「――聞いたよ、ロッシュ大尉だろう?」
「お前も知ってたか。な、ほんとだと思うか」

ストックがその声を耳にしたのは、地下から階段を上っている時のことだった。
ソニアに呼ばれて医療エリアを訪れたが、当の本人が部屋に居らず、時間を置いて出直そうかと思った矢先のことだ。金属壁に反響する話の中に親友の名を聞き取り、ストックは首を傾げた。階段を上りきった先で話し手を探すが、見える範囲にその姿は見られない。ならば隣接している訓練室に繋がる廊下に居るのだろう、ストックは会話を聞くともなしに耳に入れながら、通路の端まで歩いて立ち止まった。ちらりと先を覗けば、思った通り2人の兵士が立ち話をしている。

「ああ、どうも本当らしいぜ。実際見たって奴が居るらしいし、医療部でも噂になってるから、間違いないだろ」
「うわー、マジかよ! ショックだなあ、俺ソニア先生のファンだったのに」
「俺もだよ、治療に行くの楽しみだったのになあ」
「あのソニア先生がもう人のものだなんて、信じたくない……!」

どうやら彼らが話しているのは、ストックの親友であるソニアとロッシュのことらしいかった。先日晴れて恋仲となった2人だが、その際の告白劇が白昼のアリステル城で行われていたため、すっかり話が広がってしまったようだ。直接の関わりは無いであろう者達までも彼らの噂をしていることは多少の不思議を感じるが、ソニアもロッシュも軍の中ではそれなりに有名な存在だ。その2人の話とあれば暇つぶしの雑談に上ることもあるのだろう、そう納得して歩き出そうとしていたストックの足が、続けられた言葉を聞いた途端にぴたりと止まった。

「だけど先生も趣味悪いよな、あんな熊みたいな、しかもカタワの男とさ」
「本当だよな! いくら最近名前が売れてるからって……先生なら、他にもっと良い男がいくらでもいるだろうに」
「まあでも、ソニア先生は優しいからな。告白されて断れなかったんじゃないか?」
「あー、それはあるかもな!」

交わされる会話の内容に、ストックの眉が顰められていく。無責任な噂話と言ってしまえばそれまでだが、当事者2人の真摯な想いを知っているストックにしてみれば、軽く聞き流せるものではない。
しかしそう思ったところで交わされる会話を止められるはずもなく、男達はストックの存在など構わぬまま、下世話な放言を続けている。

「ソニア先生は誰にでも優しいからなあ。なんつーか博愛の人って感じ?」
「そうそう、だから強引に迫られて、とか。むしろ不具だから同情して、とか。いかにもありそうじゃないか」
「だな、ってかそれなら俺でも行けたかも……畜生、挑戦してみれば良かった!」
「うん、もしかしたら可能性あったかもしれないんだよな。くっそ、惜しいことしたぜ」

それは無い、とストックは内心冷たく断じた。想いを告げたのはロッシュからだが、ソニアの方でも彼をずっと慕っていたのだから、他の男に何を言われても彼女にとっては雑音でしか無かったことだろう。もっともストックがそのことを知ったのも、ロッシュの口から告白の結果を聞かされた際だったのだが――それを聞いた時には、ロッシュの背中を押す決断をしたことを、心底から安堵したものだった。あの時選択を間違っていたら、一体どんな未来が待っていたものか分からない。

「あーほんと、上手くやったもんだよな!」
「だよなあ、繋がりっていっても、仕事で関わり合いがあるだってだけだろ。身の程知らずにも程があるって、ちょっと考えりゃ分かるだろうにな」
「あの顔とあの身体で、よくソニア先生にアタックなんてできたもんだよなあ。いくらソニア先生が優しいったってさ」
「当たって砕けろってとこじゃないか? そのまま砕けちまえば良かったのにな」

ソニアは医療フロアの中心人物で、その美貌と優しさから兵たちの間では憧れの対象となっている。そのソニアを射止めて恋人同士になったとあって、ロッシュには羨望と妬みの入り交じった、批判めいた感情が向けられているらしかった。ロッシュも基本的に人に好かれる男ではあるのだが、直接関わったことのない者にまでその求心力は及ばない。噂だけを聞いた者としてはどうしても、憧れの女性を奪われた遣る瀬の無い怒りを、ロッシュに対して抱いてしまうのだろう。たまたまストックが聞いたのがこの時だったというだけで、同様の会話は軍の中で何度も交わされていたに違いない。

「あーあ、悔しいなあ。やっぱ世の中やったもん勝ちか?」
「そうだな、ソニア先生だって女だし。押し倒しちまえばこっちのもん、ってか」
「おいおい、ヤるってそういう意味じゃねえよ」

下品な笑い声が廊下に響き、ストックはいよいよ視線を冷たくする。

「でも実際、あんだけでかけりゃ夜だって大変なんじゃねえか? ソニア先生、絶対処女だろ」
「言えてるな! 大体あの片腕で、ちゃんとできるのかね」
「そうだよな、片手で……こう……こうだろ?」
「おい馬鹿、やめろって!」
「ははは、でもやっぱり相当やり辛いぜ、腕一本じゃあ」
「だな、ソニア先生大丈夫かな? ちゃんと満足させてもらってるのかね」
「一人よがりで終わってるんじゃないだろうなあ、そうだとしたら許せん!」
「全くだな、俺のソニア先生に! 女なんてなあ、でかいだけでよがってくれるほど甘くないんだよ!」

ストックは耐えかねてひとつ息を吐き、彼らの側に行こうと足を踏み出した。通り過ぎるだけでいい、誰か他の者の耳があればあんな話を続けたりはしないだろう。それで囁かれる噂が無くなるわけではないが、この場だけであっても、これ以上話を続けさせたくなかった。
抑えることを止めた足音を廊下に響かせ、己の姿を兵達に誇示しようと訓練室に足を向ける。しかしそれが効果を表すよりも前に。

「あら、ストック。どうしたんですか?」

現れた姿と声に、その場の時間が一瞬止まった。いつも通り柔らかな笑みを浮かべたソニアは、凍り付いた空気を気にする様子も無く、ストックに歩み寄る。

「ごめんなさい、呼んだのに待たせてしまいましたね。戻ってしまうところでしたか?」
「……ああ、いや……大丈夫だ」
「そう、良かった。訓練室には、何か用事が?」

ソニアが廊下の奥へと目を向ける、その先には下世話な噂話の当人を前にして、硬直する他無くなった男が2人立ち尽くしていた。

「……いや、後で構わない」
「そうですか。それでは、先に医務室に行きましょう」

言いながらソニアは、はっきりと兵達に視線を投げる。――そして、花の咲くような美しい笑顔を、彼らに向けてみせた。

「……あ、あの……」
「さ、ストック」

それ以上は何も言わず、何か言いたげな彼らの言葉に耳を傾けることもなく。ソニアはきっぱりと踵を返すと、医療エリアへ向かって歩きだした。ストックも、最後に一瞬だけ視線を巡らせると、彼女の後に付いて行くために足を踏み出す。
――最後に見た2人の男は、どちらも酷く情けない顔をしていた。



――――――



「待たせてしまって、すいませんでした」

医療フロア内の病室に戻ると、ストックはソニアに促されて椅子に腰を下ろした。ソニアは手にした荷物から薬を取り出し、棚に収めている。

「気にするな。待つというほどの時間は経っていない」
「そう、それなら良かった」
「…………」
「今日は、また長期の任務にでる前に、先日の怪我の具合を検査させてもらおうと思って」

朗らかなソニアの様子に陰りは見られない、下世話な噂は耳に入っていなかったのかとストックは一瞬考える。しかしそれを打ち消すかのように、ソニアは少しだけ首を傾げて、口を開いた。

「驚きましたか?」
「……何がだ」
「先程の、兵士がしていた話」
「………………」

変わらぬ微笑で問いかけられ、ストックは何とも言えずに黙り込む。ソニアは検査用の医療器具を棚から取り出しながら、少しだけ申し訳なさそうな表情を浮かべた。

「やっぱり、聞いていたんですね。……まあ、あのタイミングですから、聞いていないはずは無いと思いましたが」
「……お前こそ。聞いていたのか」
「途中からですけどね」

何事も無いかの様子で言う、彼女の顔をストックは見詰める。

「良いのか」
「何がですか?」
「あんなことを言われて」
「だって、ただの噂ですから」

手慣れた様子でストックの身体を看つつ、ソニアはふわりと微笑んだ。その姿には本当に何の屈託も見られず、ストックは困惑して首を傾げる。

「だが、酷い話だ」
「怒ってくれるんですね」
「当たり前だろう。……ロッシュやお前のことを知りもしないのに、勝手なことを」
「ふふ……有り難う、ストック」

今はもう形ばかりの包帯を外し、傷の具合を丹念に確かめる。視線は身体に注がれているから目を合わせてはいないが、そこに優しい色が浮かんでいることは見えずとも分かる。

「でもね、本当に良いんです。面と向かって何かを言う覚悟も無い人達なんて、相手をする意味もありません」
「…………」
「こちらが妙なところを見せなければ、噂なんていずれ消えます。むしろ反応する方が、話の種を与えることになってしまいますから」

毅然といた態度で笑顔を浮かべるソニアの、その姿に一瞬ストックは目を奪われた。揺るぎなく背筋を伸ばして立つ、その美しさに、見惚れるのに近い感覚を覚える。

「お前は、強いな」
「当たり前です。あの鈍い人をずっと想い続けていたんですから、強くもなりますよ」
「……成る程」

さらりと言われて、ストックは苦笑を浮かべた。当時の苦労を思い出したのか、ソニアは少しだけ口を尖らせて言葉を続ける。

「私達が付き合い始めたことを知った研究所の皆が、何て言ったか分かりますか? 『彼もついに捕まったか』って……こっちの方がよほど酷いですよ」
「……そんなことを言われていたのか」
「ええ、一応向こうから言ってもらったのに!」
「一応ということは無いだろう。間違いなくロッシュの側から行ったことだ」

言いながら感情を高ぶらせるソニアだったが、ストックの言葉にはたと我を取り戻し、取り繕うような笑みを浮かぶ。

「……ええ、そうですね。そうですよね」
「ああ。見ていた俺が言うのだから、間違いは無い」
「有り難う、ストック」

ふ、と握りしめていた手から力が抜ける。そしてソニアは改めてストックを見て、正面から視線を合わせた。

「そう、貴方にはちゃんとお礼を言わないとと思っていたんです」
「……礼?」
「ええ。あの時きっかけをくれて……あれが無ければ、きっとあの人、いつまでも何も言ってくれなかったでしょうから」
「…………」

実際に、自分が関わらなかった際の未来を見ているストックからすれば、その洞察の正確さに苦笑を浮かべるしかない。

「俺は何もしていない。ただ、あいつの背中を押しただけだ」
「いいえ、それが必要だったんです。ロッシュにも、きっと……私にも」

静かに微笑むソニアを前に、ストックは何を言って良いか分からず、ふいと視線を逸らした。

「……それなら、良かった。あの時は俺も、迷っていたからな」
「あら、そうなんですか?」
「ああ。お前の気持ちが分からなかったからな、下手にけしかけてロッシュが苦しむ結果になっては、と思ったんだが」
「……まあ」

ストックの言葉に、ソニアが呆れた調子で声を上げた。

「私の気持ち……気付いていなかったんですか、ストック」
「…………」
「驚きました。ロッシュ以外は皆知っているものとばかり思っていたのに」
「……そんなことはない」
「でも、研究所の皆も医療部の皆も知っていましたよ。……ストック、あなたもロッシュと同じくらい、鈍かったんですね」

仏頂面で黙り込むストックに、ソニアはくすりと笑みを零す。それを聞いたストックは益々表情を険しくするが、それが怒りというよりは照れに近いことを、親友であるソニアが分からぬはずもない。

「あなたを好きになる女性も、苦労しそうですね」
「……どういう意味だ」
「あら、そのままの意味ですよ? 私、その人と話が合いそう」
「…………」

楽しげな様子のソニアに、ストックは諦めたように溜息を吐いた。ソニアは検査の続きに戻りながらも、途切れることなく笑顔を浮かべ続けている。

「良い人が居たら、ちゃんと紹介してくださいね……その様子じゃあ、何時になるか分かりませんけど」
「……そうだな」
「もう、そこで同意しちゃ駄目じゃないですか! 相手が可哀想ですよ」
「居もしない相手に同情をされても、困るんだが……」

ともあれ、親友2人が幸せなのだから構わないかと、ストックは内心に、密やかな笑みを浮かべた。




セキゲツ作
2011.06.10 初出

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