦るキールに、微笑ましいものを見る視線を向ける。

「大丈夫、ロッシュ本人には察されないようにするから、安心しなさい」
「あ、はいっ! 有り難うございます……!」
「上司の誕生日に贈り物か。ロッシュも良い部下を持ったね」
「で、どうなんだ。知っているのか」
「ロッシュの好み、か」

にこにこと笑顔を浮かべていたラウルだったが、ストックが重ねて問いを投げかけると、それを引っ込めて思考を巡らせ始めた。

「態々ストックや僕に聞いているということは、心の篭もったものなら何でも喜ぶ……なんて答えを期待しているわけじゃないよね」
「はい、将軍ご自身がお好きなものをお贈りしたいと思いまして」
「うん、良い心がけだ。……とはいえ、中々難しい質問でもあるなあ」

秘書が用意した紅茶を早速口に運びながら、ラウルはひとつ息を吐く。ストックが表情を曇らせるのが、キールの視界の端に見えた。

「あんたでも分からないか」
「基本的に仕事でしか繋がりが無いからね。個人的な好みまでは中々聞く機会が無いんだ」
「やっぱり、そうですよね……」
「ソニアさんには当たってみたのかい?」
「ああ、だが有効な答えが得られなかったらしい」
「成る程。……彼女以外では、ここに居る人間が最も彼と親しいのは、確かなんだけどな」

ラウルの言葉に、ストックとキールが揃って頷く。今ここにはロッシュの上司と親友と秘書が揃っているのだ、大体のことが分かってしかるべきだし、実際キールも仕事に関係する内容であれば殆どの質問に答える自信がある。しかしそれでも分からないことがあり、しかもそれが「好きなもの」などという単純至極な情報だとは。
一同の間に重い沈黙が落ちる、それを破ったのはやはりラウルだった。

「少し考えてみようか。お互いが持っている情報を並べてみれば、必要なものが分かるかもしれない」
「そうですね。申し訳有りません、お2人ともお忙しいところを……」
「気にしないでくれ、僕も気になってきたから」

先程のストックと同じようなことを言うと、ラウルは指を組み、思考と視線を宙に巡らせた。

「そうだね、まず趣味に関してだけど……これは、有るという話すら聞いたことがないなあ」
「ああ。仕事と家の往復で一日が終わっているような男だ」
「それはストック内政官も大差無いと思われますが……」
「はは、確かに。キール、ロッシュが仕事の後で真っ直ぐ家に帰らない、ということは有るかい?」

問いかけられ、キールは記憶の頁を丁寧に探った。秘書としてロッシュの予定は殆ど頭に入っているが、見事に仕事と家庭以外の色が存在しない。纏まった時間が必要な、例えば運動競技などは論外としても、買い物やら何かの見物やらに割いている時間すら見当たらないのだ。唯一、仕事にも家庭にも属さない予定があるとすれば。

「あ、ひとつだけ、偶のことですが」
「あるのか?」
「ストック内政官とお2人で飲む、と言って出かけられることがあります」
「…………」
「あー、そう来たか。まあそれも、彼の趣味と言って良いかもしれないな」

不機嫌なような照れたような微妙な仏頂面を見せるストックに、ラウルが堪えきれず笑いを零す。

「ふむ、それなら酒を贈るというのはどうだい?」
「……まあ、それも選択肢のひとつだが」
「先程ストック内政官ともお話したのですが、好みの酒の種類や銘柄というものが分からないんです。酒、というだけではあまりに漠然としすぎていて」
「そうか、確かに彼は、さほど酒好きでは無いしね」
「はい。勿論、お贈りすれば喜んでくださるでしょうし、飲んでもくださるでしょうが」
「好きなものを贈りたい、という趣旨には沿わないか。ふむ……そうだな、酒が無いなら逆に甘いものはどうだろう?」

ラウルの提案、というか思い付きに対して、ストックが難しい表情で否定の意を示す。

「酒と同じだな、嫌いなわけではないが、特別好んで求めることもない。あれば食べる、という程度だ」
「そうですね、自分の記憶でもお菓子を好まれた覚えはありません。どなたかに貰った時などに口にされる程度です」
「ふーむ、やっぱり駄目か」

ラウルが溜息を吐く、それにつられるようにしてキールも肩を落とし、息を吐いた。何の気無しに思いついたことだが、まさかここまで大事になり、且つこれだけの人物が集まっても答えが見付けられない難問だったとは。キール自身も秘書として勤めてきて、ロッシュのことをかなり把握している自信はあった――それだけに、これ程考えて好みひとつ分からないというのは、相当に矜持を傷つけられるものがある。それはストックやラウルも同じようで、2人とも常には見られないほど真剣な表情を浮かべて考えを巡らせていた。

「他の嗜好品を好むという話も、聞かないね」
「はい、少なくとも自分が知っている限りでは全く無いです」
「同じく、だな。……食事の好みは、分かる奴は居るか?」
「うーん、軍人だからかな、口に入るものに拘っている姿は見たことがないよ」
「行軍中は特に、選ぶ余地すら無い場合が殆どだからな。作戦行動に従事している割合が減ったのは最近だから……キール、お前が一番知っているんじゃないのか?」
「……すいません、思い当たる節がありません……」

確かに仕事中に食事を摂ることになれば、キールも一緒に卓を囲むことは少なからずある――というか、どちらかが外出したりしていなければ、かなりの確率でそうなる。キールはロッシュを慕っているし、ロッシュは好意を持たれれば無碍には扱わない、それに仕事の都合が加われば必然過ごす時間は増えるものだ。しかしその時に交わす会話といったら、当然だが業務に関することが殆どで、食べている品に関して談義したことなど皆無である。話に出ないなら状況証拠から探ってみようと、選んでいる料理に偏りが無いかと考えてみても、やはり一貫した嗜好は見当たらない。強いて言うなら時間のかかる料理は避けているようだが、それは多忙で食事に長い時間が割けない故のことだろう。
がくりと落ち込んだキールの表情から、望みが無いことを察したのか、ラウルは質問の矛先をストックへと向ける。

「ストック、君はどうなんだい? 確かロッシュの家と一緒に食事することも多いって聞いたけど」

ストックが妻のレイニーと住む家は、ロッシュの住居の隣家に当たる。夫婦共に国の要職に就いているロッシュ夫妻を助けるため、仕事を辞めて家庭に入ったレイニーが子供を預かり、ついでにそのまま2家族で食卓を囲むことがよく有るのだそうだ。僅かな期待を込めて視線を送るが、ストックの厳しい表情が変わることはなく、無言のまま首が横に振られる。

「……出されたものは食べている。内容に意見を言うのを見たことがない」
「この料理が美味しい、とかそういうことも言わないのかい?」
「ああ。代わりに文句を付けることもないが」
「……それは、作る側としては張り合いが無いんじゃないかなあ」
「行動で示しているから、構わないようだぞ」

つまり、よく食べるから作り甲斐がある、ということだろう。面倒見の良いレイニーのこと、張り切って大量の料理を作っているのが目に浮かぶようである。家族同士の関係も円満なようで結構なことだが、目下の議論を収束させる役には立たない情報だ。

「うう……本当に、ここまで考えても分からないなんて……」

キールが頭を抱えて呻く、ラウルもストックも、さすがに姿勢を崩すことはないが、眉根に皺を寄せたまま言葉を途切れさせていた。沈黙が部屋に落ち、その中で秘書がペンを走らせる微かな音だけが響いている。
探るべき可能性を見失い、キールは大きく嘆息した。多忙な2人の時間を無為に使ってしまったことに、酷い罪悪感を覚える。

「すいませんでした、自分の私事で時間を割いて頂いて……」

ストックは相変わらず厳しい顔で虚空を睨み付けており、ラウルも仕事中以外では見せたことが無いような真剣な表情を浮かべているが、これ以上策も無く考えを巡らせても、それこそ時間の浪費にしかならない。
重い気持ちで場を閉めようとキールが口を開く――その喉から発せられた声に被さるように、室内に、扉を叩く音が響いた。

「……どうぞ、開いているよ」
「はい、失礼します」

ラウルの声に応えて扉が開かれる、そこから現れた声と姿に、室内全員の目が丸くなった。今この時まで3人がかりで頭を悩ませていた問題の対象、ロッシュが入り口に立ち、こちらもまた驚いた顔を浮かべている。

「ん、ストック、それにキールか。珍しい取り合わせだな、何か問題でもあったのか」
「丁度良かったロッシュ、聞きたいことがあるんだよ」
「はい? 何でしょうか」

ラウルの目がきらりと光り、ロッシュを見据えた。上司から呼ばれたロッシュが身体の向きを変え、ラウルに向かい合う。

「君、何か好きなこととかあるかい?」
「しゅ、首相!?」

あまりに直裁な質問に、キールが慌てて制止の声を上げた。しかしラウルは心配するなとばかりに目配せを送ってくる、おまけに隣のストックも宥めるようにキールの肩に手をかけ、動きを封じてきた。ロッシュは彼らの密やかなやりとりに気付く様子はなく、ただ唐突な質問に首を傾げている。

「好きなこと? いきなり何ですか、そりゃ」
「今皆で考えていたんだけどね、思いつかないんだよ。だから直接聞こうと思って」
「はぁ……? え、何でいきなりそんな」
「そうだなあ、例えば何か趣味はあるかい?」

ロッシュの側から投げられる問いは完全に封殺し、自分の問いかけを重ねるラウルに、キールは何ともいえない心持ちになる。政治家というのは物凄く頭の良い駆け引きを行っているように思えるが、蓋を開けてしまえば意外単純な技術なのかもしれない。特にロッシュのように、話術に慣れない人間が相手であれば、その程度であっても効果はてき面だ。

「は、えーっと趣味ですか? いえ、特には何も」
「……無いのか? 全く何ひとつ?」
「何だよストック、お前まで。まあ強いていうなら、今はガキ……子供と遊ぶのが趣味みたいなもんですかね」

ある意味において予想通りの応えに、3人は顔を見合わせて溜息を吐いた。

「な、何ですか一体!」
「いや、うん、それは確かに非常に素晴らしい時間だとは思うんだけどね。もっと他に、君個人の趣味みたいなものは無いのかい?」
「そうは言いましてもね、仕事が忙しすぎて、自分のことに使う時間なんて取れたもんじゃありませんや」
「……まあ、じゃあ趣味のことは置いておくとして」

ラウルが質問を切り替えたのは、話が触れたくない部分に流れかけたのを感じてだろうか。ストックが冷たい視線をラウルの横顔に注いでいるようにも思えたが、ラウルは気にした様子も無く話を続けているから、キールの気のせいだったのかもしれない。

「好きな酒とか食べ物とか、そういうものはどうかな」
「……そんなこといきなり言われても、直ぐには思い付きませんよ」
「いえ、普通好物の一つや二つ、ぱっと出てくると思いますが……」
「うーむ、そういうもんか? ってか本当に、急に何で好みがどうとかって話になるんですか」
「そりゃ、君の好みがさっぱり分からないからだよ。良いかい、今ここに居るのは、誰と誰と誰だと思う?」
「……首相と、ストックと、キールですよね」
「何で自分が最後なんですか……」
「階級順だろう、細かいことは気にするな」
「そう、君の上司と、親友と、秘書だ。これだけの面々が揃っていて、君の趣味も、好むものも分からないんだ。おかしいじゃないか」
「そう言われましても……」

常に無い勢いで上司に詰め寄られ、ロッシュはすっかり困惑してしまっているようだった。助けを期待してストックに視線を投げるが、今回ばかりは彼もラウルと共に問い詰める側だ。睨み付けんばかりの目付きで見据えられ、苦り切った様子で眉を顰める。

「おい、何なんだよ一体。そんな顔される覚えはねえぞ」
「……俺とお前は親友だな?」
「へ? ああ、そうだな」
「ならば、好物のひとつも知らないのはおかしいだろう」
「そうか? 話に出なけりゃ知らなくても当然だろ」
「全く話に出ないというのも、妙な話だ」
「んなことねえだろ、戦時中だったんだし。大体俺だって、お前の好物なんざ分からねえぞ」
「……そうだったか?」
「ああ、んなこと話したことは無かったしな」
「では覚えておけ、俺の好物はコルネパンだ」
「コルネパン……ああ、何か最近町で売ってた気がするが」
「コルネ村発祥だという甘いパンだね。グランオルグ領との交易が始まってから、アリステルでも売り出し始めたんだ」
「そう、それだ。……何故か知らないが、俺が買いにいくと必ず売り切れている」
「随分人気だし、売り出す数も少ないみたいだからねえ」
「はー、そうなんですか。分かった、今度見かけたら買ってきてやるよ」
「ああ、頼む」
「ふうん、ストックは意外と甘い物が好きなんだねえ」
「いや、あのちょっと待ってください」

何やら話が纏まってしまいそうな気配に、キールが慌てて制止をかける。

「それはそれで大変貴重な情報です、自分も今度見かけたら絶対に購入します。ですが今の本題は、ロッシュ将軍の好みについてでしょう」
「…………ああ、その通りだ」
「分かってるって。勿論忘れちゃいないよ」
「忘れてくださってても良かったんですがね」

逃れられると思った話題を蒸し返され、ロッシュが溜息を吐く。その態度に、ラウルは些か呆れた様子で眉を顰めた。

「ロッシュ、どうしてそんなに話すのを嫌がるんだい。弱点というわけじゃなし、隠すようなことじゃ無いと思うけど」
「そういうつもりじゃありませんよ、ただ本当に思い付かないんです」
「だが、それは不自然だろう」
「不自然って言われてもな。無いもんは無いんだから、仕方ないだろ」
「全く何も思い当たらないんですか? よく考えてみれば、ひとつくらい思い浮かんだりしませんか?」
「そうだよ、良いからちょっと考えてみてくれ」
「何度言われても、変わりませんて……」

戦場であれば勇猛さに並ぶものの無いロッシュだが、この手の言い合いは書類仕事と同じくらいに苦手としている。特に相手が上司に親友、ついでに秘書とあれば尚更だ。困り果てた様子で逃げ道を探す、しかしロッシュのことをよく知る3人が、簡単に逃亡を許すはずもなく。追いつめられたロッシュの顔に浮かぶ困惑がいよいよ深くなった、その時。

「――…………」

トーン……と、高く鋭い打音が、執務室に響きわたった。
視線が、一斉に音の源に集まる。4人、計8つの視線が浴びせられる中、ラウルの秘書は手にした書類の端を揃えるため、それを机の上に落とす――紙の束を落としただけとは思えない、異様によく通る音が、沈黙の中を切り割いて広がっていく。

「…………首相」
「……はい」
「こちらの処理を、お願いします」

そして揃えた書類を、ラウルに向かって差し出す。その口調はけして荒いものではない、しかし極寒の空気を纏う声は、けして抗うことの出来ない何か恐ろしい力をはらんでいた。一国の元首といえどそれに逆らうことは出来ず、ラウルは首に縄を付けられたかのように大人しく書類を受け取り、自分の執務机に戻る。それを見届けた秘書は、ぐるりと首を巡らせて、ストックの目をひたと見据えた。

「ストック内政官」
「…………」
「そろそろお仕事に戻られては如何ですか?」
「……ああ」

促されるままに、ストックがソファを立つ。その顔は相変わらず無表情のままだが、慣れたものが見ればそこに嫌な緊張と、僅かながらも冷や汗が浮かんでいるのが見て取れただろう。そんなストックに恐怖を煽られ、何もしないうちから身を震わせていたキールに、秘書はやや呆れた様子で声をかけた。

「キールさん」
「はいぃっ!!」
「秘書が上司の仕事を阻害するのは、職分に反すると思いませんか?」
「はいっ……も、申し訳ありません!!」
「私に謝られても、困るのですがね」

言いながら嘆息した秘書の視線が、ちらりとロッシュに向く。至近に居るキールには、逞しい体躯が一瞬だけ震えるのが分かった。

「ロッシュ将軍」
「……はい」
「首相がご迷惑をおかけしました。お忙しい中、仕事を邪魔してしまいまして、申し訳ありません」
「あ、いえ……んなことは」
「何かご用事がお有りだったのでしょう?」
「ああ、はい。これ、お願いします」

ロッシュが、ずっと抱えたままだった書類の束を秘書に渡す。普段であればキールが届けにいくものだが、昼休みが終わっても部屋に戻らなかったため、ロッシュが自分で持ってきたのだろう。秘書はひとつ頷くとそれを受け取り、書類入れに納める。そしてそれ以上は何を言うこともなく、ペンを取って書類に向かってしまった。立ち上がったままの3人は視線を合わせ、無言の中で密やかな会話を交わす。

「えーっと、じゃあ……失礼しました」

様子を伺いつつ、ラウルに向かってロッシュが一礼した。ラウルは未だ未練が残っているようだったが、それでもここで引き留める蛮勇は持ち合わせていないらしい。ひらりと手を振って、送り出す意志を表している。

「で、では自分もこれで」
「…………」
「はい。お疲れさまでした」

キールとストックも、ロッシュに続いて退室の意を示す。にこやかに微笑む秘書を背にして、3人は逃げるようにラウルの執務室を辞した。
――重い音を立てて扉が閉まる、その前で3人は何となく顔を見合わせ、次いで浮かんだ気まずい空気に耐えられずに視線を外す。落ち着いてしまった後の精神には、先程までの狂騒は、ただ恥ずかしいばかりの記憶だ。

「えーっと……では、自分は先に戻らせて頂きますので」
「ああ、そうだな」
「休み時間を超過してしまって、申し訳ありませんでした。将軍はごゆっくりなさっていてください!」

身体を二つに折らんばかりの礼をすると、キールは踵を返して、廊下を走り抜けていった。残されたストックとロッシュは、その後ろ姿を呆然と見送る。

「ゆっくり、って言われてもなあ」

ぼそりと呟いて、ロッシュがストックをちらりと見る。目が合った2人はどちらからともなく苦笑を零し、そのまま廊下を歩き始めた。

「…………」
「で、結局何だったんだよ、この騒ぎは」
「……俺にもよく分からん」

深く嘆息するストックに、ロッシュもそれ以上追求することはせず、親友の後に続いて大きく息を吐き。まあいいけどな、と多少疲れた様子で言うと、歩きながらぐいと身体を伸ばした。

「……すまんな」
「ん、何がだ?」
「いや……」

歯切れ悪く呟きを零すストックを、ロッシュはしばらく黙ったまま眺めていたが。やがてふと、前を向いて唇を開いた。

「ああ、そういや」
「?」
「さっきのな、好物がどうってやつ」
「……ああ」
「一個思い付いたぜ」
「…………本当か? 何だ?」
「いや、何ってほど大したもんじゃ無いが……紅茶は好きだな」

実に一般的な、殆ど毎日のように口にしている品を上げられ、ストックが瞼を瞬かせる。その様子を察したロッシュは、照れ隠しにか苦笑を混じらせつつも、言葉を続けた。

「あれだ、皆で集まって飲んだりしただろ? 何の時だっけな、レイニーとかマルコとか、後はガフカとアトも居て」
「…………」
「ああいう賑やかなのは、楽しいもんだからな。だから紅茶自体も好きに……」

そこまで言って、ふとロッシュが首を傾げた。

「ん、でもそんな面子で集まったことなんてあったか? 何か変な取り合わせだが」
「……いや、そんなことはない」

ストックの表情が緩む、その視線は、思いがけなく再会した過去を懐かしむ、柔らかい色を宿していた。その理由はロッシュには分からなかったはずだ、しかし無いはずの記憶の中から何かを感じたのかもしれない。問うための言葉を重ねることはせず、ただ黙って歩を進めている。

「では、今度紅茶を淹れよう」
「あ、何でだ?」
「……何故、というほどの理由は無いが。好きなんだろう?」
「まあ、そうだな。んじゃ、コルネパンが買えたら、その時に頼むぜ」
「ああ。楽しみにしている」

ふ、と視線が合わさり、双方に笑みが浮かぶ。
――それ以上はお互い何を語るでもなく、仕事に戻るために互いの執務室へと歩いていった。





それからしばらく後、ロッシュの誕生日当日。
秘書から彼に贈られたのは、書きやすいペンと文鎮だったらしい。
書類仕事がやりやすくなると、ロッシュ当人は大変喜んでいたが、秘書の胸には未だ一抹の悔しさが残っていたという。




セキゲツ作
2011.07.23 初出

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